京都、島原の遊郭街。その唯一の入り口である大門の傍らには、柳がしだれている。
夜になれば、その門の提灯に火が灯り、闇の中にそこだけが浮き上がったような異界の様相を呈す。
中道の両側には、揚屋や置屋が軒を連ねている。鮮やかな朱色の格子が並び、その奥からは三味線の音や、遊女たちの艶やかな笑い声が漏れてくる。
中道に面して建つ置屋は、花魁たちが生活し、芸を磨く場所だ。
一番の象徴は、壁一面を埋め尽くす紅殻格子。 安物の妓楼とは違い、贅沢に塗り込んだその朱色は、夕闇の中でも沈むことなく、深い血のような輝きを保っている。等間隔に並ぶその様は、まさに美しき檻であった――。
「あら、そこに居るのは誰かと思えば。〝落ちぶれ姫〟やないの。お掃除、ご苦労さまなこっちゃ」
八重の頭上から、わざとらしい笑い声が降ってきた。
現れたのは、今やこの置屋で羽振りを利かせている遊女、小紫だった。彼女の後ろには、遊女見習いである禿たちがくすくすと笑いながら控えている。
「……小紫さん。お出掛けですか」
八重は無表情のまま顔を上げ、淡々とした声で応答した。
「お出掛けどす。今日は贔屓の旦那様がお呼びやさかい、忙しおすねん。……それにしても、その顔。見るたびに気味の悪い。ようそんな汚い肌で、人前に出られたもんやわ」
小紫はわざとらしく鼻で笑い、着物の裾を翻した。
「以前は島原の姫なんて呼ばれて、あんなに威張ってはったのに。今は、道に落ちとる犬の糞みたいやねぇ」
小紫は、持っていた茶碗の水を、八重に向かってばら撒く。八重の髪から水が滴り、八重が磨き上げたばかりの廊下にも広がる。
「あぁ、堪忍。手が滑ってしもた。そこ、もう一回綺麗に拭いといてくれる?」
卑屈な笑い声が廊下に響いた後、彼女たちは去っていった。 八重はただ、黙って溢れた水を見つめていた。唇を噛み締め、震える手で再び雑巾を握る。
華やかな世界から放り出され、地位を失った。今の自分には、怒る資格も、悲しむ権利もない。
八重はもう一度、冷たい板間に雑巾を押し当てた。
かつて美しく保っていた指先は、今や水仕事でひび割れ、節くれ立っている。
遊郭は一見きらびやかであるが、女同士の怨讐が渦巻く社会でもある。かつて花魁として一世を風靡した八重に嫉妬していた遊女たちは、八重が下働きへと転落したことが可笑しくてたまらないらしく、事あるごとに嫌がらせを繰り返している。
小紫は、他の禿や振袖新造にやらせれば済むような雑用を、あえて八重に命じる。座敷へ上がる前の小紫の足を洗わせ、時には八重を踏み台にして打掛を羽織る。
取り巻きの遊女たちの前で八重を嘲笑し、八重の自尊心を徹底的に踏み躙る。
八重をいじめるのは小紫たちだけではない。
裏方を取り仕切る、料理番を勤めている六郎も、八重に肉体的な苦痛を与えてくる。
彼は昔、八重が花魁として全盛期だった頃、八重に鼻であしらわれたことを根に持っていた。執念深く、湿り気を帯びた性格で、病に侵された八重を汚物と呼び始めたのも彼である。小紫とも幼馴染みのようで、一緒になって八重を虐めてくる。
掃除の遅れや些細な不手際を理由に、八重を納屋に閉じ込めたり、鞭で打つなどの暴力を振るう。八重が稀に客や見舞い客から受け取るわずかな心付けも、強引に取り上げてくる。
遊女見習いの幼い少女たち、禿までもが、周囲の大人たちの真似をして八重を虐げる。八重のことを、「お花が咲いてる、汚いお化け」と呼び、通り過ぎる際にわざと物を投げつけてきたり、八重の部屋の障子を破ったりする。
