京の都の悪党は、花街の落ちぶれ姫に病んでれる


「まあ、小紫姉さんなら造作もないことどすな!」
「あのお方も、姉さんのような美人に迫られたら、イチコロどすえ」
「お似合いどすわぁ、京を統べる男と、島原一の美女。絵になりますなぁ」

 周りの遊女たちが囃し立てる。小紫は満更でもない様子で、紅い唇を吊り上げた。

「……あのお人が探してはる紅い帯の女とやらも、どんな人か知らんけど、うちの方がええ女に決まっとる。あないな上等な帯、今の島原でうち以上に似合う女がおると思う?」

 小紫がふと漏らした言葉に、周りを囲んでいた遊女たちが、待っていましたとばかりに華やかな声を上げた。

「ほんまに。小紫さんに似合わへんもんなんて、この島原に一つもあらしまへんわ」
「せやせや、あのお方が探してはるおなごが誰かは知りまへんけど、小紫さんに勝る器量やなんて考えられへんわぁ」

 遊女たちは、小紫の機嫌を損ねぬよう、競い合うようにして囃し立てる。扇子を広げて口元を隠しながら、高い声が部屋に響き渡った。すると、一人の遊女が小紫の肩に手を置き、悪戯っぽく囁いた。

「いっそのこと、姉さんが『うちがあの帯の主や』て名乗り出はったらどうどす? あのお方、必死になって探してはるみたいやし。小紫さんみたいな美人にそう言われたら、あのお方かて悪い気はしはらへんはずどすえ」
「あら、それ名案やわ!」

 部屋中がどっと沸いた。小紫は「困った人たちやわ」と口では言いながらも、満更でもない様子で紅い唇を吊り上げ、満足げに喉を鳴らした。
 その様子を横目に、八重は何も言わず、ただ指先に力を込めて布を動かした。
 昨夜の夕霧の言動は、一夜の気まぐれに過ぎない。あんな男が今の八重を本気で相手にするはずがないのだから。
 そう自分に言い聞かせ、心を無にして、時間が過ぎ去るのを待った。


 夜が訪れた。八重は、客と遊女が寝ている部屋の行灯に定期的に油を補充し、その合間に大きな竹箒で玄関の土を掃き出していた。
 月は雲に隠れ、冷たい風が八重のぼろぼろで薄い着物を容赦なく突き抜ける。
 その時、雪を踏みしめる足音が近付いてきた。
 顔を上げる。そこに立っていたのは、羽織を肩にかけた夕霧だった。

「え……」

 八重は息を呑み、思わず周囲を確認した。誰もいないことに、ほっと胸を撫で下ろす。
 ただでさえ八重は周りからいい印象を持たれていない。博徒の人間と一緒にいるところを人に見られたら、何を噂されるか分かったものではない。
 夕霧は、堂々と八重の前に立つ。昨夜と同じ、甘やかな毒を孕んだような微笑みを湛え、まるで自分の屋敷の庭でも歩くかのような足取りで。

「……どうしてここに」
「迎えに来たに決まってるやん」
「…………」
「夜、飯食おうて言うたやろ」
「……言いましたけど」
「約束、本気にしてへんかったん?」

 夕霧が八重をじっと見つめる。八重は驚きのあまり、言葉が出てこなかった。ただ、自分を映し出す彼の瞳を、吸い込まれるように見つめ返すことしかできなかった。

「仕事、まだ終わらへんの? 待つの、あんまり好きやないんやけど」

 夕霧は一歩、八重の方へ踏み出した。雪を纏った夜気が、彼の動くたびにわずかに揺れる。

「……まだ終わっておりません」
「他の人らは?」

 夕霧がちらりと店の奥を窺った。宴の喧騒が遠くに聞こえるが、この時間帯、遊女たちは皆座敷へ出ており、人の気配はない。

「誰もおらへんやんか。何であんただけ働いとるん?」
「…………」

 他の者の分まで仕事を押し付けられている、とは言えなかった。
 問い詰められるのが気まずくて、八重は逃げるように視線を逸らした。
 そんな八重の、あかぎれだらけの冷たい手を、夕霧は躊躇いもなくその温かな掌で包み込む。

