信頼していた紘次郎の豹変した態度と冷徹な仕打ち。
私は次々と襲いかかる残酷な現実を、受け入れることができませんでした。
「出して、出して、出してっ…!」
手の平が赤く腫れあがるくらい部屋のドアを叩いて夜を過ごした私は、明け方近くに白くて細い月を窓から呆然と眺めていました。
上品で繊細な二日月。
そんな二日月に愛しい麗さまの横顔を重ね合わせた私は、絶望で胸がつぶれそうでした。
(もう二度と、麗さまには会えないかもしれない。)
宝箱にしまっていた【うららおねえさま】の写真を取り出して涙で濡らしていた私は、いつの間にかソファで眠っていました。
♢
夢を見ました。
また、七歳のときの悪夢です。
いつものように、私は下校途中に眼鏡をかけた若い男に呼び止められます。
「駅には どう 行きますか?」
見上げた眼鏡が太陽に反射して表情が見えないのと、たどたどしい喋り方に違和感を覚えながら、幼い私は駅までの道案内をしようとしてしまいます。
「まっすぐ進んで、いっこめのおうちの曲がり角を左にまがって…。」
男は耳が聞こえないらしく、悲しそうに首を横に振ります。
それからしゃがむと、地面に落ちていた木の棒で『かいて』と書きました。
ああ、また同じ展開!
夢の中でも、ダメと分かっているのに。
また私は荒い息の男に突然抱きしめられて、嫌な体験をして、逃げて夢は終わるー。
しかし今日は、ふと思いました。
(あの時、本当に私はあの男の顔を見ていないのかしら。)
「みつき すき」
男に太ももを触られながら、夢の中の私は思いきって男の眼鏡めがけて腕を伸ばしました。
ガラスが地面に落ちる金属音。
「アッ!」
嫌な予感は的中し、汗ばんで目覚めた私は悪寒に震えました。
眼鏡の下の男は、公爵家に来る前の紘次郎の顔だったのです。
♢
コン コン
突然、耳に入って来たドアのノック音に私はベットから飛び起きました。
腫れあがった目を無理やり開くと、ドアに向かって走っていきドアノブが回るのを見守りました。
「おはようございます。」
食事を乗せたワゴンを差し入れるほどの隙間を開けた女中のひな子が、こわばった顔で私に挨拶をしました。
(ひな子なら、助けてくれるはず!)
私は藁をもすがる気持ちで、赤裸々に現状を訴えました。
「私、紘次郎に監禁されているの。
ねえ、お願いよ。
今すぐにここから出してちょうだい‼」
私が泡を食いながら必死に説明をしているうちに、ひな子がワゴンごと部屋に入ると外側からカギがかかる音がしました。
「悪い夢の話ですか?」
ひな子は悪い点数を取った子供を見るように、ため息を吐きました。
「監禁だなんて、新しいご当主さまに失礼ですよ。
紘次郎さまは、綾小路家の未来とお嬢さまの幸せを案じていらっしゃるだけなのです。」
この館にはもう、私の味方は居ないのかもしれない。
私はジリジリと後ずさると、ひな子から離れたソファーに腰かけました。
「私の幸せ?」
「本来ならば綾小路家は松之助さまが事業を失敗した時点で、債権者たちに家財一式を差し押さえられて没落する運命でした。」
「それは…!」
それは昨夜にも紘次郎から聞いた恐ろしくて重い真実。
こうして改めてひな子の口から聞くと、首を締めつけられるような感情がまざまざとよみがえります。
「この事態を嘆いた紘次郎さまは、大学進学をあきらめて書生の身でコンサルティング会社を設立。
さらに財閥企業の特別顧問になり傾きかけていた経営を立てなおして全幅の信頼を勝ち取り、その会社の社長の椅子を蹴ってまで綾小路家の窮地を救うためにご当主になられたのですよ。」
ひな子はまるで詩を暗譜する女教師のように、朗々と紘次郎の功績を称えながら微笑みました。
