「こんな時間から、どちらにお出かけなのですか?」
ご勝手からつながる裏門を出ると、私の自転車のハンドルに手をかけた紘次郎が柔らかな笑みを浮かべていました。
私は血の気が引くのを感じながら懇願しました。
「お願いよ、紘次郎。どうか見逃して下さらない?」
♢
ようこの言葉に感化された放課後、私はおねえさまの家に押しかけることを小さな腹に決めました。
でも学校から寄り道をして帰ることは、校則で禁じられています。
それで一旦、家に鞄を置いてからこっそりと出かけようと思っていたのです。
しかし、聡明な紘次郎にはすべてお見通しでした。
かすりの着物のなかに丸首のスタンドカラーのシャツを着こみ、紺色の袴をはいた優男の紘次郎は、遠縁の親せきであり書生で私の家庭教師でもあります。
兄弟のいない私にとって、幼い頃より公爵家で寝起きを共にしていた紘次郎は頼れる兄貴分なのでした。
「さて、どうしましょうか。」
紘次郎はのんびりと腕組みをして空を見上げます。
わたくしは気が急いてもどかしく、地団太を踏みました。
いつもなら悩み事があると紘次郎に相談するのが定石でしたが、うららおねえさまとの文通のことだけは、彼には内緒にしています。
【特別なシスタア】のことは女同士にしか理解できない美意識であり、崇高な領域なのだと私は思うからです。
心中騒動の日も心配こそすれ、深く事情を聞いてこなかったのは私の気持ちを汲んでくれたのでしょう。
紘次郎は、そんな大人の配慮ができる稀有な方なのでした。
「お出かけをなさるなら、西洋数学の課題をしてからにしましょうか。」
今日に限っては忖度もせず、無情に私の首根っこを捕まえて家に帰そうとする紘次郎。
いつもなら素直にしたがうのですが、今日の私は紘次郎の手をはらって食いさがりました。
「課題は帰ってからにします。
今日はどうしても、錦町に行かなければならないのです!」
紘次郎が「おや」と顔色を変えて私に払われた手をさすりました。
「声も我も張るなんて、みつきさまらしくないですね。
よほどの大事な急用ということでしょうか。」
そう言うと、紘次郎はサッと袴をさばきながら私の自転車にまたがりました。
「お送りいたします。
自転車のうしろに乗ってください。」
私はタンカを切った手前、あとには引けなくなりました。
「紘次郎には関係のない用事です。
私一人で行けますわ。」
「目的地は錦町ですよね?
みつきさまがペダルを漕ぐ速度では、往復しただけで日が暮れると思います。
今日の課題を終えるために、私の後ろに乗ってくださいませんか?」
言い返すことができない私は、自転車のリアシートに横座りしました。
♢
紘次郎が漕ぐ自転車が河川敷の横を走り小さな丘橋を越えると、もう錦町の住宅街が見えてきました。
一時間弱はかかると思っていた道のりがあっという間に短縮されて、私はただ紘次郎の脚力と土地カンに感心するばかりです。
そして、高台にある閑静な住宅街の一角で紘次郎はブレーキをかけました。
「到着です。」
私たちは、桐の節目に歴史を感じる、立派な日本家屋の前に立ちました。
まるで大名屋敷のような【型番所】がついている表門をあおぎ見て、紘次郎が私の顔色をうかがいます。
「みつきさま、こちらの住所に間違いはございませんか?」
「ええ。
で、でも。」
私は戸惑いました。
門の前に出ている表札には【五色】の文字。
「急なご用事というのは、五色邸への訪問だったのですか?」
紘次郎が重ねて聞くのも無理はありません。
ここは【海軍の父】と呼ばれ、その功績から天皇陛下より爵位をさずかった勲功華族・五色景八侯爵のご邸宅。
つまり、私が死ぬほど恐れている婚約者さまがいらっしゃるおうちなのです。
「猿渡さまのおうちではなかったの…?」
予想外のできごとに、私は目の前が真っ暗になりました。
何度手紙を見直してみても、住所はこちらで合っているようです。
呆然とする私を見て、紘次郎がたすけ船を出してくれました。
「もしやその猿渡さまには世間には公表できない理由があって、五色家で同居や間借りをされている御仁の可能性もありますよ。
ちょうど、今の私のように。」
確かにそうです。
紘次郎は同居していますが、苗字は違います。
華族の邸宅なら使用人だけでも五十人はいるでしょうし、おねえさまが自分と同じ令嬢だと決めつけるのは早いかもしれません。
「家人に尋ねてみましょう。」
紘次郎は表門の戸に備えつけられている電気式の呼鈴を押しました。
押してからほどなくして『タタタ』と小走りにこちらに来る足音が大きくなり、門が少しだけ開きます。
「はい。」
少し開いた門のすきまから顔をのぞかせたのは、浅黄色の着物に紺色の前掛けをした細い目つきの女中です。
思わぬ訪問者に、不審そうな表情で私と紘次郎を交互に見ました。
「どちらさまで?」
「あッ…。」
緊張のあまり言葉がでてこない私の前に立ち、紘次郎はあたかも用意されたセリフのように言葉を紡ぎました。
「突然の訪問をお許しください。こちらに、【猿渡さま】という名前の方はいらっしゃいますか?