食事の準備や洗濯を担う裏方の人間たちも、かつて高嶺の花だった八重の凋落をほくそ笑み、八重に渡す飯椀にわざと砂を混ぜたり、腐りかけた残り物ばかりを盛り付ける。
さらには、他の者が嫌がる汚れた着物の洗濯や、便所の掃除などの労働を八重一人に押し付ける。八重の体調などお構いなしに、病を悪化させると知りながら、冬場の凍てつくような水仕事を優先的に割り振ってくる。
落ちぶれた八重はこの店で、全方位からの悪意に晒されているのだった。
ふと、薄く開かれた障子の向こう、小紫の部屋の奥にある、鏡が目に入る。
何より八重の心を痛ませるのは、衣の隙間から覗く、自分の肌だった。
(……また、広がっている)
襟元を合わせる手に力が籠もる。
これこそが、八重がこのような扱いを受けている原因だ。
かつて雪のように白いと讃えられたその肌には、今、不気味なほどに青白く、痣のような花形の斑点が浮かび上がっている。これは、この街を這い回る逃れられぬ病の症状である。八重はその、身体を蝕み、美貌を奪い、女としての価値を根こそぎ奪い去る病――〝花咲き病〟に罹患している。この病気は、肌に白い花が咲いているように見えるため、花咲き病と呼ばれている。
遊女の中には、原因不明のこの病気にかかる者が多い。その魔の手はついに、かつて花魁としてこの花街の姫と呼ばれていた八重にも襲いかかった。
八重は病をきっかけに花魁の座を追われ、今は遊女たちの身の回りの世話をする引船として、裏方で別の花魁を支えている。
この檻から出たとしても、行き場はない。死を迎えるその時まで、耐え忍ぶしかないのだ。
骨の芯まで凍みるような底冷えが、廓の夜を支配している。寒風が吹き抜ける路地裏は静かだ。 空から花粉のように細かい雪が舞い降り、島原の黒ずんだ瓦屋根を薄く白く染めていく。
八重は、その裏手でかじかんだ手に息を吹きかけながら、客が脱ぎ捨てた下駄を揃えた。ひび割れた指先に、容赦のない寒さが突き刺さる。息を吐いて手を温めながら、八重は立ち上がった。
その時、表通りが騒がしくなった。
(……何事かしら)
八重は、格子越しの遠い景色を眺めた。 雪が舞う中、黒一色の羽織をまとった屈強な男たちが、整然とした足取りで路地へ入り込んでくるのが見えた。その数、十数人。いずれも入れ墨の入った一団だ。
その中心に、一人の男がいた。 上質な黒の羽織を肩に掛け、堂々とした足運びで歩くその姿。八重は、彼に見覚えがあった。
(あの時の男……。死に損なったのね)
彼を助けたのは、ちょうどこのような、冷え込んだ夜だった。道端で死にかけていた彼の出血を押さえ、
名も知らぬその男は、店の主人や番頭が慌てて飛び出してきた前で、ぴたりと足を止めた。 彼は懐から、一点の紅を取り出した。その絹は驚くほど鮮やかに、毒々しく浮かび上がった。何度も紅に浸して染め上げた深い赤。そこには、金糸で丁寧に向かい鶴が刺繍されている。
「三年前、この帯着けてた遊女、この店におらへん?」
番頭たちは、差し出されたその豪華すぎる帯と、夕霧の背後に控える男たちの威圧感に、がたがたと震えながら首を横に振っている。
「こないな高級品、うちのような店では扱っておりませんわ」
八重は、影に身を潜めたまま、遠くからその様子を見つめていた。 雪が頬に落ちて溶ける。
(あの時の帯をまだ持ってるなんて。血まみれで、もう使えないのに。何故わざわざ……?)
