廃ビルの谷間で、エリオット・アーシェンは自らの胸に掌を押し当てた。
肋骨の檻の奥で脈打つそれは、もはや人間の臓器ではない。
熱い。
灼けつくように、熱い。
皮膚の下で、《それ》が呼吸している。
三年前、崩れ落ちる大聖堂の瓦礫の中で、彼の胸腔に埋め込まれた深紅の核。悪魔の心臓。
路地の奥から、音が聞こえてくる。
ズル......ズル......
濡れたアスファルトを這いずる何か。かつて人間だった肉塊が、教会の廃棄トラックから逃げ出し、ネオンの明滅する闇の中を蠢いていた。
「......せいじょ、さま......」
祈りの残滓が、喉の奥から漏れた。
エリオットは漆黒のバイク、M.A.R.I.A.、に跨ったまま、アクセルを捻った。
エンジンが咆哮する。
タイヤが肉塊を踏み潰す。
最期の祈りは、誰の耳にも届かなかった。
バイクを降りる。
ブーツの底で肉片を踏みつけながら、エリオットはコートのポケットから煙草を取り出そうとした。
指が、震えている。
小刻みな痙攣。煙草が指の間から滑り落ち、血塗れのアスファルトに転がった。
『生体活動、停止を確認』
バイクから流れる無機質な音声。M.A.R.I.A.に搭載された戦術AIが、淡々と報告を告げる。
『体温が基準値を2度超過。心拍数154。推奨事項、帰還して点検を』
「大丈夫だ」
エリオットは煙草を諦め、震える手を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みで震えが止まる。
胸の奥で、《それ》が跳ねた。
腹が減ったとでも言うのか。
悪魔の心臓が、殺戮の興奮に応えて熱を増していく。エリオットは歯を食いしばり、胸を強く殴りつけた。
『帰還を推奨します』
AIの声は、相変わらず無機質だった。
雨が降り出した。
地下鉄の廃線。
かつて都市の動脈だった空間は、今や忘れられた遺構と化している。その場所は、エリオットたちの隠れ家だった。
「おかえり、ボロ雑巾」
声が響いたのは、エリオットがバイクを降りた直後だった。
小柄な少女、ドクター・ミオ。十五歳。白衣の裾を引きずり、工具箱を抱えた彼女の目は、獲物を値踏みする商人のような光を宿していた。
「冷却材がレッドゾーン。次に変身したら、たぶん死ぬね」
エリオットは答えず、ベルトのバックルを見下ろした。
小型モニターには、赤い警告灯が点滅している。
強制拘束型・霊的制御ユニット『アイギス』。悪魔の心臓を封じ込めるための、最後の足枷。
「冷却液残量十八パーセント」
ミオは数値を読み上げながら、工具箱を開け、青白く光る注射器を取り出した。
「応急処置。ちょっとはもつ。その代わり副作用で幻覚見るかもね」
彼女はエリオットのベルトに注射器を差し込んだ。シリンダーが空になり、冷却液が装置内部に流れ込んでいく。
メーターの針が、わずかに緑色の領域へ戻った。
「......聞きたいことがあるんだけど」
ミオが呟いた。口調が変わっている。
「アンタさ、そんな体になってまで、まだ戦うつもり?」
沈黙。
「あの聖女は、もういないんだよ」
「だから、だ」
エリオットは奥の部屋へ向かった。背中を向けたまま、言葉を落とす。
「あいつが愛した世界を、偽物の好きにはさせない」
「......バカみたい」
ミオの呟きが、背中に突き刺さった。
だが、エリオットは振り返らなかった。
作戦室には、すでに全員が集まっていた。
中央のモニター前には銀縁眼鏡の女性、エリザ・クローデルが立っていた。協会の戦術指揮官。
「状況を説明するわ」
エリザがモニターを操作すると、都市の立体地図が表示された。一角に赤い警告マーカーが点滅している。
「建設中のドーム施設。今夜二十二時、集団儀式が行われる。対象は約二百名の市民」
