ネグレクト少年の拾い食いとヤンデレ少女の餌付け

 不意に背中に冷たい視線を感じて、僕は思わず泣くのをやめた。

 土砂降りの中から、何かがこちらへ向かってくるのに気づいたからだ。雨粒がモザイクのように景色を歪める中、目を凝らす。

 黒い猫だった。たぶん、昨日見たのと同じやつ。琥珀色の目が、ヘッドライトのように雨の景色に滲んでいた。

 黒猫は、まるで晴れた日の散歩でもしているように、悠々と歩いてくる。土砂降りだというのに、その歩みに乱れはなかった。むしろ、現実から浮いているような奇妙さがあった。

 音もなく僕の足元に近づくと、黒猫は柔らかい体をすり寄せてきた。ズボンに泥をなすりつけるように。あるいは、拭ってくれたのかもしれない。

 背中でよじれた尻尾──間違いない、昨日のあの黒猫だ。

 黒猫は慣れた様子で屋根の下に入り、雨宿りを始めた。濡れた体も気にせず、駐輪場の隅へと移動していく。その足跡をたどるように、水たまりが静かに揺れていた。

 まるで品定めするように、一定の秩序のもと整列した自転車の中から、一台の自転車を選び、荷台に飛び乗る。僕の自転車。兄ちゃんが支えていた荷台。猫は腰を落ち着けたかと思うと、また飛び出して地面に降りる。

 なんとなく目で追っていた僕の視線は、黒猫の歩みと同じタイミングで止まった。

 その先に、餌皿があった。中には剥き出しの魚肉ソーセージ。きれいに一口大に切られていて、まるで「どうぞ」と言わんばかりだった。
雨ざらしだったカレーパンとは違い、屋根の下にあったこれは妙に清潔に見えた。ついさっき誰かが置いたばかりのようにも思える。

 黒猫が匂いを嗅いでいる横から、僕はそっと手を伸ばした。手の甲にヒゲの先と、柔らかいマズルを感じながら、魚肉ソーセージのひとかけらを指先で挟む。

 もう少し。あと少し。

 指に挟んだソーセージが、皿の縁を越えそうになったそのときだった。

「それ、猫の餌なんだけど」
 声がした。女の子の声だった。

 顔を向けることができない。見られた。しかも、よりによって女の子に。

「……実は、さっきから見てた。もしかして、君、お腹空いてる?」
 声は続く。憐れみでも、嘲りでもない。ただ、事実を確認するような、淡々とした声だった。だからこそ、かえって胸に突き刺さった。

僕は答えられなかった。代わりに、ようやく顔を上げた。

 女の子は、フード付きのレインコートに身を包んでいた。肩から提げたトートバッグは、雨を吸って色が濃くなっている。

 まるで僕が来るのを知っていたかのように、じっと動かず、そこに立っていた。

 彼女のまわりだけ、別の時間が流れているように思えた。いや、まるで空間ごと切り取られ、現実から浮かび上がっているみたいだった。

 感情は止まっていたのに、頭は妙に冷静で、視界だけがやけにクリアだった。

 びしょ濡れの服、泥まみれの手──そんな僕を見ても、彼女は気にせず一歩、また一歩と近づいてくる。
 トートバッグに手を入れて、何かを探りながら。

「待ってて。今、出すから……はい」
 そう言って、彼女は魚肉ソーセージを一本、僕に差し出した。
「よかったら、一つあげるよ。こっちはまだ開けてないから」

「いらない」
 僕はほとんど反射的に、それを断っていた。

「そっか。……なんかね、餌をあげると、安心するんだよね」
 彼女は口元だけ笑っていた。

 「餌」という言い方にカチンときて、僕は何か言い返そうと彼女の顔を見た。彼女も僕を見ている。その目は、笑みの奥で、何かを試すような光を宿していた。

「雨宿りしてるのなら、うちにおいでよ。すぐ近くだから」
 僕の怒りを交わすように、彼女はそう言った。そして、餌皿に鼻先を突っ込んでいた黒猫を抱き上げる。猫はほとんど抵抗しなかった。彼女の飼い猫なのだろう。

 彼女のその腕の中で大人しくしている黒猫に、僕は目をやる。不自然によじれた尻尾が、背中の皮膚に癒着していた。彼女に撫でられて小さく身を震わせるたびに、痛みが走っているように見えた。