「仕事なんて放っといたらええやん。俺と一緒に行こ」
「……いえ、これを終わらせないと……」

 八重がその手を振り払おうとした、その時。夜の静けさの中で、八重の腹が情けなく鳴った。
 一日中、ろくに食事も摂らせてもらえなかった身体は、あまりに正直だった。八重は羞恥に顔を真っ赤にして俯く。それを見た夕霧が、毒気を抜かれたようにぷっと噴き出した。

「飯食うた方が、仕事の捗りもようなるやろ。そんなんは、後でしたらええんや」

 夕霧に強引に手を引かれ、八重は、抵抗する気力もなくしてしまった。


 二人は島原の重厚な大門を潜った。本来、夜分に門を出るには厳しい詮議が必要だが、門番たちは夕霧の顔を見るなり、吸いかけの煙管を慌てて隠し、深く頭を下げた。
 夕霧の大きな背中を追い、柳の木を通り過ぎる。

 夕霧が八重を連れてきたのは、島原の西、壬生(みぶ)へと続く道すがら、夜闇にポツリと灯る夜店の立ち並ぶ一角だった。
 島原は四方を壁と堀に囲まれた隔離された街だが、門の外には、参拝客や見物人を当て込んだ屋台や見世物小屋が立つことがあった。
 夕霧は、人気の少ない小さな神社の境内に立つ、一軒の屋台に八重を誘った。そこは、しるこを売る屋台だった。

「ほら、座り」

 夕霧は丸太を削っただけの粗末な腰掛けに八重を座らせると、自分もその隣に腰を下ろした。彼が纏う上質な羽織と、屋台の素朴な佇まいの対比が、どこか現実味を欠いて見える。
 差し出された椀からは、濃厚な小豆の甘い香りと、香ばしく焼かれた餅の匂いがする。 一口啜ると、身体の芯まで染み渡るような熱さと甘さが、凍えていた八重の心を解きほぐしていった。

「……甘い、ですね」
「せやろ」

 夕霧は自分の分には目もくれず、八重が椀を運ぶ様子を、満足げに細めた目で見つめている。
 八重は彼から目を逸らす。仕事を抜け出してこのようなこと、良いのだろうか。小さな罪悪感が八重を襲っていた。

「浮かへん顔やな」
「……仕事を抜け出したなんて知られたら、後で怒られる気がして……」

 八重は以前叱られた時の痛みを思い出し、自分の細い腕を、守るようにぎゅっと掴んだ。夕霧の鋭い目が八重の動作を捉える。彼は無言のまま八重の手首を掴み、躊躇いなく袖を捲り上げてきた。
 そこには、数日前に料理番の男に叩かれた鞭の生々しい痕が、赤紫色の筋となって浮き出ている。

「……っ!」

 八重は恥ずかしさに顔を伏せ、慌てて手を引き抜こうとした。しかし、夕霧は離してくれない。
 夕霧の眉間に深い皺が寄った。その瞳には、夜の闇よりも深い怒りの色が混じる。

「あんたを苦しめる奴ら、俺が全員片したろか」

 と、物騒な囁きを漏らされた。
 八重は驚いて言葉を失う。夕霧の顔は真剣そのものだ。冗談とは思えない。この男なら、本当に一夜にしてあの店を血の海に変えてしまいかねない——その恐怖が八重を震えさせた。
 八重は慌てて首を横に振った。

「いいえ。そんなことは望んでいません。あの店がなくなったら、私は住む場所がなくなってしまいます」

 生先短い花咲き病の女に、宿を貸してくれる者などいないだろう。この寒い京の冬を外では過ごしたくない。
 夕霧は不満げに鼻を鳴らしたが、ようやく指の力を緩めて八重の手を離した。
 八重は逃げるように、温かいしるこを一口啜る。

