名前の由来を知ったのは小学校二年の頃。
父親が自衛官で、その時の階級が三等空曹。上に二人に空、陸と名付けられた兄がいたからか、三番目の子どもも男と疑わなかったらしい。
「次は海だな。これで陸・海・空が揃い踏みだ!」
嬉々として笑っていた父が驚いたのは、私が産まれた後だった。事前にも男児でしょう、と言われていたからか、女の子が産まれるとは微塵も考えていなかったらしい。
さすがに女の子で海は、と眉をひそめる母を前に、苦し紛れ生み出したのが、三海。当時の自身の階級と、使いたかった海で名付けた名前である。
そのことを聞いた瞬間、私は自分の名前――ついでに父のこと――がほんのり嫌いになった。
幸いにも私の名字は、名前でもおかしくない。
周りに「みう」や「みゆ」といった似たような響きを持つ女の子が多かったのもあって、私は三海ではなく、真白ちゃん、と名字にちゃん付けで呼ばれるのが常だった。
家族と、幼馴染の二人を除いては。
「俺は三海って名前、好きだけど」
自分の名前の由来で愚痴った時、その場には俊平だけでなく、もう一人の幼馴染である莉子もいたはずだ。
なのに私の記憶には俊平の言葉しか残らなかった。
そしてこの瞬間、俊平は幼馴染から特別な存在に変わったのだった。
※
至る所で歓迎の声を掛けられる。入学おめでとうの言葉と共に、自分たちの部活やサークルへ勧誘する声。
中には捕まって困り顔で話を聞いている新入生もいたけれど、人をかき分けるように歩いていた私に、追い縋ってくる先輩はいない。
一七〇センチある高身長の女だ。いや、パンツスーツだし、態度もデカいから新入生としても、女としても認識されていないのかも知れない。
嬉しいような悲しいような、複雑な感情でズンズンと歩いていた私は、後ろから不意に呼び止められた。
今までならシカトしたのに、思わず足を止めた私は激しく動揺していた。
(え? なんで俊平がこんなところに……?)
そこまで考えた私は首を左右に振った。俊平がここにいるはずはないのだ。
地元静岡の大学に進学した俊平が、遠く離れた京都になど。
「良かった。追いついた」
私の後ろから声が近づいてくる。間近に聞くと、ますます俊平に瓜二つだ。
関西の訛りもない。キレイな標準語で、語尾で息が抜けるように話す。その音だけ聞くと、彼が喋っているように聞こえて仕方ない。
「君、建築学科の新入生だよね? 俺、同じ学科の三回生なんだ。次のガイダンスの教室、分かりにくい場所にあるから。よかったら案内するよ?」
振り向いた私の目に飛び込んで来たのは、鮮やかな金髪だ。そして見上げるくらい高身長と、太陽に照らされて光を反射する、左耳から垂れるチェーン状のピアス。
(チ、チャラ……い……)
思わず後ずさりする私に構わず、目の前の彼は指で方角を指し示す。
「こっちだから」
そう言ってさり気なく出された手を思わず掴んだのは、余りにも俊平の言い方に似ていたから。
四ノ宮大和と名乗った彼は、ニコリと笑って私の手を引いて教室まで案内してくれた。
そしてこの出会いが、私の大学生活を大きく左右する最初の出来事であった。
※
「あっ、三海ちゃんだ! やっほー! 今からお昼?」
授業が終わって、友達と別れた私は学食に向かって歩いていた。視界の端に、四ノ宮先輩を見つけたが見つかるとややこしい。そう思って早足で去ろうとしていたのに。
「あれー、聞こえなかったのかな。……三海ちゃーん!!」
先輩は話していた知り合いと別れ、手を振りながら私に駆け寄ってくる。
背の高い私が人を縫うように歩いていたら目立つのは分かっているけれど、逃げるように反対方向に向かっているのだから、その辺は察してほしい。
「…………四ノ宮先輩」
どすの利いた低い声が出たのは、先輩のせいだ。
