神殿に閉じ込められた雪音は来る日も来る日も祈りを捧げなければならなかった。交代の娘は来ない。
新しく建てられた神殿には、特別に誂えられた座敷牢があった。そのなかで、ろくな食事に与えられずにひたすら祈らされる日々が続いていた。
気を抜けば怒声と鞭がとんできた。何かがおかしい。
神聖な月龍を祀る神殿で、血が流れるほど鞭を打つなど、神を冒涜する行為だろう。
月龍は、こんなやり方で加護を授けてくれるのだろうか。
雪音は疲労で鈍った頭でぼんやりとそんなことを考えていた。
朝陽は風芽のことを気に入り、后として迎え入れたらしい。もう、雪音のことを気にかけることはない。永遠に。
雪音が月華に帰ったことで、旭華の鄙へと水が行き渡るようになっただろう。あとは、命が尽きるまでここで祈りを捧げるだけだ。
日の差し込まない牢の中は、時間の流れがわからない。月華にもどってきてから、どれくらいのときが流れたのだろう。
「朝陽様……」
二度と会えることのない男の名を呟いても、虚しいだけだった。
牢獄のような神殿に監禁されてから幾日経っただろう。光の差さない神殿のなかで、雪音はもう何も感じなくなっていた。朝陽のことを思う時間もだんだんと減り、今では思い出すこともない。心はすでに死んでいた。
ただただ、命じられるまま月華の人びとの幸せを願う。
突然牢の中が明るくなった。あまりの眩しさに、雪音は目を閉じる。
「雪音!」
目をかたく閉じた雪音の耳に聞こえたのは、愛しい男の声だった。
「え……」
「雪音! 俺がわかるか!」
ゆっくりと目を開く。目に映らなくとも、誰だかわかる。自然と涙が流れ落ちる。
「朝陽様……」
「おまえを奪い返しに来た」
あたたかな朝陽の腕に抱かれ、雪音は安堵した。冷え切った身体が、少しずつ暖まっていくような気がした。夢だと思った。ついに、命が尽きる日が来たのだろう。
「もう祈りをささげる必要はない」
夢の中の朝陽は、記憶の中と同じように優しい。
「雪音……生きていてよかった……」
「え……」
まだ、私は生きているのか。
「旭華に帰るぞ雪音」
朝陽が強く抱きしめてくる。抱きしめられる感覚がある、これは現実なのだろうか。
「でも、ほかの巫女が来ることはありません。月華の人びとのためには、私が祈らなければ……」
生きているならば、祈らなければいけない。涙ながらに現状を口にすると、朝陽がいっそう力強く抱きしめてくる。
「大丈夫だ、月華はもとより月の神の加護など必要ないのだ。おまえが祈らなければならなかったのは、王をはじめとした貴族たちが過剰な財を求めたからだ。無駄な贅を尽くさなければ、巫女は必要ない」
「本当、ですか」
「そうだ、だから安心して俺に奪われろ」
朝陽のもとに帰ることができる。そうわかると止め処無くなみだが流れた。嬉しくて。
「もう、来てくださらないと思っていました」
諦めていたすべてが現実になり、雪音はまだ実感が湧いていなかった。目の前の朝陽を見つめる。幻ではない。
「俺はそんなに不甲斐ないか」
「いいえ、朝陽様は私のことなど忘れ、風芽様を溺愛していると聞きましたから……」
雪音の言葉に朝陽は驚き、それから不機嫌そうな顔になる。
「そんなことがあるわけがない。あの女は追い返した。なかなか帰ろうとしないので難儀したが、命を取ると言えばさすがに帰った」
「迎えに来てくださって、本当にありがとうございました……私、嬉しくて……」
喜びと安堵で止め処無く涙が流れ落ちる。その涙を、朝陽の指が拭った。
「来るのが遅くなってすまなかった」
「いいえいいえ……」
朝陽に再会できたことが嬉しくて、言葉が出ない。自分はこれほどまでに朝陽に惹かれていたのだと再認識する。
「愛している雪音。もう、二度と手放さない」
「私も、私も愛しています朝陽様。どれほど、あなたに会いたかったことか……」
潤んだ瞳で見つめてくる雪音の体を強く抱きしめ、朝陽は雪音に口づけた。
想いがようやく通じ合った。
朝陽はそのまま月華を攻め落とし、長くふたつに分かれていた国はひとつに統合された。朝陽は国名を明華と改名した。後に興る『龍王国』の前身である。
腐敗した月華の貴族社会に、旭華のカラリとした風が吹き込んだのである。
数年が経ち、旭華と統合された月華は様相を変えた。人びとは活気に満ちているようだ。
明華の王城に軽やかな足音が響く。
「おとうさま」
可愛らしい声に、振り返ったのは、明華の王となった朝陽である。
朝陽は駆け寄ってきた幼子を抱き上げる。
「晩霞、晩霞、どこに行ったの」
続いて愛しい妻が幼子の名を呼ぶ声が聞こえてきた。朝陽は目尻を下げ、妻の声に応えた。
「こっちだ雪音、晩霞はここにいる」
呼ばれて駆けてきた雪音を朝陽は抱き寄せた。雪音の腹部はわずかに膨らみを帯びている。
「走るな、腹の子に障る」
「少しだけですから大丈夫ですよ」
朝陽は雪音に口づけを落とすと幼子を諫めた。
「晩霞、母上を困らせるな」
「だって おとうさまに いちばんに あいたかったんです」
溺愛している晩霞にそう言われれば、朝陽もそれ以上怒られなかった。
