月龍を祀る国、月華。は、陰龍と呼ばれる一族の国である。晶と呼ばれる大陸の北東部に位置し、厳しい環境にあるとされるこの国は、国の東方に神殿を造り、巫女が交代で祈りを捧げることで数多の厄災から国を守ってきた。
清らかな陰の気を持つ巫女の祈りに応え、月は恵みをもたらすと言われている。
巫女は貴族の娘たちから選ばれる。貴族のひとつ、月羽矢家からはふたりの娘が巫女に選ばれていた。
ひとりは正妻の子ある風芽。もうひとりは妾の子である雪音である。
月龍に祈ることはその生命を捧げることを意味する。巫女たちはその身に負担のないよう、週に一度、交代で祈りを捧げることになっていた。
だが、どうやら今期の巫女たちの様子は違う。毎週、毎週、神殿に通うのは同じ巫女だ。月羽矢家の雪音である。
月羽矢家の当主は祈りの奉納を雪音に請け負わせるかわりに貴族たちから報酬を得ていた。
神殿から屋敷にもどる雪音はひどく貧相な格好していた。足袋も履かず、むき出しの素足は傷だらけだ。着物から覗いた腕には無数のあざが見える。そのうえ顔には尼が被るような頭巾を被っていた。
娘が巫女に選ばれることは、大層名誉なことであるが、娘かわいさに嫌がる家も多かった。
雪音が祈りを請け負うおかげで月羽矢家は裕福であったが、当の雪音の姿はまるで使用人のようである。
「やっと帰ってきたのね、もう少し早く帰ってこられないの? まったく、どこをうろうろしていたんだか」
異母姉である風芽は祈りの奉納から帰った雪音を見つけて文句をいった。もちろん雪音はまっすぐ帰ってきた。だが、東の神殿は屋敷からかなりの距離がある。歩いて帰るにはかなりの時間がかかるのである。
普通ならば、祈りを捧げ終えた巫女を労い、牛車が使われるものだが、雪音に対して牛車が用意されることはなかった。
「雪音、なにか甘いものを用意して」
風芽の大声が台所まで響く。
「はい、ただいまお持ちします」
一方の雪音は家に戻るなり着物を着替え、夕餉の自宅に取りかかっていたところだった。
夕餉を作る手を止め、風芽のことろに作り置きしておいたお茶と一緒に甘味を運ぶ。
「ちょっと、このお茶熱すぎるわ、淹れなおして。本当に気が利かないわね」
風芽はそう言って湯呑のお茶を雪音の顔にかける。
「すみません、ただいま……」
湯を沸かして淹れ直したお茶を風芽のところに運び終えると、今度は義母に呼ばれる。
「雪音、先日お願いしていた繕い物は終わったのかしら」
「はい、お義母様」
雪音が着物を手渡すと、義母は眉を顰める。
「こんな縫い目じゃ着られませんよ、やり直しなさい」
どんなに美しく手直ししても、必ず一度は返される。雪音はため息を飲み込んで、着物を受け取った。
月羽矢家において、雪音は冷遇されていた。亡くなった生みの母の身分が低かったことがひとつ、それ以上に雪音の立場を悪くしていたのはその容姿だった。
容姿の美しさから月羽矢家の当主に見初められた母の生き写しである雪音は、まばゆいばかりの美しい娘だった。当然、後妻も風芽も雪音のことが面白くない。
実子である風芽を溺愛する一方で、雪音のことをひどく虐げた。ろくな食事や着るものを与えず、使用人たちがやりたがらないような厳しい仕事をさせた。おかげで輝くような雪音の容姿は常に煤で汚れ、美しさは陰りを見せていた。
父も、妻を恐れて雪音を顧みることはなかった。
普段はみすぼらしい姿をさせられていた雪音だが、神殿に行くときは別である。
