荒々しく襖が開けられ、夕霧が部屋を去っていく。
暗がりの中に取り残された八重は、しばらく呆然としていた。
(……違うって、気付いてくれた)
今の自分は、泥を啜り、病に蝕まれた無残な姿だ。それでも夕霧は、そんな八重を褒め、そして、虚飾に満ちた小紫の美貌は褒めなかった。
八重は震える足に力を込め、閉じ込められていた戸を、体当たりして押し開けた。
「勝手に出るやなんて、何事どす! 誰も許し出してへんえ!」
外に飛び出した瞬間、小紫が金切り声をあげて八重の髪を掴みかかってきた。
先程夕霧に拒否された怒りが、そのまま八重にぶつかってくる。
乾いた音が響き、八重の頬が大きく弾き飛ばされた。
八重は床に這いつくばった。けれど、唇を噛み締め、震える手で畳に手をつき、這い上がるようにして立ち上がる。
「っ、この……っ!」
小紫が逆上し、再び八重の顔を殴りつける。何度も。
艶やかな打掛が乱れ、髪飾りが畳に落ちて砕けることにも構わず、小紫は八重を何度も打った。
八重は、口の端から温かい血が伝うのを感じながらも、そのたびに何度も立ち上がった。そして、折れることのない瞳で小紫をまっすぐに睨み上げた。
「な、何なんやあんた! 今まで死にかけみたいに大人しゅうしてた癖に、急に反抗してきて……!」
小紫がその異様なまでの気迫に圧されたのか、顔に恐怖を浮かべて一歩後退る。
八重は口元の血を拭うことさえせず、 走り出す。八重にぶつかった小紫はよろめき、派手な音を立てて転倒する。
部屋の外で成り行きを見守っていた遊女や男衆たちは、あの従順だった八重の初めての反抗に、ただ呆然と立ち尽くしているようだった。
「何してんの! 追わんかい、この役立たず! 捕まえて引きずり戻しなはれ!」
背後で小紫の狂ったような叫びが響き渡る。
けれど、八重はもう止まらなかった。
店を飛び出し、雪の降り積もる外へと裸足のまま飛び出す。
闇雲に、夜の島原を走った。
(どうして……どうして私は、こんなに必死になっているんだろう)
ずっと、早く死にたいと思っていた。ただ朽ちていくだけの日々に絶望していた。なのに、今の自分はこれほどまでに激しく生を求めている。
思い出すのは、夕霧がふとした瞬間に見せた笑顔。
しるこを差し出してくれた大きな手。
抱き締めてくれた時の、甘やかな声。
冷たい風の中を、白い息を吐き出しながら走るうちに、八重はようやくその答えに辿り着いた。
(……そっか。私、夕霧さんのことが、好きなんだ)
それは、病に侵された身体に残された、淡い恋心だった。
遠ざかる夕霧の背中を見つけた瞬間、八重の喉からは震える叫びが溢れ出す。
「夕霧さん……っ!」
島原の大門を抜けようとしていたその背中が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返った夕霧の瞳に、夜の雪に紛れて駆け寄ってくる八重の姿が映る。八重は勢いのまま、彼の広く、確かな温もりのある胸の中へと飛び込んだ。
「どないしたん。あんたから俺んとこ来るなんて、珍しいやん」
不意の衝撃にたじろぎながらも、夕霧は少し嬉しそうに目を細めた。彼は大きな掌で、乱れた八重の髪を優しく撫で下ろす。
しかし、八重の顔を覗き込もうと顎を上げた時、その眼差しは鋭く凍りついた。
月光の下、赤く腫れ上がった頬と、口の端に滲む血の痕が見えたのだろう。
「……誰にやられたん」
地を這うような声だった。夕霧は忌々しそうにちっと舌打ちを漏らす。八重を慈しんでいたはずの瞳に、獣のような殺気が宿った。
「あっ、こ、これは……その」
八重は自分の無様な姿を悟り、慌てて着物の裾で口元を隠した。けれど、夕霧は彼女の手首を優しく、逃がさぬように掴み上げる。
