どうか陽炎が醒めますように

 1
 僕の彼女が死んだ。
 アイドルだった彼女は、SNSによる誹謗中傷に耐えかね自殺した。
 M駅の人気のない午後二十四時二十分。通過した急行列車に撥ねられ、彼女は呆気なくその最期を迎えた、らしい。
 死体の損傷が激しく、原形を留めておくことができなかったそうだ。
 胸が張り裂けそうな想いでこの文章を綴っているわけだが、せめてもの偲びとして読者には受け取っていただきたい。

 2
 彼女と出会ったのは皮肉にもM駅だった。確かあの日の夜は暑かった。そうだ、五年前の夏、八月のことだ。
 友人のミナトと“ハシゴ酒”なるものをしていた。大学生らしいことをして若さを維持しておきたいと、ミナトが話していた記憶がある。
 今思えば馬鹿馬鹿しいことをしていたなと思う。でも当時から僕という人間は馬鹿馬鹿しかった。人生なんてどうでも良くて、希望なんかなくて、早く消えちゃえばいいのになんて思っていて。
 結局怯えて、置かれた環境のせいにしてみたり、両親や同僚のせいにしてみたり、嫌なことは全部他人に押し付けるような、そんな人間だった。
 兄と姉が共に教師だったから、僕も教師の道を歩まざるを得なくなった。成績優秀だった二人を見習えって父に何度言われたことか。親戚も二人をよく褒めていた。
 そういう悪い環境に恵まれてしまったせいで、こんな人間に育ってしまったのではないかと思う。また、人のせい。人のせいにした。
 (彼女が生きていたら、きっと怒られる。)
 自分の思いの丈をぶつけることができる相手だった、ミナトと三軒ほどハシゴしたところで、終電が近くなり解散することになった。S線は終電が早く、乗り過ごすと明日の出勤に間に合わない。
 怠惰な大学生のように、仕事を“飛んで”布団に包まっていたいのだが、そういうわけにもいかない。
 誰かに謝る気力も、誰かの説教を食らう精神力もない。なんて弱い人間なんだろう。いや、仕事に行く人間のほうが強いに決まっている。
 そもそも強いとか弱いとかの定義は僕が決めてしまうべきではないのかもしれない。
 教員は公務員だから、社会的に見たら強い部類に属するのだろうか。公務員は強い、と母が言っていたのを思い出す。
 そんな碌でもないことを考えながら、S線の最終電車に乗り込んだ。
 日曜の最終電車はとにかく酒臭い。その酒臭さを多少は乗車前に払ってほしいと思う。その一要因が自分であることももちろん承知の上だが。
 こいつらにそういう自覚があるようには見えない。まるで他人事のように気持ちいい顔をして眠りやがって。
 こいつらも明日から仕事だと思うと、先ほどまで湧いていた敵意が、徐々に仲間意識へと変わっていく。僕は扉にもたれ、車窓の向こうで流れていく夜景をただ目で追っていた。
 反射するもう一人の自分の表情は何とも言い難いものだった。まるで誰か一人の人間を想っているような、苦しみを味わってあげているような、渋くそれでいて甘い表情だった。
 これからようやく運命の人に出逢うことができるという希望さえも滲み出ていた。当時はこんなことは思っていないわけであり、思えるはずがない。もしそうなら僕は未来予知者としてボロ儲けすることを考えていただろう。
 酒に酔う自分の顔はどうにも憎めない。
 もう一人の自分と睨めっこしていたときのことだった。僕を襲ったのは腹痛だった。学生時代から内面が弱い。そう、物理的に内側が。
 次の駅はM駅だったが、ここで降りたらタクシーを利用することになる。タクシーを使えば数千円は取られる。
 ただでさえ少ない給料でやり繰りしているので、無駄な出費は抑えておきたい。ただ、確実に家には帰りたい。
 明日の着替え。髭剃り。風呂。パソコン。採点した生徒の小テスト。
 明日のことを考えて自ずと頭の中をいっぱいにした。腹痛のおかげできちんとした解決策を導くことができずにいる。
 次のT駅で降りるか、それともこの腹痛を我慢するか。実を言うと、T駅を通過してしまうと人のいないいわゆる“過疎”駅のみが僕を待ち受けている。そのため、どうしても我慢できなくなってしまったら、過疎駅で取り残される。
 僕もその過疎駅集合体の一つを最寄駅として利用しているが、夜は灯り一つなく、平日の昼から夕方にかけて以降、人間が乗り降りしている様子はない。