あの日、彼の傷口を塞ぐために無造作に解いて貸し与えた帯。 血に染まり、捨てられたと思っていたその帯を、彼は大切に持ち続け、何故か自分を捜している。
「八重。何突っ立っとるねん」
通りかかった料理番の六郎に強い力で肩を突かれ、八重ははっと我に返った。
「……申し訳ございません、今戻ります」
視線を外し、暗い廊下の奥へと歩き出す。
「えらい騒ぎどすなぁ」
「あの人、見はった? えらい男前やけど、目が氷のように冷とうて、うちは背中がぞくっとしましたわ」
「しっ、声が大きおす。あのお方は、京の賭場をぜぇんぶ手中に収めたっていう、この辺り一帯を仕切ってはる博徒の若頭の夕霧さんやて。逆らう者は生かしておかへん、恐ろしいお人どすえ」
通りすがりの遊女たちが、扇子で口元を隠しながらひそひそと噂話をしていた。八重は足を止めず、耳だけを澄ませた。
あの男の名は、どうやら夕霧というらしい。
「博徒の頭が、血眼になってその帯の持ち主を探してはるなんて。あんな怖い人に追われるなんて、あの帯の女も、運があらへんなぁ」
「あないな上等な代物、うちみたいな妓楼の女が持てるはずあらへん。きっと、どこぞの高貴なお姫様か、太夫はんの忘れ物やろなぁ」
「せやねぇ。うちに回ってきはっても……」
噂話にずっと耳を傾けているわけにもいかないので、彼女たちの横を通り過ぎる。
あの男が何故自分を捜しているのか検討もつかないが、どうせろくな理由ではない。博徒は裏社会の住人、無法者の集団だ。元花魁という肩書きを使い、自分をどこか遠くの土地へ売り飛ばすつもりかもしれない。関わらないのが身のためだ。
そう考えながら、八重は仕事に戻った。
冬の夜気は、吐く息さえも白く凍らせるほどに鋭い。 空には、どこか不吉なまでに冴えわたる満月が浮かんでいた。
八重は、使い古された大きなたらいに凍った洗濯物を山積みにして運んでいた。ずしりと襲ってくる重みに耐えながら、裏路地を一歩ずつ踏み締めるように歩く。かつては禿たちが先導した道を、今は一人、押し付けられた仕事を抱えて孤独に進むしかなかった。
その時、大門へと続く大通りから、多人数が歩く重厚な足音が響いてきた。
(……まさか)
嫌な予感がして八重は立ち止まった。影に身を潜める間もなく、雪を蹴立てて歩く一団が角を曲がってきた。 中心に立つのは、黒い着物の隙間から入れ墨の覗く男――夕霧だ。三年前、死の淵で自分を見上げたあの獲物を狙う鷹のような瞳が、夜の中で鋭く光っているように思えた。
八重は思わず、顔を隠すように俯いた。
すると、夕霧の歩みが、八重のすぐ傍らで止まった。
静寂が走る。 雪の降る音さえ聞こえそうな沈黙の中、頭上から声が降ってきた。
「……あんた、名前は?」
低く甘やかに響く、京訛り。一瞬、どきりと胸が高鳴るほど、色気のある声だった。
あの時の女であると悟られるわけにはいかない。緊張感を味わいながら、恐る恐る視線を上げる。夕霧はただ、見慣れぬ下働きを見るような、無感情な目でこちらを見つめていた。
(私はあの時のような衣装を着ていないし、化粧もしていない。分からなくて当然だわ)
今の八重には、贅を尽くした華やかな着物も、頭を飾る幾本もの簪もない。白粉の代わりに、頬には汚れがつき、病の証である白い花が咲いている。
八重は安堵し、止めていた息をそっと吐き出した。
「……八重と申します」
消え入るような声で答えた。
八重が返事をした途端、何を考えているのだか分からない夕霧の切れ長な目が、すぅっと細められた。
その緊張を破ったのは、背後に控えていた手下らしき男の声だった。
「夕霧はん、折角やし遊んで帰りません? この辺にええ店、ありまっせ」