朝陽の治める明華は大きく発展し、晶の東を統治する大国となった。
新しく建てられた神殿には、特別に誂えられた座敷牢があった。そのなかで、ろくな食事に与えられずにひたすら祈らされる日々が続いていた。
気を抜けば怒声と鞭がとんできた。何かがおかしい。
神聖な月龍を祀る神殿で、血が流れるほど鞭を打つなど、神を冒涜する行為だろう。
月龍は、こんなやり方で加護を授けてくれるのだろうか。
雪音は疲労で鈍った頭でぼんやりとそんなことを考えていた。
朝陽は風芽のことを気に入り、后として迎え入れたらしい。もう、雪音のことを気にかけることはない。永遠に。
雪音が月華に帰ったことで、旭華の鄙へと水が行き渡るようになっただろう。あとは、命が尽きるまでここで祈りを捧げるだけだ。
日の差し込まない牢の中は、時間の流れがわからない。月華にもどってきてから、どれくらいのときが流れたのだろう。
「朝陽様……」
二度と会えることのない男の名を呟いても、虚しいだけだった。
牢獄のような神殿に監禁されてから幾日経っただろう。光の差さない神殿のなかで、雪音はもう何も感じなくなっていた。朝陽のことを思う時間もだんだんと減り、今では思い出すこともない。心はすでに死んでいた。
ただただ、命じられるまま月華の人びとの幸せを願う。
突然牢の中が明るくなった。あまりの眩しさに、雪音は目を閉じる。
「雪音!」
目をかたく閉じた雪音の耳に聞こえたのは、愛しい男の声だった。
「え……」
「雪音! 俺がわかるか!」
ゆっくりと目を開く。目に映らなくとも、誰だかわかる。自然と涙が流れ落ちる。
「朝陽様……」
「おまえを奪い返しに来た」
あたたかな朝陽の腕に抱かれ、雪音は安堵した。冷え切った身体が、少しずつ暖まっていくような気がした。夢だと思った。ついに、命が尽きる日が来たのだろう。
「もう祈りをささげる必要はない」
夢の中の朝陽は、記憶の中と同じように優しい。
「雪音……生きていてよかった……」
「え……」
まだ、私は生きているのか。
「旭華に帰るぞ雪音」
朝陽が強く抱きしめてくる。抱きしめられる感覚がある、これは現実なのだろうか。
「でも、ほかの巫女が来ることはありません。月華の人びとのためには、私が祈らなければ……」
生きているならば、祈らなければいけない。涙ながらに現状を口にすると、朝陽がいっそう力強く抱きしめてくる。
「大丈夫だ、月華はもとより月の神の加護など必要ないのだ。おまえが祈らなければならなかったのは、王をはじめとした貴族たちが過剰な財を求めたからだ。無駄な贅を尽くさなければ、巫女は必要ない」
「本当、ですか」
「そうだ、だから安心して俺に奪われろ」
朝陽のもとに帰ることができる。そうわかると止め処無くなみだが流れた。嬉しくて。
「もう、来てくださらないと思っていました」
諦めていたすべてが現実になり、雪音はまだ実感が湧いていなかった。目の前の朝陽を見つめる。幻ではない。
「俺はそんなに不甲斐ないか」
「いいえ、朝陽様は私のことなど忘れ、風芽様を溺愛していると聞きましたから……」
雪音の言葉に朝陽は驚き、それから不機嫌そうな顔になる。
「そんなことがあるわけがない。あの女は追い返した。なかなか帰ろうとしないので難儀したが、命を取ると言えばさすがに帰った」
「迎えに来てくださって、本当にありがとうございました……私、嬉しくて……」
喜びと安堵で止め処無く涙が流れ落ちる。その涙を、朝陽の指が拭った。
「来るのが遅くなってすまなかった」
「いいえいいえ……」
朝陽に再会できたことが嬉しくて、言葉が出ない。自分はこれほどまでに朝陽に惹かれていたのだと再認識する。
「愛している雪音。もう、二度と手放さない」
「私も、私も愛しています朝陽様。どれほど、あなたに会いたかったことか……」
潤んだ瞳で見つめてくる雪音の体を強く抱きしめ、朝陽は雪音に口づけた。
想いがようやく通じ合った。
朝陽はそのまま月華を攻め落とし、長くふたつに分かれていた国はひとつに統合された。朝陽は国名を明華と改名した。後に興る『龍王国』の前身である。
腐敗した月華の貴族社会に、旭華のカラリとした風が吹き込んだのである。
数年が経ち、旭華と統合された月華は様相を変えた。人びとは活気に満ちているようだ。
明華の王城に軽やかな足音が響く。
「おとうさま」
可愛らしい声に、振り返ったのは、明華の王となった朝陽である。
朝陽は駆け寄ってきた幼子を抱き上げる。
「晩霞、晩霞、どこに行ったの」
続いて愛しい妻が幼子の名を呼ぶ声が聞こえてきた。朝陽は目尻を下げ、妻の声に応えた。
「こっちだ雪音、晩霞はここにいる」
呼ばれて駆けてきた雪音を朝陽は抱き寄せた。雪音の腹部はわずかに膨らみを帯びている。
「走るな、腹の子に障る」
「少しだけですから大丈夫ですよ」
朝陽は雪音に口づけを落とすと幼子を諫めた。
「晩霞、母上を困らせるな」
「だって おとうさまに いちばんに あいたかったんです」
溺愛している晩霞にそう言われれば、朝陽もそれ以上怒られなかった。
朝陽の治める明華は大きく発展し、晶の東を統治する大国となった。