お約束はしていませんが、お取り次ぎをお願いしたいのです。」
「そちらさまのお名前は?」
凍てついた態度を変えようとしない女中の前で、紘次郎はうやうやしくおじぎをしました。
「申し遅れました。私たちは綾小路公爵家の者でございます。
こちらは令嬢の綾小路みつきさま。私は書生の松平紘次郎と申します。」
「まぁ。
それは失礼いたしました!」
女中はコロリと態度を変えました。
「みつきさまと言えば、お坊ちゃまのご婚約者さま!
少々お待ちを。
ただいまお取次ぎの確認をしてまいります。」
「その前に、ご相談なのですが。」
紘次郎は足を止めた女中にスッと近寄ると、人差し指を唇にあててあざとい困り顔をしました。
「ここだけの話、お嬢様は箱入り娘でして。
もしご結婚前に婚約者さまのお宅に足を踏み入れたというような噂が世に広まれば、公爵家の不名誉になるかもしれません。
そこで、できれば今回の猿渡さま来訪の件は、ご当主さまとご婚約者さまには内密にしていただけませんか?」
「それはちょっと、私の一存では。」
紘次郎はためらう女中の手を取り、その着物の袖そでの身八口に無理やり手を入れました。
「何をなさいます!」
「初めてお会いしましたが、あなたはこのお屋敷でいちばん賢い方だとお見受けします。」
「こ、これは。」
気色ばんだ様子だった女中が自分の袖底にふれた瞬間、歓喜ととまどいの両方の表情を浮かべたのです。
「あなたみたいな見た目は優男のほうが、悪い男なのかもしれないわね。」
女中は細い目をより細くしてニヤリと笑いました。
「ここは目立ちすぎます。裏門に回って下さいな。」
そう言うと、女中は門を静かに閉めました。
私は女中の変貌ぶりに、とても驚きました。
「紘次郎、あの女中はどうしてあんなことを言ったの?」
「マアマアな金額の【金】を握らせたからです。
初対面の人間と距離を詰めるには、このほうがてっとり早い。」
「お金…。」
涼しい顔で裏門へと自転車を押す紘次郎の後ろ姿が、急に大人びて見えました。
でも、公爵邸以外の紘次郎の顔は、少し薄ら寒い感じがしました。
♢
裏門に回ると、待ち構えていた女中がご勝手の横の小さな扉に手招きしました。
「こちらから客間にご案内しますが、中庭に面する廊下を渡らなければなりません。
ただし、いま時間は中庭にある弓道場でお坊ちゃまが行射をされています。」
紘次郎がすかさず反応しました。
「話が違うではないか!」
「ご安心を。
集中されると周りが見えないお方なので、背後を通っても気がつかないと思います。
くれぐれも声を出さないように、澄まして通ってくださいまし。」
狐につままれるような気持ちを抱えながら女中に続いて渡り廊下を進むと、ずいぶんと広い中庭に射場がありました。
南向きに丸い的が設置されていて、射場と的場の間にはサラサラとした黒い土砂が敷きつめられています。
手前の板張りの射場には上半身は裸、下半身を袴はかまで包んだ男性がちょうど大きな弓を構えているところでした。
遠目にも分かる鍛えられた上腕筋が隆起して弓を引きしぼり、限界に達したあとにパッと手を離した瞬間、見事に的のど真ん中を矢が射抜きました。
思わず私は拍手をしそうになりましたが、紘次郎に手首をつかまれて首を竦めました。
(あれが私の婚約者さまなのね。)
私はもう一度振り返って五色さまを見たい思いをこらえて廊下を歩きました。
私は実の父の半裸にも嫌悪感をもよおして、直視できる自信はありません。
けれども、あの婚約者さまの筋肉の腕や肩甲骨まわりは芸術作品のようで、不快だとはつゆほども思いませんでした。
♢