「逃げてきたん? 誰や、教えて。あんたのこと傷付けた奴、俺が今から殺したるから」
その目は本気だった。
京の裏社会を震え上がらせる博徒の首領としての、剥き出しの殺意がそこにある。八重はぎょっとして、ぶんぶんと必死に首を横に振った。
「ち、違います、逃げてきたんじゃないんです……。殺さないで。私は、ただ……」
八重は俯き、自分の震える指先を見つめた。心臓の音がうるさい。
「……あなたに、会いに来ました」
一瞬、雪の降る音さえ消えたかのような静寂が訪れた。
夕霧が再び、信じられないものを見るように目を見開くのが分かった。
「……俺に?」
「はい。どうしても、会いたくて……」
沈黙が続く。八重はおそるおそる、拒絶される恐怖を抱えながら顔を上げた。
そこにいたのは、恐ろしい博徒の姿ではなかった。
夕霧は片手で自分の顔を覆い、八重から視線を逸らしていた。耳の先まで、火がついたように真っ赤に染まっている。
「見やんといて」
「……え?」
「あんたが走って俺に会いに来たって思うと、なんか嬉しくて……格好つかへんやんか」
いつも不敵に笑い、女を惑わすことなど容易そうに見えた男が、今は一人の少年のように狼狽えている。
今、この瞬間にすべてを明かしてしまいたい。自分こそが、あなたが十数年も捜し続けてくれたあの夜の少女なのだと。
八重は、昂る感情に突き動かされるまま、言いかけた。
「あ、あの、ずっと黙っていたのですが、あなたが捜している紅の帯の人は――」
けれど、言葉が零れ落ちる寸前で、残酷な現実が頭を掠めた。
八重の身体は、既に花咲き病に侵されている。この痣が全身を覆い尽くす頃には、命の灯火が消えてしまう。
(私の寿命は、あとわずか。告白して、もし恋人になれたとしても、私は彼を幸せにしてあげられない。最期に、深い悲しみを与えてしまうだけ……)
八重は夕霧に言いかけた言葉を飲み込み、逃げるように視線を落とした。雪の上に落ちる自分の影が、ひどく儚く見えた。
「……どないしたん」
「……いえ。何でもありません」
八重は萎れたように肩を落とし、無理に笑顔を作って言葉を続けた。
「……捜している帯の人、早く見つかるといいですね」
力なく微笑んだ――その時だった。
「待ちさらせ、この死に損ない!」
「八重、どこへ逃げたんや!」
後ろから、松明を持った六郎や店の男衆たちが雪を蹴立てて駆け寄ってきた。彼らは八重の姿を見つけるなり、口々に罵声を浴びせかける。
「店に断りもなく外へ出るなんて、どうなってもええんやろうな!」
「病持ちの癖に男をたぶらかして、どこまで厚かましい女や!」
その怒声が八重に届くより早く、夕霧が彼女の前に立ちはだかった。
一瞬にして、先ほどまでの照れくさそうな空気はなくなり、夕霧から溢れ出した強烈な殺気が、降りしきる雪さえも凍りつかせる。
「誰の女に口きいとるんや。これは、俺の女やぞ」
六郎たちが、そして八重までもが驚きに目を見開いた。夕霧は、怯える男衆一人ひとりを射抜くような鋭い眼光で威圧し、重い声で続けた。
「この女を次にぞんざいに扱うてみぃ。ただで済む思たら大間違いやぞ。……分かったら、さっさと失せぇ。俺の気が変わらんうちにな」
博徒の首領としての脅しに、六郎たちは顔を真っ青にして後退り、蜘蛛の子を散らすように店へと逃げ帰っていった。
夜の静寂が戻る。夕霧は何も言わず、八重を寝泊まりしている屋の入り口まで送り届けた。
夕霧は、薄暗い軒下で立ち止まると、八重の頭を大きな掌でぽんと優しく撫でた。
「……さっき、何で言うんやめたん?」
見上げた夕霧の顔には、どこか全てを見透かしているような、悲しげな微笑みが浮かんでいた。
「……え」
「帯の女は自分や、って言おうとしたやろ」
「…………」
