ネグレクト少年の拾い食いとヤンデレ少女の餌付け

 真昼だというのに、救急外来の廊下は夜みたいに薄暗かった。
 空気はひやりと冷たく、扉の向こうからは機械音が断続的に響いてくる。
 大人の足音が慌ただしく行き交い、その合間を縫って、兄ちゃんの苦しそうな呼吸が漏れていた。
 救急車で運ばれた兄ちゃんは、扉の向こうで治療されている。

 外来入り口の自動ドアが開いて、人が入ってくる度に、僕ははっとそちらを向いた。でも、それがママじゃないことを確認すると、またうつむくしかなかった。

 時間が止まったようだった。忙しそうな大人が行き交う。僕だけが座っているのが居た堪れなくなってくる。

 待合室には、時間潰しの絵本や雑誌が置いてある。でもとてもそれを開く気分にはなれない。

 自動販売機の灯りだけが、煌々と輝いていて、この空間にいる誰よりも元気そうに見えた。

 その眩しさに思わず目を細めると、光がよじれてみえた。

 喉の渇きを思い出しながら、これはきっと罰なんだと思った。

 少し遅れて、仕事を抜け出してきたママがドアにぶつかりそうな勢いで入ってきた。

「颯!」

 僕の姿を見つけると、すぐに駆け寄ってくる。僕は、少しホッとした。

 怖かったでしょう、一人でよく頑張ったわね。

 そんな優しい声をかけてもらえると思った。
 ママの手が、僕に向けて伸びている。

 温かい抱擁を予感した無防備な僕を捕食するように、ママは爪が食い込みそうなほどの力で僕の肩を掴んだ。

「颯……何か見てない? 遥兄ちゃん、何か変じゃなかった?」

 ママの口から出たのは、他でもない兄ちゃんのことだった。声が、震えている。
 ぐっと近づけられたその顔は、本当のことを知りたい気持ちと、それを知るのが怖い気持ちとが混ざって見えた。