「被害を最小限に抑えつつ、儀式を阻止する」
エリザは一瞬、言葉を切った。
「......ただし。指揮官クラスの霊的反応を確認している」
それを聞いた瞬間、エリオットの拳が強く握られた。
「作戦開始は二時間後。それまでに装備を整えて」
エリザはまっすぐエリオットを見つめた。
「それと、エリオット」
「何だ」
「死なないで」
その言葉は、命令のようであり、祈りのようでもあった。
エリオットは小さく笑った。唇の端が、わずかに歪む。
「心配するな。死ぬつもりはない」
雨は止んでいた。
エリオットはM.A.R.I.A.を駆り、都市の外縁部へ向かっていた。
『目標まで、あと五百メートル』
M.A.R.I.A.が告げる。
『敵性体反応、多数。戦闘員クラス二十以上』
「市民は?」
『全員、施設内部に集められています』
エリオットは歯を食いしばった。
そして、アクセルを全開にした。
ガラスの破砕音と共に、彼はドーム施設の壁面を突き破った。
内部は、狂気に満ちていた。
天井から吊るされた無数の十字架。その下に並ぶ簡易ベッド。拘束された人々が、恍惚とした表情で何かを待っている。
壇上には、白い法衣を纏った司祭が立っている。
「我らが聖女の名において、汝らに祝福を」
司祭の声が、施設内に響く。
歓声が上がる。
エリオットは、吐き気を覚えた。
『敵戦闘員、接近』
M.A.R.I.A.の警告と同時に、銃声が響いた。
エリオットはバイクから飛び降り、床を転がる。弾丸が床を抉る。
教会の兵士たち、下級使徒が、四方から迫っていた。
黒い戦闘服。自動小銃。だが首筋の血管が黒く変色し、瞳孔が異様に拡大している。
「対象、確認」
機械的な声。
「煉獄《パルガトリオ》。殲滅せよ」
銃口が向けられる。
エリオットは地を蹴った。
床が砕ける。
最も近い使徒の懐へ潜り込む。掌底。顎。骨が軋む音。
だが使徒は倒れない。
再生能力が傷を癒す。折れた骨が、ゴキゴキと音を立てて元に戻っていく。
エリオットは使徒の頭を掴み、地面へ叩きつけた。
一度。二度。三度。
頭蓋が砕けるまで。
銃声。死体を盾に。前進。
距離を詰める。銃を叩き落とす。喉笛を掴む。
爪が皮膚を裂く。血管を切り裂く。引き千切る。
血飛沫。鉄の匂い。
表情は変わらない。
淡々と、機械的に、殺していく。
五分後、下級使徒たちは沈黙していた。
エリオットは息を整えながら、壇上を見上げた。
司祭はすでに逃げている。
彼はベッドの一つに近づき、拘束された女性の手枷を解こうとした。
「や、やめて!」
女性が叫んだ。
「邪魔しないで! 私たちは選ばれたのよ! 聖女様の祝福を受けるの!」
エリオットは手を止めた。
「お前は、騙されている」
「騙されてない!」
女性の目には、狂気じみた光と、紛れもない「幸福」が宿っていた。
「悪魔......」
女性が呟いた。
「神聖な儀式を邪魔する悪魔だ......」
罵声。
守るべき人間に、拒絶される。
胸の奥で、何かが軋んだ。
悪魔の心臓が、まるで嘲笑うように脈打つ。
お前が守ろうとしているものは、お前を憎んでいる。
それでも守るのか。
エリオットは拳を握った。
「......ああ」
呟きは、誰にも聞こえなかった。
「それでも、だ」
彼は踵を返し、出口へ向かおうとした。
その時、天井が崩れた。
轟音。
鉄骨が降り注ぐ。床が揺れる。
エリオットは咄嗟に身を伏せたが、瓦礫の一つが背中を直撃した。肋骨が砕ける。
口から血が溢れた。
視界が歪む。
巨大な影が、降り立った。
身長三メートルを超える巨体。牛の頭部を持ち、人間の胴体を持つ異形。
中級使徒。
「ああ......なんて、醜い」
牛の頭部から、人間の声が漏れた。
「聖女様の愛を受け入れぬ、穢れた魂よ」