私も高身長だが、先輩はもっと高い。一八五センチと一七〇センチが並んでいたら、目立つことこの上ない。今も遠巻きにヤジ馬が私たちのやり取りを「またやっているよ」と面白そうに見ている。
入学して二ヶ月。時折行われるこのやり取りは、人数が限られている建築学科の名物になっていた。
私はため息をつくと、仕方なく先輩に向き合った。
「何か用ですか?」
「いや、特段用事はないけれど。三海ちゃんが歩いていたから」
イラッとした。なら呼び止めるなよ、という心の声は出なかったが、不機嫌を上手く隠すことは出来なかった。
「用がないなら呼び止めないでください。……それに前からお伝えしていますが……気軽に名前を呼ばないで頂けますか?」
「え、なんで? 真白ちゃんより、三海ちゃんって呼ぶ方が言いやすいのに」
「そう言うのは四ノ宮先輩だけです。っていうか先輩、他の後輩女子には名字にさん付けで呼んでいるじゃないですか。なんで私だけ下の方で呼ぶんですか?」
「そりゃあ……」
四ノ宮先輩は、一旦言葉を切った。
そのことに更に苛立ってしまう。
先輩は俊平とはタイプが真逆といっていい程違う。見た目も、身長も、共通点を見つける方が難しいのに。
何故か所々、似ているのだ。声だけでなく、話の仕方や、醸し出す雰囲気が。
高三の夏休みから莉子と付き合い出した俊平を見るのが耐えられなくて、わざわざ地元から遠く離れた関西の大学に進学したのに。
(これじゃあ……忘れられないじゃん)
私が心で毒づいた瞬間、先輩は口を開いた。
「三海ちゃんがサークルの後輩で、唯一同じ学科だからね。という三海ちゃんも俺のこと頑なに『四ノ宮先輩』って呼ぶじゃん。みんな大和の方が言いやすいからって、そっちで呼ぶのに」
「……四ノ宮先輩でも間違ってないですよね」
「まぁ、そうだけど。……そうだ!」
先輩は何か閃いたかのように、声を弾ませた。
「三海ちゃん、今日は三限なかったよね?」
「え、……ええ」
毎週火曜日は三限がない。この後の授業がないなら帰ったりバイトに行ったり出来るのに。残念ながら四、五限が必修科目なのだ。
だからいつも昼ごはんを食べた後は、サークル室や図書館で時間を潰す。同じ学科でサークルでも一緒の先輩もそのことは把握しているはず。
今更ながらの確認に疑問に思いながらも、私は頷いた。
「なら、ご飯食べながらその辺の議論しようよ。ちょうど次の講義、休講になって暇してたんだ」
「ええ!? 私は一人で食べますから!」
急なお誘いに、瞬間的に拒否してしまう。けれど先輩はそんなことに気付いていないようにニコニコと笑いながら、貧乏学生には抗えない魔法の言葉を口にする。
「丸々一講義分空いてるから、学食じゃなくて外に行こうよ。もちろん俺の方が先輩だからご馳走するし。三海ちゃん、オムライス好きだったよね?」
先輩がどこの店に行こうとしているのか、瞬時に察した。
トロトロオムライスを出す店だ。味も絶品で何よりボリューミーだけど、単価が千円を超えるのだ。いつも学食で三百円のラーメンを啜る人間が、気軽に行ける場所じゃない。
「じゃあ決まり! そうと決まれば混む前に行こっか」
「えっ!? あ、あのっ!」
「三海ちゃん、オムライス食べたくないの? 今日の日替わりランチは、きのことチーズ入りのトマトソースオムライスだって」
「えっ!?」
先輩の言葉に動きを止めた。何故なら私がこの世で一番最高の組み合わせだと思っているのが、トマトとチーズの組み合わせなのだから。
それがオムライスの上にかかっているなんて。想像しただけでも、美味しいのが分かりきってる。
「行くよね?」
そう言って差し出された手を掴んでしまう。しまった、と思った時にはもう遅い。
「よしっ。決まり!」
先輩は私の手を引っ張り、ズンズンと店の方に歩いて行くのだった。
※
