復讐の煉獄《パルガトリオ》

 廃ビルの谷間で、エリオット・アーシェンは自らの胸に掌を押し当てた。

 肋骨の檻の奥で脈打つそれは、もはや人間の臓器ではない。

 熱い。

 灼けつくように、熱い。

 皮膚の下で、《それ》が呼吸している。

 三年前、崩れ落ちる大聖堂の瓦礫の中で、彼の胸腔に埋め込まれた深紅の核。悪魔の心臓。

 路地の奥から、音が聞こえてくる。

 ズル......ズル......

 濡れたアスファルトを這いずる何か。かつて人間だった肉塊が、教会の廃棄トラックから逃げ出し、ネオンの明滅する闇の中を蠢いていた。

「......せいじょ、さま......」

 祈りの残滓が、喉の奥から漏れた。

 エリオットは漆黒のバイク、M.A.R.I.A.、に跨ったまま、アクセルを捻った。

 エンジンが咆哮する。

 タイヤが肉塊を踏み潰す。

 最期の祈りは、誰の耳にも届かなかった。

 バイクを降りる。

 ブーツの底で肉片を踏みつけながら、エリオットはコートのポケットから煙草を取り出そうとした。

 指が、震えている。

 小刻みな痙攣。煙草が指の間から滑り落ち、血塗れのアスファルトに転がった。

『生体活動、停止を確認』

 バイクから流れる無機質な音声。M.A.R.I.A.に搭載された戦術AIが、淡々と報告を告げる。

『体温が基準値を2度超過。心拍数154。推奨事項、帰還して点検を』

「大丈夫だ」

 エリオットは煙草を諦め、震える手を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みで震えが止まる。

 胸の奥で、《それ》が跳ねた。

 腹が減ったとでも言うのか。

 悪魔の心臓が、殺戮の興奮に応えて熱を増していく。エリオットは歯を食いしばり、胸を強く殴りつけた。

『帰還を推奨します』

 AIの声は、相変わらず無機質だった。

 雨が降り出した。



 地下鉄の廃線。

 かつて都市の動脈だった空間は、今や忘れられた遺構と化している。その場所は、エリオットたちの隠れ家だった。

「おかえり、ボロ雑巾」

 声が響いたのは、エリオットがバイクを降りた直後だった。

 小柄な少女、ドクター・ミオ。十五歳。白衣の裾を引きずり、工具箱を抱えた彼女の目は、獲物を値踏みする商人のような光を宿していた。

「冷却材がレッドゾーン。次に変身したら、たぶん死ぬね」

 エリオットは答えず、ベルトのバックルを見下ろした。

 小型モニターには、赤い警告灯が点滅している。

 強制拘束型・霊的制御ユニット『アイギス』。悪魔の心臓を封じ込めるための、最後の足枷。

「冷却液残量十八パーセント」

 ミオは数値を読み上げながら、工具箱を開け、青白く光る注射器を取り出した。

「応急処置。ちょっとはもつ。その代わり副作用で幻覚見るかもね」

 彼女はエリオットのベルトに注射器を差し込んだ。シリンダーが空になり、冷却液が装置内部に流れ込んでいく。

 メーターの針が、わずかに緑色の領域へ戻った。

「......聞きたいことがあるんだけど」

 ミオが呟いた。口調が変わっている。

「アンタさ、そんな体になってまで、まだ戦うつもり?」

 沈黙。

「あの聖女は、もういないんだよ」

「だから、だ」

 エリオットは奥の部屋へ向かった。背中を向けたまま、言葉を落とす。

「あいつが愛した世界を、偽物の好きにはさせない」

「......バカみたい」

 ミオの呟きが、背中に突き刺さった。

 だが、エリオットは振り返らなかった。



 作戦室には、すでに全員が集まっていた。

 中央のモニター前には銀縁眼鏡の女性、エリザ・クローデルが立っていた。協会の戦術指揮官。

「状況を説明するわ」

 エリザがモニターを操作すると、都市の立体地図が表示された。一角に赤い警告マーカーが点滅している。

「建設中のドーム施設。今夜二十二時、集団儀式が行われる。対象は約二百名の市民」