巨人がゆっくりと近づいてくる。
「痛いんだろう? 苦しいんだろう?」
エリオットは立ち上がろうとしたが、砕けた肋骨が肺を圧迫し、呼吸ができない。
「だから、楽にしてあげよう」
巨人の拳が振り上げられる。
「その苦しみから、解放してあげよう!」
拳が振り下ろされた。
エリオットは腕を交差させ、受け止めようとした。
衝撃。
骨が砕ける音。
痛みが脳を焼く。
エリオットの体が吹き飛び、壁に叩きつけられる。
呼吸ができない。
視界が暗くなる。
だが、心臓だけは動き続けていた。
悪魔の心臓が、熱を放ち、損傷した体を修復しようとする。
砕けた骨が、繋がり始める。
だが、間に合わない。
巨人がゆっくりと近づいてくる。
「安らぎを与えてあげよう」
巨大な手がエリオットの頭を掴み、持ち上げた。
「罪人に救いを!」
そして、地面へ叩きつけた。
床が砕ける。血が飛び散る。
もう一度。
もう一度。
エリオットの意識が、遠のいていく。
耳鳴りの向こうで、記憶の中の声が聞こえた。
『......生きて』
彼女の声。
『エリオット。生きて......みんなを守って』
なぜ。
なぜ、俺が生きなければならない。
お前がいない世界で、何を守ればいい。
『私が愛したものを』
エリオットの瞳に、光が戻った。
血を吐き、笑う。
「......まだだ」
呟きと共に、彼は使徒の腕を掴んだ。
「まだ、終わらせない」
爪が皮膚を食い破る。
使徒が悲鳴を上げ、エリオットを放り投げた。
エリオットは床に転がり、ゆっくりと立ち上がった。
全身から蒸気が立ち上っている。
「あいつが愛したものを」
その手が、腰のベルトに伸びる。
アイギスのバックル。
リミッター解除スイッチ。
『警告。冷却液残量不足。変身を推奨しません』
M.A.R.I.A.の声が響いた。
エリオットは構わず、スイッチに指をかけた。
「お前らの好きには、させない」
スイッチを、押し込んだ。
エリオットの体が、変わり始めた。
皮膚が内側から裂ける。筋繊維が引き千切れる。骨が軋み、変形し、伸びていく。
エリオットが悲鳴を上げた。
それは人間の声ではない。何か別の、この世のものではない存在の叫び。
皮膚の下から、漆黒の外骨格が露出する。
血管が脈打ち、赤い光を放つ。
心臓から放たれる熱が、全身を駆け巡る。
顔が外骨格に覆われ、瞳が赤く輝く。
だが、それだけではない。
エリオットの意識の中に、何かが流れ込んできた。
『ああ、気持ちいい』
甘い声。
『そうだ、エリオット。もっと殺せ。もっと壊せ』
悪魔の囁き。
『痛みなんて忘れろ。苦しみなんて捨てろ。この力があれば、お前は何でもできる』
エリオットの中で、何かが揺らいだ。
『守るなんて馬鹿らしい。お前を憎む者たちのために、なぜ苦しむ? なぜ戦う?』
違う。
『奪え。支配しろ。この世界を、お前のものにしろ』
エリオットはその声を抑え込むように、自分の頭を殴りつけた。外骨格と拳がぶつかり、火花が散る。
「......黙れ」
呟きが、変身体の喉から漏れた。
そして、変身が完了した。
聖魔融合体。
悪魔の力と、人間の肉体が融合した存在。
エリオット・アーシェンが、煉獄《パルガトリオ》となった瞬間。
使徒が後退りした。
「な、何だ、貴様......!」
その目には、明確な恐怖が浮かんでいた。
牛の頭部が小刻みに震えている。巨体が、たじろいでいる。
中級使徒が、怯えていた。
だがパルガトリオは、答えなかった。
地を蹴った。
使徒の動きが、一瞬止まった。恐怖が、判断を鈍らせた。
その隙を、パルガトリオは見逃さなかった。
音速を超える速度。
使徒が反応する前に、拳が叩き込まれていた。
使徒の巨体が吹き飛んだ。
壁を突き破り、外へ放り出される。
パルガトリオは追撃した。
