父方の祖父母が立て続けに亡くなって、わたしの母親は幾許かの自由を手に入れた。元々手先の器用な人だったのと、朗らかで明るく社交的な性格が組み合わさり、ハンドメイドの作品を作ってネットショップで売り始めたり、ハンドメイドマルシェに出店したりと、第二の人生を謳歌している。
定年を迎えた父親はネットショップ周りのあれこれを手伝ったり車を出したりと、母親の夢を後押ししていた。夫婦共々、時代に乗り遅れずに適応し、技術と知識を活かして老後を過ごしている。いいことだ。
そんな二人の間の一人娘のわたしは、彼と付き合いだしてから、インターネットに公開した長編の続きを一切書かなくなってしまった。空想の物語を紡いでいくよりも、目の前の現実を維持していくのに精一杯だ。作品が完成しなくて困るような人はいない。書いて稼いでいるわけでもなく、どうせわたしの小説なんて誰も読んでいない。わたしがいてもいなくても、世界は回りつづけている。
「苦っ」
背伸びしたいわたしはブラックコーヒーを飲んでいた。彼も同じアイスコーヒーを頼んだ。やめておけばいいのに。
「あーあ……」
彼は喉が渇いていたのか、ストローでずずずと五センチ分ぐらいアイスコーヒーを飲んだ。炭酸飲料でもあるまいし、こんなに一気に飲むような飲み物でもない。減った分を補うようにして、テーブルの上のガムシロップを入れていく。わたしは水滴だらけのコップを眺めていた。汗をかいているようにも、泣いているようにも見える。内側の黒い液体が、投入されたガムシロップの分だけかさを増した。
「志方さん、さ」
一学年上なのに、彼はわたしを『志方さん』と、さん付けで呼ぶ。イイ頃合いを見計らって「名前で呼んでよね」って言ってあげるべきなのだろう。しかし、こういう、遠目で見ると距離感のあるように見える間柄が、わたしを一学年下の女の子としてではなく、同等の関係性で見てくれているような気がして心地よい。
「なあに?」
近場のマクドナルドではなくて、一つ隣の駅から少し歩いた喫茶店をデート場所に選ぶ辺りも好き。甘いものが好きなのは知っているから、本当はアイスコーヒーではなくてアイスココアを頼めばいいのに、わたしに合わせてくれているのもかわいいと思う。
「オレといっしょに、逃げてほしい」
「……何から?」
ガムシロップ五個分の甘さを得たブラックコーヒーが、ストローで混ぜられた。四角い氷が揺れる。
「親から」
不意にトイレでの会話を思い出した。混ぜられて、沈殿していた記憶が蘇ってくる。あのウワサ話。あの後はちっとも気にしていなかったのに、ここに来てぼんやりと浮かび上がってきた。ヤバいのはふーみん先輩自身ではない。そういえばふーみん先輩が他の服を着ているのを見たことがない。学校では制服で、わたしとのデートはいつも同じ白いワイシャツとデニムのパンツ。これしか持っていないんじゃないか?
「何か、されているの?」
「ヤツらはオレを管理している。オレを縛り付けて、自由にさせちゃくれない」
声をひそめて、周囲を警戒している。彼は何かに怯えているようだった。わたしには何もわからない。けれども、怖がっている彼にこれ以上の説明を求めるのは酷だ。わたしにできることは、彼の不安を取り除いてあげること。
「逃げるって言ったって、行くあてはあるの?」
こんな相談をされるとは思っていなかった。あえて遠い場所を選んだのも、親の支配から逃れる為なのだとしたら。
わたしはただただ浮かれていただけだった。もっと目の前の男の子のことをわかってあげるべきだったのに。
「ヤツらにはたどり着けないような場所に行く」
「相手はオトナでしょう?」
中学生のわたしたちが『たどり着けないような場所』として思いつく場所に行ったとて、オトナなら探し出してしまうだろう。となれば、元通りだ。彼はより非道い目に遭うかもしれない。今よりも。
「カグラは成功したんすよね。オレを置いていった」
だいぶ甘くなったはずのコーヒーを飲んで、しぶい顔をする。知らない名前だ。どこかで教えられていたとしても、覚えていない。
「……どなた?」
「オレの元カノ?」
行方不明になっている、とかいう。そういうのは覚えている。――それなら『たどり着けないような場所』って。
「……」
氷が小さくなっていくと、黒い液体のかさは増す。黒が薄まって向こう側が見えるようになった。彼の姿が歪む。わたしはこれまで何を見ていて、今、何を言うべきか。どんな言葉を欲しがっているのか。どう答えてあげるのが最良か。
「オレといっしょに、このつまらない世界から逃げてほしい」
彼はわたしを必要としている。わたしは他の女の子よりもたぶん上手に飛べて、うまく沈めると思った。もう二度と浮かび上がらないような、誰にも見つからない深い場所まで落ちる。わたしはきっと無敵だから、誰にも止められない。