「被害を最小限に抑えつつ、儀式を阻止する」

 エリザは一瞬、言葉を切った。

「......ただし。指揮官クラスの霊的反応を確認している」

 それを聞いた瞬間、エリオットの拳が強く握られた。

「作戦開始は二時間後。それまでに装備を整えて」

 エリザはまっすぐエリオットを見つめた。

「それと、エリオット」

「何だ」

「死なないで」

 その言葉は、命令のようであり、祈りのようでもあった。

 エリオットは小さく笑った。唇の端が、わずかに歪む。

「心配するな。死ぬつもりはない」



 雨は止んでいた。

 エリオットはM.A.R.I.A.を駆り、都市の外縁部へ向かっていた。

『目標まで、あと五百メートル』

 M.A.R.I.A.が告げる。

『敵性体反応、多数。戦闘員クラス二十以上』

「市民は?」

『全員、施設内部に集められています』

 エリオットは歯を食いしばった。

 そして、アクセルを全開にした。

 ガラスの破砕音と共に、彼はドーム施設の壁面を突き破った。



 内部は、狂気に満ちていた。

 天井から吊るされた無数の十字架。その下に並ぶ簡易ベッド。拘束された人々が、恍惚とした表情で何かを待っている。

 壇上には、白い法衣を纏った司祭が立っている。

「我らが聖女の名において、汝らに祝福を」

 司祭の声が、施設内に響く。

 歓声が上がる。

 エリオットは、吐き気を覚えた。

『敵戦闘員、接近』

 M.A.R.I.A.の警告と同時に、銃声が響いた。

 エリオットはバイクから飛び降り、床を転がる。弾丸が床を抉る。

 教会の兵士たち、下級使徒が、四方から迫っていた。

 黒い戦闘服。自動小銃。だが首筋の血管が黒く変色し、瞳孔が異様に拡大している。

「対象、確認」

 機械的な声。

「煉獄《パルガトリオ》。殲滅せよ」

 銃口が向けられる。

 エリオットは地を蹴った。

 床が砕ける。

 最も近い使徒の懐へ潜り込む。掌底。顎。骨が軋む音。

 だが使徒は倒れない。

 再生能力が傷を癒す。折れた骨が、ゴキゴキと音を立てて元に戻っていく。

 エリオットは使徒の頭を掴み、地面へ叩きつけた。

 一度。二度。三度。

 頭蓋が砕けるまで。

 銃声。死体を盾に。前進。

 距離を詰める。銃を叩き落とす。喉笛を掴む。

 爪が皮膚を裂く。血管を切り裂く。引き千切る。

 血飛沫。鉄の匂い。

 表情は変わらない。

 淡々と、機械的に、殺していく。



 五分後、下級使徒たちは沈黙していた。

 エリオットは息を整えながら、壇上を見上げた。

 司祭はすでに逃げている。

 彼はベッドの一つに近づき、拘束された女性の手枷を解こうとした。

「や、やめて!」

 女性が叫んだ。

「邪魔しないで! 私たちは選ばれたのよ! 聖女様の祝福を受けるの!」

 エリオットは手を止めた。

「お前は、騙されている」

「騙されてない!」

 女性の目には、狂気じみた光と、紛れもない「幸福」が宿っていた。

「悪魔......」

 女性が呟いた。

「神聖な儀式を邪魔する悪魔だ......」

 罵声。

 守るべき人間に、拒絶される。

 胸の奥で、何かが軋んだ。

 悪魔の心臓が、まるで嘲笑うように脈打つ。

 お前が守ろうとしているものは、お前を憎んでいる。

 それでも守るのか。

 エリオットは拳を握った。

「......ああ」

 呟きは、誰にも聞こえなかった。

「それでも、だ」

 彼は踵を返し、出口へ向かおうとした。

 その時、天井が崩れた。



 轟音。

 鉄骨が降り注ぐ。床が揺れる。

 エリオットは咄嗟に身を伏せたが、瓦礫の一つが背中を直撃した。肋骨が砕ける。

 口から血が溢れた。

 視界が歪む。

 巨大な影が、降り立った。

 身長三メートルを超える巨体。牛の頭部を持ち、人間の胴体を持つ異形。

 中級使徒。

「ああ......なんて、醜い」

