終焉を思え

 なにも見えない真っ暗闇で、聴覚だけが鮮明に機能していた。タッタッタッという、スタッカートの効いた物音だけが断続的に響いている。それをあたしは、訳も分からないままに懐かしく思う。例えば、幼い頃にいつも母親が口ずさんでくれた子守唄みたいに。
 不意に、だんだん眼前が開けてきて、思わぬ眩しさに狼狽えた。それは四角いディスプレイから放たれる青白い光だった。画面の前では一人の女性がキーボードに手を置いて、気怠そうに指先を動かしている。放置されて伸びきった爪が、硬質な音を鳴らす。あたしはそんな彼女の様子を背後から見おろすかたちに位置していた。視線をずらすと、彼女の不規則な髪が目につく。誰かに無理やり引きちぎられたみたいに長さの揃わないアンバランスなそれは、あたしの心を揺らがせた。泣きたい、と思って、自身の目頭に手をやろうとして、あたしは重大な事実を思いだす。伸ばした先に感触がなかった。手を伸ばしても、指先はどこまでも空を切った。それから下方に目をやって、自分の体が存在しないこと、背丈よりずっと高い場所に視点があることを確かめる。

 もしかして、あたしーー。

 *

 先輩の生活を盗み見るようになってから、それなりの月日が経った。背後霊として彼女に付きまとうあたしは、はじめこそ自身の抜け落ちている記憶を探し求めることに必死だったが、あまりにも手がかりがなく諦念に負けそうな状態にあった。
 ところで、先輩には不思議な三つの習慣がある。一つは、カレンダーの数字を日ごとに塗りつぶすこと。二つは、寝て起きてすぐ夢日記をつけること。三つは、飼い猫のネアと戯れること。
 彼女の生活はこの三要素で形成されているといっても過言じゃない。わざわざアナログな紙媒体のカレンダーを自室に吊るしているのは疑問だけど、実際に黒いサインペンを手に持って塗りつぶす、というその行為が、彼女にとって重要な意味を成しているんだろう。朝方になると、先輩は昨日の数字を忌々しいものを相手にするような目つきで睨み、真っ黒に塗りつぶしてしまう。それからずっと広げっぱなしにしてある布団にだらりと倒れ、浅い睡眠を繰り返す。彼女が本格的に体を起こすのは、決まって日が暮れた頃だ。この時ばかりはきちんとキャスターつきの椅子に座り、パソコンを起動する。フォルダは年度によって整理され、その全てが夢の内実を記したものである。数年前から、先輩は悪夢に苛まれているのだ。今日も彼女は暗く重いそれを、忘れまいとするようにタイプする。時折、顔をしかめ、苦しんでいる様子を見せ、指の動きがとまる。あたしはやっぱり気になって、もはや一切の罪悪感をもつこともなく、その画面をのぞきこむ。

『夢のなかで、私は小さな子どもだった。無人の教室に居残って、カーディガンのほつれたボタンを修繕していた。途中手もとが狂って、左手の親指を刺した。皮膚の表面に血がぷっくりと膨れるのが見えて、私はそれを舌で舐めて拭った。すると、声がした。ねえ、と誰かが言った。いつの間にか傍らに同い年くらいの女の子が佇んでいた。大丈夫、とその娘は私にたずねた。彼女の様相はひどかった。腕にも脚にも包帯が巻かれ、衣服の隙間からのぞく肌は赤黒い痕に塗れていた。彼女のそういった風貌は、私を無性に苛立たせた。私が無視を決めこんでなにも言わずにいると、彼女はこちらに手を伸ばしてきた。私から裁縫針をとりあげて、刹那、彼女はなんと自身の首筋に針を突きたてた。すうっと一筋に伝う血が、窓越しの夕陽に煌めいて、それはひどくきれいで、きれいできれいできれいで、目が離せなくて、いつまでもこの瞬間が続けばいいって、強く強く願った時、はっとなって目が覚めた。見慣れた自室の天井が妬ましかった』

