ゆらり、ゆらりと心地よい揺れが、八重の身体を優しく包んでいた。
京都から江戸へと続く東海道。籠の外からは、春の陽光に浮かれた鳥のさえずりと、道を行く旅人たちの賑やかな足音が、薄い御簾越しに伝わってくる。
島原の、あの光も届かない湿った小部屋が、今はもう遠い前世の出来事のように感じられた。
最後に見た島原の人々の顔は、呆気にとられたような顔だった。
八重が、華やかな花魁姿で買われていく。その光景は、八重のことを見下し、軽んじていた人々の目に、奇妙に映っただろう。
八重は自分の手首をそっと見つめた。命を削るようにして咲き誇っていた花は、夕霧が江戸から持ち帰った秘薬のおかげか、今では薄い痕を残すのみとなっている。死の淵を彷徨っていたのが嘘のように、指先には確かな血の気が通っていた。
「……手が、綺麗になってきました」
ぽつりと、自分でも気づかないうちに独り言が漏れた。
隣に座る男——夕霧が、その大きな掌で、八重の細い手を包み込む。
「あの花も綺麗やったけどなあ」
「……そんなことを言うのは、夕霧さんだけですよ」
八重は夕霧に苦笑いを返す。
「お医者さんから聞いた話なのですが、花咲き病の副作用に、傷口の血が固まりやすくて、他の人より怪我が治りやすいというものがあるらしいんです」
「へえ?」
「あれだけ憎かった病に助けられました。何事も、一長一短なのかもしれないですね」
八重はその熱に甘えるように、彼の肩にそっと頭を預ける。
「夕霧さん……まだ、夢を見ているみたいです。島原を出て、あなたと一緒に江戸へ向かっているなんて。私のような女にあんな大金を出して、よかったんですか」
「まだそんなこと言うてんのか。あんた、自分の価値を分かってへんなあ」
夕霧は、愛おしそうに八重の髪を指で梳いた。
「俺は、あんたを助けたんと違う。俺が、あんたに救われたんや。……あの雪の夜、死にかけてた俺に帯を預けてくれた、あの時からな。生きている限りどこへでも行ける、って言うたんはあんたやで」
夕霧の瞳が、八重の瞳を正面から射抜く。博徒の冷徹さは消え、そこには一人の男としての、剥き出しの情愛だけがあった。
「江戸に着いたら、すぐに身を落ち着ける場所を整える。……八重」
名前を呼ばれ、八重の心臓が跳ねる。
「正式に俺の妻になってほしい。あんたを俺の隣に置きたいんやけど……嫌か?」
夕霧は、少し照れくさそうな顔をしていた。
八重の目から、温かいものが溢れ出す。かつて絶望の中で捨て去ったはずの、平凡で、けれど何よりも眩しい幸福が目の前にある。
「……嫌なわけ、ありません。私の方こそ……私でいいのなら、あなたの傍に、いさせてください」
八重は泣き笑いのような顔で、夕霧の胸に顔を埋めた。
夕霧は強く、折れんばかりに八重を抱きしめ、その額に優しく口付けを落とす。
「ああ。これからはずっと一緒や。あんたを二度と、泥の中に一人にせえへん。――愛してるで、八重」
籠の揺れに合わせて、八重たちの影が重なり合う。
春の風に乗って、東海道を江戸へと向かう道すがら、八重の心には新しい希望という名の花が、今度こそ枯れることなく咲き誇ろうとしていた。