神に祈りを捧げる娘が、薄汚れていてはいけない。水で身を清め、美しい着物に身を包んだ雪音は多くの人の目を引いてしまう。義母はそれを嫌がり、神殿に向かう雪音には必ず顔を隠させた。神殿から帰るときは履物を脱ぎ、着物も普段着ている薄汚れた着物に着替えて帰らせる。
八つの貴族から選ばれた娘たちが神殿に祈りを捧げるのは週に一度。だが、雪音の場合はそうではない。ひどく精神力を使うこの役目を、毎週行っていた。風芽をはじめとした貴族の娘の多くが役目を担いたがらないからである。
祈りを捧げる辛さもあるが、隣国に近い場所に神殿があることも原因だった。
隣国、旭華に住む陽龍の一族は、略奪を良しとし、殺戮を楽しむ蛮族であると聞く。月華の陰龍と旭華の陽龍はもとはひとつの種族であったが、遥か昔、気性の粗い王を掲げた龍たちが陽龍として国を立ち上げた。以来袂を分かち、残されたものたちは良識ある王を中心に陰龍の国、月華を築いたという。
国の成り立ちから、旭華に住む陽龍の一族は月華のひとびとのあいだでは忌み嫌われていた。中でもその王は残虐であると恐れられており、国交はないといって等しい。あるのは一方的な略奪。つい最近も、月華の鉱山が略奪されそうになったばかりである。月華では旭華に対抗するための武士団を有しており、旭華の蛮族が攻めてくるたびに返り討ちにしているようだった。この度もそれは成功したようだ。
その日も、雪音はひとり神殿で祈りを捧げていた。
突然、物々しい音がしたかと思うと、神殿の扉が壊されたのである。扉の向こうから現れたのは荒々しい雰囲気の男たちだった。
神殿の警護をしているはずの武士はなにをしているのか、雪音を守りに来る気配はない。
襲撃してきた盗賊たちのうち、棟梁だと思われる男が雪音を見下ろしている。ひどく冷たい目をした男だった。雪音は恐ろしさで震える体を叱咤し、男を睨み返す。雪音と男はしばらく睨み合っていたが、突然男が雪音の体を抱きかかえた。そばにいた男にひとこと告げる。
「この女を連れ帰る」
「ほ、本気ですか!」
「当たり前だ。用は済んだ、国へ帰るぞ」
雪音は恐ろしさで身を固くした。声が出ない。抵抗する間もなく、雪音は神殿から連れ出され、男と一緒に馬上に乗せられる。
「間違っても落ちようとするなよ」
男に忠告されたががっちりと体を掴まれているので身動きが取れない。なにか抵抗しなければ、そう思っているうちに馬は駆けだした。
あまりに速く走るので、雪音は振り落とされないかと心配になったが、仮に雪音が暴れても絶対に放してはくれないだろうという強さで男の腕が雪音を抱きかかえているのでその心配はなさそうだ。その代わり、逃げられないということは確か。
馬から落ちる心配がなくなると、今度はどこに連れていかれるのかと不安になる。不安になるには大きな理由があった。この男、もしかしたら陽龍の一族ではないか、と。
「あ、あの……」
勇気を振り絞って自分を抱きかかえる男に声をかける。すると、男は少し驚いたように目を見開いた、ように見えた。
「言葉が話せないのかと思ったぞ」
「あ、いえ……話せます」
雪音が答えると、そばで馬を走らせていた他の男がおかしそうに笑う。
「そりゃ声も出ませんよ、朝陽様の顔があまりに恐ろしいんですから。お姫様相手なんですから、もう少し柔和な表情が出来ないものですかね」
男に言われて朝陽と呼ばれた男は嫌そうな顔をした。
「この顔は生まれつきだ。それで、どうした、俺を呼んだだろう」
朝陽に睨まれ、雪音は小さく震えたが、意を決して尋ねる。
「あ、あなたは陽龍の一族でしょうか」
勇気を振り絞った雪音の質問に、朝陽は拍子抜けをした様子だった。
