一
「では、まず土岐くんからお話しください」
俺の指導教授である西川は、翼から話し始めるように促した。一人ずつ自分の身に起こった、あるいは周りから聞き及んだ怖い話を披露するという会が開かれたのだ。西川は初めての試みだと言っていたが、これには一体どんな意図があるのだろうか。
ここ心理学研究室では、全員が己の研究と向き合っているおかげで、同研究室内の、他の大学院生の顔を全くと言ってよいほど知らない。
唯一、翼とだけは時折食事に行くことがあるが、そのくらいだ。研究以外には塾のバイトをして、長期休暇に入れば実家に逃げるように帰省する。
大学生の時には想像もしていなかった大学院生活を送っている。かつての俺がこんな無様な自分を目の当たりにしたら、即座に大学院へ行くことを辞めるだろう。だが、俺には生活を謳歌する資格などなかった。あの日、恋人を失ってから――。
「闇原くん? 聞いてるの?」
西川の言葉で我に返った。余計な感傷に耽っていたせいで、翼の話を何一つ聞いていなかった。
「あ、えっと、怖いなぁって。思ってました。すみません、怖すぎてつい」
「たしかに、土岐くんの話は怖かったですね」
助かった。翼の話は怖かったのか。何が怖かったのか、そもそも怖かったのかどうかさえよく分からないが、何とか言葉を紡いでこの場をやり過ごせた。この会が終わったら、翼に話の内容を訊きに行こう。
「では、続いては南野さんの番です。よろしくお願いします」
三、四歳年上の南野とは、この研究室に来たときに挨拶を一言二言交わした程度で、それ以降の会話はない。姿勢を正し、南野は自分の過去について静かに話し始めた。
「わたしは自分の高校生のときにあった出来事を話そうと思います。中学を卒業するまで平穏に過ごしていたんですが、高校一年の六月頃からいじめを受けるようになりました」
一瞬俯いてから、話を続けた。
「教室まで向かう廊下で、一人の男子が立ち止まって、わたしに『おはよう』って言ってきました。わたしも立ち止まり、挨拶を返しました。ですがその男子はニヤニヤとした様子ですれ違いざまに肩をポンポンと叩いていきました」
そう言う南野の右肩が、不自然に跳ねたような気がした。それから彼女は、左手で右肩へとそっと手を置いてから、撫でるようにしてすぐに下ろした。
「わたしの肩に触れた手を上に掲げながら、そいつは走って教室へ向かっていきました」
「男子」から「そいつ」に呼称が変わっていたことで、すぐにその男子がいじめの犯人であると分かった。南野も当時のことを再現するように、目の前で右手を震えながら掲げている。
「教室の扉が近付いてくるにつれて、中にいる男子の声がより鮮明に聞こえてきました。『ハルコキンどうぞ』『ハルコキンかえす』『キモイからヤメテ』と、最初は何を言っているのか分かりませんでしたが、教室の中の様子が見えた途端、その意味を理解しました」
南野は鼻を啜りながら話を続けた。周りも何かを察したように表情を曇らせる。
「『晴子菌』って言ってたんです。わたしの肩に触れて、それを病気みたいに扱って。教室に足を踏み入れた途端、教室中が静まり返りました。当時よく一緒にいた友達も『かわいそう』と言いながらニヤニヤしていました。わたしはすぐに教室を抜け出して、家に帰りました」
南野が話し終えた後、数秒気まずい空気が流れた。
「怖い、じゃあ済まされませんね。無理をして話してくれてありがとう」
南野は顔を上げないまま小さく頷き続けた。泣いているように見えたが、口角が異常なほど上がっているようにも見えた。恐らくそれは気のせいだろう。感情が溢れ出してしまうのは当然のことだと思った。嫌な思い出が蘇ってきたら誰でも感情を抑えられずにはいられない。俺だってそうだ。まずい。また余計なことを。また璃子のことを――。
「じゃあ次、あたし話してもいいですか?」
そう言ったのは南野の一つ年下の妹である、高峰晴美だ。翼の次に話す仲だろうか。下の名前で呼べる間柄であるということは、俺にとっては相当な関係値であることを示している。結婚していると聞いたのは翼からだった。最初にその話を耳にしたときはあまり驚くことはなかった。それよりも姉妹であることに驚いた。見た目が似ているわけでもなければ、声も仕草も全くもって異なる。姉妹とはそういうものなのかといえばそうかもしれないが、俺は一人息子なのでその辺はよく分からない。
「高峰さん、よろしくお願いします」
「はい。あたしは姉ほど酷くはなかったですが、その当時はすごく怖い思いをしたのを覚えています。あれはたしか、中学三年のときだったかな」
天を見上げる晴美は、当時の記憶を今この場で初めて言葉にしているように見えた。