 そこで、タイプする手が止まった。先輩が苦しそうに息を吐く。今まで呼吸を止めていたみたいに。
 不謹慎かもしれないけど、あたしは彼女の文章を読む度、とある記憶に浸っている。大学の文芸サークルで、先輩と一緒に過ごした日々のことだ。詳しい事柄はよく覚えていない。しかしそれらが、あたしにとって愛しいものであったことだけは、感覚的に分かる。
 あたしが先輩に憑いているのは、やはり彼女に対しての未練があるからなんだろう。なにより、思いだせないことがあるのだ。とても重要で、絶対に忘れてはいけなくて、きっとあたしはそれについて深く悩んで傷つかなくちゃいけなくて。でもそれが一体なんだったのか、まるで分からずにいる。例えば、過去の誤ちから目を背けるみたいに。
 執筆を終えた先輩が、パソコンを閉じて立ちあがる。緩慢に歩を進め、自室の扉を開いた。

「ネア、おいで」

 先輩の呼び声に、廊下の奥から一匹の猫がかけてくる。飼い猫のネアだ。ネアに自室の侵入を許すと、彼女はまた扉を閉めた。
 先輩は語る。ネアを相手に、いろいろなことを語る。それは思考の断片であり、増幅した不安であり、被害的な妄想であり、あるいは藁にもすがるような祈りだった。今日も彼女は古びたクッションに身を預け、膝にネアをのせた状態で、ゆったりと口を開く。

「ここ数日、私の代わりに傷ついてくれる女の子の夢ばかりをみるのよ」

 ネアはなにも答えない。にゃあ、とも鳴かない。ただ、無機な瞳を彼女に晒している。

「私は彼女に感謝をしていない。むしろ、なんて馬鹿げた行いだろうか、とすら思っているの。間違っているのよ。私のためを装いながら、傷つく自分に酔っているだけなんだわ。覚悟と能力は別なのよ。そこには決定的な違いがあるの。独りよがりな行為では誰も救えないのよ」

 やはりネアはなにも言わない。代わりに、体をぶるっと震わせる。先輩がその白い毛並みをなぞる。だから、もうすぐ夜がくる。

 なんの脈絡もなく、それは起きた。
 ある日の夕方、いつものように先輩が自室の扉を開け、ネアの名を呼んだ。

「ネア、おいで」

 しかし、足音がしない。いくら待っても、廊下の先からネアがやってくる気配はない。
 先輩がため息を吐く。それはいささか大仰に思える所作だったけど、おそらく他意はないんだろう。彼女はいつになく気怠そうな調子で部屋から一歩踏みだす。同時に廊下の明かりがつく。見通しのよくなった彼女の視界に、ネアの姿は映らない。
 先輩は奥に進んでいき、家のなかを捜索する。その間、あたしはこの家の広さにひたすら驚いていた。豪邸だ。今までこんな事態は起きなかったし、彼女があの自室を出ることはほとんどなかったから気がつかなかった。清掃ロボットが機能していないのか、床や家具の表面に滞りなく埃が蓄積している。人間である先輩は時折むせていたけど、あたしはまったく平気だった。そしてその事実を悲しむような情緒はとうになくした。
 先輩はリビングやバスルーム、ゲストルームの一つひとつを巡ったが、ネアはどこにも見つからない。彼女がため息を吐いた、ちょうどその時、凄まじい衝撃音が鳴った。外からだ。ギィギィ、という機械の擦れる音と、パン、という妙に軽快な音が綯い交ぜになったような響きだった。先輩は一度自室に戻ると、クローゼットを乱雑に漁って部屋着の上からぶかぶかのジャンパーを羽織った。そしてまた部屋を出て、大広間を通過し、玄関から外に続く階段を下りる。
 敷地内を抜けた先の道路に、ボブカットの女性がうずくまっていた。足もとには原型をうしなったプラスチックの欠片が散らばっている。傍らに停められたスクーターは、その女性が乗っていたものなんだろう。実にありふれた事故だった。察知したドローンが、淡々と交通規制を始めている。
 先輩はためらいがちに、現場に近寄っていった。ボブの女性は気づいていないようで、体勢を変える素振りはない。プラスチックゴミに成りはてたネアを見おろしながら、先輩はエリアの設定がどうだとか、なにやらぶつぶつと呟いた。顔には疲れが見えた。ひどくうんざりしているみたいな面持ちだった。
 ようやく、加害者と思わしきその女性が顔をあげる。あたしは目を見張った。いや、現状の自分に目というものがあるのかどうかは知らないが、ともかく生前における背筋がぞっと寒くなるような感覚に見舞われた。眼前にいるそいつは、あたしそっくりの容姿をしていたのだ。鏡を通じて嫌というほど目にしてきた、懐かしさすら呼び起こすそれが、先輩と対峙している。