言い当てられ、八重は何も返せなかった。
「〝早く見つかるといいですね〟か」
「…………」
「それが、あんたの答えか」
「あ、の」
震える声で何か言おうとした時には、もう遅かった。
「最初から、分かってたよ。このあたりで江戸の言葉は、あんたしか使うてへん。ただ、確証がなかっただけや」
八重は目を見開く。
最初、というのは、八重が夕霧の前で言葉を口にしたその時、ということだろうか。
「夕霧さ……」
「いけずやなあ。俺があんたのこと好きって知っとるくせに」
夕霧は、切なげに笑ってそれだけ言い残すと、踵を返して一度も振り返ることなく、闇夜のの中へと消えていった。
八重は、もう追うことができなかった。追えば、また気持ちが溢れて、後先考えずに好意を口にしてしまう。だから、遠ざかる背中をじっと見つめ続けていた。
八重は初めて、己の病を呪った。
あくる日から、八重の勤める店の空気は一変した。
あれほど八重をいじめてきた者たちが、薄気味悪いほど関わってこなくなった。夕霧が残した脅しは、六郎や遣手たちの肝を冷やすには十分すぎるものだったらしい。
直接的な暴力も、執拗な罵倒も、嘘のように止まった。
「……あっち行こ。関わり合いにならん方がええわ」
「せやな。あのお人に何言いつけられるか分からへんし」
八重が通りかかると、人々はあからさまに視線を逸らし、波が引くように道を開ける。
影で囁かれる悪口や、遠巻きに見つめる冷ややかな目を向けられるが、前の地獄に比べれば、身体的な痛みがない分ましだった。
一週間、二週間と、降り積もる雪とともに時間だけが過ぎていく。
夕霧はあの日を境に、島原から姿を消した。
◆
夕霧が来ない夜が続くうちに、廊下の隅や座敷の陰で、遊女たちがひそひそと噂話を交わし始める。
「あのお方、ほんまに来はらへんようになったなあ」
「どっか別の土地にでも、ふらっと行きはったんやろ」
「あの帯の女捜すの、もう飽きはったんちゃう? 男の執着なんて、そんなもんやわ」
淡々と仕事をこなしながら、八重はその噂話を聞いていた。
無茶な重労働を押し付けられなくなった分、八重には暇な時間が増えた。
八重は、誰も来ない冷え切った二階の端部屋で、格子の隙間から、しんしんと雪が降り続く島原の景色を眺めていた。
(……まるで、幻だったみたい)
木屋町で食べた温かいしるこの味も、雪の中で自分の手を包み込んでくれた、あの大きな掌の熱も。それら全てが白昼夢だったのではないかと思えるほど、夕霧はいつの間にか姿を消していた。
(どうして、落ち込んでいるの。自分の意思で、突き放したくせに)
夕霧がいない世界は、以前よりもずっと色が抜け落ちて見える。
「……っ、げほっ……」
短く咳き込むと、胸に鋭い痛みが走った。
八重はそっと着物の合わせを寛げ、自分の肌を見つめる。そこには、以前よりも鮮明に、そして数を増した白い花が咲き誇っていた。首筋から鎖骨へ、そして腕へと、命を吸い上げながら侵食していく痣。
花が咲き満ちる時、八重の命は散る。
(私だって、追いたかった……。あの人の思いに、答えたかった)
けれど、幸せになってしまったら、きっと別れが怖くなる。
彼を悲しませてしまうことも、いずれお別れが来ると分かっていて恋人として接することも、八重には耐えられない。
(これでよかったのよ)
八重は自分にそう言い聞かせた。
もしも、病などなかったら。もっと肌が綺麗で、体も羽のように軽かったら。あの人の隣で笑っている未来もあったかもしれない。そう思うと、悔しくて涙が溢れた。
◆
冬の雪が、いつの間にか、足元から溶け出していた。冷たい風が消え、代わりに湿った土の匂いと、芽吹く命の気配が島原の街を包み込んでいく。