「あたしはバスケ部に入ってたんですけど、みんなの推薦で部長を務めることになりました。そのあと顧問の先生がお休みになって、代わりに猪狩というコーチがやって来ました。顧問よりも指導が厳しくて、部活後にはあたし含めみんな悪口言ってたんです。『アイツは言う割にバスケが上手くない』とか『あの先生を変な目で見てる』とかです」
晴美からこんな話を聞くのは初めてだったが、今のところは彼女が悪いようにも見える。悪口の内容も中学生らしいもので、周りも僅かに笑みを見せている。
「まあそんなこと直接本人に言えるはずないので、みんなコーチに従順を装ってました。たまに奥さんを連れて来たりもしてました。奥さんにお茶出しするのも部長であるあたしの役目だったので、よく話しかけてくれて。お腹を擦りながらもうすぐ産まれるって言ってました。奥さんは猪狩とは打って変わって優しい人でした。なんでこの人は猪狩を選んだのか今でも疑問です」
中々本題に入らない晴美の話はただの与太話にも聞こえたが、退屈ではなかった。晴美は一息ついてから、面持ちを曇らせた。
「ある日の夜、あたしが帰り道を歩いていたら、後ろから猪狩がついてきてたんです。咄嗟にヤバイって思って、走って帰りました。いわゆるストーカーですよね。今でも思い出すだけで背筋が凍り付きそうになります。姉よりはまだマシなほうですけど」
この現代でもストーカーで被害を受けた女性は数多に存在する。猪狩の当時の気持ちを探ってみたいものだが、人によっては煽りに聞こえるのでやめておく。俺は質問を変えて、
「結局猪狩は捕まったの?」
晴美が、それはね、と言い出すと南野が被せるように突然発言した。
「何とか収まったから。わたしが色々尽くしたから、大丈夫になった。ね、晴美?」
大丈夫になった、という割にその表情からは焦燥感が読み取れた。晴美は小刻みに頷き、まるで南野に脅されているように体が縮こまっていた。
「女性のほうが我々よりも怖い思いをしてしまう世の中になっちゃったからね。丸く収まったならいいんだけど……」
西川は何か思い詰めたような目で小汚い床を見つめていた。その視線の先には何が映っていたのか想像もできない。西川から視線をずらして、俺も床をじっと見つめた。丸く収まったならいい、という西川の発言を反芻していると、その床が璃子の顔に見えた。シミュラクラ現象というやつか。たしか俺が大学二年のときに習った言葉だ。一見意味のないものが、人の顔として知覚されてしまうという現象のことだ。研究室の劣化具合を示すこの床の汚れが、うまい具合に人の顔に見えてしまっている。こんなときに限って。
「さて、他にお話ししたい方はいらっしゃいますか?」
誰も手を挙げない。西川は割り切ったように、
「では僕が最後にお話しします。僕の従妹の話を」
まさか西川も話すとは思ってもみなかった。この会が始まってから、初めて異様な空気が流れている、ような気がする。
「僕の従妹は二十年前、子どもを妊娠しました。不妊治療を数年続け、ようやく妊娠することができたそうです。当時は経済的に困窮していて、小さなアパートの一室を旦那さんと借りていました。ある日の夜のことでした」
異様な空気感に触れていたのは俺だけではなかった。翼の表情も曇り始め、より一層室内が重くなっている。
「旦那さんはその日夜勤で七時頃家を出ていったそうです。従妹はそれを見送った後、旦那さん用にご飯を作り始めました。好物のオムライスで疲れを癒してあげようと、やけに意気込んでいたようでした。作り終えたオムライスを小さなテーブルへと運び、ケチャップを手に取り、旦那さんへ向けたメッセージを書いていたとき、アパートの扉がゆっくりとギギギイッと音を立てながら開いたそうです」
絶対に想像してはいけない展開が頭の中に広がる。旦那さんであってほしい、と願いつつも話を聞き続けた。
「見送った後に鍵を閉め忘れていたんでしょうね。入ってきたのは見知らぬ男だったそうです。右手には包丁が握られており、そのまま従妹を――」
夜勤を終え、帰ってきた旦那さんに発見されたそうだ。オムライスの上にはケチャップで名前と、「だいす」までが書かれており、泣きながらそれを食べていた。数日後に犯人は逮捕されたが、意味不明の供述をしていた、と西川は語った。フィクションかどうかは別として、これを「怖い話」として扱ってもよいのだろうか。自分事として考えたい、と真面目な感想を心の中で呟いた。
会を終え、各々がパソコンに向かっている。真っ黒なディスプレイ越しに映る自分の顔がいつもより疲れているように見えた。翼が俺に近付いて煙草のケースを見せた。
「一本、行こうよ」
彼女に禁止されてて、という言葉が喉元まで出かけたが、ぐっと飲み込んだ。