「その尻尾、どうしたの?」
 別にどうだっていいことなのに、なぜか聞かずにはいられなかった。

「火傷の跡だろうって。ママが言ってた。ふだんは人間の患者しか診ないけど、たぶん間違いないって」
 そう言った彼女の表情が、かすかに歪んだ。言葉を選んでいるみたいだった。

「例えば、熱湯とか──わざと、いじめるために」

「お湯なんて……そんなこと、するはずが……」
 言いかけて、喉の奥で言葉が詰まった。思い出そうとしたわけでもないのに、ママが僕を叩くときの顔が、ふと浮かぶ。あわてて振り払った。

「この子、私が小さい頃からずっと一緒にいるんだけど、出会ったのは近所で火事があった時だったから……もしかしたら火事に巻き込まれちゃっただけかもしれないけど」

 黒猫を抱く彼女の腕に力がこもる。

「私の知らないところで、またひどい目に遭うかもしれないって思うと、放っておけなくて。この子を見つけた日も、雨だったの。びしょ濡れで、震えてて。だから、連れて帰ったの。ちょうど、今日の君みたいに」

「ふーん、優しいんだね」
 言い方はぶっきらぼうだったかもしれないけど、本心だった。

 どうせ得意げな顔をしているんだろうと、彼女の顔を見る。でも僕の考えに反して、彼女の表情は、どこか複雑だった。
「違うよ、そんなんじゃない。やらなくちゃって、思っただけ。自分のために」