島原の入り口、大門の傍らに立つ柳の木も、薄緑の柔らかな芽を揺らし始めた。冬の間は骸骨のように痩せこけていた枝が、春の風を孕んでしなやかに舞っている。
行き交う遊女たちの打掛も、若草色や桜色の軽やかな柄へと装いを変えた。春が彼女たちの美貌を輝かせている。
一方で八重は、花咲き病が悪化し、二階の端部屋に籠もるようになった。
格子窓から差し込む陽光が、部屋に積もった埃を白く照らし出す。外で美しく咲き誇る桜と呼応するかのように、八重の白い肌に根を張った花もまた、その勢いを増していた。鎖骨を這い上がり、今や首元まで大きく咲き、血を吸うように紅くなった。
世界が色を取り戻せば取り戻すほど、夕霧のいた冬の夜だけが、八重の心の中で色彩を失わずに輝き続けていた。
八重は布団から身体を起こすことさえ億劫で、布団の中でただ浅い呼吸を繰り返していた。首筋まで這い上がった紅い痣が、じくじくと熱を持って疼く。死期が近いことを、身体で感じた。
その時、前触れもなく、部屋の襖が乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、目が眩むほどに艶やかな打掛をまとった小紫だった。
「えらい辛気臭い部屋どすなぁ」
小紫は八重を見下ろし、鼻で笑った。
「ほんま、見る影もあらへんわ。あんた、昔はあんなに輝いてたのに。今はもう、枯れ木みたいに死にかけて……惨めなもんやわぁ」
小紫の言葉は、猫を撫でるような甘ったるい声でありながら、鋭利な刃物のように八重の心を抉る。
八重は何も言い返せず、ただ力なく視線を逸らした。
小紫が一歩、また一歩と近づいてくる。八重は、その手に冷たい光を放つものが握られていることに気付き、息を呑んだ。懐剣だった。
「そんなに苦しいんやったら、うちが、死ぬ手伝いをしてあげるわ」
「な……なん、で……」
問いかける声は、掠れてほとんど音にならなかった。
小紫の美しい顔が、至近距離で歪んだ笑みを浮かべる。
「目障りなんよ。あんたが、生きとるだけで」
ドスッ、という鈍い音が、自分の身体から響いた気がした。熱い衝撃が腹部を貫く。
痛みは遅れてやってきた。焼けるような激痛が走り、八重は声にならない悲鳴をあげて布団の上で悶えた。
「花街の連中は、未だに言うんよ。あんたほどの花魁はおらんてなあ。うちはそれが、腹立って腹立って、仕方があらへんのや。何で皆、あんたみたいな女に夢中なんやろか。あんたが表舞台から去ってから、何年も経っとるのに」
小紫は懐剣の柄を握りしめたまま、さらに深くねじ込んだ。
八重の口から、ごぽりと赤い塊が吐き出される。
「あんたが皆の心の中で生きてる限り、うちはいつまで経ってもこの島原の一番にはなられへんのやっ!」
柄まで深く突き刺さった刃は抜けない。傷口から、止めどなく熱い血が溢れ出し、布団を赤黒く染めていく。
意識が急速に遠退いていく中で、小紫の声だけが奇妙にはっきりと響いた。
「……そうそう。六郎もな、まだあんたのことが好きなんやって」
「……え……?」
薄れゆく意識が、その名前に引き戻された。六郎。あの、残酷で卑劣な男。
「みんな、みぃんな、何であんなに、あんたがええんかしらねえ?」
小紫が、あはは、と狂ったように笑い声をあげた。天井を仰ぎ、涙を流しながら笑っている。その姿を見て、八重の頭の中で、ばらばらだった破片が一気に繋がった。
(……そうか。そういうことだったの)
小紫が、昔から執拗に八重を目の敵にしていた理由。
花魁の座を巡る競争だけではなかったのだ。彼女は、まだ八重が頂点にいた頃、八重を影から熱っぽい目で見つめていた、あの男――六郎のことが、ずっと好きだったのだ。
八重は、自分に向けられる嫉妬と憎悪の根源が、これほどまでに哀れで、歪んだ恋心であったことに、奇妙な納得を覚えていた。