研究室がある棟の屋上に設置された簡易的な喫煙所へ向かい、灰皿を囲うようにして立っていた。煙草に火をつけ、ゆっくりと息を吸い上げる。そしてゆっくりと吐き出す。そうすればニコチンとやらが全身に回っていくと、酔っ払ったサークルの先輩が言っていた。当時は馬鹿馬鹿しく感じていたが、今思うとそんな気もする。今は全身にそれらを巡らせなければいけないような気がする。
「そういえばなんでリンは何も話さなかったんだよ」
翼が勢いよく煙を吐き出し、それが俺の顔面に直撃した。彼は悪い悪いと言いながら目の前を手で仰いだ。
「俺は――」
怖い話を持っていなかった。と言えば噓になる。ネットにありふれているような適当な小噺を披露すればいいだけだ。それなのに俺は何も喋るつもりはなかったし、そもそも璃子が俺のことをずっと邪魔しているような気がする。似たような話を聞けばいつも思い出してしまい、意味をなさないはずの物や人が、彼女に見えてくる。
「呪われてるから」
俺の中で絞り出した言葉がそれだった。翼は鼻を鳴らして、
「何言ってんだよ」
そのまま煙草の先を灰皿に押し付け、火を消した。この場から立ち去ろうとする翼の背中を見ながら、俺は咄嗟に引き止めた。
「そういえば、翼の話聞けてなかった」
「そうだろうと思ったよ。完全に上の空って感じだったもんな」
先ほどまでいた位置へ戻り、再びポケットから煙草を一本取り出し、火をつけ始めた。
「俺の母親の話なんだけどな」
トントンと煙草の灰を落とす。
「俺を産んでから自殺したらしい。理由は知らんが、婆ちゃんが言ってた。父親はどっかに逃げたらしくて。だから俺婆ちゃん子なんだよ」
初めて翼から聞く話だった。逆にこれまでの会話で何を話していたのか、あまり思い出せないが、碌な話をしてこなかったのだろう。少しだけ後悔した。
「遺書があったらしいんだけど、遺書も変でさ。見る?」
俺の返答を待たずに、彼はスマホを開いて写真を探していたが、ああ、と返事をしておいた。一応。
「父親の名前も見たくないから俺が黒塗りにしちゃったんだけど、そこは名前が書かれてると思ってくれ」
その遺書は綺麗な便箋で、縦書きにこう記してあった。
『みんな
からにげて
■■■
こどもをねらってる
わたしの
だいじな
みづき』
「『みづき』っていうのは?」
「死んだ母親の名前だよ。可愛い名前だろ」
吸い殻を灰皿に入れながら、大きく笑う。赤の他人がここで一緒に笑ってよいものか。迷ったが少しだけ微笑んでおいた。辛いはずの翼が一番笑っている。本気で面白がっていないにしても、人前では辛い素振りを一切見せなかった。
「なんだよ、そんなに肩落として。俺に気を使うとかやめてくれよ」
またしても笑っている。翼はそのまま研究室へと戻っていった。
改めて遺書の内容を思い返してみる。随分と不思議な遺書だ。俺の祖母も数年前に他界したが、遺書には財産やお墓のこと、生前にかけた迷惑に対するお詫びが書かれているだけだった。普通の遺書ならばそれらに加えて感謝を述べることもあるだろう。だが、「みづき」の遺書は普通ではない。
『にげて』『こどもをねらってる』といった文言は遺書に入れるには不自然である。父親に向けて書いたとしたら――
誰から逃げなければならなかった?
誰の子どもを、誰が狙っていた?
素直に考えれば、「みづき」の子どもである翼が何者かに狙われているから、守ってほしいと父親に伝えていると解釈できる。そういう意味では普通の遺書なのかもしれないが、最初に読んだときに感じた違和感が未だ拭えずにいた。
灰皿の周りを何度も歩きながら「子ども、逃げて、狙う、みづき」と、小さな声で繰り返し呟く。
何度も口に出しているうちに、その違和感の正体に気付いた。気付いてしまった。一気に皮膚の下を流れていく血液が冷たく感じる。血液が温かいのか冷たいのかについてはよく分からないが、恐らく今は急激に熱を何かに奪われている。
忘れたかった、忘れかけていたはずの記憶が、かつて封印していた映像が、音もなく眼球の裏側から流れ込んできている。自分がこうなるということは、やはりそういうことなのだろう。視界は歪み、やがて俺はそこで意識を失ってしまった。
二
カーテンの隙間から差し込む白い光で目を覚ました。鬱陶しいほど眩しく、部屋の中は生温く気持ち悪い。
ドン、ドン、ドン、ドン
叔母だ。叔母が俺の部屋へ向かってきている。俺はすぐに布団から身を出して、寄れたワイシャツに手を伸ばす。
ドン、ドン、ドンドンドン
「あんた、学校でしょ。間に合わないわよ」
「言われなくても起きてるよ。もう子どもじゃないんだから」
扉越しに大きな声で交わす会話は、いつもと変わらない、言わば平凡と呼べる日常だ。
「高校生はまだお子ちゃまですよ~」
姿見の前に立ち、ネクタイを締める朝の気怠そうな自分と顔を合わせる。無造作に散らかった髪を多少手櫛で整えて、ブレザーを羽織ってから部屋を出た。叔母の作る朝食の香りで家が朝を告げている。これも平凡といえるだろう。
