ネグレクト少年の拾い食いとヤンデレ少女の餌付け

 わたらいさんのSOSを代弁するかのように、やがて肉を焼くけたたましい音が台所に響き渡った。高温の油が、肉の塊を激情とともに焦がす。蒸し焼きにするために蓋をされてくぐもったその音は、誰も本音を語らない家庭のひび割れた空気の中、誰よりも饒舌だった。

 蓋をされたフライパンから肉が焼ける匂いがじわじわと広がり、リビングにまで届いた。美味しそうな匂いと、居心地の悪さが飽和して、拷問みたいだった。待ちかねたご馳走を催促するように、僕のお腹の虫がしきりに空腹を訴えている。

「……本当に、あともうすぐだから!ひっくり返して、10分くらい!」

 台所にいるわたらいさんが、そう声をかけてきた。次いで、隣に立つ彼女のお母さんが無言でハンバーグを裏返す音が響く。テレビのニュースは、雨がまだ降り続いていることを淡々と報じている。

 誰も、返事をしない。

 僕の視線は、リビングの隅にある濡れた服の入ったビニール袋に吸い寄せられた。
 逃げたい。あの袋を引っ掴み、玄関の濡れた靴を履き、今すぐこの家から走り出したい衝動に駆られる。ソファに座らされたままの僕の身体は、動くことを許さない。

 なぜ、逃げない?僕は僕自身に、そう問いかける。

 わたらいさんも、彼女のお母さんも台所で僕に背を向けて、黙々と食事の支度をしている。リビングに共にいる彼女のお父さんは全く僕に無関心だ。言うなれば、逃げ出せる隙はある。

 それなのに、なぜ、逃げない?

 答えは、きっとこの肉の焼ける匂い……こんなにもいい匂いを放つ、あの熱々のひき肉の塊を1秒でも早く口いっぱいに頬張りたい欲望と、他でもないあの罪悪感だ。つまり、わたらいさんを突き飛ばし、鼻血を出させたこと。そして何より、あの泥まみれのカレーパンの記憶をわたらいさんに握られているという、決定的な屈辱。

 火傷した指先のひりつきが、逃げたところでまたわたらいさんに連れ戻され、どうせ逃げられない運命を僕に突きつけてくる。

 僕はただ、ハンバーグの焼ける音に耳を澄ませるしかなかった。



 カチリ、とコンロの火を消す音が響く。

「出来たよ!パパ、テーブルに着いて!」

 わたらいさんがお父さんに声をかけると、彼はテレビから視線を動かさず、電源を落とし、リモコンを乱暴にソファに投げ出した。そして、気怠そうに、無言で食卓へ向かう。彼がリビングを出て行く瞬間、薬品のような匂いが再び鼻についた。

「あやせくんも、こっちきて」

 リビングの隅でまだ座っていた僕に、わたらいさんがあの貼り付けたような笑顔を向ける。
 僕は、ソファから身体を引き剥がすような思いで立ち上がり、食卓に向かった。

 「ここ、座って」とわたらいさんが、彼女の隣の席の椅子を引いてくれる。

 席に着くと、僕の前には山盛りのご飯と、分厚く焼かれたハンバーグ、そして大量のサラダが並べられた。ハンバーグにかけると思われる別添えのソースからは、醤油とケチャップの混ざったような甘く香ばしい匂いが、これまでの飢餓を煽るように立ち上っていた。

「さあ、召し上がれ」

 わたらいさんは、家族三人と僕という、ちぐはぐな四人の食卓を前に微笑んだ。貼り付けたような笑みのままだった。彼女の心が満たされたわけではないとすぐに分かった。

 誰も、笑っていなかった。

 お父さんは新聞を広げて、遮蔽物にしていた。食べているのかいないのか、それすら分からない。

 お母さんはスマートフォンを片手に、肉を捏ねていたときと同じ、無表情を貼り付けている。その合間合間で、作業みたいに淡々と肉塊を口に運ぶ。

 その淡々とした動きは、兄ちゃんの骨を床に這いつくばって集めていたときのママの動作にどこか似ていて、寒気がした。

 僕は、フォークとナイフを取った。
 「いただきます」と一応、声を出したけど、ひどく小さかった。

 ハンバーグにフォークとナイフを突き立てる。肉汁が溢れた。その肉汁が、僕の目の前の光景にはっきりと輪郭を与えた。悪夢ではない、これはずっと現実だ。

「ほら、早く食べて。お腹空いてるんでしょ?」

 わたらいさんが、強い口調で僕に促した。まるで、僕が食べ始めない限り、この悪夢みたいな現実が終わらないと言わんばかりに。

「ハンバーグにはね、隠し味にお醤油を入れたから、ソースをつけなくてもおいしいよ。まずはそのまま食べてみて」

 僕が空腹を満たすことで、この家庭の平和が維持される。彼女はそう信じているようだが、僕にはとてもそうとは思えなかった。

 僕は、この屈辱がパイナップルのシロップのように、体を巡り痺れさせるある種の毒だと知っていた。それでも空腹は、すべての理性を凌駕する。もう、毒でもなんでも良かった。