「なんだ、これ乃話子(のわこ)さんのだったんすか。アタシ悪くないっすよ。弁償しないですからね?」

 挑発的な物言いを受けても、先輩はただ目を伏せるばかりだ。そこには、なにを言ったところで無駄だろう、という諦念が滲んでいた。
 あたしはといえば、生前、録音した自身の音声を聞いた時に感じた違和感が、ないはずの脳裏を過ぎっていた。目の前の光景に、あたしの思考は錯乱した。いつの間にか、自分が先輩の背後霊になったと知った時よりもずっと、いや、遥かなおぞましさに侵されていた。物理的に自分を俯瞰で見ることの不気味さについて言っているんじゃない。どうやらあたしは、霊的な存在となって現世に戻ってきているらしいのだ。そう、本物はここにいる。この世界に死んだあたしが存在するなんて、物理法則に反しているし、どう考えても間違ったことだ。じゃあ一体、目の前の人物は誰なんだ?

「乃話子さん、いつまであんな寂れた家に一人閉じこもってんすか。死にますよ、そのうち」
「君には関係ないわ」
「違う。アタシは乃話子さんが心配なだけなんすよ。一人で生きていくことは、貴女が思うより容易じゃないんです。貴女はいつも、自分を過大評価してるんだ」
「……何度だって言うけれど、君には関係がない。所詮は他人でしかない君が、私の生き方に口を出そうだなんて、そんなのは前提から間違っているのよ」

 二人にはなにやら因縁があるようで、道路の真ん中で言い争っている。あたしと先輩の面識があるのは当然だけど、あたしはこんなふうに彼女を責めたりしたことがあっただろうか? 少なくとも、乃話子さん、だなんて馴れ馴れしい呼び方はしない。
 この場に干渉できないもどかしさを抱えるうち、不意に、目があった。ぞくりとした。いつの間に、あたしそっくりのそいつが、先輩の後方、つまりあたしを見据えていた。じっと、睨むような目つきで。偶然ではすまされないほどの時間が流れる。先輩が、なにかいるの、と後ろを振り返る。彼女の視界にあたしは映らない。視線は交差しない。分かっている、彼女はあたしを見れないんだ。微妙にずれた位置を見あげる先輩はひどく滑稽だ。
 公共の清掃ロボが、てきぱきとネアの亡き骸を一箇所に集めて処理していった。
 辺鄙な場所なのか、さっきから人通りはない。この場には先輩とあたしの偽物しかいない。

「許せないと思うなら、ちゃんと怒ったほうがいいのに」

 そいつは、まるで他人事みたいに言った。先輩の表情が気になって、あたしは上からのぞき見る。彼女は考えこむような素振りを見せた後、緩やかに口の端をあげた。呆れ笑いのようでもあった。
 