 牛の頭部から、人間の声が漏れた。

「聖女様の愛を受け入れぬ、穢れた魂よ」

 巨人がゆっくりと近づいてくる。

「痛いんだろう? 苦しいんだろう?」

 エリオットは立ち上がろうとしたが、砕けた肋骨が肺を圧迫し、呼吸ができない。

「だから、楽にしてあげよう」

 巨人の拳が振り上げられる。

「その苦しみから、解放してあげよう!」

 拳が振り下ろされた。

 エリオットは腕を交差させ、受け止めようとした。

 衝撃。

 骨が砕ける音。

 痛みが脳を焼く。

 エリオットの体が吹き飛び、壁に叩きつけられる。

 呼吸ができない。

 視界が暗くなる。

 だが、心臓だけは動き続けていた。

 悪魔の心臓が、熱を放ち、損傷した体を修復しようとする。

 砕けた骨が、繋がり始める。

 だが、間に合わない。

 巨人がゆっくりと近づいてくる。

「安らぎを与えてあげよう」

 巨大な手がエリオットの頭を掴み、持ち上げた。

「罪人に救いを!」

 そして、地面へ叩きつけた。

 床が砕ける。血が飛び散る。

 もう一度。

 もう一度。

 エリオットの意識が、遠のいていく。

 耳鳴りの向こうで、記憶の中の声が聞こえた。

『......生きて』

 彼女の声。

『エリオット。生きて......みんなを守って』

 なぜ。

 なぜ、俺が生きなければならない。

 お前がいない世界で、何を守ればいい。

『私が愛したものを』

 エリオットの瞳に、光が戻った。

 血を吐き、笑う。

「......まだだ」

 呟きと共に、彼は使徒の腕を掴んだ。

「まだ、終わらせない」

 爪が皮膚を食い破る。

 使徒が悲鳴を上げ、エリオットを放り投げた。

 エリオットは床に転がり、ゆっくりと立ち上がった。

 全身から蒸気が立ち上っている。

「あいつが愛したものを」

 その手が、腰のベルトに伸びる。

 アイギスのバックル。

 リミッター解除スイッチ。

『警告。冷却液残量不足。変身を推奨しません』

 M.A.R.I.A.の声が響いた。

 エリオットは構わず、スイッチに指をかけた。

「お前らの好きには、させない」

 スイッチを、押し込んだ。



 エリオットの体が、変わり始めた。

 皮膚が内側から裂ける。筋繊維が引き千切れる。骨が軋み、変形し、伸びていく。

 エリオットが悲鳴を上げた。

 それは人間の声ではない。何か別の、この世のものではない存在の叫び。

 皮膚の下から、漆黒の外骨格が露出する。

 血管が脈打ち、赤い光を放つ。

 心臓から放たれる熱が、全身を駆け巡る。

 顔が外骨格に覆われ、瞳が赤く輝く。

 だが、それだけではない。

 エリオットの意識の中に、何かが流れ込んできた。

『ああ、気持ちいい』

 甘い声。

『そうだ、エリオット。もっと殺せ。もっと壊せ』

 悪魔の囁き。

『痛みなんて忘れろ。苦しみなんて捨てろ。この力があれば、お前は何でもできる』

 エリオットの中で、何かが揺らいだ。

『守るなんて馬鹿らしい。お前を憎む者たちのために、なぜ苦しむ? なぜ戦う?』

 違う。

『奪え。支配しろ。この世界を、お前のものにしろ』

 エリオットはその声を抑え込むように、自分の頭を殴りつけた。外骨格と拳がぶつかり、火花が散る。

「......黙れ」

 呟きが、変身体の喉から漏れた。

 そして、変身が完了した。

 聖魔融合体。

 悪魔の力と、人間の肉体が融合した存在。

 エリオット・アーシェンが、煉獄《パルガトリオ》となった瞬間。

 使徒が後退りした。

「な、何だ、貴様......!」

 その目には、明確な恐怖が浮かんでいた。

 牛の頭部が小刻みに震えている。巨体が、たじろいでいる。

 中級使徒が、怯えていた。

 だがパルガトリオは、答えなかった。

 地を蹴った。

 使徒の動きが、一瞬止まった。恐怖が、判断を鈍らせた。