「なんだ、そんなことか。神妙な顔をするから何を言い出すのかと思えば。そうだと言ったらどうするのだ」
やっぱり、と雪音は納得した。略奪を良しとする蛮族ならば、神聖な神殿を壊し、巫女である自分を奪うことも当然のことなのだろう。これから自分の身がどうなるのか、そう考えて雪音は長いまつげを伏せた。
月華の国に在っても、雪音の暮らしはけっして良いものではなかった。陽の国で奴隷になったとしても、おそらく今までの生活と大差がないだろう。無理に逃げる必要もない。
「ずいぶんと大人しい。もっと泣き叫んで暴れられるものだと思ったが……月華の娘は思いのほか肝が据わっているな」
朝陽がひとりごとのようにいう。それから、再び視線を雪音に向けた。相変わらず視線は冷たいが、神殿で睨み合った時よりも、いくらか表情が和らいでいるように感じる。
朝陽は雪音を抱き寄せると、耳元でささやく。低音の、心地よい声が、恐ろしさを少しだけ和らげる。
「おまえはもう俺のものだ。さあ、国へ帰るぞ」
朝陽が馬を打つと、速度が更に上がる。森を抜け、切り出した岩場の間を通り、草原を抜けていく。小さな村をいくつか通り過ぎると、少しずつその規模が大きくなってくるのを感じた。かなり南下してきたのだろう、陰の国の気候よりも気温が高い。照り付ける少し汗ばむような陽気に雪音は髪をかき上げた。すると、朝陽が再び耳元でささやいてくる。
「暑いか」
「え、いえ、大丈夫です」
そう答えたが、朝陽は雪音の着物に手をかけ、首元を少し開いた。風が素肌に当たって心地よくなったが、驚いた雪音は小さな悲鳴を上げる。
そばにいた男がまたケタケタと笑い声を立てた。
「公衆の面前でお姫様を襲わないでくださいよ、そういうのはお住まいに戻ってからで」
「邪推するな、暑そうだったから開けさせただけだ」
「それがいけないんですよ、ほら、お姫様も嫌がってるでしょう?」
朝陽が「そうなのか?」とささやいてくるので、雪音はまた小さな悲鳴を上げた。
「い、いえ、嫌ではありません。少し驚いただけです」
「そうか。弥彦、おまえの勘違いだ。姫は嫌がってはいない」
「そうですかね、朝陽様に睨まれて、嫌だとはいえませんよ」
弥彦と呼ばれた男はそう言って軽快に笑った。
馬が足を止めたのは、あまりに大きな屋敷だった。否、屋敷と呼ぶには広すぎる。これは、盗賊の根城ではなく、王の城ではないだろうか。雪音がそう思い至ったところで、朝陽を出迎えるひとびとが見えた。朝陽の姿が見えるや否や、みな同様に額づく。
「帰ったぞ」
老年の男が顔をあげ、朝陽に声をかけた。
「お待ちしておりました、朝陽様。そちらの姫君は……」
「戦利品だ」
朝陽が答えると、辺りがざわめく。老年の男は白い眉を下げ、満面の笑みになった。
「それはそれは、ようございました。姫様のお住まいはどちらにいたしましょうか。後宮に置ける状況ではございませんが……」
「日輪殿でいい」
「さようでございますか。では、手配いたします。ところで、姫様のお名前は……」
尋ねられた朝陽は視線を雪音に向けた。
「おまえは何という」
「わ、私は月羽矢雪音と申します」
老年の男は年老いた目を丸くし、苦い笑いをこぼす。それから優しい目で雪音を見つめた。
「雪音様、突然のことで驚かれていることでしょう。ですが歓迎いたします。ようこそ旭華へ」
「よ、よろしくお願いいたします……」
怯えていた雪音だったが、老爺の顔を見て少し心が落ち着いてくる。悪い人ではなさそうだ。少なくとも、これまで雪音の周りにいた誰よりも優しそうな顔をしている。