 その言い方に、僕は面食らった。まるで、彼女が自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

「それからママとパパにお願いして、うちでお世話しているの。それからは、ずっと一緒。……どんなお友達よりも」

 その言い方に、何か含みがあるように思えたけれど、僕はあえて追求しなかった。
「そうなんだ。いいね、仲良しで」

 僕の返事に、彼女の表情が微かにこわばった。それも一瞬のことで、すぐに明るい声をかけてきた。

「とにかく君、そのままじゃ風邪ひくよ。ついてきて」
 彼女が強引に僕の手首を掴む。女の子に急に触れられてドキッとした。

「いいよ、いいよ。僕もこのアパートに住んでるから大丈夫だよ」

 断っても、彼女は僕の手を離さなかった。引きずるように導かれ、逆らう間もなく階段を登る。やがて同じ階の一室にたどり着く。扉を目の前に、僕らは足が止まった。

 彼女は無言で鍵を開け、先に中へ入った。
 半開きのドアの向こうから「どうぞ」と彼女が促す。

 本当に入っていいのかな? もし中に悪い大人がいたら? ドアが閉まったら──もう出られない気がした。

「早くおいでよ。大丈夫。ママもパパも仕事で居ないから」

 彼女は笑っていた。僕の葛藤を見透かすように。何も心配いらない、そんな目で僕を見つめていた。

 僕は黙ってうなずいた。「それじゃあ、お邪魔します」

 先に入った彼女は、僕に黒猫を預けて、玄関で待つように言った。言われなくても、濡れたまま他人の家に上がるつもりはなかった。

 黒猫は、僕を見ていた。

 魚肉ソーセージの恨みか。それとも、もっと深い何かを見透かしているのか。

 その目は、まるで僕のすべてを暴くように、冷たく見下ろしていた。

 人間が猫を試すことはあっても、猫に試されるなんて思ってもみなかった。

「……なんだよ」
 その眼差しがあまりに人間くさくて、僕は目を逸らした。

 しばらくして、彼女がタオルと新聞紙を持ってきて、玄関から廊下の奥まで丁寧に敷き始めた。
 なるほど、この上を歩けば床を汚さずに済むというわけだ。

「来ていいよ。この奥がお風呂場。シャワーもシャンプーも、適当に使って。タオルと着替えは置いておくから」

 僕は言われた通り、そっと浴室へ向かった。
 肌にまとわりついていたびしょびしょの服を脱ぐと、脱皮したみたいだった。

 シャワーを浴びる間、脱衣所の棚に、兄ちゃんの遺骨ネックレスを置く。銀色のカプセルが、やけに清潔に見える。

 泥まみれだったカレーパン──噛んだ瞬間のぬるさ、ねっとりとした感触が、今も口内にまとわりついて離れない。

 思い出すと、途端に気分が悪くなり、裸のまま洗面所の水を出す。風邪を疑われないかと不安になるくらい、よくうがいをした。

 それでも、何も綺麗にならなくて、呆然と浴室へ移る。



 軽めのシャワーを終えると、いつのまにか棚の上にタオルと着替えが置いてあった。

 それは、どう見ても体操服だった。胸元に、ひらがなで小さく名前が縫い込まれている。

 ──わたらい。
 たぶん、彼女の苗字だ。

 仕方なくそれを着る。華奢な僕の体は問題なく収まった。

「……あれっ?」
 さっき置いたはずのネックレスが、どこにも見当たらなかった。

 脱衣所の外から、かすかにドライヤーの音がする。もしかしたら、濡れた服と一緒に彼女に回収されたのかもしれない。

 音を頼りに廊下を進むと、彼女が猫の毛を乾かしていた。
「よじれはいい子ね」
 彼女のその声で、猫の名前が「よじれ」だと知った。なるほど、尻尾がよじれている。

 その猫──よじれは、また僕を見ていた。瞬きもせずに。

 あの目だ。どうしても見返せない。苦手だった。思わず視線を逸らす。

「これ、無くすといけないからこっちに持ってきたよ」
 声に振り向くと、彼女がネックレスを手にしていた。さっき断った魚肉ソーセージとともに僕の前に差し出している。

「欲しい?」と訊かれているようでもあり、ただ“渡したいだけ”のようでもある。

「ドライヤー終わるまで、それ食べてていいよ」

 僕は黙ってそれらを受け取った。
 ネックレスを首にかけてから、改めて魚肉ソーセージを握る。

 ビニールを剥がし、一口噛む。甘さと塩気がじわじわと口いっぱいに広がった。
ちゃんとしたものを食べるのは、どれくらいぶりだろう。
 二口目は、なかなか噛めなかった。包みのビニールが、彼女の体温でぬくもっていた。


 がつがつ食べるのも、なんだか恥ずかしい。ただ差し出されたから、口に入れた。それだけだった。

「ねえ、ぺこ」

 彼女は僕をまっすぐ見て言った。
「ぺこ。魚肉ソーセージだけじゃ足りないでしょ。今、ごはんあげるから、待ってて」

 ドライヤーの音が止まり、彼女の目が細められる。満足そうに、どこか嬉しそうに。

「……え? 今の、僕のこと? なに、“ぺこ”って?」


「私が拾ってきたし、ごはんもあげたし。だから、“ぺこ”」

 冗談めかした声だった。でもその目は、本気だった。強く、僕を見ていた。所有するように。

「“ぺこ”。お腹ぺこぺこだったから」
 理由は単純だった。でも、妙に残った。胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

「拾った子には、名前をつけるの。……そうでもしないと、きっとまた、いなくなっちゃうから」

 そう言って彼女はまた、猫の方へ視線を戻した。
それはまるで、かつて誰かを見失ったことがあるように聞こえた。

 ドライヤーの風に、よじれの毛がなびく。
 その尻尾を撫でる手つきが、不器用で、やさしすぎた。

 ぺこ──そう呼ばれるたびに、自分の中の何かがこそばゆく軋んだ。


 空っぽの腹を抱えている自分と、餌を与えられる猫の姿が、どうしようもなく重なってしまう。食べかけの魚肉ソーセージを、叩きつけたくなるのを必死に堪える。

「……僕は、颯。ちゃんと、名前があるんだ」
 ドライヤーの音にかき消されそうな声だった。勢いに任せたら、彼女を傷つけてしまいそうで、それ以上うまく言葉が出てこなかった。