「いずれ全てはゴミになるわ」

 確かにそうかもしれない。かつてネアであったものは、間もなく、その欠片の一つ残らずを綺麗に処理されるだろう。初めから存在しなかったみたいに。
 双方は口を結ぶ。耐えきれない沈黙を埋めるみたいに、柔らかな風が吹いた。先輩の不規則な髪がさらわれて、ピアス痕に塗れた片耳が露出した。彼女は乱れる髪を鬱陶しそうに抑えつける。

「もう用件はすんだのかしら?」

 誰が聞いたって分かる。それは明確な拒絶だった。
 偽のあたしの顔が歪む。そこには悲しみと苛立ちが入り交じっている。しばらくして、そいつは震える唇を開いた。

「アタシには、悪夢の元凶が分かる」

 思うところがあるのか、先輩の表情が険しくなる。

「悪霊っすよ。貴女には醜い霊がとり憑いているんです」

 澄ました顔でそう断言しきる偽者は、やっぱりあたしを見据えていた。

 *

「一度整理したいのだけれど、私が毎晩悪夢に悩まされていたのは、私に憑いた死霊が悪さをしているから。そして君には、実際その霊がかたちとして見えているのね?」

 埃の積もったリビングで、二人はテーブルを挟み、向かい合うかたちに腰を落ち着けている。どうやら先輩は、偽者を自室にまではあげたくないようだ。

「だから、さっきからそう言ってんでしょ」

 足を組み、左手で頬杖をつく偽者は、空いたもう片方の手でマドラーを摘み、インスタントコーヒーをかき混ぜている。マグの水面で、ミルクが小さな渦を描く。
 
「あといい加減、アタシの名前覚えてもらえないすか?」
「……名前? 冥留(めいる)でしょう?」

 先輩がきょとんとした調子で言う。
 あたしはまた、背筋がぞわっとするような感覚に襲われた。冥留。それはあたしの名前だ。あたしのために与えられた呼称が、得体の知れない存在に向けられている。そうなると、いよいよ自分の存在に疑念が募る。名前も実態も奪われ、誰にも届かない意思をもてあますだけのあたしは、永続的にこのままなんだろうか?
 あたしの心中はどうしようもない不安に侵され、もう二人の会話に耳を立てているどころではなかった。徐々に視界が白んでいく。意識が朦朧とするなか、突然、耳もとで温かな声がした。

「大丈夫」

 もちろんそれは錯覚だった。実際には、先輩に相対する偽物――いや、冥留が放った言葉だった。

「乃話子さんを苦しめる全部は、アタシがやっつけますから」

 切実なトーンで零す冥留は、次にあたしを睨んだ。そんな彼女を心配するように、先輩が口を開く。

「なにか当てがあるのかしら?」

 冥留がマグに口をつけた。ごくん、と喉が鳴って、それは嗚咽の一節にも聞こえた。

「不本意だけど、アタシにはなんの力もないんすよ。無力なんです。正直言って、今の乃話子さんを救う方法なんて思いつかない」

 冥留は前置くと、真剣な眼差しを先輩に向けた。

「だから、夢喰いの値無(ねむ)を頼りましょう」
「……ゆめくいのネム?」

 先輩が彼女の口にしたフレーズを繰り返す。あたしも初耳だった。
 冥留が軽く目を細める。柔らかに。それから、小さい子どもをあやす時みたいな口調で言った。

「知らないんすか? 現代人を侵す悪夢に抗い続ける、その道のエキスパートっすよ」

 そうして先輩は、半ば冥留に押しきられるかたちで、後日に夢喰いの値無と面会することが決まったのだった。

 *

 件の事故でスクーターを壊したからと、冥留はモノレールでの移動を提案した。先輩は久しぶりの外出に対して、あからさまに嫌そうな態度を見せながらも、重い足どりで彼女に続いた。
 駅のゲートを通過し、彼女たちはゴンドラに乗りこむ。引きずられるようにして、あたしも扉が閉まるぎりぎりで滑りこんだ。というのも、先輩の位置から一定の距離が空くと、不可思議な引力によって無理やり彼女の方に引き寄せられてしまうらしい。
 乗車定員六名のゴンドラは、ほとんど個室と相違ない。下方を走っている列車と違って、目的地まで一直線に向かってくれるけど、そのぶん値は張る。
 二人は向かいあって座席に腰を落とし、それぞれリラックスした姿勢をとる。道中、先輩はぼんやりと窓外を流れる街並みを眺めていたかと思えば、やりきれないわ、と呟いた。

