足入れをして一か月が過ぎようという頃、私は公爵家に一時帰宅をすることになりました。
世界情勢が悪化したことで、急きょ帝国海軍の軍事訓練が前倒しで行われる運びとなり、麗さまがしばらく家を留守にするからです。
本当は花嫁修業をしながら麗さまの帰りを五色家でお待ちしたかったのですが、主人の居ない公爵邸の家事を手際良く終わらせた八重子に軽くあしらわれてしまったのです。
「主人が居ないときまで、番犬のように居座る必要はありませんよ。」
「女学校の婦徳教育では、そうは習わなかったわ。」
手ぬぐいを目深に被った私が抗議をすると、八重子は埃のついていない箒をサッと取り上げました。
「郷に入れば郷に従えとも習いましたよね?
それに、みつきさまはそろそろお家が恋しいでしょう。」
確かに八重子の言う通り、麗さまが居ない日の私はため息ばかりついていました。
この女中は家内使用人でありながら、私のこころの痛いところを突くのがとても上手な方なのです。
「やっぱり八重子には勝てないわね。」
私が手ぬぐいを外して実家に帰る準備を始めると、八重子は軽く伸びをしてから女中部屋へと戻っていきました。
♢
「ただいま戻りました。」
タクシーで懐かしい公爵邸に戻って荷物を置いた途端、部屋のドアがノックされました。
洋服から着物に着替えようとしていた私は、慌てて絹ブラウスのくるみボタンを留めなおしました。
「お待ちしていましたよ、みつきさま。
すぐにお迎えできなくて申し訳ありません。」
紘次郎はいつもと変わらぬ柔和な笑顔をたずさえて私の部屋に入ってきました。
足入れ前にケンカをして以来の再会でしたが、気に病む必要はなかったようです。
紘次郎は実の兄のように気の置けない存在なので、顔を見るだけで心からホッとします。
「ただいま紘次郎。あなたもお元気そうで何よりです。」
部屋に茶葉と急須を持参して訪れてくれた紘次郎は、いつもの書生の格好ではありませんでした。
仕立ての良いスーツに七三分けの紘次郎は、どこかよそ行きの顔をしています。
「お父さまは相変わらず忙しいのかしら?
今日くらいは拝顔できることを楽しみにしていたのに。」
紘次郎は微笑みながらお茶を淹れてくれました。
「きっと、私がみつきさまに会うまで気をつかってくれたのだと思います。」
お父さまが紘次郎に気をつかう?
立ち昇る玉露の豊かな香りに包まれながら、私は形容しがたい違和感を覚えました。
「それはどういうこと?」
と、口を開きかけたとき、間髪いれずに紘次郎が私に質問を投げてきました。
「五色家はいかがですか?」
出鼻をくじかれたわたしは、気持ちを切り替えて答えました。
「女中の八重子が厳しくて心が折れそうになるけれど、麗さまが居るから頑張れるわ。」
「家の兼ね合いもありますし、花嫁修業は並大抵ではありませんよね。」
「色々あるけれど、麗さまとなら信頼できる夫婦になれると思うの。」
「でも、男性アレルギイは?」
「少しずつだけど、良くなっているの。スゴイでしょ。
麗さまが少しずつ慣らしてくれるからだと思うわ。」
ピクリと紘次郎の眉が動いて、湯飲みを傾ける動きが止まりました。
「慣らすとは?」
私は麗さまに関する質問に答えることが嬉しくて、ウキウキしながら自分の手の甲を擦りました。
「二人でいる時に手をつないだりしてくださるの!
もう長い間手をつないでも、震えたりじんましんが出ることはないわ。」
そこで私は、自分の口に手を当てて思い止まりました。
このまま調子に乗っていると、危うく手首を縛られて口づけをしたことまで言ってしまいそうです。
「そう…ですか。」
あご先に拳をあてた紘次郎が、少しむずかしい顔をしました。
私は今までの行動を振り返り、恥ずかしさを覚えました。
(いけない。
また私ったら、惚けた顔をしていたのかしら?)
そういえば、ようこに麗さまの話をするときはいやらしい顔になっているとクギを刺されたことがありました。
「みつきさまには事後報告になってしまいましたが、お話があります。」
「なあに?」
改まって向かい側のソファに腰掛けた紘次郎は私を見つめました
「実は。」
紘次郎の口から飛び出したのは、寝耳に水の恐ろしい言葉でした。
「あなたのお父上である松之助さまの銀行が破綻してしまいました。」
「エエッ⁉」
「でもご安心を。
実は、私が顧問になっている会社が日銀から特別融資を受けることができましてね。
今は事業の再編のための話し合いの最中なのです。」
「はたん? さいけん? ゆうしって…なんのこと?」
私は頭が真っ白になってしまいました。
紘次郎は顔色を変えずに続けました。
「簡単に申しますね。
事業に失敗した松之助さまが当主の座を退かれて、私を綾小路家の新たな当主に任命されたのです。」
「ま、まさか、紘次郎がこの家を継いだと…そういうこと?」
「そのとおり。」
衝撃で何も言えなくなった私に、紘次郎が追い討ちをかけました。
「みつきさまはご存知なかったでしょう。
私は跡取りのいない綾小路家の後見人として、幼少期より公爵家で育てられていたのです。」
「そ、そんなこと!
お父さまからは聞いていないし、とうてい信じられないわ‼」
私は息を吸うのも辛くなり、頭が割れるように痛くなったので額を押さえてうつむきました。
紘次郎は、そんな私に冷たくこう言い放ちました。
「綾小路家の当主として、みつきさまに命令します。」
「めいれい?」
「五色麗との婚約は破棄して、私と夫婦になるのです。」