飛び出した使徒を追い、再び拳を叩き込む。
一撃。二撃。三撃。
拳を振るうたびに、悪魔の声が大きくなっていく。
『もっとだ。もっと!』
甘く、誘うような声。
『感じるだろう? この力。この快楽。お前はもう、人間じゃない。神にも悪魔にもなれる』
エリオットの拳が、一瞬止まった。
『そうだ。迷うな。お前の怒りを解放しろ。憎しみを! 絶望を!』
使徒の体は、すでに原形を留めていない。
パルガトリオは、血塗れの拳を見下ろした。
外骨格に覆われた、人間ではない手。
その時。
空気が、変わった。
遠く。
遙か上空。
雲の切れ間から、何かがこちらを見ていた。
視線だけで、空気が凍りつく。
パルガトリオの本能が、警鐘を鳴らした。
上級。
『エリオット! 変身解除を! すぐに!』
M.A.R.I.A.の声が響いた。
エリオットは震える手で、ベルトのスイッチを押した。
外骨格が剥がれ落ちる。
生身の体が露わになる。
全身が火傷のように赤く腫れ上がり、蒸気が立ち上っている。
皮膚が裂け、そこから血が滲む。
そして。
右腕の骨が、歪んでいた。
元に戻りきっていない。
再生が、不完全になっている。
激痛が全身を駆け巡った。
エリオットは膝をつき、荒い息を繰り返した。
『バイタル低下。至急帰還を』
「わかって、いる......」
エリオットは地面に倒れ込んだ。
視界が滲む。意識が遠のく。
上空の視線は、まだこちらを見ていた。
だが、降りてはこない。
ただ、見ている。
品定めをするように。
朝日が昇り始めていた。
崩壊したドーム施設の瓦礫の中で、エリオットは一人、立ち尽くしていた。
市民たちは協会の回収部隊によって保護されている。
だが、全員ではない。
逃げ遅れた者もいた。
「すまない、ミレイユ。守り切れなかった」
そう言い、エリオットは瓦礫の中から一枚の看板を拾い上げた。
聖女の肖像。
金色の髪、白い肌、優しい微笑み。
だが、それは本物ではない。
本物のミレイユは、もういない。
「エリオット」
背後から声がした。
振り返ると、エリザが立っていた。
「......おかえりなさい」
「ああ」
エリオットは看板を置き、M.A.R.I.A.へ向かった。
バイクに跨り、エンジンをかける。
エリザは何も言わず、ただ見送った。
エリオットは一度だけ、遠くに見える教会の尖塔を睨みつけた。
そこに、偽物がいる。
ミレイユの体を奪った、あいつが。
「......待っていろ」
呟きと共に、彼はアクセルを捻った。
M.A.R.I.A.が唸りを上げ、朝日の中へ消えていく。
エリオットは何も答えなかった。
ただ、右腕の鈍痛が、消えないことだけを感じていた。
戦いは、まだ始まったばかりだった。
新生教会の大聖堂。
豪華な玉座に座る少女が、報告を聞いていた。
金色の髪、白い肌、そして、爬虫類のような縦長の瞳孔。
聖女ミレイユ。いや、その体を乗っ取った、何か。
「猊下。煉獄《パルガトリオ》が、儀式を妨害しました」
跪く騎士が報告する。
聖女は美しい顔で、醜悪に笑った。
「私の可愛い『食べ残し』か」
彼女は玉座から立ち上がり、窓の外を見た。
朝日に照らされた都市。
その中のどこかに、彼がいる。
「育て、エリオット」
彼女は恍惚とした表情で呟いた。
「もっと壊れろ。もっと熟れろ」
彼女の笑い声が、大聖堂に響き渡った。
それは、かつてミレイユが発したことのない、邪悪な笑い声だった。
肋骨の檻の奥で脈打つそれは、もはや人間の臓器ではない。
熱い。
灼けつくように、熱い。
皮膚の下で、《それ》が呼吸している。
三年前、崩れ落ちる大聖堂の瓦礫の中で、彼の胸腔に埋め込まれた深紅の核。悪魔の心臓。
路地の奥から、音が聞こえてくる。
ズル......ズル......