大学から少し離れた場所にあるその店は、ランチ時には近くにある会社の女性でいっぱいになる。少し待って案内された席は、偶然だが店の一番奥だった。
人目につかない場所で、勧められるままドリンクとデザートがついているランチセットを頼み、取り留めない話をしながら予想通り、いや、それ以上に絶品のオムライスに舌鼓を打つ。
その間もニコニコとしていた先輩が本題を切り出したのは、食後のデザートも終え、ドリンクを飲み干そうとしている時だった。
「三海ちゃんって、俺のことキライ?」
突然切り出され、私は飲んでいたアイスティーで咽る。
「なっ……何で!?」
敬語も忘れ激しく動揺する私に、四ノ宮先輩はいつになく真剣な眼差しを向けてくる。
誤魔化すことは出来た。でも先輩の目がそれを許さなかった。
「…………キライでは、ないです」
「なら苦手?」
髪入れずにされた質問。私は躊躇いつつも頷いた。
先輩は言葉を選びつつ、それでも核心をついた。
「何でか聞いてもいい? 今後、学科でもサークルでも楽しく過ごしたいじゃん。だから理由を知っておきたいな、って思ってさ」
遅ればせながら半ば強引なやり方で、学外に連れて来た理由を察した。
こんな話、誰が聞いているか分からない学食では出来ないから。
チャラい見た目だけど、四ノ宮先輩は細やかな人間だ。
寺社仏閣巡り同好会という、いかにも京都らしいサークルの副代表を努めているだけあって、よく周りを見ている。
兼部の人間が多いとはいえ、メンバーはゆうに百人を超えるのだ。引退している四回生を除いてもサークルとしては大所帯である。
それだけの人数が集まると、どうしても問題は起きるし、人間関係のイザコザは尽きない。
サークルの代表は、外部との打ち合わせや段取りなど、対外的な対応をしていることが多く、どうしても内部に目が行き届かない。
サークル内の調整役は、副代表の四ノ宮先輩が担っている。細かいところに気がつく先輩には適任の役目でもある。
人間関係でゴタゴタしているのを見つけるのも上手いし、さり気なく仲裁に入り、いつの間にか穏便に解決する手腕もある。
サークル室に来ない人間にも、学内で会うと気さくに話しかける。サークルには寄り付かなくても、四ノ宮先輩には、悩みや相談を持ち掛けるメンバーは多い。
だからサークル内の人間関係は副代表の四ノ宮先輩が一番詳しい。
すみずみまで目配りをする先輩に、いつか私の不自然な態度を訊ねられるかも、と頭の片隅では思ってはいた。自分でいうのもおかしいが、私が取っている態度は決して良いものではないからだ。それが許されていたのは、先輩の懐の深さがあってのこと。
だから、訊ねられたらキチンと話をしようとは思っていた。
けれど、実際に先輩に問われると、何と切り出したらいいのか分からない。
俊平への想いは誰にも打ち明けたことはない。性格もそうだが、二人のやんちゃな兄に連れ回されて生きてきた私は、見事に男っぽい女と成長した。
背も高いし、髪も短髪。オマケに中高剣道部でソコソコ強い。共学だったから王子様扱いはされなかったけれど、男子からも女子からも恋愛とは無関係な人間扱いされていたのだ。
そんな状態で、誰が好きな人がいる、と告白できるのか。相手は幼馴染で、俊平の視線の先には常に莉子がいると知っているのに。
話さないと、と思うが、口は思うように動いてくれない。言いあぐねる私に、先輩は困ったように笑った。
「苦手な俺には話しにくいよね、さすがに」
「……いえ」
この場で、はい、と答える勇気はない。先輩を否定して、自分の言葉に追い詰められて。
どうにでもなれ、と、私は意を決して白状する。
「先輩の、声が……苦手で」
「声?」
答えた声が裏返っていたのは、意外過ぎるからだろう。
「見た目が受け付けないとか、馴れ馴れしい態度が嫌だとかじゃなくて?」