雪音はほんの少しだけほっとして、小さなため息をついた。
清らかな陰の気を持つ巫女の祈りに応え、月は恵みをもたらすと言われている。
巫女は貴族の娘たちから選ばれる。貴族のひとつ、月羽矢家からはふたりの娘が巫女に選ばれていた。
ひとりは正妻の子ある風芽。もうひとりは妾の子である雪音である。
月龍に祈ることはその生命を捧げることを意味する。巫女たちはその身に負担のないよう、週に一度、交代で祈りを捧げることになっていた。
だが、どうやら今期の巫女たちの様子は違う。毎週、毎週、神殿に通うのは同じ巫女だ。月羽矢家の雪音である。
月羽矢家の当主は祈りの奉納を雪音に請け負わせるかわりに貴族たちから報酬を得ていた。
神殿から屋敷にもどる雪音はひどく貧相な格好していた。足袋も履かず、むき出しの素足は傷だらけだ。着物から覗いた腕には無数のあざが見える。そのうえ顔には尼が被るような頭巾を被っていた。
娘が巫女に選ばれることは、大層名誉なことであるが、娘かわいさに嫌がる家も多かった。
雪音が祈りを請け負うおかげで月羽矢家は裕福であったが、当の雪音の姿はまるで使用人のようである。
「やっと帰ってきたのね、もう少し早く帰ってこられないの? まったく、どこをうろうろしていたんだか」
異母姉である風芽は祈りの奉納から帰った雪音を見つけて文句をいった。もちろん雪音はまっすぐ帰ってきた。だが、東の神殿は屋敷からかなりの距離がある。歩いて帰るにはかなりの時間がかかるのである。
普通ならば、祈りを捧げ終えた巫女を労い、牛車が使われるものだが、雪音に対して牛車が用意されることはなかった。
「雪音、なにか甘いものを用意して」
風芽の大声が台所まで響く。
「はい、ただいまお持ちします」
一方の雪音は家に戻るなり着物を着替え、夕餉の自宅に取りかかっていたところだった。
夕餉を作る手を止め、風芽のことろに作り置きしておいたお茶と一緒に甘味を運ぶ。
「ちょっと、このお茶熱すぎるわ、淹れなおして。本当に気が利かないわね」
風芽はそう言って湯呑のお茶を雪音の顔にかける。
「すみません、ただいま……」
湯を沸かして淹れ直したお茶を風芽のところに運び終えると、今度は義母に呼ばれる。
「雪音、先日お願いしていた繕い物は終わったのかしら」
「はい、お義母様」
雪音が着物を手渡すと、義母は眉を顰める。
「こんな縫い目じゃ着られませんよ、やり直しなさい」
どんなに美しく手直ししても、必ず一度は返される。雪音はため息を飲み込んで、着物を受け取った。
月羽矢家において、雪音は冷遇されていた。亡くなった生みの母の身分が低かったことがひとつ、それ以上に雪音の立場を悪くしていたのはその容姿だった。
容姿の美しさから月羽矢家の当主に見初められた母の生き写しである雪音は、まばゆいばかりの美しい娘だった。当然、後妻も風芽も雪音のことが面白くない。
実子である風芽を溺愛する一方で、雪音のことをひどく虐げた。ろくな食事や着るものを与えず、使用人たちがやりたがらないような厳しい仕事をさせた。おかげで輝くような雪音の容姿は常に煤で汚れ、美しさは陰りを見せていた。
父も、妻を恐れて雪音を顧みることはなかった。
普段はみすぼらしい姿をさせられていた雪音だが、神殿に行くときは別である。
神に祈りを捧げる娘が、薄汚れていてはいけない。水で身を清め、美しい着物に身を包んだ雪音は多くの人の目を引いてしまう。義母はそれを嫌がり、神殿に向かう雪音には必ず顔を隠させた。神殿から帰るときは履物を脱ぎ、着物も普段着ている薄汚れた着物に着替えて帰らせる。