半分程度朝食を食べ終え、すぐに家を飛び出した。バスが来るまであと五分ほどだ。歩いて十分、走ったことはないが、走れば五分でバス停に着くはずだ。余計なことは考えずにただひたすら走り続けた。
間も無くバス停、というところでバスはドアを閉めて行ってしまった。次のバスが来るのは一時間後。こんな田舎に住んでいるものだから、バスは一時間に一本来ればよいほうだ。また担任に怒られてしまう。これも平凡な日常だと自分に言い聞かせ、一限目の授業を受けなくてもよくなったと開き直ることにした。
唯一の友人である武人に連絡を取ったり、画面をスクロールしてネットサーフィンをしてみたりと時間を潰していた。
午前九時過ぎ、ようやくバスに乗ることができた。乗客はそこまでおらず、快適に過ごすことができていた。ここから高校までは一時間ほどかかるので、寝て過ごすことにした。
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
俺は深い闇の中で、遠い波のように赤ん坊の鳴き声を聞き続けている。
う、うう、うああいぃ
いああい
みああい
みああり
意味不明の言葉をただひたすら鳴き続けるその声だけが頭の中で響き、その音の発生源は見当たらない。嫌に高音を出しているせいで、耳が痛い。痛い。耳を塞ごうとしたその時、俺は手に妙な冷たい粘り気を感じた。
ぬるりとした重みをもった赤ん坊が、俺の胸元で埋まっている。それが俺に密着し、徐々に俺の体温を奪っているような気もする。強烈な血の臭いが鼻腔を突き刺した。一帯が血で溢れていく。
おいろ
おいろ
おいろ
腕の中の赤ん坊は俺の目を凝視しては、「おいろ」と繰り返す。どうしたらいいのか分からない。ここはどこだ。この赤ん坊は誰だ。
意味を持たないと思っていた言葉の、意味を理解している。聞いてはならない俺の意志と反して、意味を理解しようとしている。
……赤ん坊は、おきろ、と言っている。
おきろ、おきろ、起きろ。そう連呼している。その声は高く、また高くなり、女の様になっていき――
「ちょっと、起きて!」
大きく身体を揺さぶられ、俺は目を覚ました。眠い目を擦りながら声のするほうへ視線をやると、三十代ほどの女性が立っていた。あの赤ん坊の声はこの人のものだったのか。手には未だ僅かに気持ち悪い血の感触が残っている。
「お兄ちゃん、その制服道志高校の子でしょ?」
「そ、そうです」
「もうすぐ着くわよ。高校前のバス停」
運賃を表示している機械が、一つ手前の「道志高校通り」を通過したことを告げた。慌てて降車ボタンを押して、その女性に礼を言う。
「お兄ちゃん苦しそうだったよ。悪い夢でも見たんじゃないの?」
冗談めかしく話す女性に、微笑んで軽く会釈をする。夢の内容など今はどうでもよかった。気味の悪い夢はすぐに忘れてしまいたかった。ただ、この人が起こしてくれなかったら、二限目の授業も休むことになってしまう。それは避けたかった。
何故ならば、二限目は「生物」で教室が変わるため、隣には稔が座るからだ。稔、というのは俺が好きな女の子でそれはそれは美人だ。クラスのマドンナとして日々チヤホヤされて過ごしているらしいが、顔が良いから何をしていたって「かわいい」と言われるわけだ。俺は彼女を女神として讃えているわけだし、女神に似合う男は皆口を揃えて俺だと言ったらよかったが。
俺を起こしてくれた女性に対して行った会釈は、これまでにないほど感謝の意が込められている。
教室まで着いたとき、自分がどれだけ全力で走ってきたのかを思い知らされた。深呼吸すると胸の中心がズキズキと痛む。
「おい」
思わず背筋を伸ばす。担任である「坂本」の声だ。ゆっくりと振り返ったその先には、鬼の様な形相で担任が腕を組んで立っているのが見えた。まずい。
「昼休み、職員室来い。分かったな」
ついその威勢にやられてしまい、消えそうな声で返事をした。
教室へ入ると真っ先に武人が俺のもとへやってきた。
「おいリ〜ン〜。また遅刻かよ!」
武人の背後に見えた稔は、一切笑みを見せずにこちらを凝視していた。ちなみにこれは平凡な日常ではない。いつもなら笑ってくれるはずなのに。
ぴちゃん
血の臭いで鼻を摘んだ。
ぴちゃん
「おい。リン、下」
何か水の様な液体が、床へ落ちる音が聞こえている。それは俺だけではなかった。聞こえない振りをしていた。
ゆっくりと下を見ると、そこには赤色の――深紅、深緋と表現するべきか――液体が、広がっているのが見えた。ひゃっと情けない声を発しながら、俺は後退りする。稔や他のクラスメイトは俺を訝しげに見つめている。それと同時に、武人は俺の腕を掴んでトイレに向かった。