どたどたと、古い木階段を激しく踏み鳴らす音が階下から響いてきた。
意識の混濁の中、その足音だけが大きく聞こえた。刺された腹部から溢れ出す熱が、体温を奪い、感覚を麻痺させていく。けれど、次に聞こえた声が、消えかかっていた八重の魂を無理やりこの世に繋ぎ止めた。
「八重! 八重、おるか!? 八重!」
楼主の、ひどく興奮した声だ。
「博徒の夕霧はんが、えらいぎょうさん金積んで、あんたを買いに来はったで! 迎えや! 身請けや!」
八重は、血の気の引いた唇をわななかせ、大きく目を見開いた。
嘘だ。あの方はもう、自分を忘れたのだと思っていた。どこか遠い場所へ行ってしまったのだと。……それなのに。
「……うそ……」
声にならない。
夕霧が、迎えに来た。帯の女は自分ではないと嘘を吐き続け、最後まで彼の愛を真っ向から引き受ける勇気を持てなかった、不甲斐ない自分を。
目の前の小紫から、それまでの狂気じみた笑いが一瞬で消えた。彼女は顔を強張らせ、焦ったような顔をした。
小紫の白い手は、八重の返り血で真っ赤に汚れている。今、楼主がこの部屋に入ってくれば、全てが露見する。
この店の看板が、嫉妬に駆られて人を刺し殺したとなれば、いくら相手が蔑まれている八重とはいえ、さすがに心証が悪い。
「……っ!」
小紫は狼狽えたまま、血濡れた手で這うようにして戸口へ向かった。そして、内側から必死に戸を抑え込む。
「八重……八重はおらへん!」
小紫は震える声を張り上げ、外に向かって叫んだ。その声は、取り繕おうとすればするほど、異様な切迫感を孕んでいるように聞こえた。
「……小紫? 小紫、あんた、何でその部屋におるんや」
廊下から聞こえる楼主の声に、戸惑いが混じる。普段、格式高い小紫が、下働き同然の八重の薄汚れた部屋にいるはずがないのだ。
「夕霧はんが、待ちかねてはんのや。そろそろこっち来るで。はよう八重を出して。あのお人、機嫌損ねたら何しはるか分からへん」
がたがたと、外から戸を開けようとする衝撃が伝わってくる。
しかし、小紫は歯を食いしばり、細い肩で戸を押し返した。八重はただ、小紫の後ろで、溢れ続ける自分の血を見つめるしかない。
「八重はおらへんって言うとるやろ! どっか、水仕事でも行かはったんや。うちは、忘れ物を取りに来ただけどす!」
「そんな阿呆な! 誰があの死にかけを呼ぶか。ええから開けなさい、小紫!」
「おらへん! おらへんのやさかい、あっち行きよし!」
小紫が苛立ちと恐怖の混じった声で怒鳴り散らす。
それを聞きながら、八重の意識は再び、昏い闇のなかへと沈みそうになっていた。
(夕霧、さん……。……夕霧さん……会いたい)
遠退く意識の中、あの美しい男の名前を呼ぶ。
(私が馬鹿だった)
優柔不断で、思いを伝えきれなかったくせに。
今、こんなにも夕霧に会いたい。
「――……私は、ここにいます!」
最後の一滴まで命を振り絞るような叫びだった。
戸を押さえていた小紫の肩が、びくりと跳ねる。彼女は鬼のような形相で八重を振り返った。
「夕霧さん……っ! 夕霧さん!」
それでも八重は、何度も、何度も、その名を呼び募る。
喉が裂けても構わなかった。これがあの人の耳に届く、最期の言葉になってもいい。
「馬鹿! あんた、声出すんやないわ!」
小紫が逆上し、八重を黙らせようと手を伸ばす。
しかし、その指先が八重に触れるより早く、凄まじい音と共に部屋の戸が蹴破られた。
埃が立ち込める中、入り口に立っていたのは、顔を真っ青にした楼主と、そして——。
「……八重」
夕霧の姿がそこにあった。
「あ……あぁ……」
八重の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。頬を伝う雫が、床に広がった紅い血溜まりへと落ちていく。