男は、八重の痩せた身体を蔑むように一瞥し、にやにやと下卑た笑みを浮かべながら夕霧を誘う。
「いや。俺はええわ」
夕霧は、八重に注いでいた視線を動かさぬまま、氷のような冷徹さを孕んだ声で一蹴した。
八重が重いたらいを抱え直してさっさと立ち去ろうと指先に力を込めた時、すぐ耳元で甘やかな、逃げ道を塞ぐような声がした。
「あんた、この後時間あんの?」
「……え?」
俯いていた八重は、思わず顔を上げた。
視界に飛び込んできたのは、雪の白さに際立つ夕霧の端正な顔だった。月の光が彼の高い鼻筋と、薄い唇を冷たく照らしている。
「……いえ。仕事中ですので」
早くこの場をやり過ごしたい一心で、八重は突き放すように答えた。
困惑と警戒が入り混じり、八重は再び視線を逸らす。
しかし、夕霧は退かなかった。それどころか、彼は一歩踏み込み、凍える八重の吐息が届くほどの距離まで顔を近づけた。
「ほな、それ終わったら俺と遊ばへん?」
今度は、にこりと笑みを深めて。
その笑みは、先ほど部下たちに向けていた冷徹なものとは全く異なっていた。獲物を見つけた蛇のような嗜虐性と、子供のような無邪気さが同居した、恐ろしいほどに艶やかな微笑である。
「ゆ、夕霧はん……? 何を言うてはりますの。そないな下働き、放っときまひょ」
驚いたのは八重だけではないようで、背後にいる男が戸惑ったような声を上げた。しかし、夕霧は手でそれを制した。夕霧の切れ長な目は、ただじっと、八重だけを覗き込んでいる。
「お返事は?」
夕霧が声を一段低くした。その声が毒を含んだ蜜のように、凍てついた八重の耳にまとわりつく。まるで脅しのようだった。
八重は恐怖に突き動かされ、店へ逃げ戻ろうとした。重いたらいを抱えたまま、雪に足を取られながらも必死に地を蹴る。
しかし、数歩も行かぬうちに、熱を帯びた大きな手が八重の細い腕を、夕霧が背後から無造作に掴んだ。
「逃げんでええやん」
「……っ」
「木屋町の茶屋で待っとる。来おへんかったらお仕置きやから」
有無を言わせぬ圧力だった。八重はうまく返事することができず、ただ固まったまま彼を見つめることしかできなかった。夕霧は満足げにもう一度微笑むと、雪を踏み締め、呆然とする部下たちを引き連れて闇の中へと消えていった。
残されたのは、降り積もる雪と、耳の奥にこびりついた低く甘い声。そして、重たいたらいを抱える自分の、激しい鼓動だけだった。
(何を考えているの……)
八重は、逃げるように店の中へと足を進めた。
島原の格式張った大門を抜ける。八重は、凍てつく風に背中を丸めながら、薄汚れた羽織の袖で病の痕を隠し、木屋町へと向かった。
高瀬川のせせらぎが、雪に沈む夜の静寂の中で小さく響く。川沿いに並ぶ茶屋の軒先では、淡い光を放つ箱提灯が揺れ、その姿を水面に映していた。
来おへんかったらお仕置き――耳にこびりついた夕霧の声が、逃げ場を塞ぐ呪縛のように八重を突き動かしている。博徒の言う〝お仕置き〟が何を意味するか、想像するだけで指先が冷たくなった。
指定された茶屋は、喧騒から一本外れた路地の奥にあった。八重は震える手でその門を潜り、案内されるままに急な階段を上がった。
「……失礼いたします」
襖を引く。暖かな空気が冷え切った頬を撫でた。四畳半の小さな座敷だ。部屋の中央に置かれた角火鉢では、赤々と熾った炭が、鉄瓶の湯気を白く躍らせている。
その火影の中に、夕霧がいた。
夕霧は独り、窓の外を流れる高瀬川を眺めていた。黒い着物の襟を緩め、膝を立てて座るその姿は、深い闇を湛えた色気を放っている。
八重が足を踏み入れると、夕霧はゆっくりとこちらに顔を向けた。
「遅かったなあ」