 数十分は我慢できるはずだ。よし。ここは乗り過ごそう。
 こうしてT駅を過ぎ、次はM駅と車掌が告げた。腹痛は勢いを増した。徐々に尋常ではない痛みが押し寄せ、ヤツが顔を出しているような気がする。
 もう、ここまでか。仕方なく僕はM駅で降りてすぐに済ませた。一瞬で腹痛が止んでしまったことに後悔しつつ、とりあえず駅付近に設置されたベンチに腰掛けた。
 次に電車がやってくるのは朝の五時だ。
「はぁ、はぁ......」
 膝に手をつく女性が改札前で困った表情をこちらへ向けてきた。二十代半ばくらいだろうか。纏っていたのは軽やかに泳ぐ白いワンピース。細い身体を包み込んでいた。
 都会の喧騒と熱気の中を抜け出し、冷たい氷の彫刻ように凛としている。
 おそらくこの女性も終電を逃してしまったのだろう。彼女はそろそろと僕の方へ近付き、ベンチに座った。
「はぁ......また怒られる」
 ぶつぶつと何者かに対する愚痴を呟いているが、きちんと聞き取ることができない。耳を傾けているつもりはないが、この距離では自然と耳に入ってきてしまう。
「あの......終電、ですか」
 僕は目も合わせずに、彼女に聞こえるか否かの声量で言葉を発した。
 彼女の顔は一度も見ていないけれど、困惑しているのが返答の声音から分かった。
「えぇと......わたしに言ってますか......」
 ここで電話をしている振りでもしていればなんとなく逃れられたような気もする。でも僕はきちんと身体を彼女に向き直した。
「はい......あなたに」
 予感は正しかった。
 困惑というより、止まっているのに僕から一歩離れていったような感じだ。
「この駅の終電の時間ってこんなに早かったんですか?」
「今日は日曜日なので、おそらく早いのかと」
「そうですか......。忙しくて曜日感覚もなかったな」
 初対面にしてはだいぶ会話を続けられている方だ。普段なら挨拶を交わす程度で終わってしまうものが、こんなにも弾んでいる。
「お仕事ですか......」
「あぁ、はい。最近忙しくさせてもらってます」
 こんなに美人なら、芸能関係の職に就いていてもおかしくはない、と思ったその矢先、
「わたしのこともしかしてご存知ですか?」
 あまりに予想外の質問に僕まで困惑してしまった。困惑を困惑で返され、五里霧中といった状況だ。
 どうして話しかけたのかも分からず、もちろん彼女のことを全く存じ上げない。
 どこかで会ったことがあるだろうか。僕が受け持つ生徒の保護者か。それとも今日行った居酒屋の店員か。今日一日のスケジュールを頭の中で振り返り、この女性に似た人物を探ってみる。が、そんな女性は見当たらなかった。
「ごめんなさい」
 彼女の反応は意外なものだった。
「ふふふ。お兄さんなら知ってると思ったんだけどなぁ。だってわたしーー」

 彼女は、“アイドル”だった。

 3
「どっちから歌いますか?」
 M駅のベンチで出会った鈴木スズカと、歩いて十五分の場所にある古びたカラオケ店へやってきた。
 アイドルであることに驚きと戸惑いがあった。僕とこうして一緒にいることで熱愛が報道されることになってしまったらーーという申し訳なさが込み上げてきたが、烏滸がましいのでやめた。
 鈴木さんの方からカラオケのお誘いを受けた。僕が断ることのできる身分でないことは十分に理解した上で、何度も断った。それでも彼女は折れることなく僕をカラオケに連れ出した。
 もしかしてーー
「僕のこと騙して、お金でも盗ろうとしてますか? 怖い人たちが今からこの部屋に来て襲われるとか? もしかして、本当はアイドルじゃないとか......?」
 そう思う自分が存在したのなら、断っておけばいいのに、終電を逃した同志と一夜を乗り越えるというのも悪くないと思う自分がそれに勝ったのだ。
 この発言に対して、彼女は大きな口を開けて笑っていた。まるで僕を小馬鹿にしているような笑いだ。ようやく罠に引っかかったことを自覚した獲物を嘲るような笑顔だ。
「そんなわけないじゃないですか。本当に江俣さんは私のことご存知なかったんですね」
「......じゃあ僕のことを陥れようってわけじゃ」
「ただ私は始発が来るまでの時間潰しに誘ってみただけです。声をかけていただいたのに、江俣さんを始発まであそこで待たせるわけにもいかないですし」
