ネグレクト少年の拾い食いとヤンデレ少女の餌付け


「ちがうよ」
 僕は、そう答えるのが精一杯だった。

「塾、行ってるんでしょ?……最近の子は、みんな行ってるよね」
 ぽつりと呟いたママその声は、張りつめた静寂の中にあっても、あまりにも小さくて聞き取りづらかった。

「……うちは無理だけどさ」 ちいさく、続いた。「英単語帳ぐらいしか、私には──」

言いかけて、言葉を切る。 それから、僕の方を見て、睨む。
「……どうしてそんな顔するの?」

 睨まれて、僕は首を振った。笑ってなんか、ないのに。 ただ、胸の奥が、ひりついていた。

「……あんたが、ちゃんと勉強して……兄ちゃんが行けなかったあの学校に行ってくれればって。報われるって、思ってたのよ」
 ママの声が、すこしだけ震えた。

「あの子が、もし生きていたら……どれだけ立派になっていたか。それなのに、私があんな間違いを……全部、私のせいで。あの子の未来も、希望も、全部……!」

 そこでまた、途切れる。何かを噛み潰すみたいに、唇の内側を押さえながら。

「誰にも頼れなかった。なのに、誰かのちょっとした気まぐれだけで──助けてあげたって思われると、それが、いちばん腹立つのよ」

 ほぐすために掴み上げられた体操服がバサッ、ともう一度、洗濯槽に落ちた。濡れて、重くなった布の音が、部屋に響いた。僕は裸のまま、そこに立ち尽くしていた。

「……私が聞いてるのは、“誰から借りたのか”ってこと。知らない子の服なんて、普通は着ないのよ。わかる?」

「その子、優しかったんだ。気にしないって言ってくれて……」

「“優しい”? 笑わせないで」
 洗濯機の蓋が、バン、と音を立てて閉じられる。

「ほんとに優しい子なら、そんなの貸さない。親にも黙って、男の子に服なんて。だらしない家庭なんだよ、きっと」

「……そんなこと、言わないで!」
 自分の声に驚いた。でも、止められなかった。「ママは知らないくせに! あの子のことも、家のことも、なにも!」

 ママの目が、じっと僕を射抜く。表情は動かないのに、目だけが冷たい。
「……やけに、その子のこと庇うのね。まるで、嘘がバレたくないみたい」

「嘘じゃないよ! 名前なんか知らなくても、声をかけてくれたんだ。バカにしなかったんだよ、僕のこと」

 ママの顔が、わずかに歪む。怒りとも呆れともつかない、濁った色。

「……それに、あの子は僕を、何も言わずに助けてくれた」

「は?」

「ママと違って、“ちゃんと”してない僕のことも……叩いたりしなかった」

 言ってしまった。背中に汗がにじんだ。でも、目を逸らさなかった。

 空気が、止まった。

 静寂の中の耳鳴りの音さえも、遠のいて消えた。

 ママは、口を開きかけて──飲み込んだ。
唇がわずかに震える。怒鳴られると思った。でも、違った。何も言わなかった。ただ目を見開いたまま、そこにいた。それが、いちばん怖かった。

「……ごめん」

 咄嗟に、僕はそう言うしかなかった。
「ごめんなさい、ちがうの。そんなつもりじゃ──」

 ママはゆっくり目を伏せた。睫毛が、頬に影を落とした。

 後悔はある。でも、もう引き返せない。それでも、胸の奥にほんの少しだけ火が灯っていた。言えた、という確かな火種が。

「言いたいことは、それだけ?」
 ママの声が、静かに落ちてくる。

 次にこの身降りかかるのが、例えどんな罰でもいい。僕は、強く頷いた。

「……さっさとお風呂入りなさい」

 それだけ言って、ママは洗濯機のスイッチを押し、出ていった。洗濯機が、動き出す。

 僕は浴室に向かう。洗濯機の中では貸してもらったわたらいさん服と、僕の濡れた服が、ぐしゃぐしゃに絡まり始める。あの子の服が、僕のせいで汚れていく気がした。

 それでも、胸の奥にはあの湯気のような温もりを再び感じられる。


 浴室にはあったかくも冷たくもない、ぬるい湯気が、風のない空間を漂っていた。

 頬に、なにかが伝った。汗じゃなかった。涙だった。


 わかってる。ママは悪い人じゃない。

 ただ、僕が──役に立たなかっただけ。

 シャワーの前の鏡が、うっすら曇っていた。鏡の向こうには、痩せた裸の少年。身体には肋骨が少し浮いている。驚きに見開いた目だけがやけに大きく見えた。

 これが、僕? 本当に?

