黒瀬くんの秘密

春は、僕にとって少し苦手な季節だ。クラス替え、自己紹介、新しい人間関係。
 どれも、うまく笑ってやり過ごせばいいと分かっているのに、心の奥がざわつく。

「平川くん、委員会の資料、これ一年の教室に届けておいてくれない?」

「うん、分かった」

 クラスの女子にそう言われて、断る理由もなかったし、誰かに任せる理由もなかった。僕は曖昧に笑って、プリントの束を抱えた。

 一年生の教室は、まだ落ち着かない空気が漂っている。教卓の前で担任を探していると、ふと視線を感じた。

 窓際の席。周囲と少し距離を取るように座っている男の子が、こちらを見ていた。

無表情で、じっと。見られてる。

 思わず視線を逸らすと、足元にあった段差に気づかずよろけた。

「あっ……」

 プリントが床に散らばる。情けなくて顔が熱くなった。

「大丈夫ですか」
 低くて落ち着いた声。顔を上げると、さっきの男の子が立っていた。無駄のない動きでプリントを拾い、僕に差し出す。

「ありがとうございます……」

「どういたしまして」

それだけ言って、彼は席に戻ろうとする。

「あ、えっと……」

 呼び止めてから、何を言うつもりだったのか分からなくなった。彼は振り返り、少しだけ首を傾げる。

「……あの、名前」

「黒瀬です。黒瀬優斗」

「僕は平川。二年の……」

「知ってます」

 即答だった。

「え?」

「さっき委員会の名簿で見ました」

淡々とした口調。
なのに、なぜか胸が少しだけざわっとした。

「じゃあ、失礼します。平川先輩」

そう言って、黒瀬くんは自分の席に戻っていった。

不思議な子。

それが、最初の印象だった。

 その日から、黒瀬くんとは何度も顔を合わせるようになった。
図書室、委員会、放課後の廊下。

 気づけば、隣にいる。

「平川先輩、これ落としました」

「ありがとう、助かったよ」

「良かったです」

よく見ている。でも、踏み込んでこない。

近いのに、遠い。
「黒瀬くんは…学校、慣れた?」

「まあ。特に困ってないです」

即答。僕は曖昧に笑った。

「そっか……」

 会話が途切れる。でも、気まずくはなかった。黒瀬くんは、時々じっと僕を見る。理由を聞く勇気はなかった。

その視線の意味を、僕はまだ知らなかった。