「お父さまに紘次郎は、跡継ぎのいない綾小路家の後見人として入ったのだと聞きましたわ。
こういったお家の危機に尽力をしくれたことには感謝はするけれど、麗さまから私を引き離して自分と結婚しろと言うのはおかしいと思わない?」
「お嬢さまが政略結婚で五色家に嫁ぐことも、元は借金返済のための布石だったと聞いております。
それを、紘次郎さまはいつも心配されていました。」
ああ言えばこう言い返される。
歯がゆい思いを抱えた私は、あることを思い出しました
ひな子は長い間、ひそかに紘次郎に想いを寄せていたのです。
「私はお嬢様が、ただただ羨ましいばかりです。」
ワゴンから料理の皿をテーブルに移すとすぐに退室しようとしたひな子を、私は寸でのところで引き留めました。
「ひな子お願いよ、ここから出してほしいの。
私、麗さまのところへ帰りたいの!」
「いけません。
お嬢様はあの男にだまされているのです。
冷酷な隻眼の軍人に嫁ぐより、公爵家で紘次郎さまと結ばれる方が幸せに決まっています。」
洗脳されている、と思いながらも私はひな子の袖を掴んで離しませんでした。
ここは引き返せない一本道。
もう、ひな子を攻略するしか先はありません。
(言葉を選んで、慎重になるのよ。)
「私がここに閉じ込められていることを知ったら、みんなが心配して探すと思うの。
しかも紘次郎が私を閉じ込めたということが広まれば、公爵家の当主としての世間体が…ねえ、分かるわよね?」
ひな子が少しうろたえた顔をします。
(少しは私に同情をしてくれたのかしら?
このままもう少し押せば、ひな子を味方にできるかも…!)
その時、開かれたドアの隙間から黒い影が入り込んできました。
「みつきさま、ひな子を手ごめにしようとしてもムダですよ。」
ひな子の後ろから顔を出したのは紘次郎でした。
今朝はいつもの袴に洗いざらしの髪。
見た目は普段の紘次郎ですが、その口から吐き出されるのは猛毒の極みでした。
「みつきさまには、婚約破棄の署名と女学院の退学届を書いていただきます。」
「いい加減にして。」
私は憎い親の仇のように紘次郎を睨みつけました。
「書かないわ。」
「お可哀想に。
まだ、ご自身の置かれている状況が理解できないのですね。」
ひな子と入れ替わりで部屋に入って来た紘次郎は、紅く目を輝かせました。
当主の催眠能力の行使。
私の意思とは無関係に、体が勝手に机へと向かいます。
「私の友人に帝国新聞の編集長がいます。
今すぐに一本の電話をするだけで、五色麗は破滅するんですよ。」
「卑劣よ。」
私は怒りの感情を抑えながら、渡された書類を受け取りました。
ガラスペンで署名した紙に涙がポタタと落ちて、文字が淡くにじみます。
「ねえ、紘次郎。」
署名を終えた私は、机に向かったまま紘次郎に話しかけました。
「あなたが綾小路家に来る前、私が通っていた小学校の近くに住んでいたのよね?」
「よく覚えていましたね。まだみつきさまは小さかったからお忘れかと。」
「思い出したの。
私が男性不審になった原因…襲った男は紘次郎、あなたに似ていたわ。
あの事件の一年後にあなたはうちに来ることになった。
もしかしたら、全てがあなたの仕組んだことではないの?」
「懐かしいなぁ。
初めて公爵家に来たのは私が高等小学校のころですね。」
「フフッ」と笑うと、紘次郎が勉強を見るときのように自然に私の横に椅子を置きます。
そして組んだ腕の上に甘い顔を乗せると、震える私の横顔をいたずらな顏でのぞきこみました。
「さすがに男性不審になることを見込んで小さなみつきさまを襲うのは無理があるとは思います。
しかし、そのときから私がみつきさまに執着していたとしたら、それは立派な【純愛】ではないでしょうか?」