 しかも、と彼女は続けた。
「私、惹かれちゃったんです。私をアイドルとしてじゃなくて、一人の人間として、見てくれるあなたに」
 彼女の言葉は攻撃的でないものの、何か胸の奥をぐうっと押さえ付けられるような感触を覚えた。ただの不快な痛みではなく、ツボを押されているような、心地よさもあった。
 ここまで女性と会話することに慣れていないものかと、猛烈に情けなさが込み上げてくる。情けなさの権化とはまさに僕のことをいうのだろう。
 彼女の言葉を反芻しても、僕がアイドルとしてみていないことの何がそんなによかったのか理解できずにいた。
「僕なんかに惹かれても、いい事なんて何一つないのに」
 多少は不貞腐れていたと思う。どうせ今夜限りの使い捨てのセリフなだけなのに。どうして僕は真に受けてしまうのだろう。
「いい事あるじゃないですか。こうして一緒に朝を迎えられる相手がいるから、寂しくない」
 たしかに、寂しくはない。けれど。女性の隣での寝方は知らないし、これ以降の会話の続け方も分からない。
 むしろ居心地が悪い。彼女には申し訳ないけれど、このままベンチに戻って朝の訪れを待つ方がよっぽど深い睡眠を取ることができる。
「......もしかして、私と一緒にいるの嫌ですか?」
 僕は君と一緒にいたい。なんてクサいセリフを言える勇気は持ち合わせていなかったので、適当に否定語を並べてその場をやり過ごそうと思った。
「やっぱり嫌ですよね! ごめんなさい! 私が無理矢理誘ったから! 他のお部屋借りられるか訊いてみますね!」
 とても申し訳なさそうに慌てて部屋を出ようとする彼女の手首を、咄嗟に掴んだ。
「あの......アイドルなんですよね。その......歌とか......聴いてみたいです。ちゃんとノれるか分からないですけど......」
 少しでも彼女に申し訳ない思いをしてほしくなかった僕が、唯一見つけた解決策はそれだった。
 この気まずい空気感をどうにか紛らわすように、彼女は言った。
「じゃあこの前リリースした曲歌わせてもらいますね!」
 流行は未だに数年前で止まっていて、若者に人気の曲や芸能人などは全く知らない。テレビは設置しておらず、SNSはほとんど開設していない。
 僕の携帯電話は、電話やメッセージのやり取りができる文鎮でしかないと非難されたこともある。
 鈴木さんはモニターを見ながら横で熱心に歌っている。こちらから頼んでおいてなんだが、あまりアイドルの曲を聴いたことがないので、何が良いのかは全く分からなかった。
 僕でも知っている有名なアニメの主題歌らしいが、まぁとりあえず曲はそれに似合っている。歌い終えるまでに感想をきちんと述べられるように準備をしておかなくては。
 モニターに映し出された歌詞の背景は、その曲のミュージックビデオのようで、本当に彼女が映っていた。カメラ目線で笑顔を見せ、軽快なダンスを曲に合わせて踊っている。
 本当にアイドルだったのか、としみじみと感じる。家に帰ったらこのアイドルについてもう少し調べてみようと思う。忘れていなければだが、きっとこんな出会い方をしたアイドルを忘れることはない。きっとそうだ。忘れない。
 四分も経たないうちに曲は終わり、僕は小さな拍手で彼女に身体を向けた。
「本当にアイドルだったんですね」
 彼女は笑ってから、僕に言った。
「ちゃんとアイドルになりきれてましたか?」
「初めてアイドルを見ました」
「初めてで直接見るなんて超贅沢じゃないですか!」
「自分で言っちゃうんですね」
「冗談ですよ〜」
 こちらを見つめるその艶やかな瞳をただ眺めていた。僕という人間を敬遠するような、曇った表情はとっくに晴れていた。明日の天気も晴れると良いなと思う。最近は雨が続いていたから。カラオケのドリンクバーも久しぶりに使ったな。こんなにメロンソーダって美味しかったっけな。
「江俣さん?」
 鈴木さんに名前を呼ばれて、僕は我に返った。
「は、はい」
「せっかく一緒にいるんだから、もっとお話ししましょうよ」
「それ......」
 みんなに言ってるくせに、と吐き捨ててみたかったが、こんなに弱い人間には到底できない。しかしそれは本当のことなのだろうと思う。アイドルたるもの、ファンを増やすためにはどんな手段を用いても構わないはずだ。それらしいセリフでファンを獲得していく。それは周知の事実であるから、今更訴えたところで無意味なのだ。