 ──わたらい。
 あの子の苗字が肌にふれていた胸のあたりが、まだあたたかかった。

 優しかった。あの子は優しかった。
 でも、名前も知らない。もう、会えないかもしれない。

 カレーパンの匂い。黒猫の視線。湿った床。
 あの子の存在すらも、全部、夢だったんじゃないかと思えてくる。

 シャワーのレバーをひねると、冷たい水が飛び出した。肩をすくめて、あわててお湯に変える。溶けたビニールで火傷した指先が、じんじんと痺れていた。

 扉を隔てた向こう。廊下の奥には、ママの気配があった。

 テレビもついてない。話し声もない。足音もない。それでも、そこにいるのはわかった。いるけど、いない。まるで、ママの心がそこにないように。そして、僕もきっと、同じだったのかもしれない。

 何も知らない換気口が、どこか遠い檻からの呼び声のようにこだました。




 翌朝の朝一番のキッチンには、冷蔵庫のモーター音だけが鳴っていた。

 食卓の隅には、畳まれた体操服。その隣には角ばった箱が影を落としていた。開封されていない菓子折だ。いつ、用意していたんだろう。

「乾いたわよ。返してきなさい。……今日は早く帰ってくるのよ」

 ママはフライパンでウインナーを転がしながら、僕に言った。昨日、僕が帰宅するまで不安で仕方なかったのだろう。その声の奥に、微かな震えが残っているようだった。

 フライパンの油が弾け、その音に合わせるみたいに、僕の腹が鳴った。

「……ちゃんとお礼言って。“お友達”に。それと“親御さん”にも。必ず渡すの。いいわね?」

 僕は頷く。

 ママはさらに言い足した。
「そのお菓子はあんたのじゃないからね。勘違いしないで」
 釘を刺すような声だった。

 僕は「はい」と答えながらも、心はうわの空だった。体操服に染みついていたあのやわらかい匂いが、消えていた。

 いつか消える。優しかったママも、あの子の優しささえも、きっと——。兄ちゃんのあの笑顔も、いつの間にか僕の記憶から遠くなってしまったように。

「朝ごはん食べたら、すぐ行くんじゃないのよ。そうね……10時くらいに行きなさい。あんまり早くてもご迷惑だから。非常識だと思われたら、表を歩けないわ。……もうこれ以上、世間に顔向けできないようなことはごめんだからね」

 朝食はトーストと、目玉焼き。それに、水気の抜けたウインナーが二本。それでも、腹ぺこの僕には、ごちそうだった。

 真っ白い陶器の皿が、蛍光灯の光を鈍く跳ね返していた。

「いただきます」
 合わせた手を離して、トーストを掴む。パサついたパンが、舌に張りつく。甘いジャムも、バターもない。けれど、トーストをかじったとき、どうしてか、口もとがゆるんだ。