 屋台なんてものに来たのは、久しぶりだ。
 親に売られ、江戸から島原に送り込まれてからは、芸事に明け暮れる日々だった。容姿に恵まれ、茶道や華道、和歌の才気もあった八重は、飛ぶ鳥を落とす勢いで頂点へと上り詰めた。けれど、その栄光のしっぺ返しのように、今は不幸の中にいる。
 ふと、さらに遠い過去——江戸で両親と笑いながら屋台を歩いた記憶が、しるこの甘みと共に蘇った。

「……懐かしい」

 呟くと、隣の夕霧が何故か驚いたような顔をした。

「……あんた、今、笑たか?」
「え?」

 八重は、戸惑いながら自分の口元に触れる。言われてみれば、ずっと強張っていた頬が、わずかに緩んでいたかもしれない。
 すると、夕霧が先ほどまでの険しさを嘘のように消し、ふにゃりと、蕩けるような笑みを零した。

「かわええなあ。あんたには、笑顔が一番似合(にお)うてる」

 その真っ直ぐな言葉と表情に、八重の心臓が不規則な音を立てる。八重は動揺を隠すように顔を背け、残りのしるこを一気に喉へ流し込んだ。

 その後、八重は近くの神社へと足を運んだ。石段を上り、凍てつく空気の中で共に手を合わせる。八重は、自分のために何を願えばいいのか分からなかった。ただ、隣に立つ男の、衣擦れの音だけを聴いていた。
 参拝を終え、静まり返った境内の階段を下りながら、八重はふと気になっていたことを口にした。

「……あなたは、何を願ったのですか?」

 夕霧は歩みを止めると、懐からあの紅の帯を静かに取り出した。月光に照らされた絹の赤が、鮮やかに浮かび上がる。

「この帯してた子と、俺が結ばれますようにって」
「結ばれ……」
夫婦(めおと)になれますようにって」
「夫婦っ?」

 八重は思わず立ち止まり、素っ頓狂な声を上げてしまった。一体何のために必死に探し回っているのかと不思議に思っていたが、それがまさか、そのようなことを目指していたとは。本当に意味が分からない。
 八重は動揺を隠しつつ、努めて穏やかな声を絞り出した。

「それはまた……何故、そこまで」

 夕霧は八重をじっと見つめると、自らの着物の襟元をゆっくりとはだけさせた。

「えっ、な、な」

 八重が驚いて一歩さがると、夕霧がおかしそうに笑った。

「あほ。こんなとこで手ぇ出さんわ」

 そう言って、夕霧が己の体を指差す。
 その肌の上に刻まれていたのは、力強く天を衝く昇り龍と、散り急ぐような、彼岸花の刺青だった。

「昔、死にかけてた俺を助けてくれた人がおったんや。えらいべっぴんな花魁でな。その人が、この入れ墨見て言うてくれたんや。『その昇り龍みたいに、自由にどこへでも飛んでいけばいい。生きてる限りは、どこへでも行けるんだから』ってな」

 夕霧は紅の帯を愛おしそうに握り締め、目を細めた。

「昔の俺は、下っ端やったから、自由なんてなかった。命やって使い捨てられるような人間やった。やのにあの女は、自由にどこへでも行けるって、俺に希望を与えてくれた。やから決めてん。あの女が言うたような、どこへでも行けるような身になったら、絶対俺のもんにするって」
「そ……そう……なんですね」

 それは自分です、とは言えず、八重は相槌を打つことしかできなかった。
 夕霧は帯から視線を上げ、今度は八重を見つめてきた。

「あんたに、よう似とる」
「えっ?」

 声が裏返った。誤魔化すように言葉を続ける。

「いや、でも、その方は花魁なのですよね? こんなに肌が汚い私とは、全く異なるのでは……」
「見た目の話やないよ。雰囲気の話や。力強う咲く花みたいな、何にも負けん雰囲気がある」