濡れたアスファルトを這いずる何か。かつて人間だった肉塊が、教会の廃棄トラックから逃げ出し、ネオンの明滅する闇の中を蠢いていた。
「......せいじょ、さま......」
祈りの残滓が、喉の奥から漏れた。
エリオットは漆黒のバイク、M.A.R.I.A.、に跨ったまま、アクセルを捻った。
エンジンが咆哮する。
タイヤが肉塊を踏み潰す。
最期の祈りは、誰の耳にも届かなかった。
バイクを降りる。
ブーツの底で肉片を踏みつけながら、エリオットはコートのポケットから煙草を取り出そうとした。
指が、震えている。
小刻みな痙攣。煙草が指の間から滑り落ち、血塗れのアスファルトに転がった。
『生体活動、停止を確認』
バイクから流れる無機質な音声。M.A.R.I.A.に搭載された戦術AIが、淡々と報告を告げる。
『体温が基準値を2度超過。心拍数154。推奨事項、帰還して点検を』
「大丈夫だ」
エリオットは煙草を諦め、震える手を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みで震えが止まる。
胸の奥で、《それ》が跳ねた。
腹が減ったとでも言うのか。
悪魔の心臓が、殺戮の興奮に応えて熱を増していく。エリオットは歯を食いしばり、胸を強く殴りつけた。
『帰還を推奨します』
AIの声は、相変わらず無機質だった。
雨が降り出した。
地下鉄の廃線。
かつて都市の動脈だった空間は、今や忘れられた遺構と化している。その場所は、エリオットたちの隠れ家だった。
「おかえり、ボロ雑巾」
声が響いたのは、エリオットがバイクを降りた直後だった。
小柄な少女、ドクター・ミオ。十五歳。白衣の裾を引きずり、工具箱を抱えた彼女の目は、獲物を値踏みする商人のような光を宿していた。
「冷却材がレッドゾーン。次に変身したら、たぶん死ぬね」
エリオットは答えず、ベルトのバックルを見下ろした。
小型モニターには、赤い警告灯が点滅している。
強制拘束型・霊的制御ユニット『アイギス』。悪魔の心臓を封じ込めるための、最後の足枷。
「冷却液残量十八パーセント」
ミオは数値を読み上げながら、工具箱を開け、青白く光る注射器を取り出した。
「応急処置。ちょっとはもつ。その代わり副作用で幻覚見るかもね」
彼女はエリオットのベルトに注射器を差し込んだ。シリンダーが空になり、冷却液が装置内部に流れ込んでいく。
メーターの針が、わずかに緑色の領域へ戻った。
「......聞きたいことがあるんだけど」
ミオが呟いた。口調が変わっている。
「アンタさ、そんな体になってまで、まだ戦うつもり?」
沈黙。
「あの聖女は、もういないんだよ」
「だから、だ」
エリオットは奥の部屋へ向かった。背中を向けたまま、言葉を落とす。
「あいつが愛した世界を、偽物の好きにはさせない」
「......バカみたい」
ミオの呟きが、背中に突き刺さった。
だが、エリオットは振り返らなかった。
作戦室には、すでに全員が集まっていた。
中央のモニター前には銀縁眼鏡の女性、エリザ・クローデルが立っていた。協会の戦術指揮官。
「状況を説明するわ」
エリザがモニターを操作すると、都市の立体地図が表示された。一角に赤い警告マーカーが点滅している。
「建設中のドーム施設。今夜二十二時、集団儀式が行われる。対象は約二百名の市民」
「被害を最小限に抑えつつ、儀式を阻止する」
エリザは一瞬、言葉を切った。
「......ただし。指揮官クラスの霊的反応を確認している」
それを聞いた瞬間、エリオットの拳が強く握られた。