夕霧は手にした盃を火鉢の縁に置き、ふっと目を細めた。
八重は膝をつき、伏し目がちに畳を見つめた。
「仕事が長引きましたので」
「ふうん。まあええわ。そこ、座り」
夕霧は自分のすぐ隣の座布団を、長い指先で軽く叩いた。
八重は、言われるままに夕霧の傍らへにじり寄った。
どういうわけだか、この男は八重に興味を持っているように見受けられる。しかし、今の八重は、特別容姿に優れているわけでもない。近くで見れば、花形の痣の醜さに気付き、そのうち嫌になるだろう。
「目的は何でしょうか」
八重は顔を上げずに問いかけた。
「……目的?」
「私のような女を呼んだ目的です。遊女と繋げていただきたいということでしたら、このような回りくどいことをせずとも、有名な揚屋を紹介しますが」
夕霧はしばらく何も答えなかったが、やがて、八重の顎を指先でくいと持ち上げた。
夕霧の顔が、吐息が触れるほどの距離まで近付く。その瞳の中に、月光を浴びて震える自分の惨めな姿が映り込んでいるのが分かった。
「俺は、あんたを呼んだんやけど」
八重は息を呑んだ。夕霧の指先が、彼女の頬をなぞり、ゆっくりと耳元から、隠された首筋へと滑り降りていく。
逃げ場のない四畳半の空間で、夕霧の手が、八重の襟元に無造作に掛かった。抗う術もなく、衣をはだけさせられる。
八重は身を強張らせた。乱暴に組み敷かれ、泥を啜るような夜が始まるのだと、覚悟した。
が、夕霧の手は意外にもすぐに止まった。
「進行しとるな。体中にあるんか」
夕霧が見つめていたのは、露わになった八重の肩から胸元にかけて広がる、不気味な花形の痣だった。月光と火鉢の赤に照らされたその痣は、まるで皮膚の下で毒の花が咲き誇っているかのように、どす黒い光沢を放っている。
八重はほっと、強張らせていた身体から力を抜いた。
「……はい。流行り病である、花咲き病です。私はもう、長くありません」
淡々と、自分ではない誰かの身の上を語るような口調で告げる。そこまで言って、ようやく合点がいった。
「……ああ、そういうことですか」
物好きな男がいる。寿命の短い花咲き病の女こそが儚くて美しいと、好んで買う男だ。夕霧も、そのような変態なのだろう。
八重はふっと自嘲気味に笑った。
「……何がおかしい?」
夕霧がぴくりと眉を動かす。
「死にかけの弱った女を可愛がるのがお好きなのでしょう?」
――本当に趣味が悪い。喉元まで出かかった言葉を、八重は辛うじて飲み込んだ。
花咲き病は、世間から見下され、忌み嫌われる一方で、一部の男たちにとっては背徳的な欲情の対象となる。罹患した少女が路上で襲われたという噂も絶えない。
自分より弱くて儚い人間を組み敷いて悦ぶ男を、八重は心から嫌悪していた。
夕霧は八重の蔑むような視線を真っ向から受け止めると、何も言わずに八重の衣を、驚くほど手際よく結び直した。
興が冷めたのだろうか、と八重は不思議に思った。
火鉢の炭がぱちりと爆ぜ、鉄瓶の立てる湯気が二人の間に白く漂う。
「花咲き病になると三年は生きられへん、って聞くけど」
夕霧が独り言ちるように、低い声で漏らす。
「それは、どうにもならへんの?」
「遠い江戸には花咲き病に効く薬があるそうなのですが。とても高価で、私のような下働きには手が届きそうにありません」
八重の花魁としての稼ぎがほとんど飛ぶほどの薬。そんなものを取り寄せてくれるほど、楼主は優しくなかった。
ぼんやりと、幼い頃に過ごした江戸の情景が浮かぶ。活気ある町の音、潮の香り。けれど、そこへ辿り着くための脚も金も、今の自分には残されていない。
薬など、とうの昔に諦めていた。
「発症してからどのくらいや?」