 大きめの一口に切り分けて、ハンバーグを齧る。熱い。そして、猛烈に美味しかった。

 これまで与えられたパイナップルや魚肉ソーセージとは、到底比べ物にならない。僕はみっともないくらいに、夢中で頬張った。

「そんなに慌てなくても、おかわりあるよ」

 わたらいさんが、貼り付けた笑顔で言う。僕も、釣られて狂ったように笑った。

 兄ちゃんの代わりになろうとしていた僕と、家族の代わりに僕を招いたわたらいさん。

 僕らは、互いの飢えと互いの罪悪感を、このハンバーグで埋め合わせようとしているだけなのだ。もう、それならそれでも良いような気がした。必死に抗ってきた全てが、急に馬鹿馬鹿しく思えた。結局は、何にも抗えずにこうして欲に流されてしまうのに。

「またいつでもごはんあげるからね、ぺこ?」

 そっと耳打ちしてきたわたらいさんの声が、耳の奥で響いた。その声は、ハンバーグという餌で僕を支配し、「優しさ」という名の自己満足で、彼女の孤独を埋めることを宣言していた。

 僕は熱い肉塊を頬張りながら、断ち切れない飢餓と、二度と帰れない兄ちゃんがいた頃の幸せな食卓の欠片を、静かに噛み砕いた。

 照明の光だけが不自然に明るい、沈黙の食卓だった。

「玉ねぎみじん切りするときにね、あえてちょっと粗めにしてみたの」

 わたらいさんが得意げに話す。それなのに、お父さんもお母さんも、彼女に何も言わない。ただ黙々と皿が空になっていくだけの現状。

 わたらいさんだけが何度も自分の両親に声をかけていた。

「パン粉を入れるとね、ふんわりするんだよ。牛乳と卵をつなぎにして、よくこねたんだよ」

 彼女は、料理の工程と愛情を必死にアピールするが、全く反応がない。お父さんとお母さんはまるで目の前のわずかな餌を食べるかのように、ただ皿の上の肉塊を口に運ぶだけだった。

 僕は、その光景を直視できなかった。

 これは食事ではない。崩壊寸前の、わたらいさんの孤独な一人遊びだった。

 やがて、お父さんがさっさと食べ終えた。食器や皿をシンクへ運び、そのまま無言でリビングへと引っ込んでしまう。

 ここまで、わたらいさんはずっと笑顔を作っていたが、その顔は急速に崩壊していく。ついに唇を噛み締め、うつむいてしまった。

 僕は、思いの外美味しいハンバーグと居た堪れなさでいっぱいの胸の中で、何か声をかけようと思うけれど、その言葉はうまく出てこない。

 やがて、わたらいさんが諦めたように立ち上がり、席を離れようとする。

 その時、僕の身体が動いた。考えるよりも先に。僕の腕がわたらいさんの肘を掴み、強く引き止めた。

「えっ、どうしたの」
 わたらいさんが心底驚いたような顔をした。
 その目には、いつもの歪んだ優越感も、不自然な明るさもなかった。

 それは、僕が初めて見た、『本物』の彼女の表情だった。

 僕もまた、自分がなぜそんなことをしたのかわからなかった。それでも、考えるよりも先に口が動いていた。

「ハンバーグ、すごく美味しいよ」
 そう言った僕の声は、なぜか震えていた。

「……すごく美味しいよ。だから……あったかいうちに、ちゃんと食べて。君が作ったんだろ、これ」

 僕の言葉を聞いたわたらいさんは、はじめは戸惑ったように視線を動かして、その場に立ち尽くしていた。それから、まるで重力に引き寄せられるように、ゆっくりと椅子に座り直した。

 次にその顔に浮かんだのは、僕が初めて見る照れ笑いのような、途方に暮れたような表情だった。

「ありがとう……おかわり、たくさんあるからね」

 そう言って、わたらいさんはハンバーグをひと切れ口に入れた。そして、僕を見た。

 その顔は、先ほどまで見せていた無理矢理作った笑顔ではない。本当に嬉しそうな、彼女自身の心からの笑顔が初めて浮かんでいた。

 僕の胸が、キュンとくるしく、暖かくなった。初めての感情だった。

 それは、空腹でも罪悪感でもない。誰かの孤独を埋め合わせできた、ささやかな達成感に満ちていた。



 食事を終えて、わたらいさんの家を出る。今度は追いかけてこなかった。

 雨のせいで、空はずっと暗いままだった。

 ――“あげる”ってこと。

 その言葉だけが、あの家を出た今も、耳に残っていた。ハンバーグの匂いと、引き止めた彼女の腕のぬくもりと一緒に。

 自宅のドアノブを回す音が、それらをかき消すようにやけに大きく響いた。玄関の扉が、ぎいいと軋む。

「……ただいま」

「ちょっと、遅かったじゃない!」
 “おかえり”より先に、ママの鋭い声が飛んできた。その手にはスマートフォンが握られている。

「窓も鍵も開けっぱなしだし……何かあったかと思うじゃない……!私が洗濯物を取り込めなんて言ったから……転落でもしたのかと……心配したんだから……!」
 ママの瞳が怯えたように揺れた。

