一 琥珀色の沈殿
死者の家というものは、独特の「重力」を持っている。
三十路を過ぎ、人生の折り返し地点に差しかかった私――透が、亡くなった伯母・静子の洋館に足を踏み入れたとき、まず感じたのはその拒絶に近い重みだった。
閉め切られた窓、陽光を遮る厚手のベルベットのカーテン。空気は淀み、カビと埃が静かに積層している。その湿った死の匂いの中に、微かに、場違いな香りが混じっていた。
――焦がした砂糖と、数種類のハーブ。
二十年前、私の精神を狂わせようとした「あの魔法」の残り香だ。
「……まだ、残っているのか」
親族から「変人」「魔女」と忌み嫌われ、孤独死を遂げた静子伯母。彼女の遺品整理を、唯一の独身で暇のあった私が引き受けることになったのは、ある種の因縁だろう。
キッチンの床板は歩くたびに悲鳴を上げた。湿り気を帯びた空気は、肌にまとわりつく。私は迷わず床下収納の戸を開けた。暗がりに手を伸ばすと、指先に硬いガラスの感触があった。
埃を払い、それを取り出す。
掌に乗ったのは、小さな薬瓶だった。ラベルは剥がれ、蓋の周りは黒ずんだ蜜が固まっている。しかし、中身はまだ生きていた。底に沈殿しているのは、粘度の高い黄金色の液体――琥珀色に輝く、あの夏の残骸。
蓋を回すと、封じ込められていた記憶が、爆発的な香気と共に溢れ出した。
瞬間、足元がぐらりと揺れる。意識が、あの湿り気のある熱い夏へと引きずり戻されていった。
二 黄金色の檻
十一歳の夏。私の世界は、壊れかけた陶器のようにひび割れていた。
居間のソファでうなだれる父。ヒステリックな声を張り上げる母。二人の間に通う空気は、鋭利な刃物のようだった。
「トオルは静子さんのところで預かってもらうことにしたから」
そう告げられたとき、母の目は一度も私を見なかった。
静子伯母の洋館は、森の入り口でうずくまる巨大な獣のようだった。
伯母はいつも黒い服を着て、無表情にハーブを刻んでいた。親戚たちの噂によれば、彼女はかつて都心の大きな病院で心理学を修めていたが、ある「事件」をきっかけに心を病み、この古い家で怪しげな薬を作って暮らしているという。
「怖いものが見えるのね」
初日の夜。廊下の隅に積もった闇が怪物の口に見えて怯えていた私に、静子はそう言った。
私は頷くことさえできなかった。父と母の罵声が耳にこびりつき、幻聴となって夜の闇から聞こえてくるのだ。
「いい、トオルくん。これは『魔女のシロップ』。これを舐めれば、世界はあなたの味方になる」
静子は銀色のスプーンに、あの琥珀色の液体を垂らした。
それは、ただの甘いものではなかった。
舌に乗せた瞬間、脳を直接殴られるような衝撃が走った。
重厚な蜂蜜の甘みの奥から、シナモンやクローブの熱い刺激が立ち上がる。レモンピールの苦味が後味を締め、喉を通る頃には、全身の血が沸騰し、やがて優しく冷えていくような感覚。
視界が、滲んだ。
水彩画のパレットに水をこぼしたように、輪郭が溶けていく。
すると、どうだろう。
一階の電話口から聞こえる、母の金切り声と父の怒号――私を恐怖で縛り付けていたその「音」が、不意に、軽やかな音楽へと書き換えられた。
「……あ、あはは」
怒鳴り声は、森のクマたちが楽しげに合唱している声に聞こえた。
壁のシミ、怪物の目だと思っていたものは、リズムに合わせて踊る小人の影になった。
私の世界から「暴力」が消え、夢見心地のファンタジーが取って代わった。
それ以来、私は毎晩のように静子の膝元で、そのスプーンを待ち焦がれるようになった。両親の離婚協議が進んでいることも、自分が捨てられるかもしれないことも、琥珀色の液体がすべてを「優しい物語」へと変えてくれた。
私は、静子を崇拝した。同時に、彼女の瞳の奥にある、底知れない「何か」に、言いようのない恐怖を感じ始めていた。
三 解けた魔法、そしては絶縁
幸福は、疑惑によって毒された。
夏休みの終盤、様子を見に来た叔父たちが、居間で静子を責め立てているのを盗み聞きしてしまった。
「あんな子供に何を飲ませているんだ! 薬物か? 洗脳でもしているのか!」
「あの子には……これが必要なの」
静子の声は低く、感情が欠落していた。
「子供をおかしくしてどうする! 兄さんたちの仲が戻れば、子供を返さなきゃならないんだぞ!」
子供の私は、直感的に理解した。
私は、この「魔女」に毒を盛られている。私の脳をいじり、親を忘れさせようとしているのだ。
その夜、静子がいつものようにスプーンを差し出したとき、私は反射的にその腕を叩き落とした。
「……トオルくん?」
「おばさんなんて大嫌いだ! 魔女! 僕におかしい薬を飲ませて、僕を壊そうとしてるんだ!」
静子は、叩かれた腕をさすりもしなかった。ただ、散らばった黄金色の液体の滴を、悲しそうに見つめていた。その瞳は、獲物を狙う猛禽類のそれではなく、今にも崩れ落ちそうな古い建物のようだった。
私はそのまま洋館を飛び出し、迎えに来た父の車に飛び乗った。