散々自身が言われてきたのか。淡々と話す台詞には自虐が混じっている。
誤解させてはならない。私は先輩の目を見て、きちんと訂正する。
「いえ。先輩が見た目通りのような人じゃないことは知っているので。……最初は距離が近くてビックリはしましたが、それが先輩のキャラだと思ったら抵抗はないです」
「じゃあ…………何で?」
微かに声が掠れている。どうやら先輩は緊張しているようだ。らしくないな、と思いながら私は重い口を開いた。
「……似ているんです、先輩の声とか、喋り方が」
「元カレ?」
「いえ。私の片思いです」
そこまで話したら、言葉が止まらなくなった。
「幼馴染で、ずっと一緒だったんです。三海、って名前が好きだって言ってくれて、単純だけどそれで好きになって。私は女の子らしくないし、恋愛対象に入らないのは分かっていたから。幼馴染として側にいるだけでいいと思っていたのに……。莉子と、あ、もう一人の幼馴染なんですけれど、ずっと彼が好きだったことは知っていて、相談も乗っていたのに。……付き合い始めたと聞いたらショックで二人の側に居たくなくて。高三の夏休み明けに志望校をこの大学に変えて、俊平のことを忘れようと思って……」
誰にも話していない胸の内。だけど、きっと誰かに聞いてほしかったのだ。全部吐き出すまで私の口は止まらなかった。
「だから、入学式の日、先輩に話しかけられてビックリしたんです。逃げてきたのに声とか話し方がそっくりで。俊平を忘れたくて離れたところに進学したのに、先輩の声を聞く度に、どうしても思い出してしまって……。すみません、自分勝手な理由で苦手意識を持っていて」
「いや……」
先輩は腕組をすると、天を見上げて「声かぁ」と呟いた。
「声はさすがに変えられないしなぁ。困ったな……」
「……すみません」
「いや、気にしないで。三海ちゃんが俺のことキライじゃないってしれたし、なんで避けられるのか理由も分かったから良かった。良かったんだけど……」
含みがある言い方に、私は薄々考えていたことを告げる。
「問題あるなら、サークル辞めます」
「いや! それは関係なくて。ってか辞めないでよ! 寂しいじゃん」
「でも……先輩を苦手だと公言した後輩が居たらやりにくくないですか?」
「そんなことないから! まぁ、ショックがないと言ったら嘘になるけど」
「……やっぱり辞めます」
「あぁ! 違う! そういう意味じゃなくて……あー、ちょっと待って」
珍しく先輩は狼狽している姿を隠さずに、テーブルに突っ伏した。
小さな声で、はぁ、とか、どうするかな、と呟いている様子は珍しくて、私はついマジマジと観察してしまう。
しばらくした後、先輩が顔を上げながら何かを決意したように、よしっと声を出した。
「三海ちゃん。次は俺の話、聞いてくれる?」
随分と気合の入った声に押されて、私は無言で頷いた。
「まずは、サークルは辞めなくていいよ。活動そのものがつまらないとか、嫌で堪らないならともかく、苦手な声の主がいるだけで辞めるのは違うし。俺も三回だし、秋には引退だ。一緒に活動する期間は短いしね」
「……わかりました。とりあえずサークルは続けます」
良かった、と先輩は笑顔を浮かべる。いつもの顔に戻って、私もホッと息を吐いた。
「んで、本題。さっきは言いにくいこと話してくれてありがとね」
「いえ」
「実はさ、三海ちゃんが俺を避ける理由を知りたかったんだ。んで、努力して変えれるところだったら頑張りたくて」
「……なぜですか? 私は先輩に口出しする立場じゃないですし。そんなことは同回生か、彼女にアドバイスしてもらってください」
「うん。だから三海ちゃんに言ってほしいんだ」
よっぽど腑に落ちていない顔をしていたのか。
四ノ宮先輩は、吹き出した。そして、困ったように笑う。
「三海ちゃんのためなら、変えれるし、変わりたいってこと」