 そう言って、夕霧はふと視線を上げた。
 神社の境内の奥に、梅林が見えた。八重もつられて、その木をじっと見つめる。

寒梅(かんばい)や。雪の中でも、誰に見られんでも、凛として咲いてて綺麗やろ」

 夕霧の視線の先には、闇の中に白く浮かび上がる小さな梅の花があった。
 八重はしばらくその花を見つめていたが、ゆっくりとした口調で否定した。

「……私は、あんなに綺麗ではありません。中には毒の花が咲いています」
「へえ? あんたの毒で駄目になるんやったらそれも一興やな」

 夕霧がくつくつと笑った。病のことを言ったのだが、と反応に困る八重の肩を、夕霧が不意に抱き寄せた。
 羽織越しに伝わる彼の体温が、八重の身体に染み込んでいく。

「あ、あのっ……」
「……このまま、誰も知らん遠い国へでも行けたらええのになあ。あんたの病も、俺の業も、全部雪に埋めてしもてさ」

 夕霧が、夢物語を口にする。八重はしばらく黙っていたが、そのうち抵抗する気をなくし、彼の胸元にそっと顔を埋めた。
 心地が良いと思ったからだ。
 こんなもの、この男の一時の気まぐれだろう。いずれ自分のような醜い女には飽きて、他所の花魁を拾ってどこかに行ってしまうに決まっている。それでも今、優しくされた温もりを受け止める。
 花咲き病が命を蝕んでいる。明日の朝になれば、また罵声と仕事が待っている。 けれど、この夜の、この甘い温もりだけは、誰にも奪わせたくないような気がした。


 ◆


 雪の降り積む島原で、八重の日常は、相変わらず泥を啜るような惨めさに満ちていた。
 けれど、そんな地獄のような日々の中に、一つの逃げ場が形作られていった。
 夕霧だ。夕霧は、隙を見ては八重を店から連れ出した。
 夜、島原の重い空気を抜けて茶屋へと向かう時間や、 夕霧と過ごす一時は、八重にとって、死を待つだけの余生に灯った唯一の光となっていった。
 最初は恐怖と警戒しかなかった。夕霧が何故自分なんかを毎晩のように呼び出すのか。けれど、共に膳を囲む回数が増えるにつれ、八重の心は少しずつ、彼に対する親しみを覚えていった。
  夕霧は、八重の身体に広がる花咲き病の痣を、まるで珍しく美しい模様でも見るかのように、恐れもせず見つめる。八重の自尊心は夕霧のおかげで、少しずつ回復していった。
 いつしか、人々に罵倒されても、今夜、あの男に会えるのだからと思えば、心の波立ちは静まるようになった。
 死を待つだけの絶望的な日々が、彼に会うまでの待ち時間へと変貌していく。 病が進み、身体が朽ちていく一方で、心だけが少し癒やされていく。

 ――しかし、そのような幸福はいつまでも続かなかった。

 ある日の木屋町からの帰り道。雪はさらに勢いを増していた。
 勝手口に辿り着いた時、暗がりに光る、二つの濁った眼があった。

「えらい遅いお帰りやな、八重さん」

 建物の影から、ねっとりとした声とともに現れたのは、若い料理番の六郎だった。 煤けた半纏を羽織り、手に持った提灯で八重の顔を無遠慮に照らし出している。

「どこで油売ってたんや。仕事が山ほど残っとるって、分かってて抜けたんか?」
「……申し訳ありません。少し、体調を崩して休んでおりました」

 八重は伏し目がちに答え、六郎の脇を通り抜けようとした。けれど、六郎はわざとらしく足を出し、八重を躓かせた。

「……っ」
「……体調、なあ。例の花咲き病が悪化しとるん? 汚らしい」

 六郎はわざとらしくそう言って、転びそうになった八重の細い腕を掴み上げた。そして、八重の耳元に顔を近付け、酒と安煙草の混じった息を吹きかける。

「聞いたで。今日、島原をうろついとる博徒の若頭が、紅い帯の女を探しとったって。まさかとは思うけど、あの御大層な男をたぶらかしとるんやないやろな?」
「……何のことか、分かりません」
「惚けるなや! さっき、お前があの男と茶屋に入っていくのを見た奴がおるんや。一体何企んどる……まさか、自分を買い取らせて逃げよう、なんて夢見とるんやないやろなあ?」