「二年ほど経っています。私の余命は、長くてあと一年でしょう」
「……理解できへんな。残り期間が短いわりに、手ぇこんなにしてまで働いてんの?」
夕霧が、不意に八重の荒れ果てた手を取り、手の平を返すようにしてじっと見つめた。
冬の冷たい水に晒され続け、赤くひび割れ、指先までがさがさになった肌。かつて島原の姫と讃えられ、丁寧に扱われ、潤っていた手の平の面影は、そこには微塵もなかった。
「他に、行く宛もありませんので」
八重が吐息ほどの小さな声で呟くと、夕霧はその手を逃がさぬよう、きゅっと力強く握りしめた。無頼漢のそれにしては、驚くほど温かい掌だった。
「俺と逃げる?」
驚いて顔を上げた八重の瞳を、夕霧は至近距離から真っ直ぐに見つめていた。
「あんたのためなら、どこへでも連れてったるよ。残りの人生、やりたいこと全部させたるし、ほしいもんも全部あげる」
「……どこへ行ったって、人は汚い。それはきっと全てのお国で同じことです。こんな肌でどこへ行こうと、扱いは同じでしょう」
八重は冷え切った声で、夕霧の手を振り払って拒絶した。
静まり返った座敷に、階下から微かに三味線の音が響いてくる。 夕霧は拒絶されたことなど気にも留めない様子で、傍らの膳を八重の方へと引き寄せた。
「腹減っとるやろ。これ食べ」
差し出されたのは、熱々の豆腐田楽と、白味噌仕立ての粕汁だった。塗り椀から立ち昇る湯気には、酒粕の芳醇な香りと、出汁の優しい匂いが混ざり合っている。
「……頂けません」
「俺が食え言うてんねや。これは命令やで」
夕霧は自ら箸を取り、豆腐の一片を口へ運ぶと、促すように八重を顎でしゃくった。抗う気力も失せた八重は、震える手で温かい椀を手にとった。
八重が戸惑いながら箸を進めるのを、夕霧は酒を煽りながら黙って眺めていた。
「おいしい?」
「おいしい、です。もう長いこと、まともな食事などしていませんでしたから」
「自分を粗末に扱いすぎや」
夕霧は少し叱るような口調で言うと、徳利を傾けて自分の盃を注ぎ足した。
「これから毎晩、俺んとこおいで。食事くらいさせたるから」
窓の外では、高瀬川のせせらぎが夜の闇を削っている。豪華な食事と、目の前の美しい男。
どこか現実感がなく、死の間際に見る夢のような時間だった。
◆
翌朝目が覚めると、いつも通りの日常が待っていた。外は、雪の照り返しで刺すように眩しかった。朝からせっせと動き、日が暮れるまで働き続けた。
夕刻になると、小紫に命じられ、膝をついて床を拭くことになった。
「あのお人、ほんまに色気あって素敵やったわぁ……」
ふと、小紫を中心とした遊女たちの会話が聞こえてくる。
火鉢を囲む遊女たちの間で、昨日の博徒の一団が話題に上がっていた。小紫は煙管の煙をゆるりと吐き出し、うっとりとした目で中空を眺めている。
「せやろか? うちは怖うて、身が縮こまりましたわ。あれは人を殺めたことのある目どすえ」
反対意見を述べた若い遊女に、別の遊女が扇子を広げて笑いながら割って入る。
「せやけど、あのお方が纏うてはった羽織、あれは最高級のものどす。博徒の親分さんは気風がええし、色ごとにも理解がありそう。ああいうお人に身請けされたら、一生、極楽浄土どすなぁ」
「身請けやなんて、気が早おすえ。……けど、あのお方が探してはる紅い帯の女、一体どこの誰なんやろ」
小紫は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、他の遊女たちを牽制するように言い放った。
「うちは決めたえ。次にあのお人がこの廓へ来はったら、何が何でもうちの座敷へ引っ張り込んで、骨抜きにして差し上げるわ」