「……? はぁ……?」
「んー、ここまで言ってもダメかぁ」
天を仰いだ先輩は、ふぅ、とため息をついた。再度私を見つめると、普段通りの口調でサラリと告げた。
「三海ちゃんが特別ってこと。名字でなくて名前で呼んでいるのも、俺のこと名前で呼んでほしいのも、全部三海ちゃんが好きだからだよ」
「はぁ……。それはありが…………って? ……えええっ!!??」
うっかりと話を流しかけ、意味を理解した私はガタッと立ち上がった。先輩は逆に落ち着いていて、「しっ」と唇に人さし指を当てた。
気付いたら周りの注目を集めていた。
急に恥ずかしくなり伏し目がちに座ったタイミングで、ポツリと告白される。
「一目惚れだったんだよね、実は」
「えっ!?」
顔を上げた私の向かいには、いつになく真剣な顔をした先輩がいた。
「結構俺、分かりやすかったと思うんだけどな。三海ちゃん以外の女の子は名字でしか呼ばないし。俺が女子で一番話しかけているのも君だし、サークルメンバーで出かける時も、なるべく三海ちゃんの側にいるように心掛けている」
「え……っと」
「だから殆どの人が、俺が三海ちゃんに想いを寄せているって知ってるよ」
「……!?」
名前はともかく、後は全く気付いていなかった。先輩の好意もそうだけど、さり気ない行動にも。
けれど、記憶を辿ると思い当たることは山のようにあるのだ。
サークルの友達には「真白ちゃんは、大和先輩のお気に入りやもんね」と言われていたし、寺社仏閣見学に行くと先輩が建築学科の学生らしい着眼点で話しかけてくれるのが常だったから。
声をかけられるのは、同じ学科の後輩だから。寺社仏閣に見学した際に話しかけられるのは、特殊建築物だから同じ学科の人間じゃないと専門用語を交えての話が出来ないからだと思っていたのに。
手に変な汗をかきはじめたのに気付いたのか、先輩は新しいおしぼりを店員さんに貰って差し出してくれた。
こういうところが細やかなんだよね、と考えていたら、耳にボヤく声が届いた。
「努力して変えられるところなら頑張りたかったけれど。うーん、声はなぁ。難しいよなぁ」
「す、すみません……」
焦って詫びる私を制して、先輩はカラッと笑った。
「謝ることじゃないよ。三海ちゃんに嫌われていない、って分かっただけでも収穫だから。嫌いって言われたら、打つ手なくてどうしようと思っていたんだ」
どう答えたらいいか分からない。だから無言を貫いた。
そんな私を見て、先輩は柔らかく微笑む。その顔に見覚えがあり、ハッとした。
なんで今まで気付かなかったのか。
先輩は俊平が莉子を、莉子が俊平を見ている時と同じ眼差しをしていた。
二人を傍から見るのが耐えきれなくて逃げ出したのに。
同じような視線の先に自分がいるとは、今の今まで考えてもみなかった。
知ってしまったら、まともに目を見れなくなって、つい目線を逸らしてしまいそうになる。けれど、熱っぽく私を見つめてくる瞳が、それをさせてくれなかった。
「ねぇ、三海ちゃん」
俊平と同じ声色で、でも彼よりもずっと優しく穏やかな声で、四ノ宮先輩が話し掛けてくる。
「俺、頑張ってもいいかな?」
何を、とは問い返せなかった。先輩は独り言のように小さく、でも私に聞こえる音量で静かに続きを口にした。
「嫌われていないなら。苦手なだけなら。好きになってもらえるように努力してもいい? 必ず振り向いて欲しいとはさ、……言わないから」
「……四ノ宮先輩」
呼びかけにニコッと笑った先輩は、「さて」と腰を上げた。
「長居しちゃったね。そろそろ行こっか。もうすぐ三限も終わる時間だしね」
「え……。あっ……」
サッと伝票を掴みレジに向かう後ろ姿を慌てて追いかけながら、私は――動揺かときめいているのか分からないけれど――ドキドキと音を立てる胸を、服の上から押さえたのだった。