「ごめんなさい」

「なにその格好。どこで拾ったの、それ」
 声が、途端にいつもの調子に戻る。ママの目が、怒りよりも嫌悪を湛えていた。

「……雨で濡れたから、貸してもらったんだ」と、僕は恐る恐る答える。

「誰に?その体操服、誰の?」

「わたらい、さん」
苗字は知っている。でも、名前はわからない。

「わたらい……なにさん?」
 ママの尋問に言葉がつまる。本当に知らない。聞いていない。

「名前も知らない子?それ、本当に友達?」
 ママの声が、氷みたいに冷たくなる。
「知らない人の家にあがったの?こんな時間まで?」

 ちがう、と言いたかった。でも、“友達”だったかどうか、自分でもはっきりしなかった。

「……とにかく、お風呂入りなさい。そんな格好でうろうろされたらたまらないわ」

「うん……」
 お風呂も借りた。ごはんも食べた。でも、それは言えなかった。

 もしかして全部、夢だったのかもしれない。猫を飼っていて、ごはんをくれて、服まで貸してくれて……すごく優しかった。笑ってくれた。それでも、名前は知らない。

 そんな人、ほんとにいた?自分で信じきれないものを、ママが信じるわけがない。

 脱衣所に入ると、ママが洗濯機の蓋を開けながら、僕の手に握られたビニール袋を指さした。「それ、なに?」

「着てた服。雨で濡れたから、わたらいさんが入れといてくれたの」

 ビニール袋を渡しながら、体操服を脱ぐ。微かに、やさしい匂いがした。

 胸元の「わたらい」の刺繍を、改めて見つめる。
「ねえママ、“わたらい”ってどういう字?」

 ママの手がぴたりと止まる。洗剤のキャップを握ったまま、動かない。
「……あんた、私を馬鹿にしてんの?」
 きゅっと音がして、キャップが少し潰れた。

「ちがう。ただ、知ってたら教えてほしくて……」

「名前も知らない子の服、着て帰ってきたの?」
 堂々巡りになるのは、ママのいつものパターンだった。

「でも、雨で……」

「“でも”? “でも”じゃないでしょ」
 ママの声が乾いていた。溜め息ではなく、息を吸う音がした。

「名前も知らない子から、“服”借りたの?それも、女の子の。……騙したつもりかもしれないけど、一目で気づいたわよ」

 一瞬だけママの言葉が止まる。そして、吐き捨てるように一気に噴き出す。

「恥ずかしいと思わないの? 男の子がそんなの着て、“貸してもらった”なんて……頭、おかしいんじゃないの?」

「ちがうってば!」声が、勝手に飛び出した。喉の奥が焼けるみたいに熱い。

「ほんとに貸してくれたんだよ。優しくしてくれて……ちゃんと返すって言ったし、迷惑かけないようにしたし……!」

「……だからなに? 偉いの? 借りたら返すなんて、当たり前でしょ」

 ママが洗剤を持ち直して、洗濯機の側面を軽く叩いた。カン、カン、と乾いた音が響く。
「その子の親はどう思うか考えた? “変な子に関わっちゃった”って思うかもしれないじゃない」

 確かに、そうかもしれない。それでも。
「……優しかったんだよ、その子。助けてくれて、笑ってくれて、僕のことなにも言わなかった」

「“優しかった”?」
 ママの目が細くなる。
「そんなことで“やさしい”とか言ってるから、あんたは考えが浅いの。視野が狭いのよ。

兄ちゃんが死んだ時、みんな優しかったわよ。口を揃えて『誰のせいでもない』って……それが何になった? 言われれば言われるほど、ママが失敗したって言われてるみたいで、どこにも逃げ場がなくなるのよ!

本当に優しいっていうのはね、いい? 覚えておくのよ。二度と同じ失敗を繰り返さないこと。そのためには厳しく、もう二度と迷いがなくなる位、徹底的にやらなきゃいけないの。それができるように導くのが、“やさしさ”っていうの」

 言葉が、ひとつひとつ胸の奥に刺さった。それが、今のママを形成する全てだと、僕にも分かっていた。

「あなたには、失敗してほしくないの。だから言ってるの。そんな、よくわからない家庭の──」

「わかるよ、そんなの!」
 僕は叫んでいた。目の奥が、焼けるみたいに熱い。

「僕だって、わかってる。勉強して、ちゃんとして、兄ちゃんみたいに──」
 急に喉が詰まって、言葉が出なくなった。

 ママは何か言いかけて、やめた。

 濡れた服と体操服をまとめて、洗濯機に投げ入れる。それは泥を落とすというより、“恥”を振り払うようだった。

 服が沈み、絡み合っていく。

「ほんとに友達だったの?」
 洗濯機越しに、ママが僕を見ていた。じっと、目だけで。
「……どうせお金持ちの子が、哀れに思って貸したんじゃないの?」

 わたらいさんから受け取った胸の温もりが、この一言で、冷たい水に変わった。