私は次々と襲いかかる残酷な現実を、受け入れることができませんでした。
「出して、出して、出してっ…!」
手の平が赤く腫れあがるくらい部屋のドアを叩いて夜を過ごした私は、明け方近くに白くて細い月を窓から呆然と眺めていました。
上品で繊細な二日月。
そんな二日月に愛しい麗さまの横顔を重ね合わせた私は、絶望で胸がつぶれそうでした。
(もう二度と、麗さまには会えないかもしれない。)
宝箱にしまっていた【うららおねえさま】の写真を取り出して涙で濡らしていた私は、いつの間にかソファで眠っていました。
♢
夢を見ました。
また、七歳のときの悪夢です。
いつものように、私は下校途中に眼鏡をかけた若い男に呼び止められます。
「駅には どう 行きますか?」
見上げた眼鏡が太陽に反射して表情が見えないのと、たどたどしい喋り方に違和感を覚えながら、幼い私は駅までの道案内をしようとしてしまいます。
「まっすぐ進んで、いっこめのおうちの曲がり角を左にまがって…。」
男は耳が聞こえないらしく、悲しそうに首を横に振ります。
それからしゃがむと、地面に落ちていた木の棒で『かいて』と書きました。
ああ、また同じ展開!
夢の中でも、ダメと分かっているのに。
また私は荒い息の男に突然抱きしめられて、嫌な体験をして、逃げて夢は終わるー。
しかし今日は、ふと思いました。
(あの時、本当に私はあの男の顔を見ていないのかしら。)
「みつき すき」
男に太ももを触られながら、夢の中の私は思いきって男の眼鏡めがけて腕を伸ばしました。
ガラスが地面に落ちる金属音。
「アッ!」
嫌な予感は的中し、汗ばんで目覚めた私は悪寒に震えました。
眼鏡の下の男は、公爵家に来る前の紘次郎の顔だったのです。
♢
コン コン
突然、耳に入って来たドアのノック音に私はベットから飛び起きました。
腫れあがった目を無理やり開くと、ドアに向かって走っていきドアノブが回るのを見守りました。
「おはようございます。」
食事を乗せたワゴンを差し入れるほどの隙間を開けた女中のひな子が、こわばった顔で私に挨拶をしました。
(ひな子なら、助けてくれるはず!)
私は藁をもすがる気持ちで、赤裸々に現状を訴えました。
「私、紘次郎に監禁されているの。
ねえ、お願いよ。
今すぐにここから出してちょうだい‼」
私が泡を食いながら必死に説明をしているうちに、ひな子がワゴンごと部屋に入ると外側からカギがかかる音がしました。
「悪い夢の話ですか?」
ひな子は悪い点数を取った子供を見るように、ため息を吐きました。
「監禁だなんて、新しいご当主さまに失礼ですよ。
紘次郎さまは、綾小路家の未来とお嬢さまの幸せを案じていらっしゃるだけなのです。」
この館にはもう、私の味方は居ないのかもしれない。
私はジリジリと後ずさると、ひな子から離れたソファーに腰かけました。
「私の幸せ?」
「本来ならば綾小路家は松之助さまが事業を失敗した時点で、債権者たちに家財一式を差し押さえられて没落する運命でした。」
「それは…!」
それは昨夜にも紘次郎から聞いた恐ろしくて重い真実。
こうして改めてひな子の口から聞くと、首を締めつけられるような感情がまざまざとよみがえります。
「この事態を嘆いた紘次郎さまは、大学進学をあきらめて書生の身でコンサルティング会社を設立。
さらに財閥企業の特別顧問になり傾きかけていた経営を立てなおして全幅の信頼を勝ち取り、その会社の社長の椅子を蹴ってまで綾小路家の窮地を救うためにご当主になられたのですよ。」
ひな子はまるで詩を暗譜する女教師のように、朗々と紘次郎の功績を称えながら微笑みました。