「それでは、こちらでもう少々お待ち下さい。」
女中が頭を下げて退出すると、客間に紘次郎と二人きりになりました。
用意された温かい湯のみのふたを開けると、ふんわりと香り高いお抹茶の匂いが部屋を包みました。
「いただきましょう。」
舌に残る苦味がやんわりと緊張感をほぐしてくれます。
紘次郎はお茶を飲み干しても落ち着かない様子で、周囲を見まわしています。
日本庭園が美しい奥庭に面している奥座敷の客間。
部分的に西洋化した住宅が多い中、このような日本固有の住宅様式は【わびさび】の情緒が感じられて、私はいぐさの匂いにもときめいてしまいます。
そうして胸を高鳴らせながら待ち時間を過ごしていたのですが、なかなか女中は戻りませんでした。
しばらくは、客間のガラスキャビネットの中の豪華な勲章やら古めかしい調度品を眺めたりしていましたが、それに飽きた私はひとりで庭園に出てぐるりと歩きました。
「紘次郎?」
客間に戻ると、いつの間にか紘次郎が正座をしたまま寝息を立てて眠っています。
(疲れているのかしら。
私の前で寝落ちするなんて、珍しいわ。)
と思っていると、私も抗いがたい眠気に襲われました。
おねえさまを待っている間に私たち二人は、あろうことか倒れるように寝てしまったのです。
ご勝手からつながる裏門を出ると、私の自転車のハンドルに手をかけた紘次郎が柔らかな笑みを浮かべていました。
私は血の気が引くのを感じながら懇願しました。
「お願いよ、紘次郎。どうか見逃して下さらない?」
♢
ようこの言葉に感化された放課後、私はおねえさまの家に押しかけることを小さな腹に決めました。
でも学校から寄り道をして帰ることは、校則で禁じられています。
それで一旦、家に鞄を置いてからこっそりと出かけようと思っていたのです。
しかし、聡明な紘次郎にはすべてお見通しでした。
かすりの着物のなかに丸首のスタンドカラーのシャツを着こみ、紺色の袴をはいた優男の紘次郎は、遠縁の親せきであり書生で私の家庭教師でもあります。
兄弟のいない私にとって、幼い頃より公爵家で寝起きを共にしていた紘次郎は頼れる兄貴分なのでした。
「さて、どうしましょうか。」
紘次郎はのんびりと腕組みをして空を見上げます。
わたくしは気が急いてもどかしく、地団太を踏みました。
いつもなら悩み事があると紘次郎に相談するのが定石でしたが、うららおねえさまとの文通のことだけは、彼には内緒にしています。
【特別なシスタア】のことは女同士にしか理解できない美意識であり、崇高な領域なのだと私は思うからです。
心中騒動の日も心配こそすれ、深く事情を聞いてこなかったのは私の気持ちを汲んでくれたのでしょう。
紘次郎は、そんな大人の配慮ができる稀有な方なのでした。
「お出かけをなさるなら、西洋数学の課題をしてからにしましょうか。」
今日に限っては忖度もせず、無情に私の首根っこを捕まえて家に帰そうとする紘次郎。
いつもなら素直にしたがうのですが、今日の私は紘次郎の手をはらって食いさがりました。
「課題は帰ってからにします。
今日はどうしても、錦町に行かなければならないのです!」
紘次郎が「おや」と顔色を変えて私に払われた手をさすりました。
「声も我も張るなんて、みつきさまらしくないですね。
よほどの大事な急用ということでしょうか。」
そう言うと、紘次郎はサッと袴をさばきながら私の自転車にまたがりました。
「お送りいたします。
自転車のうしろに乗ってください。」
私はタンカを切った手前、あとには引けなくなりました。
「紘次郎には関係のない用事です。
私一人で行けますわ。」
「目的地は錦町ですよね?