それ以来、二十年。
私は一度も静子に会わなかった。両親は結局離婚し、私は彼らへの不信感を抱えたまま、冷めた大人になった。
静子が死んだと聞いたときも、私の中にあったのは「やっとあの呪縛から解放された」という、乾いた安堵だけだった。
四 翻訳機の正体
現在。
私はキッチンの冷たい床に座り込み、瓶の中身を指ですくって、そっと舌に乗せた。
二十年ぶりの、魔女のシロップ。
「……えっ」
思わず声が漏れた。
味が、違う。
確かに濃厚で美味しい。良質な蜂蜜に、新鮮なレモン果汁、そしていくつかの香辛料。だが、それだけだ。
脳が溶けるような快楽も、世界が書き換わるような浮遊感もない。
それは、どこにでもある、丁寧な手作りのシロップだった。
薬物など、入っていない。アルコールですら。
では、あの夏の「夢見心地」は、一体何だったというのか。
私は、瓶の横に落ちていた一冊の古いレシピノートを拾い上げた。
ページを捲る。そこには、静子の几帳面な文字で、当時の私の状態と、それに対する「処置」が記録されていた。
『八月十二日。
トオルくんの聴覚過敏がひどい。両親の罵声を、彼は自分の魂を切り刻むナイフのように捉えている。十一歳の子供が耐えられる負荷ではない。彼は今、自己防衛のために「狂う」ことを選ぼうとしている』
『八月十四日。
彼に必要なのは、薬ではない。言葉の防壁だ。
私は「シロップ」を、物語を始めるための合図として使うことに決めた』
ノートの後半には、さらに驚くべきことが書かれていた。
『彼にシロップを与え、その甘みで脳の防衛本能を緩めている間、私は彼の耳元で、一階から聞こえる「音」を翻訳して聞かせ続ける。
罵声は、合唱に。
泣き声は、笑い声に。
彼が両親を「憎む」ことで、彼自身の自己肯定感が崩壊しないように。
「パパとママは、本当はあなたのことを愛していて、今はただ、一生懸命に精霊の真似をして遊んでいるだけなのよ」
そんな見え透いた嘘でも、このシロップの甘みと私の囁きが重なれば、子供の脳はそれを「真実」として受容する。
これを心理学的に言えば誘導に過ぎないが、私は、これを「魔法」と呼びたい』
心臓の鼓動が速くなる。
私は、思い出した。
シロップを舐めていたとき、確かに私の耳元で、静子がずっと何かを囁いていたことを。
あの「夢見心地」は、シロップの成分で作られたものではなかった。
一階で繰り広げられていた醜い修羅場を、彼女がリアルタイムで、即興のファンタジーへと「翻訳」し続けてくれたからこそ得られた、究極の安らぎだったのだ。
彼女は、セラピストとしての知識のすべてを注ぎ込み、一人の子供の精神を、両親の毒から守り抜こうとしていた。
そして、最後の一頁。
そこには、震える文字でこう記されていた。
『あの子が私を「魔女」と呼んで嫌ってくれてよかった。
もし私に懐いてしまったら、いつか彼が真実を知ったとき、両親がどれほど醜かったかを直視しなければならなくなる。
私が悪役であれば、彼は「狂った魔女に洗脳されていた」という物語を盾にして、綺麗な思い出の中で両親を愛し続けることができる。
愛される必要はない。
あの子が、この地獄のような夏を、ただの「不思議な夢」として忘れてくれるなら』
五 リライトされた世界
静かなキッチンに、私の嗚咽だけが響いた。
二十年前、私が彼女の手を払い除けたとき、彼女はどんな思いだっただろう。
自らを「不気味な魔女」という怪物に仕立て上げ、子供の憎しみを一身に受け止めながら、その実、誰よりも深く私を愛していた人。
私が両親を心の底で完全に嫌いきれずに、どこか「あの夏は不思議だった」と肯定的に捉えて生きてこられたのは、静子が私の記憶の断層に、魔法という名の防波堤を築いてくれたからだった。
窓の外から、夕暮れの風が吹き込んできた。
淀んでいた部屋の空気が、ゆっくりと入れ替わっていく。
私は、空になったスプーンを口に含んだ。
「……ごめん。ごめんね、おばさん」
後悔の涙が頬を伝う。
だが、その涙は不思議と温かかった。
ずっと、自分は両親に捨てられ、誰からも望まれず、怪しげな女に弄ばれた孤独な子供だと思っていた。
けれど、事実は違った。
私はあの日、命を削るような無償の愛に守られていたのだ。
夕陽が、窓辺に置いた小瓶を照らし出した。
埃を被っていたはずの瓶が、逆光の中で神々しいほどに輝き、あの夏の黄金色を再現している。
私は涙を拭い、立ち上がった。
もう、耳元に魔女の囁きはない。
けれど、私の胸の中には、あの圧倒的な甘さが残っている。
これからの人生、どんな辛い言葉を投げかけられても、私はそれを「優しい物語」に翻訳できるはずだ。
彼女が、そのための魔法を、二十年も前に私の魂に刻み込んでくれたのだから。
「……美味しかったよ、おばさん」
私は小瓶をそっと抱きしめ、窓を開けた。
夕闇の向こうから聞こえてくるのは、もう怪物の咆哮ではない。
それは、新しい季節の始まりを告げる、静かな夜のざわめきだった。
(完)