 六郎は八重の腕を強く捻り上げた。痛みに八重が顔を歪めると、彼はそれを楽しむように、卑屈な笑みを漏らす。

「無駄や。お前はもう、ここにおるしかないんや。楼主も、お前が死ぬまで絞り尽くすつもりやし、僕もお前が泣いて這いつくばる姿を、もっと拝ませてもらわな気が済まん」
「痛っ、痛い、です」

 苦しげな声を漏らす八重を、六郎は突き飛ばした。
 勢いよく床に叩きつけられ、冷たい板の感触と鋭い衝撃が全身を駆け抜ける。八重は呻き声を上げ、その場に蹲った。
 立ち上がることすらできず、土にまみれたような己の姿を自覚させられる。暗がりの中、六郎が八重を見下ろし、何か卑劣な名案でも思いついたかのように、その唇を不気味に歪めた。

「せや、ええこと思いついたわ。八重さん、僕と祝言挙げたらええねん」
「……は?」

 あまりに唐突で、忌まわしい言葉に、耳を疑った。

「そうすれば、あの博徒の男も、八重さんのこと諦めるやろ? 自分に気ぃあるふりしといて、黙って別の男と添い遂げたって知ったら、あのお人はどないしはるやろなあ。激怒して、八重さんのこと殺してまうかもしれんなあ?」

 愉しげに喉を鳴らす六郎の声が響く。
 血の気が引いていくのを感じる。絶望の淵で彼を見上げた。この男は、夕霧が自分に寄せる情を逆手に取り、最悪の形で踏みにじろうとしている。

「せや、そしたら早速、楼主さんに仲人頼まんとあかんな。八重さんみたいな女、本来やったら嫁の貰い手なんかおらへんけど、僕が慈悲で貰うてやる言うたら、楼主さんかて喜んで手打ちにしてくれはるわ。三三九度の盃も、内輪だけで済ませたら安上がりやしな。……ああ、祝言の夜には、八重さんのその痣だらけの身体に、紅い打掛やなくて、ボロの寝巻きでも着せて可愛がってやるわ」

 六郎は、祝言の具体的な準備の話を、さも楽しげに語り続けた。その言葉の一つひとつが、鋭い棘となって八重の心に突き刺さる。
 まるで、優しい夢から無理やり覚まされたようだった。
 夕霧の掌の温もりも、おいしい料理も、全てはこの薄汚れた現実を忘れさせるための幻覚だったのではないか。
 六郎に虐げられる今の姿こそが、自分の正体なのだ。自分はもう、誰かに愛される資格などない、汚れた女なのだと、嫌というほど思い出させられた。

 そして、八重と夕霧がただならぬ関係であるという噂は、追い討ちをかけるように、一晩にして店中に広まっていった。

「聞いたか? あの夕霧はん、よりによって花咲き病の女に執心してはるんやて」
「物好きにも程があるわ。死にかけの枯れた花を愛でるのが、あのお人の性癖なんやろか。気味が悪おすなあ」

 廊下ですれ違う遊女や若い衆たちの、忍び笑いと嘲り。
 自分が蔑まれるのは慣れていた。けれど夕霧までもが、自分と関わったせいで、変態だとからかうように笑われている。それが、八重には何よりも許せなかった。

 八重と夕霧の噂を聞きつけ、最も機嫌を悪くしたのは、当然、夕霧を気に入っていた小紫だった。

「……あの死に損ないが。どないな手ぇ使って、あのお人をたぶらかしたんや」

 小紫の部屋から襖越しに届くのは、小紫が怒りに任せて投げた物が砕け散る乾いた音と、地を這うような低い声だった。
 八重の、盆を持つ手が震えた。今すぐこの場から逃げ出したい。けれど、逃げればさらなる罵倒が待っているだけだ。八重は震える呼気を一度飲み込み、覚悟を決めて襖を開けた。