 やり場のない視線の先で、猫と目が合った。
 まだ半乾きの毛。じっと動かず、逃げもしない。お行儀が良すぎる。

「よじれは、お利口さんでしょ?」

 まるでタイミングを計ったかのように、彼女が言った。ドライヤーが止まる。

「よじれって……その猫のこと?」

 聞くまでもない。でも、聞かずにいられなかった。
何かが、少しずつおかしい。何かに飲み込まれていくような、微かな違和感。

 この家に来てからずっと、彼女のペースに飲まれている。

「尻尾がよじれてるから“よじれ”。お腹ぺこぺこだったから“ぺこ”」

 彼女は歌うように言って、そのまま使った道具も片づけず、台所へ向かった。
「ねえ、ごはんあげるよ。ついてきて」


 僕も彼女の後についていった。お行儀よく。

 台所は、僕の家とそう変わらないはずなのに、すべてがどこかズレて見えた。
 システムキッチンも、窓の外の景色も。知っている形なのに、何か異質だった。

 それはたぶん、この部屋にとって僕が異物だから。この空間に、馴染めない。

 彼女は当たり前にように食卓の椅子を引き、座るよう促した。僕が腰を下ろすと、自分の席の椅子を引きずってシステムキッチンへと向かった。

 踏み台にして吊り戸棚を開け、缶詰のラベルにそっと指を這わせる。どれがいちばん甘いのか、確かめるみたいに。やがて一つを選び、今度は引き出しから缶切りを取り出す。

 その手つきに、きっとお手伝いをよくしてるんだなと思った。

 僕の正面に戻ってきた彼女が、口を開く。
「ぺこのママ、怖いよ。時々、怒鳴る声が聞こえてくる。何を言っているのかはわからないけれど、それだけで怖くて、悲しくなるの」

 僕は何も言えなかった。何を返せばいいか、分からなかった。

「……ごめん。こんなこと言っちゃって」
 彼女が小さく謝罪する。

 大丈夫、なんて言えなかった。
 怖い? 僕のママが?

 そんなはずはない。だって、昔は違ったんだ。昔、まだ、兄ちゃんがいた頃──思い出そうとすると、胸の奥がきゅうっと苦しくなった。思い出したくないんじゃなくて、忘れかけている。

「本当は、優しいんだ。本当は……」
 僕の声が震えた。まるで、自分に言い聞かせているみたいに。

 彼女は沈黙のまま、僕の目を見つめ、否定も肯定もしなかった。そのまなざしがなぜか悔しくて、涙が溢れそうになった。

 部屋には外の雨音だけが響いている。
 やがて彼女が、息を吸い込む音がした。

「うちのパパも、時々笑ってた」
 小さな声で、彼女は囁く。
「パパとママが並んで笑っている写真があるの。……でも、私、もうずっとパパの笑う顔を見てない。それって……私が覚えているパパの笑顔って、もしかして嘘だったのかな。偽物だったのかな。私のパパも、ぺこのママも」

 その言葉は、僕だけじゃなく、彼女自身の胸をも刺すようだった。
「わかんないよ、そんなの!」
 僕は思わず叫んだ。強く言うつもりじゃなかったのに、声が怒っているみたいだった。