 そうだ、無意味なことだ。僕が何を言ったって、本当の彼女を知ることができない。
「それは僕も同じ意見です」
 だから僕は潔く返した。彼女のセリフに乗っかってやる。これは一つの芝居なんだ。
 ところで、先ほど冷房の温度を確認してみた。通常だった。普段なら少し肌寒いと感じる温度だ。それなのにどうしてだろう。冷房が全くこの室内に効いていない。
 まさか手のひらの上で僕が踊らされているのか。違う。僕が踊ってあげているだけなのだ。それで疲れて、体温が上がって、冷房が効いていないと感じるだけだ。
 そうやって論理的に解釈していくことでしか、平静を保つことができなかったのかもしれない。
「江俣さんはどんなお仕事をされてるんですか?」
 初めて僕のことを訊かれた。僕の仕事を尋ねる人物は両親とミナトだけかと思っていた。ご無沙汰な中高の同級生でさえ、僕の仕事を訊こうとはしなかった。
 もしかして僕のことーーと思ったけれどやめた。
「僕は近くのW高校で数学の教員をしてます」
「え〜すごい! 私は全然勉強できなかったので頭良い人にすごく憧れます」
「あぁ、いやぁ、そんなに大したことしてないですよ」
「高校生に教えてるってことですよね⁉︎ 超すごいことしてるじゃないですか!」
「アイドルのほうがよっぽど大変だと思います」
 彼女たちは曲を録ったり、ライブをしたりしてるわけで、きちんと寝られているのだろうか。テレビにも出てるのか。ファンに嫌なことを言われてはいないだろうか。グループ内は仲良くできているのだろうか。
 どうしてか父親のような、プロデューサーのような気持ちになってくる。
 それは自分より若いせいなのか、それとも包み込みたくなるような能力を彼女が持ち合わせているだけなのか。後者なら結局踊らされていただけになるので、あまり想像したくない。
 僕らは授業の準備をして、授業をして、テストを作って、採点をして、保護者と進路の面談をして......今考えるとやること多いな。
 同じくらい大変かもな。でも周りの目なんて気にする必要ないからな。彼女は外出するときも自分の顔を隠す必要がある。
「本当にアイドルになりたかったので、大変とは思ったことないです。本当に毎日楽しくて、本当に」
 “本当に”が、何度も登場しているせいで、胡散臭く聞こえる。
 でも、と彼女は続けた。
「アイドルになったことで、私のことをちゃんと人間として見てくれる人が少なくなった気がするんです。SNSには『アイドルなんだから』とか『もっと笑顔が見たい』とか書かれちゃって。もちろん私が選んだ道だから、何と言われようと私の責任になるのは分かってるんです。どんなに辛いときもアイドルだから、笑顔でいなきゃと思うとそれがプレッシャーになって......」
 何とも言えない気持ちになった。自分で選んだ道なんだから、自分のせいにするしかない。本当はやりたくなかったのに。周りに薦められたから、周りが強制したから。そう選択せざるを得なくなった。
 彼女はそうではないかもしれない。本当に自分で選択したから、逃げられなくなってしまった。自分で自分の心を檻に閉じ込めたせいで。
「僕も教員なんてやりたくなかった。兄と姉が優秀で教員だから、両親が僕にも教員をやれって強制してきたんです。昔からそう言われてたから、他の道を考えるなんて無理で、僕は教員になりました。でもこんなこと言っても、無駄なのは分かってます」
 深く呼吸をしてから、
「鈴木さんがどこでどんなアイドルをしているかは知らないですけど、自分で選んだのなら、誇るべきです。あなたも僕も同じ人間なんだから、プレッシャーを感じることは普通です」
 きちんとした返答になっているか不安になったが、彼女はこちらを真剣な眼差しで見ていた。数分間は無言の時間が流れていたと思う。
「......何だか自信が湧いてきました。こんな悩み誰にも打ち明けられないから」
 彼女の返答で僕は安堵した。よかった。鈴木さんにとってプラスの言葉を投げ掛けることができて。
 僕も流れに乗って、大学時代によく聴いていたバンドの曲を歌ってみた。
 歌い終えた僕に、彼女は声を弾ませながら、
「こんな激しい曲がお好きだなんて驚きです。江俣さんは奥が深そうです」