みつきさまがペダルを漕ぐ速度では、往復しただけで日が暮れると思います。
今日の課題を終えるために、私の後ろに乗ってくださいませんか?」
言い返すことができない私は、自転車のリアシートに横座りしました。
♢
紘次郎が漕ぐ自転車が河川敷の横を走り小さな丘橋を越えると、もう錦町の住宅街が見えてきました。
一時間弱はかかると思っていた道のりがあっという間に短縮されて、私はただ紘次郎の脚力と土地カンに感心するばかりです。
そして、高台にある閑静な住宅街の一角で紘次郎はブレーキをかけました。
「到着です。」
私たちは、桐の節目に歴史を感じる、立派な日本家屋の前に立ちました。
まるで大名屋敷のような【型番所】がついている表門をあおぎ見て、紘次郎が私の顔色をうかがいます。
「みつきさま、こちらの住所に間違いはございませんか?」
「ええ。
で、でも。」
私は戸惑いました。
門の前に出ている表札には【五色】の文字。
「急なご用事というのは、五色邸への訪問だったのですか?」
紘次郎が重ねて聞くのも無理はありません。
ここは【海軍の父】と呼ばれ、その功績から天皇陛下より爵位をさずかった勲功華族・五色景八侯爵のご邸宅。
つまり、私が死ぬほど恐れている婚約者さまがいらっしゃるおうちなのです。
「猿渡さまのおうちではなかったの…?」
予想外のできごとに、私は目の前が真っ暗になりました。
何度手紙を見直してみても、住所はこちらで合っているようです。
呆然とする私を見て、紘次郎がたすけ船を出してくれました。
「もしやその猿渡さまには世間には公表できない理由があって、五色家で同居や間借りをされている御仁の可能性もありますよ。
ちょうど、今の私のように。」
確かにそうです。
紘次郎は同居していますが、苗字は違います。
華族の邸宅なら使用人だけでも五十人はいるでしょうし、おねえさまが自分と同じ令嬢だと決めつけるのは早いかもしれません。
「家人に尋ねてみましょう。」
紘次郎は表門の戸に備えつけられている電気式の呼鈴を押しました。
押してからほどなくして『タタタ』と小走りにこちらに来る足音が大きくなり、門が少しだけ開きます。
「はい。」
少し開いた門のすきまから顔をのぞかせたのは、浅黄色の着物に紺色の前掛けをした細い目つきの女中です。
思わぬ訪問者に、不審そうな表情で私と紘次郎を交互に見ました。
「どちらさまで?」
「あッ…。」
緊張のあまり言葉がでてこない私の前に立ち、紘次郎はあたかも用意されたセリフのように言葉を紡ぎました。
「突然の訪問をお許しください。こちらに、【猿渡さま】という名前の方はいらっしゃいますか?
お約束はしていませんが、お取り次ぎをお願いしたいのです。」
「そちらさまのお名前は?」
凍てついた態度を変えようとしない女中の前で、紘次郎はうやうやしくおじぎをしました。
「申し遅れました。私たちは綾小路公爵家の者でございます。
こちらは令嬢の綾小路みつきさま。私は書生の松平紘次郎と申します。」
「まぁ。
それは失礼いたしました!」
女中はコロリと態度を変えました。
「みつきさまと言えば、お坊ちゃまのご婚約者さま!