「僕、兄ちゃんに……自転車に乗れるところを、早く見てほしくて……」

 僕は、兄ちゃんと走ったことだけを答えた。

「走った……?」

 ママの顔が一瞬、強張る。何かをわかったみたいに、でも、それを信じたくないみたいに。

「ねえ、教えて。何か、おかしなものを食べてなかった? 様子、いつもと違わなかった?」

 ママの声が、僕の頭の中に響いて、記憶が数時間前のことに引き戻される。喉の奥が、焼けるように熱くなった。



*********************

──「ママには、内緒な」

 兄ちゃんの目が浮かぶ。笑っていたけど、その目は笑っていなかった。何かをもう決めたような、強い目がそこにあった。

 今日は、僕の五歳の誕生日だった。兄ちゃんはコンビニの袋から、ショートケーキを二つ取り出した。

「今日は特別だからな」

 そう言って、にこっと笑い、僕の肩を軽く小突いた。最近の兄ちゃんは、ずっと笑っていなかった。

 だから、その笑顔が、僕はすごく嬉しかった。

「俺、いらない。颯が食べろよ。二つとも」

 ママは仕事で、家にいたのは僕と兄ちゃんだけだった。

「いいの?」と聞くと、「もちろん」と兄ちゃんが答えた。

 部活をやめてから、兄ちゃんは夜遅くまで部屋にこもって参考書をめくっていた。そんな余裕はないはずなのに、夕方になればいつも僕の自転車の練習に付き合ってくれた。

 そして、僕のために笑ってくれた。

 新しい自転車と、兄ちゃんからのケーキ。全部が、僕のためだけの日。

 すべてが、僕のものみたいだった。
 その幸せを残らず全部噛み締めるように、僕は夢中でケーキを頬張る。

「おいしい!」

 僕がそう言うと、兄ちゃんも笑った。笑っているのに、その眼差しは、なぜか少しだけ陰って見えた。

 次の瞬間、兄ちゃんは何も言わず、僕の手からフォークを奪い取った。

「あ……」

 兄ちゃん、小麦アレルギーなのに。ダメだよ、と言おうとしたけれど、声が出なかった。

「……兄ちゃん、それ……」

 やっと声が出たけど、あまりにも小さな声だった。

 兄ちゃんは、聞こえないふりをした。それか、僕の声が小さ過ぎて、本当に聞こえていなかったのかもしれない。

 その間にも、フォークを握る兄ちゃんの手は動いている。一口、また一口と頬張る。それから、急にフォークを返された。
 まるで、もう充分気が済んだというように。

 困惑する僕の震える手にフォークを押し付けて、兄ちゃんは、なんでもない顔で言った。

「本当だ、美味いな」

 笑っていたけど、その眼差しはどこか暗くて──まるで、全部わかっていて、自分で選んでいるみたいだった。

 止められなかった。
 止めたくなかったわけじゃない。

 でも──僕には、兄ちゃんが何か大事なことを決めたんだって、なんとなく分かってしまった。止めたら、その大事なことを邪魔しちゃうような気がした。

 僕は、しばらく動けなかった。
 無理矢理握り込む形にされた手を、見るでもなく見ている。

 それから、少し間をおいて、兄ちゃんはぽつりと言った。

「……これだけで生死を左右されるなんて、人生って分かんないもんだな」

 兄ちゃんの顔も声も、いつもの冗談を言っているような調子だったけど、僕には全然笑えなかった。

 案の定、緩く弧を描いていた兄ちゃんの口角も、すぐに下がったのを、僕は見逃さなかった。

「──ママには、内緒な」
 口元に人差し指を立てて、兄ちゃんは低い声でそっと言った。
「もう、これは俺が決めたことだから」

 笑っていたけど、やっぱり目は笑っていなかった。何かを堪えているような、怖い目をしていた。

「今まで、ありがとうな。最後に、一緒にケーキ食えてよかった」

 ぞわりと、僕の背中が冷たくなった。
 何を言っているのか、はっきりとは分からない。だけど、「何かを決めた」ということだけは、嫌というほど伝わった。

 うん、とうなずくしかなかった。
 誰にも話すつもりはなかった。ただ、それだけだった。

*********************



「颯! 何か知ってるでしょ!? 見たんでしょ!?」

 ママの手が、肩にさらに深く食い込み、無理やり現実に引き戻される。

 「痛いよ」と呟く僕の声を聞き、そばにいた看護師さんが、間に割って入った。

「お母さん、落ち着いてください」

「看護師さん! あの子……遥は小麦アレルギーなんです。
運動誘発性の。
だからきっと、何か食べたはずなんです。

ねえ、颯……どうなの!?」

 僕は勢いに気圧され、何も言えない。ただ、兄ちゃんとの約束を守りたい一心で、口をつぐんだ。

 あんなに美味しかったケーキが、気持ち悪く思えてきた。

「ちゃんと、ママが用意したごはん、食べてたの? 成分表はちゃんと確認したつもりなのに、一体どうして……」

 ママに真実を晒せと言わんばかりに胃の底から迫り上がってくる熱を、僕はぐっと飲み込む。

「詳しいことは、まだ分かっていません。どれだけ気をつけていても、アレルギー症状は予期せぬ形で現れることがあります。微量な混入や、思いがけない摂取ということも起こりえます」

 看護師さんは淡々とした声で言った。

「……あえて言葉を選ばずに申し上げますが、現段階では『よくある事故』という印象です。
ご家族のせいではありません。今はまず、落ち着いてください」

 その一言で、ママの体から力が抜けたのが分かった。
 かろうじて踏ん張っているものの、生まれたての小鹿みたいに小刻みに震えている。

「ただ、状態は極めて不安定です。現在、集中治療室で処置が続いています」

 その言葉にとどめをさされたように、とうとうママはその場にしゃがみ込んでしまう。
 人目も憚らず、大きく肩を震わせた。

 僕は、何も言えなかった。兄ちゃんを、裏切りたくなかった。

 本当は、誰かに話せばよかったのかもしれない。そうすれば、僕もママも、少しは楽になれたかもしれないのに。

 兄ちゃんの「ママには、内緒な」が、今でも耳から離れない。

 僕は、その言葉だけを、守っていた。間違っていたとしても、それが、僕の選択だった。

 兄ちゃんが、どうか生きていてくれますようにと、ただ、それだけを願いながら。