「作戦開始は二時間後。それまでに装備を整えて」
エリザはまっすぐエリオットを見つめた。
「それと、エリオット」
「何だ」
「死なないで」
その言葉は、命令のようであり、祈りのようでもあった。
エリオットは小さく笑った。唇の端が、わずかに歪む。
「心配するな。死ぬつもりはない」
雨は止んでいた。
エリオットはM.A.R.I.A.を駆り、都市の外縁部へ向かっていた。
『目標まで、あと五百メートル』
M.A.R.I.A.が告げる。
『敵性体反応、多数。戦闘員クラス二十以上』
「市民は?」
『全員、施設内部に集められています』
エリオットは歯を食いしばった。
そして、アクセルを全開にした。
ガラスの破砕音と共に、彼はドーム施設の壁面を突き破った。
内部は、狂気に満ちていた。
天井から吊るされた無数の十字架。その下に並ぶ簡易ベッド。拘束された人々が、恍惚とした表情で何かを待っている。
壇上には、白い法衣を纏った司祭が立っている。
「我らが聖女の名において、汝らに祝福を」
司祭の声が、施設内に響く。
歓声が上がる。
エリオットは、吐き気を覚えた。
『敵戦闘員、接近』
M.A.R.I.A.の警告と同時に、銃声が響いた。
エリオットはバイクから飛び降り、床を転がる。弾丸が床を抉る。
教会の兵士たち、下級使徒が、四方から迫っていた。
黒い戦闘服。自動小銃。だが首筋の血管が黒く変色し、瞳孔が異様に拡大している。
「対象、確認」
機械的な声。
「煉獄《パルガトリオ》。殲滅せよ」
銃口が向けられる。
エリオットは地を蹴った。
床が砕ける。
最も近い使徒の懐へ潜り込む。掌底。顎。骨が軋む音。
だが使徒は倒れない。
再生能力が傷を癒す。折れた骨が、ゴキゴキと音を立てて元に戻っていく。
エリオットは使徒の頭を掴み、地面へ叩きつけた。
一度。二度。三度。
頭蓋が砕けるまで。
銃声。死体を盾に。前進。
距離を詰める。銃を叩き落とす。喉笛を掴む。
爪が皮膚を裂く。血管を切り裂く。引き千切る。
血飛沫。鉄の匂い。
表情は変わらない。
淡々と、機械的に、殺していく。
五分後、下級使徒たちは沈黙していた。
エリオットは息を整えながら、壇上を見上げた。
司祭はすでに逃げている。
彼はベッドの一つに近づき、拘束された女性の手枷を解こうとした。
「や、やめて!」
女性が叫んだ。
「邪魔しないで! 私たちは選ばれたのよ! 聖女様の祝福を受けるの!」
エリオットは手を止めた。
「お前は、騙されている」
「騙されてない!」
女性の目には、狂気じみた光と、紛れもない「幸福」が宿っていた。
「悪魔......」
女性が呟いた。
「神聖な儀式を邪魔する悪魔だ......」
罵声。
守るべき人間に、拒絶される。
胸の奥で、何かが軋んだ。
悪魔の心臓が、まるで嘲笑うように脈打つ。
お前が守ろうとしているものは、お前を憎んでいる。
それでも守るのか。
エリオットは拳を握った。
「......ああ」
呟きは、誰にも聞こえなかった。
「それでも、だ」
彼は踵を返し、出口へ向かおうとした。
その時、天井が崩れた。
轟音。
鉄骨が降り注ぐ。床が揺れる。
エリオットは咄嗟に身を伏せたが、瓦礫の一つが背中を直撃した。肋骨が砕ける。
口から血が溢れた。
視界が歪む。
巨大な影が、降り立った。
身長三メートルを超える巨体。牛の頭部を持ち、人間の胴体を持つ異形。
中級使徒。
「ああ......なんて、醜い」
牛の頭部から、人間の声が漏れた。
「聖女様の愛を受け入れぬ、穢れた魂よ」
巨人がゆっくりと近づいてくる。