 目を輝かせながら話す鈴木さんの瞳は、限りなく本心に近いことを表していた。たしかに、目も口ほどに物を言っていた。
 その後も、鈴木さんが自曲を披露し、僕の好きな曲を披露するというのが交互に続いた。紆余曲折あったが、もう始発電車が到着する時刻になってしまった。
「本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
 誰もいない一号車で、僕らは他愛もない挨拶を交わす。また、という気にはなれなかった。
「ぜひライブにいらっしゃってください。“ヒート・ヘイズ”と調べていただければ、ヒットすると思います」
 鈴木さんはヒート・ヘイズというアイドルグループに所属しており、オレンジ色の担当らしい。元気があり、みんなを笑顔にできる太陽のような存在を目指しているという。
「分かりました。機会があれば」
 行くつもりなんてなかった。彼女との関係はこれ以上でもこれ以下でもない。僕がライブに行くという行為は、ある種の彼女に対する好意のように感じる。それではお互いの好意が釣り合わない。
 そもそも彼女が僕に好意を抱いてすらないかもしれないが、僕はある程度、そうだ。
 僕が先に降りて、彼女は車窓越しに手を振っていた。
 扉が閉まる。
 電車が動き始める。
 僕は足を止めていた。
 彼女は何か、僕に訴えかけていた。
 何を言ったかは分からない。
 でも、悲しいことは言っていない。確実に。

 4
 冷たい朝風が頬を突き刺した。頬に限らず、顔面そのものに、首に、手に。
 あれからおよそ半年が経ち、草木はとっくに枯れ、新たな命が芽吹こうとしている。あれ、というのはもちろん鈴木さんの話だ。
 彼女について調べたことはあったが、曲を聴こうとは思えず、ライブも結局行かなかった。そういう人間だということは僕が一番理解しているつもりだ。
 三月になれば我が校も卒業式を迎える。僕は生徒の進路相談をしつつ、式典の準備も行わなければならなかった。自慢ではないが、僕は結構この高校で大役を任されることが多い。これは自慢ではない。
 突然背後から声がした。
「江俣先生、ちょっといいかな?」
 教頭の伊賀先生が僕を手招きして呼ぶ。
 僕は職員用の会議室で伊賀先生と二人きりでいた。
「卒業式の件なんだけどさ......生徒へのサプライズでアイドルにお願いすることになったんだけど......どう思う?」
 言いにくそうな表情でいる伊賀先生に、何と返答すればよいのか迷う。名案ですね、と言うべきか。それとも、それは微妙ですね、と言うべきか。僕の年齢でさえ微妙だと感じるのだから、歳上の伊賀先生は最悪だと感じているのだろう。
「......アイドル、ですか」
「やっぱり、最高だよな?」
「え......あ、はい。名案だと、思います」
 危なかった。返答を間違えていたら、職を失っていた可能性すらある。
「今うちの高校でも流行ってるみたいなんだよ。この子たち呼んだら、絶対喜ぶと思うんだよ!」
 そのアイドルが映ったポスターを僕に見せてきた。
「ええ......喜ぶとは思いますけど、呼べるんですか?」
 疑問を投げ掛けながら、僕は気付いた。おれんじ、オレンジ、鈴木、さん。
「あぁ。これから挨拶に来るらしい」
「え⁉︎ これから⁉︎」
 メンバー全員が来るとは限らないし、鈴木さんが来るという保証もない。かといって伊賀先生に誰が来るかなんて聞けたもんじゃない。
 僕があの子たちを好きみたいじゃないか。大して好きでもないのだから、期待する必要なんてない。
「少し、お手洗いに......」
 僕はすぐに会議室を飛び出して、呼吸を整える。あの日限りの女性ではなかったのかもしれない。何が僕をそこまで揺さぶっているのだろう。
 やはり彼女のせいなのか。たしかに多少の好意はあった。でも好きというほどの感情の昂りはなかった。はずだ。
 会議室の前に立ち、何とか自我を保とうとする。そんな自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「あの......お手洗いって......」
「お手洗いならすぐそこにーー」
 言葉が喉の奥で凍りついた。
 視線の先にいたのはただの女性ではなかった。
 僕はただ、彼女を見つめていた。