「失礼いたします……」

 部屋に足を踏み入れた瞬間、一斉に刺すような視線を向けられた。火鉢を囲む遊女たちや、その端に控える禿たちの目が冷たい。
 部屋の主である小紫は、八重の入室に気づくとゆっくりと振り返り、その艶やかで、蛇のように冷酷な瞳で、八重をぎろりと睨みつけた。

「えらい遅いお着きどすな。歩き方もお忘れになったん?」

 小紫の冷ややかな京言葉が、鞭のように八重を打つ。
 八重は何も言わず、小紫の身支度の手伝いに取りかかった。重厚な打掛を整え、複雑に結われた髪に鼈甲の簪を差し込む。
 小紫はその間にも、ちくちくと毒を孕んだ言葉を吐いた。

「夕霧はんが、あんたみたいな汚い女を相手にしてはるて噂……あれ、ほんまなん? あんたほんま、男に色目使うのだけは得意やねえ。でも期待したらあかんよ。あのお人はただ、死にかけの女の末路を観察して、愉しんではるだけやわ」

 八重は唇を噛み締め、鏡の中の小紫を見つめ返した。否定したい。けれど、今の自分にどんな反論の資格があるというのか。

「せや、言い忘れてたわ。今夜……あのお人を、うちの部屋に招いてんの」

 小紫が勝ち誇ったように紅い唇を歪めた。

「紅の帯の女に、心当たりがありますって、あのお人に文を送ってさしあげたんよ。あのお人、さぞかし喜び勇んで来はるやろなぁ。うちがその帯の女やて、言おうと思てるねん。あのお人が探してはる運命のお相手は、今日からこのうちになるんやわ」

 八重の胸がざわついた。けれど、夕霧が探しているのはあの夜の花魁であって、今のような小汚い八重ではない。華やかで、まるで昔の八重のような姿の小紫が偽っても、彼にはきっと見分けがつかない。
 身支度を終えた小紫は、八重を乱暴に引きずり、座敷の奥にある薄暗い小部屋へと押し込めた。

「ここで、息潜めて聞いとき。あのお人が、誰に愛を囁かはるのかを」

 ぴしゃりと戸を閉められ、外側から錠を下ろされる。
 八重は暗闇の中で膝を抱えた。薄い木戸の隙間からは、豪華に飾り立てられた座敷の様子が、まるで舞台のように鮮やかに見えていた。

 ほどなくして、誰かの足音が部屋に近付いてくる。八重の心臓が、痛いほどに跳ねた。
 入ってきたのは夕霧だった。

「……おいでやす、夕霧はん。お待ちしておりましたえ」

 小紫の艶やかな声が響く。
 夕霧は、入り口で深々と頭を下げる遊女たちには目もくれず、部屋の真ん中へ堂々と歩を進めた。

「えらい派手な出迎えやな」
「何をおっしゃいます。夕霧はんのようなお方をお迎えするのに、これでも足りひんくらいどすえ。さあ、こちらへ……」

 小紫が夕霧の手を取り、上座へと促す。夕霧は、勧められるままにどかっと腰を下ろした。八重の目には、その仕草一つ一つが昨夜の屋台での彼とは別人のように、遠く、冷たく見えた。
 小紫は、膝で摺り寄るようにして夕霧の傍らに侍った。白い手で徳利を掲げ、夕霧の持つ盃に酒を注ぐ。