 その隙を、パルガトリオは見逃さなかった。

 音速を超える速度。

 使徒が反応する前に、拳が叩き込まれていた。

 使徒の巨体が吹き飛んだ。

 壁を突き破り、外へ放り出される。

 パルガトリオは追撃した。

 飛び出した使徒を追い、再び拳を叩き込む。

 一撃。二撃。三撃。

 拳を振るうたびに、悪魔の声が大きくなっていく。

『もっとだ。もっと!』

 甘く、誘うような声。

『感じるだろう? この力。この快楽。お前はもう、人間じゃない。神にも悪魔にもなれる』

 エリオットの拳が、一瞬止まった。

『そうだ。迷うな。お前の怒りを解放しろ。憎しみを! 絶望を!』

 使徒の体は、すでに原形を留めていない。

 パルガトリオは、血塗れの拳を見下ろした。

 外骨格に覆われた、人間ではない手。

 その時。

 空気が、変わった。



 遠く。

 遙か上空。

 雲の切れ間から、何かがこちらを見ていた。

 視線だけで、空気が凍りつく。

 パルガトリオの本能が、警鐘を鳴らした。

 上級。

『エリオット! 変身解除を! すぐに!』

 M.A.R.I.A.の声が響いた。

 エリオットは震える手で、ベルトのスイッチを押した。

 外骨格が剥がれ落ちる。

 生身の体が露わになる。

 全身が火傷のように赤く腫れ上がり、蒸気が立ち上っている。

 皮膚が裂け、そこから血が滲む。

 そして。

 右腕の骨が、歪んでいた。

 元に戻りきっていない。

 再生が、不完全になっている。

 激痛が全身を駆け巡った。

 エリオットは膝をつき、荒い息を繰り返した。

『バイタル低下。至急帰還を』

「わかって、いる......」

 エリオットは地面に倒れ込んだ。

 視界が滲む。意識が遠のく。

 上空の視線は、まだこちらを見ていた。

 だが、降りてはこない。

 ただ、見ている。

 品定めをするように。



 朝日が昇り始めていた。

 崩壊したドーム施設の瓦礫の中で、エリオットは一人、立ち尽くしていた。

 市民たちは協会の回収部隊によって保護されている。

 だが、全員ではない。

 逃げ遅れた者もいた。

「すまない、ミレイユ。守り切れなかった」

 そう言い、エリオットは瓦礫の中から一枚の看板を拾い上げた。

 聖女の肖像。

 金色の髪、白い肌、優しい微笑み。

 だが、それは本物ではない。

 本物のミレイユは、もういない。

「エリオット」

 背後から声がした。

 振り返ると、エリザが立っていた。

「......おかえりなさい」

「ああ」

 エリオットは看板を置き、M.A.R.I.A.へ向かった。

 バイクに跨り、エンジンをかける。

 エリザは何も言わず、ただ見送った。

 エリオットは一度だけ、遠くに見える教会の尖塔を睨みつけた。

 そこに、偽物がいる。

 ミレイユの体を奪った、あいつが。

「......待っていろ」

 呟きと共に、彼はアクセルを捻った。

 M.A.R.I.A.が唸りを上げ、朝日の中へ消えていく。

 エリオットは何も答えなかった。

 ただ、右腕の鈍痛が、消えないことだけを感じていた。

 戦いは、まだ始まったばかりだった。



 新生教会の大聖堂。

 豪華な玉座に座る少女が、報告を聞いていた。

 金色の髪、白い肌、そして、爬虫類のような縦長の瞳孔。

 聖女ミレイユ。いや、その体を乗っ取った、何か。

「猊下。煉獄《パルガトリオ》が、儀式を妨害しました」

 跪く騎士が報告する。

 聖女は美しい顔で、醜悪に笑った。

「私の可愛い『食べ残し』か」

 彼女は玉座から立ち上がり、窓の外を見た。

 朝日に照らされた都市。

 その中のどこかに、彼がいる。

「育て、エリオット」

 彼女は恍惚とした表情で呟いた。

「もっと壊れろ。もっと熟れろ」

 彼女の笑い声が、大聖堂に響き渡った。

 それは、かつてミレイユが発したことのない、邪悪な笑い声だった。