少々お待ちを。
ただいまお取次ぎの確認をしてまいります。」
「その前に、ご相談なのですが。」
紘次郎は足を止めた女中にスッと近寄ると、人差し指を唇にあててあざとい困り顔をしました。
「ここだけの話、お嬢様は箱入り娘でして。
もしご結婚前に婚約者さまのお宅に足を踏み入れたというような噂が世に広まれば、公爵家の不名誉になるかもしれません。
そこで、できれば今回の猿渡さま来訪の件は、ご当主さまとご婚約者さまには内密にしていただけませんか?」
「それはちょっと、私の一存では。」
紘次郎はためらう女中の手を取り、その着物の袖そでの身八口に無理やり手を入れました。
「何をなさいます!」
「初めてお会いしましたが、あなたはこのお屋敷でいちばん賢い方だとお見受けします。」
「こ、これは。」
気色ばんだ様子だった女中が自分の袖底にふれた瞬間、歓喜ととまどいの両方の表情を浮かべたのです。
「あなたみたいな見た目は優男のほうが、悪い男なのかもしれないわね。」
女中は細い目をより細くしてニヤリと笑いました。
「ここは目立ちすぎます。裏門に回って下さいな。」
そう言うと、女中は門を静かに閉めました。
私は女中の変貌ぶりに、とても驚きました。
「紘次郎、あの女中はどうしてあんなことを言ったの?」
「マアマアな金額の【金】を握らせたからです。
初対面の人間と距離を詰めるには、このほうがてっとり早い。」
「お金…。」
涼しい顔で裏門へと自転車を押す紘次郎の後ろ姿が、急に大人びて見えました。
でも、公爵邸以外の紘次郎の顔は、少し薄ら寒い感じがしました。
♢
裏門に回ると、待ち構えていた女中がご勝手の横の小さな扉に手招きしました。
「こちらから客間にご案内しますが、中庭に面する廊下を渡らなければなりません。
ただし、いま時間は中庭にある弓道場でお坊ちゃまが行射をされています。」
紘次郎がすかさず反応しました。
「話が違うではないか!」
「ご安心を。
集中されると周りが見えないお方なので、背後を通っても気がつかないと思います。
くれぐれも声を出さないように、澄まして通ってくださいまし。」
狐につままれるような気持ちを抱えながら女中に続いて渡り廊下を進むと、ずいぶんと広い中庭に射場がありました。
南向きに丸い的が設置されていて、射場と的場の間にはサラサラとした黒い土砂が敷きつめられています。
手前の板張りの射場には上半身は裸、下半身を袴はかまで包んだ男性がちょうど大きな弓を構えているところでした。
遠目にも分かる鍛えられた上腕筋が隆起して弓を引きしぼり、限界に達したあとにパッと手を離した瞬間、見事に的のど真ん中を矢が射抜きました。
思わず私は拍手をしそうになりましたが、紘次郎に手首をつかまれて首を竦めました。
(あれが私の婚約者さまなのね。)
私はもう一度振り返って五色さまを見たい思いをこらえて廊下を歩きました。
私は実の父の半裸にも嫌悪感をもよおして、直視できる自信はありません。
けれども、あの婚約者さまの筋肉の腕や肩甲骨まわりは芸術作品のようで、不快だとはつゆほども思いませんでした。
♢
「それでは、こちらでもう少々お待ち下さい。」
女中が頭を下げて退出すると、客間に紘次郎と二人きりになりました。
用意された温かい湯のみのふたを開けると、ふんわりと香り高いお抹茶の匂いが部屋を包みました。
「いただきましょう。」
舌に残る苦味がやんわりと緊張感をほぐしてくれます。
紘次郎はお茶を飲み干しても落ち着かない様子で、周囲を見まわしています。
日本庭園が美しい奥庭に面している奥座敷の客間。
部分的に西洋化した住宅が多い中、このような日本固有の住宅様式は【わびさび】の情緒が感じられて、私はいぐさの匂いにもときめいてしまいます。
そうして胸を高鳴らせながら待ち時間を過ごしていたのですが、なかなか女中は戻りませんでした。
しばらくは、客間のガラスキャビネットの中の豪華な勲章やら古めかしい調度品を眺めたりしていましたが、それに飽きた私はひとりで庭園に出てぐるりと歩きました。
「紘次郎?」
客間に戻ると、いつの間にか紘次郎が正座をしたまま寝息を立てて眠っています。
(疲れているのかしら。
私の前で寝落ちするなんて、珍しいわ。)
と思っていると、私も抗いがたい眠気に襲われました。
おねえさまを待っている間に私たち二人は、あろうことか倒れるように寝てしまったのです。