「では、まず土岐くんからお話しください」
俺の指導教授である西川は、翼から話し始めるように促した。一人ずつ自分の身に起こった、あるいは周りから聞き及んだ怖い話を披露するという会が開かれたのだ。西川は初めての試みだと言っていたが、これには一体どんな意図があるのだろうか。
ここ心理学研究室では、全員が己の研究と向き合っているおかげで、同研究室内の、他の大学院生の顔を全くと言ってよいほど知らない。
唯一、翼とだけは時折食事に行くことがあるが、そのくらいだ。研究以外には塾のバイトをして、長期休暇に入れば実家に逃げるように帰省する。
大学生の時には想像もしていなかった大学院生活を送っている。かつての俺がこんな無様な自分を目の当たりにしたら、即座に大学院へ行くことを辞めるだろう。だが、俺には生活を謳歌する資格などなかった。あの日、恋人を失ってから――。
「闇原くん? 聞いてるの?」
西川の言葉で我に返った。余計な感傷に耽っていたせいで、翼の話を何一つ聞いていなかった。
「あ、えっと、怖いなぁって。思ってました。すみません、怖すぎてつい」
「たしかに、土岐くんの話は怖かったですね」
助かった。翼の話は怖かったのか。何が怖かったのか、そもそも怖かったのかどうかさえよく分からないが、何とか言葉を紡いでこの場をやり過ごせた。この会が終わったら、翼に話の内容を訊きに行こう。
「では、続いては南野さんの番です。よろしくお願いします」
三、四歳年上の南野とは、この研究室に来たときに挨拶を一言二言交わした程度で、それ以降の会話はない。姿勢を正し、南野は自分の過去について静かに話し始めた。
「わたしは自分の高校生のときにあった出来事を話そうと思います。中学を卒業するまで平穏に過ごしていたんですが、高校一年の六月頃からいじめを受けるようになりました」
一瞬俯いてから、話を続けた。
「教室まで向かう廊下で、一人の男子が立ち止まって、わたしに『おはよう』って言ってきました。わたしも立ち止まり、挨拶を返しました。ですがその男子はニヤニヤとした様子ですれ違いざまに肩をポンポンと叩いていきました」
そう言う南野の右肩が、不自然に跳ねたような気がした。それから彼女は、左手で右肩へとそっと手を置いてから、撫でるようにしてすぐに下ろした。
「わたしの肩に触れた手を上に掲げながら、そいつは走って教室へ向かっていきました」
「男子」から「そいつ」に呼称が変わっていたことで、すぐにその男子がいじめの犯人であると分かった。南野も当時のことを再現するように、目の前で右手を震えながら掲げている。
「教室の扉が近付いてくるにつれて、中にいる男子の声がより鮮明に聞こえてきました。『ハルコキンどうぞ』『ハルコキンかえす』『キモイからヤメテ』と、最初は何を言っているのか分かりませんでしたが、教室の中の様子が見えた途端、その意味を理解しました」
南野は鼻を啜りながら話を続けた。周りも何かを察したように表情を曇らせる。
「『晴子菌』って言ってたんです。わたしの肩に触れて、それを病気みたいに扱って。教室に足を踏み入れた途端、教室中が静まり返りました。当時よく一緒にいた友達も『かわいそう』と言いながらニヤニヤしていました。わたしはすぐに教室を抜け出して、家に帰りました」
南野が話し終えた後、数秒気まずい空気が流れた。
「怖い、じゃあ済まされませんね。無理をして話してくれてありがとう」
南野は顔を上げないまま小さく頷き続けた。泣いているように見えたが、口角が異常なほど上がっているようにも見えた。恐らくそれは気のせいだろう。感情が溢れ出してしまうのは当然のことだと思った。嫌な思い出が蘇ってきたら誰でも感情を抑えられずにはいられない。俺だってそうだ。まずい。また余計なことを。また璃子のことを――。
「じゃあ次、あたし話してもいいですか?」
そう言ったのは南野の一つ年下の妹である、高峰晴美だ。翼の次に話す仲だろうか。下の名前で呼べる間柄であるということは、俺にとっては相当な関係値であることを示している。結婚していると聞いたのは翼からだった。最初にその話を耳にしたときはあまり驚くことはなかった。それよりも姉妹であることに驚いた。見た目が似ているわけでもなければ、声も仕草も全くもって異なる。姉妹とはそういうものなのかといえばそうかもしれないが、俺は一人息子なのでその辺はよく分からない。
「高峰さん、よろしくお願いします」
「はい。あたしは姉ほど酷くはなかったですが、その当時はすごく怖い思いをしたのを覚えています。あれはたしか、中学三年のときだったかな」
天を見上げる晴美は、当時の記憶を今この場で初めて言葉にしているように見えた。