「お父さまに紘次郎は、跡継ぎのいない綾小路家の後見人として入ったのだと聞きましたわ。
こういったお家の危機に尽力をしくれたことには感謝はするけれど、麗さまから私を引き離して自分と結婚しろと言うのはおかしいと思わない?」
「お嬢さまが政略結婚で五色家に嫁ぐことも、元は借金返済のための布石だったと聞いております。
それを、紘次郎さまはいつも心配されていました。」
ああ言えばこう言い返される。
歯がゆい思いを抱えた私は、あることを思い出しました
ひな子は長い間、ひそかに紘次郎に想いを寄せていたのです。
「私はお嬢様が、ただただ羨ましいばかりです。」
ワゴンから料理の皿をテーブルに移すとすぐに退室しようとしたひな子を、私は寸でのところで引き留めました。
「ひな子お願いよ、ここから出してほしいの。
私、麗さまのところへ帰りたいの!」
「いけません。
お嬢様はあの男にだまされているのです。
冷酷な隻眼の軍人に嫁ぐより、公爵家で紘次郎さまと結ばれる方が幸せに決まっています。」
洗脳されている、と思いながらも私はひな子の袖を掴んで離しませんでした。
ここは引き返せない一本道。
もう、ひな子を攻略するしか先はありません。
(言葉を選んで、慎重になるのよ。)
「私がここに閉じ込められていることを知ったら、みんなが心配して探すと思うの。
しかも紘次郎が私を閉じ込めたということが広まれば、公爵家の当主としての世間体が…ねえ、分かるわよね?」
ひな子が少しうろたえた顔をします。
(少しは私に同情をしてくれたのかしら?
このままもう少し押せば、ひな子を味方にできるかも…!)
その時、開かれたドアの隙間から黒い影が入り込んできました。
「みつきさま、ひな子を手ごめにしようとしてもムダですよ。」
ひな子の後ろから顔を出したのは紘次郎でした。
今朝はいつもの袴に洗いざらしの髪。
見た目は普段の紘次郎ですが、その口から吐き出されるのは猛毒の極みでした。
「みつきさまには、婚約破棄の署名と女学院の退学届を書いていただきます。」
「いい加減にして。」
私は憎い親の仇のように紘次郎を睨みつけました。
「書かないわ。」
「お可哀想に。
まだ、ご自身の置かれている状況が理解できないのですね。」
ひな子と入れ替わりで部屋に入って来た紘次郎は、紅く目を輝かせました。
当主の催眠能力の行使。
私の意思とは無関係に、体が勝手に机へと向かいます。
「私の友人に帝国新聞の編集長がいます。
今すぐに一本の電話をするだけで、五色麗は破滅するんですよ。」
「卑劣よ。」
私は怒りの感情を抑えながら、渡された書類を受け取りました。
ガラスペンで署名した紙に涙がポタタと落ちて、文字が淡くにじみます。
「ねえ、紘次郎。」
署名を終えた私は、机に向かったまま紘次郎に話しかけました。
「あなたが綾小路家に来る前、私が通っていた小学校の近くに住んでいたのよね?」
「よく覚えていましたね。まだみつきさまは小さかったからお忘れかと。」
「思い出したの。
私が男性不審になった原因…襲った男は紘次郎、あなたに似ていたわ。
あの事件の一年後にあなたはうちに来ることになった。
もしかしたら、全てがあなたの仕組んだことではないの?」
「懐かしいなぁ。
初めて公爵家に来たのは私が高等小学校のころですね。」
「フフッ」と笑うと、紘次郎が勉強を見るときのように自然に私の横に椅子を置きます。
そして組んだ腕の上に甘い顔を乗せると、震える私の横顔をいたずらな顏でのぞきこみました。
「さすがに男性不審になることを見込んで小さなみつきさまを襲うのは無理があるとは思います。
しかし、そのときから私がみつきさまに執着していたとしたら、それは立派な【純愛】ではないでしょうか?」