八つの貴族から選ばれた娘たちが神殿に祈りを捧げるのは週に一度。だが、雪音の場合はそうではない。ひどく精神力を使うこの役目を、毎週行っていた。風芽をはじめとした貴族の娘の多くが役目を担いたがらないからである。
祈りを捧げる辛さもあるが、隣国に近い場所に神殿があることも原因だった。
隣国、旭華に住む陽龍の一族は、略奪を良しとし、殺戮を楽しむ蛮族であると聞く。月華の陰龍と旭華の陽龍はもとはひとつの種族であったが、遥か昔、気性の粗い王を掲げた龍たちが陽龍として国を立ち上げた。以来袂を分かち、残されたものたちは良識ある王を中心に陰龍の国、月華を築いたという。
国の成り立ちから、旭華に住む陽龍の一族は月華のひとびとのあいだでは忌み嫌われていた。中でもその王は残虐であると恐れられており、国交はないといって等しい。あるのは一方的な略奪。つい最近も、月華の鉱山が略奪されそうになったばかりである。月華では旭華に対抗するための武士団を有しており、旭華の蛮族が攻めてくるたびに返り討ちにしているようだった。この度もそれは成功したようだ。
その日も、雪音はひとり神殿で祈りを捧げていた。
突然、物々しい音がしたかと思うと、神殿の扉が壊されたのである。扉の向こうから現れたのは荒々しい雰囲気の男たちだった。
神殿の警護をしているはずの武士はなにをしているのか、雪音を守りに来る気配はない。
襲撃してきた盗賊たちのうち、棟梁だと思われる男が雪音を見下ろしている。ひどく冷たい目をした男だった。雪音は恐ろしさで震える体を叱咤し、男を睨み返す。雪音と男はしばらく睨み合っていたが、突然男が雪音の体を抱きかかえた。そばにいた男にひとこと告げる。
「この女を連れ帰る」
「ほ、本気ですか!」
「当たり前だ。用は済んだ、国へ帰るぞ」
雪音は恐ろしさで身を固くした。声が出ない。抵抗する間もなく、雪音は神殿から連れ出され、男と一緒に馬上に乗せられる。
「間違っても落ちようとするなよ」
男に忠告されたががっちりと体を掴まれているので身動きが取れない。なにか抵抗しなければ、そう思っているうちに馬は駆けだした。
あまりに速く走るので、雪音は振り落とされないかと心配になったが、仮に雪音が暴れても絶対に放してはくれないだろうという強さで男の腕が雪音を抱きかかえているのでその心配はなさそうだ。その代わり、逃げられないということは確か。
馬から落ちる心配がなくなると、今度はどこに連れていかれるのかと不安になる。不安になるには大きな理由があった。この男、もしかしたら陽龍の一族ではないか、と。
「あ、あの……」
勇気を振り絞って自分を抱きかかえる男に声をかける。すると、男は少し驚いたように目を見開いた、ように見えた。
「言葉が話せないのかと思ったぞ」
「あ、いえ……話せます」
雪音が答えると、そばで馬を走らせていた他の男がおかしそうに笑う。
「そりゃ声も出ませんよ、朝陽様の顔があまりに恐ろしいんですから。お姫様相手なんですから、もう少し柔和な表情が出来ないものですかね」
男に言われて朝陽と呼ばれた男は嫌そうな顔をした。
「この顔は生まれつきだ。それで、どうした、俺を呼んだだろう」
朝陽に睨まれ、雪音は小さく震えたが、意を決して尋ねる。
「あ、あなたは陽龍の一族でしょうか」
勇気を振り絞った雪音の質問に、朝陽は拍子抜けをした様子だった。
「なんだ、そんなことか。神妙な顔をするから何を言い出すのかと思えば。そうだと言ったらどうするのだ」