「わかった。行こう、たどり着けないような場所まで」
この道は一方通行だ。
定年を迎えた父親はネットショップ周りのあれこれを手伝ったり車を出したりと、母親の夢を後押ししていた。夫婦共々、時代に乗り遅れずに適応し、技術と知識を活かして老後を過ごしている。いいことだ。
そんな二人の間の一人娘のわたしは、彼と付き合いだしてから、インターネットに公開した長編の続きを一切書かなくなってしまった。空想の物語を紡いでいくよりも、目の前の現実を維持していくのに精一杯だ。作品が完成しなくて困るような人はいない。書いて稼いでいるわけでもなく、どうせわたしの小説なんて誰も読んでいない。わたしがいてもいなくても、世界は回りつづけている。
「苦っ」
背伸びしたいわたしはブラックコーヒーを飲んでいた。彼も同じアイスコーヒーを頼んだ。やめておけばいいのに。
「あーあ……」
彼は喉が渇いていたのか、ストローでずずずと五センチ分ぐらいアイスコーヒーを飲んだ。炭酸飲料でもあるまいし、こんなに一気に飲むような飲み物でもない。減った分を補うようにして、テーブルの上のガムシロップを入れていく。わたしは水滴だらけのコップを眺めていた。汗をかいているようにも、泣いているようにも見える。内側の黒い液体が、投入されたガムシロップの分だけかさを増した。
「志方さん、さ」
一学年上なのに、彼はわたしを『志方さん』と、さん付けで呼ぶ。イイ頃合いを見計らって「名前で呼んでよね」って言ってあげるべきなのだろう。しかし、こういう、遠目で見ると距離感のあるように見える間柄が、わたしを一学年下の女の子としてではなく、同等の関係性で見てくれているような気がして心地よい。
「なあに?」
近場のマクドナルドではなくて、一つ隣の駅から少し歩いた喫茶店をデート場所に選ぶ辺りも好き。甘いものが好きなのは知っているから、本当はアイスコーヒーではなくてアイスココアを頼めばいいのに、わたしに合わせてくれているのもかわいいと思う。
「オレといっしょに、逃げてほしい」
「……何から?」
ガムシロップ五個分の甘さを得たブラックコーヒーが、ストローで混ぜられた。四角い氷が揺れる。
「親から」
不意にトイレでの会話を思い出した。混ぜられて、沈殿していた記憶が蘇ってくる。あのウワサ話。あの後はちっとも気にしていなかったのに、ここに来てぼんやりと浮かび上がってきた。ヤバいのはふーみん先輩自身ではない。そういえばふーみん先輩が他の服を着ているのを見たことがない。学校では制服で、わたしとのデートはいつも同じ白いワイシャツとデニムのパンツ。これしか持っていないんじゃないか?
「何か、されているの?」
「ヤツらはオレを管理している。オレを縛り付けて、自由にさせちゃくれない」
声をひそめて、周囲を警戒している。彼は何かに怯えているようだった。わたしには何もわからない。けれども、怖がっている彼にこれ以上の説明を求めるのは酷だ。わたしにできることは、彼の不安を取り除いてあげること。
「逃げるって言ったって、行くあてはあるの?」
こんな相談をされるとは思っていなかった。あえて遠い場所を選んだのも、親の支配から逃れる為なのだとしたら。
わたしはただただ浮かれていただけだった。もっと目の前の男の子のことをわかってあげるべきだったのに。
「ヤツらにはたどり着けないような場所に行く」
「相手はオトナでしょう?」
中学生のわたしたちが『たどり着けないような場所』として思いつく場所に行ったとて、オトナなら探し出してしまうだろう。となれば、元通りだ。彼はより非道い目に遭うかもしれない。今よりも。
「カグラは成功したんすよね。オレを置いていった」
だいぶ甘くなったはずのコーヒーを飲んで、しぶい顔をする。知らない名前だ。どこかで教えられていたとしても、覚えていない。
「……どなた?」
「オレの元カノ?」
行方不明になっている、とかいう。そういうのは覚えている。――それなら『たどり着けないような場所』って。
「……」
氷が小さくなっていくと、黒い液体のかさは増す。黒が薄まって向こう側が見えるようになった。彼の姿が歪む。わたしはこれまで何を見ていて、今、何を言うべきか。どんな言葉を欲しがっているのか。どう答えてあげるのが最良か。
「オレといっしょに、このつまらない世界から逃げてほしい」
彼はわたしを必要としている。わたしは他の女の子よりもたぶん上手に飛べて、うまく沈めると思った。もう二度と浮かび上がらないような、誰にも見つからない深い場所まで落ちる。わたしはきっと無敵だから、誰にも止められない。
「わかった。行こう、たどり着けないような場所まで」
この道は一方通行だ。