「冷えたお身体を、これで温めておくれやす」

 とくとくと軽やかな音を立てて、透き通った酒が盃に満たされる。夕霧はそれを一気に煽ると、満足げに喉を鳴らした。

「……ええ酒やな」
「それは、うちの気持ちが混ざってるからかもしれまへんなぁ」

 八重は震える唇を噛み締め、座敷で繰り広げられる二人の様子を、ただ黙って見つめるしかなかった。

「でも、飲んでばかりは嫌やわ。うちはもっと、夕霧はんと深いお話がしたいんどすえ」

 小紫が甘えた声を出し、夕霧の手から盃を奪うようにして自分の唇を寄せた。彼女はそのまま、飲み残しの酒を吸い上げると、夕霧の耳元に顔を近づけて熱い吐息を吹きかける。

「夕霧はん。あんた、下働きの(あま)のところへ通うてはるて噂聞きましたけど。本気やあらへんでしょう? あんな、病に侵された、色も枯れ果てた女のどこがええの。うちは、寂しゅうて堪りまへんわ」
「……はは、噂回るん早いな、島原は。で、その帯の女について、お前は何を知ってるん?」

 夕霧は目を細め、逃げ場を防ぐかのように、小紫の腰にそっと手を回した。
 八重の心臓が、どくんと嫌な音を立てる。昨日、自分を抱き寄せたあの腕が、今は別の女の柔らかな身体を抱いている。
 小紫は悦に浸った顔で、夕霧の広い胸元に指を這わせた。そのまま、彼の羽織の襟を寛ろげ、逞しい首筋に鼻先を寄せる。

「夕霧はんの匂い……ええ匂いどすなあ。博徒の親分さんやいうさかい、もっと血生臭いお人かと思ってた。……でも、うちは知ってる。あんた、ほんまは誰よりも情に厚い、優しいお人やいうことを」
「……へぇ。お前に俺の何が分かるんや」
「分かりますえ。……だって、あんたが一生懸命捜してはった女、うちやもん」

 小紫は、夕霧の腕の中で勝ち誇ったように微笑んだ。

「夕霧はん、もう捜しはらんでもええんやえ。昔、紅い帯を預けたんは……うちどす」
「…………」
「あんたがあの帯を持って現れた時、うちは運命やと思いました。……な、夕霧はんも、うちのこと、捜してはったんでしょ。うちも、捜してたんよ」

 小紫の指が、夕霧の頬を優しく撫でる。
 八重は暗闇の中で、叫び出しそうな衝動を必死に抑えた。嘘。それは真っ赤な嘘だ。夕霧を助けたのは、自分だ。あの冷たい雪の中、震える彼の手を握ったのは、自分なのに――そう、叫びたかった。
 夕霧は小紫を振り払わなかった。それどころか、彼女の腰を引き寄せ、その美しい顔をじっと見つめ返している。

「……そうか。あんたが、あの時の」
「せや。やっと言えた」

 小紫は陶酔した瞳で、夕霧の唇に自分のそれを重ねようとした。八重は思わず目を逸らし、暗闇の中にうずくまる。胸が、張り裂けそうに痛い。
 ところが、その直後だった。

「――で、それ、本気で言うてるん?」

 座敷の空気が、一瞬で凍りついた。敵を威嚇するような、低い声だった。
 八重が驚いて再び隙間を覗き込むと、そこには、先ほどまでの機嫌よく酒を飲んでいた男の面影を完全に消した、夕霧の横顔があった。
 夕霧は、自分に縋り付いていた小紫の腕を、まるで汚物でも払うかのように無造作に放り出した。

「夕霧、はん……?」
「あんた、今、なんて言うたんや。『うちやった』……? へぇ、うまい嘘のつき方も知らへんのやな」

 夕霧は立ち上がると、動揺で顔を強張らせる小紫を、氷のような目で見下ろした。その眼光には、小紫が夢見ていたような情愛など微塵もない。

「俺が捜してる女は、あんたやあらへん。あんたみたいな浅ましい女、あの人の足元にも及ばへんわ」
「な……な、何を……! うちは島原の看板どすえ! うちのどこがあかんの!」
「黙れ。反吐が出る。あの女について知っとる言うから来たのに、時間無駄にしたわ」

 八重は、呼吸することさえ忘れてその光景を凝視していた。
 夕霧の殺気に気圧されたのか、小紫は何も言わなくなった。

 夕霧が出口の襖へと歩き出す。そして、襖に手をかけ、振り返らずに言い捨てた。

「二度と、あの人の真似せんといて。……汚らわしい」