「あたしはバスケ部に入ってたんですけど、みんなの推薦で部長を務めることになりました。そのあと顧問の先生がお休みになって、代わりに猪狩というコーチがやって来ました。顧問よりも指導が厳しくて、部活後にはあたし含めみんな悪口言ってたんです。『アイツは言う割にバスケが上手くない』とか『あの先生を変な目で見てる』とかです」
晴美からこんな話を聞くのは初めてだったが、今のところは彼女が悪いようにも見える。悪口の内容も中学生らしいもので、周りも僅かに笑みを見せている。
「まあそんなこと直接本人に言えるはずないので、みんなコーチに従順を装ってました。たまに奥さんを連れて来たりもしてました。奥さんにお茶出しするのも部長であるあたしの役目だったので、よく話しかけてくれて。お腹を擦りながらもうすぐ産まれるって言ってました。奥さんは猪狩とは打って変わって優しい人でした。なんでこの人は猪狩を選んだのか今でも疑問です」
中々本題に入らない晴美の話はただの与太話にも聞こえたが、退屈ではなかった。晴美は一息ついてから、面持ちを曇らせた。
「ある日の夜、あたしが帰り道を歩いていたら、後ろから猪狩がついてきてたんです。咄嗟にヤバイって思って、走って帰りました。いわゆるストーカーですよね。今でも思い出すだけで背筋が凍り付きそうになります。姉よりはまだマシなほうですけど」
この現代でもストーカーで被害を受けた女性は数多に存在する。猪狩の当時の気持ちを探ってみたいものだが、人によっては煽りに聞こえるのでやめておく。俺は質問を変えて、
「結局猪狩は捕まったの?」
晴美が、それはね、と言い出すと南野が被せるように突然発言した。
「何とか収まったから。わたしが色々尽くしたから、大丈夫になった。ね、晴美?」
大丈夫になった、という割にその表情からは焦燥感が読み取れた。晴美は小刻みに頷き、まるで南野に脅されているように体が縮こまっていた。
「女性のほうが我々よりも怖い思いをしてしまう世の中になっちゃったからね。丸く収まったならいいんだけど……」
西川は何か思い詰めたような目で小汚い床を見つめていた。その視線の先には何が映っていたのか想像もできない。西川から視線をずらして、俺も床をじっと見つめた。丸く収まったならいい、という西川の発言を反芻していると、その床が璃子の顔に見えた。シミュラクラ現象というやつか。たしか俺が大学二年のときに習った言葉だ。一見意味のないものが、人の顔として知覚されてしまうという現象のことだ。研究室の劣化具合を示すこの床の汚れが、うまい具合に人の顔に見えてしまっている。こんなときに限って。
「さて、他にお話ししたい方はいらっしゃいますか?」
誰も手を挙げない。西川は割り切ったように、
「では僕が最後にお話しします。僕の従妹の話を」
まさか西川も話すとは思ってもみなかった。この会が始まってから、初めて異様な空気が流れている、ような気がする。
「僕の従妹は二十年前、子どもを妊娠しました。不妊治療を数年続け、ようやく妊娠することができたそうです。当時は経済的に困窮していて、小さなアパートの一室を旦那さんと借りていました。ある日の夜のことでした」
異様な空気感に触れていたのは俺だけではなかった。翼の表情も曇り始め、より一層室内が重くなっている。
「旦那さんはその日夜勤で七時頃家を出ていったそうです。従妹はそれを見送った後、旦那さん用にご飯を作り始めました。好物のオムライスで疲れを癒してあげようと、やけに意気込んでいたようでした。作り終えたオムライスを小さなテーブルへと運び、ケチャップを手に取り、旦那さんへ向けたメッセージを書いていたとき、アパートの扉がゆっくりとギギギイッと音を立てながら開いたそうです」
絶対に想像してはいけない展開が頭の中に広がる。旦那さんであってほしい、と願いつつも話を聞き続けた。
「見送った後に鍵を閉め忘れていたんでしょうね。入ってきたのは見知らぬ男だったそうです。右手には包丁が握られており、そのまま従妹を――」
夜勤を終え、帰ってきた旦那さんに発見されたそうだ。オムライスの上にはケチャップで名前と、「だいす」までが書かれており、泣きながらそれを食べていた。数日後に犯人は逮捕されたが、意味不明の供述をしていた、と西川は語った。フィクションかどうかは別として、これを「怖い話」として扱ってもよいのだろうか。自分事として考えたい、と真面目な感想を心の中で呟いた。
会を終え、各々がパソコンに向かっている。真っ黒なディスプレイ越しに映る自分の顔がいつもより疲れているように見えた。翼が俺に近付いて煙草のケースを見せた。
「一本、行こうよ」
彼女に禁止されてて、という言葉が喉元まで出かけたが、ぐっと飲み込んだ。