「痛いんだろう? 苦しいんだろう?」
エリオットは立ち上がろうとしたが、砕けた肋骨が肺を圧迫し、呼吸ができない。
「だから、楽にしてあげよう」
巨人の拳が振り上げられる。
「その苦しみから、解放してあげよう!」
拳が振り下ろされた。
エリオットは腕を交差させ、受け止めようとした。
衝撃。
骨が砕ける音。
痛みが脳を焼く。
エリオットの体が吹き飛び、壁に叩きつけられる。
呼吸ができない。
視界が暗くなる。
だが、心臓だけは動き続けていた。
悪魔の心臓が、熱を放ち、損傷した体を修復しようとする。
砕けた骨が、繋がり始める。
だが、間に合わない。
巨人がゆっくりと近づいてくる。
「安らぎを与えてあげよう」
巨大な手がエリオットの頭を掴み、持ち上げた。
「罪人に救いを!」
そして、地面へ叩きつけた。
床が砕ける。血が飛び散る。
もう一度。
もう一度。
エリオットの意識が、遠のいていく。
耳鳴りの向こうで、記憶の中の声が聞こえた。
『......生きて』
彼女の声。
『エリオット。生きて......みんなを守って』
なぜ。
なぜ、俺が生きなければならない。
お前がいない世界で、何を守ればいい。
『私が愛したものを』
エリオットの瞳に、光が戻った。
血を吐き、笑う。
「......まだだ」
呟きと共に、彼は使徒の腕を掴んだ。
「まだ、終わらせない」
爪が皮膚を食い破る。
使徒が悲鳴を上げ、エリオットを放り投げた。
エリオットは床に転がり、ゆっくりと立ち上がった。
全身から蒸気が立ち上っている。
「あいつが愛したものを」
その手が、腰のベルトに伸びる。
アイギスのバックル。
リミッター解除スイッチ。
『警告。冷却液残量不足。変身を推奨しません』
M.A.R.I.A.の声が響いた。
エリオットは構わず、スイッチに指をかけた。
「お前らの好きには、させない」
スイッチを、押し込んだ。
エリオットの体が、変わり始めた。
皮膚が内側から裂ける。筋繊維が引き千切れる。骨が軋み、変形し、伸びていく。
エリオットが悲鳴を上げた。
それは人間の声ではない。何か別の、この世のものではない存在の叫び。
皮膚の下から、漆黒の外骨格が露出する。
血管が脈打ち、赤い光を放つ。
心臓から放たれる熱が、全身を駆け巡る。
顔が外骨格に覆われ、瞳が赤く輝く。
だが、それだけではない。
エリオットの意識の中に、何かが流れ込んできた。
『ああ、気持ちいい』
甘い声。
『そうだ、エリオット。もっと殺せ。もっと壊せ』
悪魔の囁き。
『痛みなんて忘れろ。苦しみなんて捨てろ。この力があれば、お前は何でもできる』
エリオットの中で、何かが揺らいだ。
『守るなんて馬鹿らしい。お前を憎む者たちのために、なぜ苦しむ? なぜ戦う?』
違う。
『奪え。支配しろ。この世界を、お前のものにしろ』
エリオットはその声を抑え込むように、自分の頭を殴りつけた。外骨格と拳がぶつかり、火花が散る。
「......黙れ」
呟きが、変身体の喉から漏れた。
そして、変身が完了した。
聖魔融合体。
悪魔の力と、人間の肉体が融合した存在。
エリオット・アーシェンが、煉獄《パルガトリオ》となった瞬間。
使徒が後退りした。
「な、何だ、貴様......!」
その目には、明確な恐怖が浮かんでいた。
牛の頭部が小刻みに震えている。巨体が、たじろいでいる。
中級使徒が、怯えていた。
だがパルガトリオは、答えなかった。
地を蹴った。
使徒の動きが、一瞬止まった。恐怖が、判断を鈍らせた。
その隙を、パルガトリオは見逃さなかった。
音速を超える速度。