 彼女は一瞬目を伏せたが、すぐに視線を上げた。「わかるよ」
 その響きは優しく、寂しかった。

「うちのママとパパは、いまは仲が悪い。でも、前は違った。一緒に笑ってた、それは本当のこと。だからきっと、忘れたくないんだ」
 

 カシュッと小さな音がして、缶切りがぐるっと一周した。蓋が持ち上げられると、甘い匂いが室内に広がる。缶の中には、輪切りのパイナップルがシロップに沈んでいた。

「ペコの恥ずかしいところ見てたから、私も見せてあげる」
 彼女は指をその輪に通し、ゆらゆらと揺らした。


「ほら、見える?」

 輪の向こうに、彼女の口元が覗く。

「こうして“通す”の。中を──ちゃんと」


 舌先がそっと孔に触れ、甘い汁が唇の端を濡らす。その目は、僕の顔をじっと見つめ、反応を窺うように細められていた。


 その視線に、僕はぎこちなく身を引き、目を逸らす。


「やめろよ、そういうの、変だよ……」

 猫が見てる。そう言いかけて止めた。


「こうやって舐めると、甘さが喉の奥へと落ちていくの」

 彼女の唇は濡れ、光を帯びていた。

「食べたい?ぺこ、お腹減ってるよね?」


「……うん」


「じゃあ、やってみて。ぺこも真似っこしてみて」


 僕は恐る恐る指を差し入れ、ひとつ掬いあげる。シロップが肘まで伝うのを感じた。

「恥ずかしい」

「さっき、カレーパン拾ってたのに。なんで恥ずかしがってんの。私しか見てないんだから、いいじゃん」

 僕は何も言えなかった。彼女に見られたことが恥ずかしいのに。


 僕は大きく息を吐いてから、彼女を真似て舌を孔に差し入れた。甘い汁が滴った。顔が熱かった。でもやめられなかった。

「ほらね、一緒なら恥ずかしくないでしょ?」
 彼女も同じことをしている。二人、愚かに笑った。


「どう?」
 彼女が尋ね、パイナップルを齧った。


 僕もかじりついた。「甘い、すごく」


「これはね、“あげる”ってこと。ぺこに、私が」

 少しの沈黙の後、ぽつりと彼女は続けた。

「ねぇ……ぺこは、寂しくない?」


 一見、寂しさとは無縁の表情で彼女が言った。

「うちのママが言ってたんだ。『なかよしってね、恥ずかしいことも嫌なことも、ぜんぶ見せることなんだよ』って。……不思議だよね、ママとパパは、今はなかよくないのに」

 彼女の声は、遠くで鳴る鐘のように響いていた。


 僕は頷く。まだ意味はわからなかったけれど、その言葉は心の奥に確かに届いた。

「でも、たぶん、どっちかが見せなかったんだと思う。ほんとのとこ。だから、私はそうしないって決めたの。全部、見せるし受け止める。自分のことも、相手のことも。……だって、そうじゃないと、わかり合えないから」

 僕は、何か言葉で返したいと思った。でも何も出てこない。

 全部。恥ずかしいこと。
 彼女のその言葉に、胸のどこかがきゅっと引きつって、僕は反射的に目を伏せる。

 彼女の素肌や、雨に濡れた髪、こちらをまっすぐ見つめる目――そんな断片的な像が、唐突に頭をよぎった。

「全部、って……」
 思わずそう呟いたら、心臓の音が急にうるさくなった。

「……ごめん、変なこと言ったかも」
 彼女が笑った。けれど、その笑顔の奥には、たしかな覚悟のようなものがあった。
逃げないっていう、決意の顔だった。

「ううん、……変じゃないよ」
 それだけ返すのがやっとだった。
言葉が、まっすぐ突き刺さってくるみたいだった。


「全部、見せる……」
 その言葉を僕が口にすると、彼女が僕の顔をじっと見つめていた。視線が合う。彼女は少し口を開いて――けれど、言い淀むように視線を落とした。

「さっきも言ったけど、私、見てたよ。……でも、恥ずかしがらなくていいの」
 彼女の声は、優しかった。責めるでも、慰めるでもない。まっすぐだった。

「全部、知りたい。ぺこのこと。ぜんぶ」
 彼女が言った「ぜんぶ」は、きれいなことや、いいことだけじゃなかった。みっともないことも、情けないことも、汚れて見える部分さえも、包み込もうとするような響きだった。

「……無理だよ。そんなの、恥ずかしいよ」

 僕はやっとの思いで、声を出した。

「これ以上見られたくないよ、あんなの……」
 無意識に、服の上から、冷たいネックレスを握り込んでいた。

「それじゃあ、私から見せてあげる」

 彼女はにこっと笑って言った。

「ぺこの『ぜんぶ』を見ても、引いたりしない。……私もいっぱい、見せてあげる。だから、いつか、ぺこも見せて」

 まるで心を脱がされるようだった。
その笑顔が、あまりにも真っすぐで怖い。

「なかよしって、そういうことでしょ? 私はぺことなかよしになりたい」


 室内にはシャワーと雨の湿気が溶け込み、ドライヤーを借りなかった僕と、猫を乾かしていた彼女の髪はまだ少し濡れている。


 雨粒が髪先から服へ、ぽたり、ぽたりと落ちていく。くしゃみが一つ、小さく響く。

 何もしてあげられなかった。自分のことよりも、猫や僕を優先してくれた、優しい彼女に、何も。胸の奥が締めつけられ、言葉が出なかった。


「髪、濡れてるよ」
 やっと、それだけが口をついた。

 シャワー浴びないの?と言いかけて、やめた。


 湿り気を帯びた室内で、よじれだけがなぜか乾いていた。まるで、誰にも触れられなかった場所みたいに。