夕霧は、そこに小紫がいることなど眼中にないかのように、迷わず八重の元へ駆け寄ってきた。
「八重!」
夕霧の大きな掌が、血塗れになった八重の身体を強く抱き締める。高価そうな着物が汚れゆくのも厭わず、彼は八重を離すまいと腕に力を込めた。
八重は、彼の胸元から漂う甘い香りに包まれ、ようやく自分がまだ生きていることを実感した。
夕霧は八重を抱いたまま、ゆっくりと、蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くす小紫を見上げた。
「お前、ただじゃおかんからな」
その静かな怒りに満ちた声音には、怒号よりも恐ろしかった。
小紫はひゅっと息を吸い込み、恐怖のあまりかガチガチと歯を鳴らし始めた。
「ち、ちが……違います、う、うちやない、うちやないっ! これは、八重が自分で……っ!」
「黙れ。その手に付いた血は何やねん」
夕霧は冷酷に言い捨てると、傍らに控えていた側近に視線だけで命じた。
「その女を連れて行け。二度と日の当たる場所に出れんように売り飛ばせ。今すぐにや」
「な……っ! いや、嫌や! 離して、離しなはれ!」
悲鳴を上げる小紫の腕を、夕霧の部下たちが無造作に掴み上げる。
引きずられていく小紫を、楼主も、廊下に集まった遊女たちも、駆けつけた六郎でさえ、誰一人として助けようとする者はいなかった。ただ、彼女の虚しい叫びだけが、廊下に長く尾を引いて消えていった。
八重の意識は、激痛と安堵のあわいで激しく明滅していた。腹部を貫く熱が体温を奪い去っていく。床を染める自分の血の色を見るにつけ、ああ、自分はもう助からないのだと、八重は命の終わりを確信していた。
八重は、震える腕で夕霧の首にしがみついた。
「夕霧さん……夕霧さん、私、あなたのことが……大好きです」
溢れ出す涙が、彼の着物に吸い込まれていく。
「ああ。分かっとる。俺もや。……せやから、こうして迎えに来たんや」
耳元で響く夕霧の声が、優しく八重を包み込んだ。
八重はさらに強く彼に縋り付き、嗚咽を漏らした。
「ごめんなさい……私、もう長くは生きられないから。伝えたらあなたを苦しめてしまうと思って、あの時、言えなくて……。もう愛想を尽かされたんだと、二度と会えないんだと思っていました。なのに……どうして。どうしてこんな私に、また会いに来てくださったのですか」
その問いに、夕霧は愛おしそうに目を細めた。その瞳には、八重の絶望を全て撥ね除けるような、力強い光が宿っている。
「俺があんたのこと、諦められるわけないやろ。ずっと江戸に行ってたんや。あんたのその病を治す薬、必死で探しててん」
「…………え」
八重の動きが止まった。予想だにしない言葉に、視界の霞が一瞬だけ晴れる。
「あんたの元を離れる気ぃなんて、端からない。あんたを死なせる気も、さらさらないわ」
夕霧はそう言い切ると、羽毛でも扱うような手つきで八重を抱き上げた。
長らく閉じ込められていた、黴臭い部屋。夕霧はそこから八重を連れ出し、ゆっくりとした足取りで外へと歩き出す。
部屋を出て、廊下を渡り、春の夜風が吹き抜ける店の外へ。
「夕霧さん、お医者を呼びました!」
外には、夕霧の配下が大勢待ち構えていた。彼らが連れてきた腕利きの医者が、すぐさま八重の止血に取りかかる。
「八重、もう大丈夫や。あとは全部、俺が何とかしたる」
遠退いていく意識の中で、八重は空を見上げた。
島原を彩る桜の花びらが、夜風に乗って粉雪のように舞い散っている。かつては死の予感に怯えて眺めたその光景が、今は祝福の雨のように感じられた。
すぐ傍に夕霧がいる。それだけで、もう何も怖くなかった。


