三つの航路

『三つの航路』

 深夜零時、バー。氷が溶け、琥珀色の液体が薄まっていく。  A男の手が、独身のB子の手に重なる。それは、A男が妻・A子との誓いを紙切れに変えるための儀式だった。  一方で、離婚して傷ついたA子の前には、かつて彼女を「平凡」と切り捨てたB男がいた。四つの影が、一つの夜に交差していた。

 「あなたなら、私を救ってくれると思ったの」  不倫の末、A男が離婚届を叩きつけた夜、B子はそう呟いた。  しかし、数週間でB子の瞳から熱は消えた。理想という額縁から出たA男は、ただの身勝手な人間に過ぎなかった。  「捨てさせたのは、私じゃない。あなた自身よ」  玄関でヒールが乾いた音を立てる。扉が閉まる音。A男の元には、自ら選んだ「自由」という名の空白だけが残された。

 同じ朝、数キロ離れた別の部屋。  B男は、台所で湯を沸かしていた。やかんが低く鳴り、窓が白く曇る。  背後でドアが開き、パジャマ姿のA子が起きてくる。かつて二人が求めた「刺激」も「理想」も、そこにはない。  「おはよう」  「おはよう。少し、冷えるな」  差し出されたマグカップ。二人の間に劇的な告白はない。あるのは、かつての過ちを経てたどり着いた、凪のような沈黙だけだった。それは、情熱よりも重く、執着よりも深い、日常という名の祈りだった。

 数年後。駅前のコーヒーショップ。  B子は、窓際の席に独りでいた。  かつてなら、隣に座るべき男の条件を指で数えていただろう。しかし今、彼女は誰かの理想になることをやめ、一人で生きることを選択していた。その静寂は、かつて求めたどの情熱よりも、彼女の肌に馴染んでいた。

 窓の外、交差点に二台の車が並ぶ。  一台には、眉間に皺を寄せ、前方だけを見つめるA男。  もう一台には、助手席のA子と視線を交わし、微かに微笑むB男。    信号が青に変わる。  加速する二台の排気音が、静寂を切り裂いた。  一組は光の中へ、一人は泥濘の中へ。  そして、そのどちらをも視界に入れないB子は、ただ、アスファルトの硬さを踏みしめて雑踏の中へと歩き出す。

 朝日が街を等しく照らす。  かつて交差した四つの影は、それぞれの痛みを羅針盤に変えて、二度と重なることのない航路を進んでいく。