研究室がある棟の屋上に設置された簡易的な喫煙所へ向かい、灰皿を囲うようにして立っていた。煙草に火をつけ、ゆっくりと息を吸い上げる。そしてゆっくりと吐き出す。そうすればニコチンとやらが全身に回っていくと、酔っ払ったサークルの先輩が言っていた。当時は馬鹿馬鹿しく感じていたが、今思うとそんな気もする。今は全身にそれらを巡らせなければいけないような気がする。
「そういえばなんでリンは何も話さなかったんだよ」
翼が勢いよく煙を吐き出し、それが俺の顔面に直撃した。彼は悪い悪いと言いながら目の前を手で仰いだ。
「俺は――」
怖い話を持っていなかった。と言えば噓になる。ネットにありふれているような適当な小噺を披露すればいいだけだ。それなのに俺は何も喋るつもりはなかったし、そもそも璃子が俺のことをずっと邪魔しているような気がする。似たような話を聞けばいつも思い出してしまい、意味をなさないはずの物や人が、彼女に見えてくる。
「呪われてるから」
俺の中で絞り出した言葉がそれだった。翼は鼻を鳴らして、
「何言ってんだよ」
そのまま煙草の先を灰皿に押し付け、火を消した。この場から立ち去ろうとする翼の背中を見ながら、俺は咄嗟に引き止めた。
「そういえば、翼の話聞けてなかった」
「そうだろうと思ったよ。完全に上の空って感じだったもんな」
先ほどまでいた位置へ戻り、再びポケットから煙草を一本取り出し、火をつけ始めた。
「俺の母親の話なんだけどな」
トントンと煙草の灰を落とす。
「俺を産んでから自殺したらしい。理由は知らんが、婆ちゃんが言ってた。父親はどっかに逃げたらしくて。だから俺婆ちゃん子なんだよ」
初めて翼から聞く話だった。逆にこれまでの会話で何を話していたのか、あまり思い出せないが、碌な話をしてこなかったのだろう。少しだけ後悔した。
「遺書があったらしいんだけど、遺書も変でさ。見る?」
俺の返答を待たずに、彼はスマホを開いて写真を探していたが、ああ、と返事をしておいた。一応。
「父親の名前も見たくないから俺が黒塗りにしちゃったんだけど、そこは名前が書かれてると思ってくれ」
その遺書は綺麗な便箋で、縦書きにこう記してあった。
『みんな
からにげて
■■■
こどもをねらってる
わたしの
だいじな
みづき』
「『みづき』っていうのは?」
「死んだ母親の名前だよ。可愛い名前だろ」
吸い殻を灰皿に入れながら、大きく笑う。赤の他人がここで一緒に笑ってよいものか。迷ったが少しだけ微笑んでおいた。辛いはずの翼が一番笑っている。本気で面白がっていないにしても、人前では辛い素振りを一切見せなかった。
「なんだよ、そんなに肩落として。俺に気を使うとかやめてくれよ」
またしても笑っている。翼はそのまま研究室へと戻っていった。
改めて遺書の内容を思い返してみる。随分と不思議な遺書だ。俺の祖母も数年前に他界したが、遺書には財産やお墓のこと、生前にかけた迷惑に対するお詫びが書かれているだけだった。普通の遺書ならばそれらに加えて感謝を述べることもあるだろう。だが、「みづき」の遺書は普通ではない。
『にげて』『こどもをねらってる』といった文言は遺書に入れるには不自然である。父親に向けて書いたとしたら――
誰から逃げなければならなかった?
誰の子どもを、誰が狙っていた?
素直に考えれば、「みづき」の子どもである翼が何者かに狙われているから、守ってほしいと父親に伝えていると解釈できる。そういう意味では普通の遺書なのかもしれないが、最初に読んだときに感じた違和感が未だ拭えずにいた。
灰皿の周りを何度も歩きながら「子ども、逃げて、狙う、みづき」と、小さな声で繰り返し呟く。
何度も口に出しているうちに、その違和感の正体に気付いた。気付いてしまった。一気に皮膚の下を流れていく血液が冷たく感じる。血液が温かいのか冷たいのかについてはよく分からないが、恐らく今は急激に熱を何かに奪われている。
忘れたかった、忘れかけていたはずの記憶が、かつて封印していた映像が、音もなく眼球の裏側から流れ込んできている。自分がこうなるということは、やはりそういうことなのだろう。視界は歪み、やがて俺はそこで意識を失ってしまった。
二
カーテンの隙間から差し込む白い光で目を覚ました。鬱陶しいほど眩しく、部屋の中は生温く気持ち悪い。
ドン、ドン、ドン、ドン
叔母だ。叔母が俺の部屋へ向かってきている。俺はすぐに布団から身を出して、寄れたワイシャツに手を伸ばす。
ドン、ドン、ドンドンドン
「あんた、学校でしょ。間に合わないわよ」
「言われなくても起きてるよ。もう子どもじゃないんだから」
扉越しに大きな声で交わす会話は、いつもと変わらない、言わば平凡と呼べる日常だ。
「高校生はまだお子ちゃまですよ~」
姿見の前に立ち、ネクタイを締める朝の気怠そうな自分と顔を合わせる。無造作に散らかった髪を多少手櫛で整えて、ブレザーを羽織ってから部屋を出た。叔母の作る朝食の香りで家が朝を告げている。これも平凡といえるだろう。