 今日また、あの子に会える。
 そう思っただけで、胸の奥がふわっと甘くなった。

 記憶の底に沈んでいた、やさしい匂いが、蜃気楼のように立ちのぼった気がした。

 その優しい余韻が、体の中でじんわりと広がっていく。まるで、昨日の時間がまだ終わっていないかのように。

 食事を終え、気もそぞろで10時を迎えた僕は、しゃんと背筋を伸ばし、体操服と菓子折りを抱えて家を出た。

 昨日とうって変わって、空は青く晴れていた。陽に焼けたコンクリートの廊下が、白くまぶしい。

 その時、僕の頭の中に浮かんだのは、わたらいさんの優しさは本物だったのかということ。昨日ママの言った『哀れんで貸してくれた』という言葉が、何度でも甦ってくる。

 あの子が家に招いたのは、僕の空腹に対する哀れみだったのか?本当のことを知るのは少し怖いけれど、その答えをどうしても知らなければならない。

 熱い風が頬をかすめていく。洗剤の残り香と、菓子箱の甘い匂いがふっと空気に溶けて消えた。

 本当は、友達じゃないのかもしれない。名乗らないってことは、きっと――。その先の思いは言葉にできず、胸の奥が棘が刺さったように疼いた。

 ママは「玄関先で渡せばいい」と言い、自分は絶対に来ようとはしなかった。あの子も、ママを少し怖がっていた。

 それなら——その方が都合がいいのかもしれない。

 昨日の部屋が見えた。よかった。夢じゃなかった。

 苗字だけ書かれた表札をじっと見つめる。漢字は読めないけれど、昨日の部屋に間違いはなかった。

 会いたい。

 だけど、呼び鈴を押す指先がほんの少し震えた。
 これは罪の清算じゃない。これは、あの日僕が確かに誰かに必要とされていた、という事実の確認でもあるのだ。

 ピンポン。

 中で何かが動く音がして、やがて扉が開いた。

  「……あ」

 昨日と同じ女の子。癖のある黒髪が、まだ少し湿っているように艶めく。

 今日は、薄手の白い半袖のシャツを着ている。その袖口から、日に焼けていない二の腕がちょっとだけ覗いていた。

「……ぺこ」
 笑って、わたらいさんが言う。「わかってたよ。君はきっと、またここに来るって」

「……これ。借りてた体操服、洗いました。あの……お世話になったので、これも……母が」

 僕が差し出すと、彼女はそっと両手で受け取った。

「ありがと。ちゃんとしてるね、ぺこ」

「ぺこじゃないよ、颯だよ」

「うん、知ってる。でも、私はぺこの方が好き」

 そういう意味じゃないのはわかっているのに、「好き」って言葉にドキッとする。

「……どういう漢字で書くの? ハヤテって」
 わたらいさんは首を傾げた。それに合わせて、黒髪が解けるように揺れる。

 答えられなかった。僕はまだ、自分の名前を漢字で書けない。

「あれ、そういえば、ぺこは私の名前、まだ知らない?」

 僕が頷くと、彼女は笑った。

「体操服に“わたらい”って書いてあったでしょ?でも、字までは見なかったかな。私も、よそのお家の表札、読めないもん」

 それを聞いて、僕は少しほっとした。

 彼女がドア横の部屋番号の下を指さす。その控えめな表札には、 〈渡会〉と書いてある。

「渡るに会うで、渡会。大人でも、なかなか読めない珍しい苗字なんだって」

「……わたらい」

 その音を舌の上で転がしてみる。ママにやらされる英単語とは比べ物にならないくらい、すっと馴染む音だった。

「名前は……“恵”っていうの」

 その声には、すこしだけ力がこもっていた。やっと僕に与えられた、“彼女の名前”だった。

「“いい名前ね”って、よく言われる。“あなたみたいに面倒見の良い子にはぴったり“だって。自分では……ちょっと、こそばゆいけど」
 目をそらしながら、彼女が言った。

 僕は言葉を失っていた。名前を教えてくれただけなのに、胸の奥が、ふわっとあたたかくなった。

「それじゃあ、僕も……恵ちゃんって呼ぶね」

「ダメ」

 予想外の返答に、僕は目を見開いた。

「ぺこも、私に名前つけてよ」

 なんて唐突な言葉。戸惑う僕に、彼女は笑って見せた。

「“恵”って……ちょっときれいすぎて、私には似合わない気がしてるの」
 その笑顔は、ほんのすこし、無理をしているように見えた。

「ぺこだって、お腹ぺこぺこで、ぺこなんだよ? それで十分だよね。よじれも、しっぽがよじれてるから、よじれ。……それだけで、ちゃんと生きてるってわかるでしょ」
 その声が、だんだん静かになっていった。

「私も……そういう名前がほしいの」
 その表情は、笑っているけどどこか寂しそうだった。

 僕は黙ったまま、少しの間考えていた。それから、首を大きく縦に振った。
「わかった。君にも僕が名前をつけてあげる」

 彼女の口角が上がる。嬉しそうに目が細められた。

「でも、すぐには決められない。……大事なことだから。だからしばらくは、“わたらいさん”って呼んでも……」

「きっとだよ、ハヤテ」

 遮るように名前を呼ばれた。たったそれだけなのに、心が躍る。雨上がりの虹よりも、嬉しい驚きだった。

「だけど……あんまり待たせないで。私はこの名前をもらった時から、ずっとずっと待っていたんだから」

 また、試すような目だった。だけど、僕はもう怯まない。強く、頷いて見せた。

 彼女の表情が、パッと明るくなる。
「おいでよ、ぺこ。今日もごはんあげるし、もっと面白いもの、見せてあげる」

 そう言って、僕の手を引いた。断る理由は、なかった。僕の足は、ためらいなく動いた。

 彼女の部屋から吹いてくる風だけは、なんだか冷たかった。クーラーのそれとは違う気がした。あのとき、兄ちゃんと一緒にケーキを食べた食卓にも、同じ風が吹いていた気がする。

「おかえり、ぺこ」
 僕が部屋に入るのを見届け、玄関のドアを閉めると、すぐ彼女が言った。

 僕はどう返せばいいのか分からず、「うん」とだけ答えた。

 きっと曖昧な表情をしていたはずだ。昨日、僕が耐えきれずに逃げ出したあの空間に、それでも連れ戻されて孤独を共有し合ったこの部屋に、彼女は再び僕を招いたのだった。