使徒が反応する前に、拳が叩き込まれていた。
使徒の巨体が吹き飛んだ。
壁を突き破り、外へ放り出される。
パルガトリオは追撃した。
飛び出した使徒を追い、再び拳を叩き込む。
一撃。二撃。三撃。
拳を振るうたびに、悪魔の声が大きくなっていく。
『もっとだ。もっと!』
甘く、誘うような声。
『感じるだろう? この力。この快楽。お前はもう、人間じゃない。神にも悪魔にもなれる』
エリオットの拳が、一瞬止まった。
『そうだ。迷うな。お前の怒りを解放しろ。憎しみを! 絶望を!』
使徒の体は、すでに原形を留めていない。
パルガトリオは、血塗れの拳を見下ろした。
外骨格に覆われた、人間ではない手。
その時。
空気が、変わった。
遠く。
遙か上空。
雲の切れ間から、何かがこちらを見ていた。
視線だけで、空気が凍りつく。
パルガトリオの本能が、警鐘を鳴らした。
上級。
『エリオット! 変身解除を! すぐに!』
M.A.R.I.A.の声が響いた。
エリオットは震える手で、ベルトのスイッチを押した。
外骨格が剥がれ落ちる。
生身の体が露わになる。
全身が火傷のように赤く腫れ上がり、蒸気が立ち上っている。
皮膚が裂け、そこから血が滲む。
そして。
右腕の骨が、歪んでいた。
元に戻りきっていない。
再生が、不完全になっている。
激痛が全身を駆け巡った。
エリオットは膝をつき、荒い息を繰り返した。
『バイタル低下。至急帰還を』
「わかって、いる......」
エリオットは地面に倒れ込んだ。
視界が滲む。意識が遠のく。
上空の視線は、まだこちらを見ていた。
だが、降りてはこない。
ただ、見ている。
品定めをするように。
朝日が昇り始めていた。
崩壊したドーム施設の瓦礫の中で、エリオットは一人、立ち尽くしていた。
市民たちは協会の回収部隊によって保護されている。
だが、全員ではない。
逃げ遅れた者もいた。
「すまない、ミレイユ。守り切れなかった」
そう言い、エリオットは瓦礫の中から一枚の看板を拾い上げた。
聖女の肖像。
金色の髪、白い肌、優しい微笑み。
だが、それは本物ではない。
本物のミレイユは、もういない。
「エリオット」
背後から声がした。
振り返ると、エリザが立っていた。
「......おかえりなさい」
「ああ」
エリオットは看板を置き、M.A.R.I.A.へ向かった。
バイクに跨り、エンジンをかける。
エリザは何も言わず、ただ見送った。
エリオットは一度だけ、遠くに見える教会の尖塔を睨みつけた。
そこに、偽物がいる。
ミレイユの体を奪った、あいつが。
「......待っていろ」
呟きと共に、彼はアクセルを捻った。
M.A.R.I.A.が唸りを上げ、朝日の中へ消えていく。
エリオットは何も答えなかった。
ただ、右腕の鈍痛が、消えないことだけを感じていた。
戦いは、まだ始まったばかりだった。
新生教会の大聖堂。
豪華な玉座に座る少女が、報告を聞いていた。
金色の髪、白い肌、そして、爬虫類のような縦長の瞳孔。
聖女ミレイユ。いや、その体を乗っ取った、何か。
「猊下。煉獄《パルガトリオ》が、儀式を妨害しました」
跪く騎士が報告する。
聖女は美しい顔で、醜悪に笑った。
「私の可愛い『食べ残し』か」
彼女は玉座から立ち上がり、窓の外を見た。
朝日に照らされた都市。
その中のどこかに、彼がいる。
「育て、エリオット」
彼女は恍惚とした表情で呟いた。
「もっと壊れろ。もっと熟れろ」
彼女の笑い声が、大聖堂に響き渡った。
それは、かつてミレイユが発したことのない、邪悪な笑い声だった。