やっぱり、と雪音は納得した。略奪を良しとする蛮族ならば、神聖な神殿を壊し、巫女である自分を奪うことも当然のことなのだろう。これから自分の身がどうなるのか、そう考えて雪音は長いまつげを伏せた。
月華の国に在っても、雪音の暮らしはけっして良いものではなかった。陽の国で奴隷になったとしても、おそらく今までの生活と大差がないだろう。無理に逃げる必要もない。
「ずいぶんと大人しい。もっと泣き叫んで暴れられるものだと思ったが……月華の娘は思いのほか肝が据わっているな」
朝陽がひとりごとのようにいう。それから、再び視線を雪音に向けた。相変わらず視線は冷たいが、神殿で睨み合った時よりも、いくらか表情が和らいでいるように感じる。
朝陽は雪音を抱き寄せると、耳元でささやく。低音の、心地よい声が、恐ろしさを少しだけ和らげる。
「おまえはもう俺のものだ。さあ、国へ帰るぞ」
朝陽が馬を打つと、速度が更に上がる。森を抜け、切り出した岩場の間を通り、草原を抜けていく。小さな村をいくつか通り過ぎると、少しずつその規模が大きくなってくるのを感じた。かなり南下してきたのだろう、陰の国の気候よりも気温が高い。照り付ける少し汗ばむような陽気に雪音は髪をかき上げた。すると、朝陽が再び耳元でささやいてくる。
「暑いか」
「え、いえ、大丈夫です」
そう答えたが、朝陽は雪音の着物に手をかけ、首元を少し開いた。風が素肌に当たって心地よくなったが、驚いた雪音は小さな悲鳴を上げる。
そばにいた男がまたケタケタと笑い声を立てた。
「公衆の面前でお姫様を襲わないでくださいよ、そういうのはお住まいに戻ってからで」
「邪推するな、暑そうだったから開けさせただけだ」
「それがいけないんですよ、ほら、お姫様も嫌がってるでしょう?」
朝陽が「そうなのか?」とささやいてくるので、雪音はまた小さな悲鳴を上げた。
「い、いえ、嫌ではありません。少し驚いただけです」
「そうか。弥彦、おまえの勘違いだ。姫は嫌がってはいない」
「そうですかね、朝陽様に睨まれて、嫌だとはいえませんよ」
弥彦と呼ばれた男はそう言って軽快に笑った。
馬が足を止めたのは、あまりに大きな屋敷だった。否、屋敷と呼ぶには広すぎる。これは、盗賊の根城ではなく、王の城ではないだろうか。雪音がそう思い至ったところで、朝陽を出迎えるひとびとが見えた。朝陽の姿が見えるや否や、みな同様に額づく。
「帰ったぞ」
老年の男が顔をあげ、朝陽に声をかけた。
「お待ちしておりました、朝陽様。そちらの姫君は……」
「戦利品だ」
朝陽が答えると、辺りがざわめく。老年の男は白い眉を下げ、満面の笑みになった。
「それはそれは、ようございました。姫様のお住まいはどちらにいたしましょうか。後宮に置ける状況ではございませんが……」
「日輪殿でいい」
「さようでございますか。では、手配いたします。ところで、姫様のお名前は……」
尋ねられた朝陽は視線を雪音に向けた。
「おまえは何という」
「わ、私は月羽矢雪音と申します」
老年の男は年老いた目を丸くし、苦い笑いをこぼす。それから優しい目で雪音を見つめた。
「雪音様、突然のことで驚かれていることでしょう。ですが歓迎いたします。ようこそ旭華へ」
「よ、よろしくお願いいたします……」
怯えていた雪音だったが、老爺の顔を見て少し心が落ち着いてくる。悪い人ではなさそうだ。少なくとも、これまで雪音の周りにいた誰よりも優しそうな顔をしている。
雪音はほんの少しだけほっとして、小さなため息をついた。