半分程度朝食を食べ終え、すぐに家を飛び出した。バスが来るまであと五分ほどだ。歩いて十分、走ったことはないが、走れば五分でバス停に着くはずだ。余計なことは考えずにただひたすら走り続けた。
間も無くバス停、というところでバスはドアを閉めて行ってしまった。次のバスが来るのは一時間後。こんな田舎に住んでいるものだから、バスは一時間に一本来ればよいほうだ。また担任に怒られてしまう。これも平凡な日常だと自分に言い聞かせ、一限目の授業を受けなくてもよくなったと開き直ることにした。
唯一の友人である武人に連絡を取ったり、画面をスクロールしてネットサーフィンをしてみたりと時間を潰していた。
午前九時過ぎ、ようやくバスに乗ることができた。乗客はそこまでおらず、快適に過ごすことができていた。ここから高校までは一時間ほどかかるので、寝て過ごすことにした。
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
俺は深い闇の中で、遠い波のように赤ん坊の鳴き声を聞き続けている。
う、うう、うああいぃ
いああい
みああい
みああり
意味不明の言葉をただひたすら鳴き続けるその声だけが頭の中で響き、その音の発生源は見当たらない。嫌に高音を出しているせいで、耳が痛い。痛い。耳を塞ごうとしたその時、俺は手に妙な冷たい粘り気を感じた。
ぬるりとした重みをもった赤ん坊が、俺の胸元で埋まっている。それが俺に密着し、徐々に俺の体温を奪っているような気もする。強烈な血の臭いが鼻腔を突き刺した。一帯が血で溢れていく。
おいろ
おいろ
おいろ
腕の中の赤ん坊は俺の目を凝視しては、「おいろ」と繰り返す。どうしたらいいのか分からない。ここはどこだ。この赤ん坊は誰だ。
意味を持たないと思っていた言葉の、意味を理解している。聞いてはならない俺の意志と反して、意味を理解しようとしている。
……赤ん坊は、おきろ、と言っている。
おきろ、おきろ、起きろ。そう連呼している。その声は高く、また高くなり、女の様になっていき――
「ちょっと、起きて!」
大きく身体を揺さぶられ、俺は目を覚ました。眠い目を擦りながら声のするほうへ視線をやると、三十代ほどの女性が立っていた。あの赤ん坊の声はこの人のものだったのか。手には未だ僅かに気持ち悪い血の感触が残っている。
「お兄ちゃん、その制服道志高校の子でしょ?」
「そ、そうです」
「もうすぐ着くわよ。高校前のバス停」
運賃を表示している機械が、一つ手前の「道志高校通り」を通過したことを告げた。慌てて降車ボタンを押して、その女性に礼を言う。
「お兄ちゃん苦しそうだったよ。悪い夢でも見たんじゃないの?」
冗談めかしく話す女性に、微笑んで軽く会釈をする。夢の内容など今はどうでもよかった。気味の悪い夢はすぐに忘れてしまいたかった。ただ、この人が起こしてくれなかったら、二限目の授業も休むことになってしまう。それは避けたかった。
何故ならば、二限目は「生物」で教室が変わるため、隣には稔が座るからだ。稔、というのは俺が好きな女の子でそれはそれは美人だ。クラスのマドンナとして日々チヤホヤされて過ごしているらしいが、顔が良いから何をしていたって「かわいい」と言われるわけだ。俺は彼女を女神として讃えているわけだし、女神に似合う男は皆口を揃えて俺だと言ったらよかったが。
俺を起こしてくれた女性に対して行った会釈は、これまでにないほど感謝の意が込められている。
教室まで着いたとき、自分がどれだけ全力で走ってきたのかを思い知らされた。深呼吸すると胸の中心がズキズキと痛む。
「おい」
思わず背筋を伸ばす。担任である「坂本」の声だ。ゆっくりと振り返ったその先には、鬼の様な形相で担任が腕を組んで立っているのが見えた。まずい。
「昼休み、職員室来い。分かったな」
ついその威勢にやられてしまい、消えそうな声で返事をした。
教室へ入ると真っ先に武人が俺のもとへやってきた。
「おいリ〜ン〜。また遅刻かよ!」
武人の背後に見えた稔は、一切笑みを見せずにこちらを凝視していた。ちなみにこれは平凡な日常ではない。いつもなら笑ってくれるはずなのに。
ぴちゃん
血の臭いで鼻を摘んだ。
ぴちゃん
「おい。リン、下」
何か水の様な液体が、床へ落ちる音が聞こえている。それは俺だけではなかった。聞こえない振りをしていた。
ゆっくりと下を見ると、そこには赤色の――深紅、深緋と表現するべきか――液体が、広がっているのが見えた。ひゃっと情けない声を発しながら、俺は後退りする。稔や他のクラスメイトは俺を訝しげに見つめている。それと同時に、武人は俺の腕を掴んでトイレに向かった。