「なにが?」

 すかさず冥留が尋ねる。

「人の数だけ悲しみがあって、それは途方もないループのなかにあるのよ。個人の力ではとめられない、強力な負の流れが存在しているの」
「まあ、そうすね」

 冥留は、平坦な相槌を打った。無関心そのものだった。先輩が意外そうな顔をする。

「乃話子さんは知らないだろうけど、アタシの世界の中心は貴女なんですよ。それ以外はとるに足らない事象でしかない」

 微塵の恥ずかしげもなく告白する冥留に、先輩は軽く口を歪めることで応える。続いて、荷が重いわね、と肩を竦めた。やがてゴンドラは目的地に着く。どんな瞬間にも終焉が結論づけられていること、それだけが救いなんだと、先輩なら言うだろう。

 降りた駅は都心から外れた地域で、廃墟と化した建物がずらりと並んでいた。冥留は先頭に立って、入り組んだ路地を迷いなく進んでいく。そうして辿り着いたのは、大きなドーム型の施設だった。
 冥留は何度もこの場所を訪れているらしい。瓦礫の合間を縫い、旧式の扉の前まで先輩を案内する。ノブをもって開けるタイプの扉だ。茂みに覆われていることも相まって、初見では入口だと判別つかないだろう。
 冥留は立ちどまり、服のなかにしまっていたロケットペンダント型のテレフォンを取りだし、それを口もとにやってなにやら小声で話し始めた。しばらくして、彼女は先輩の方に向き直る。

「このまま入ってくれとのことなんで、行きましょう」

 冥留はやっぱり慣れた様子でノブを引き、建物のなかに足を踏み入れる。先輩とあたしも後に続く。
 瞬間、あたしの心がふわっと揺れた。普段感情を表にださない先輩ですら、はっと息を呑んでいた。だって、扉の先、すぐに広がっていた光景は満天の星空だったから。

「きれい……」
「値無さんの趣味らしいすよ」

 星々に目を奪われたまま、感嘆の声をこぼす先輩に、冥留が軽く説明する。
 その時、暗がりの奥の方から人影が近寄ってきた。

「よお冥留、久しいな」

 現れたのは、くたびれた白衣を身に纏った女性だった。この人が夢喰いの値無なんだろう。大人びた雰囲気があるのに、顔の印象はとても幼い。十代後半だと言われても、三十代半ばだと言われても、信じられそうな風貌だった。

「センセイ、ご無沙汰してます。彼女が乃話子さんです」

 冥留は丁寧に頭を下げ、先輩を紹介する。
 値無はニヤニヤと笑いながら、品定めするような目つきで先輩の全身を眺めた。冥留に対しては割と強気な先輩だけど、値無の前では緊張しているみたいだった。

「ついてきな」

 値無はそれだけ言うと、くるっと振り返って、来た方角に戻っていく。後に冥留が続こうとして、痛っ、と呻いた。なにかに爪先をぶつけたらしい。星々に圧倒されて気づかずにいたけど、床の全てを埋める勢いで雑多な物が散らばっているのだ。あたしにしてみると、そのほとんどはガラクタにしか見えない。
 途中、彼女たちは星空を投影している球体の機械を過ぎ、さらに奥へと進み、入口と同じタイプの扉に区切られた先に案内された。要するに別室である。突然、白い照明に当てられた。そこは無数のスクリーンと、用途の分からないデバイスに満ちた部屋だった。スクリーンに対面するかたちに位置するデスクには、据え置き型のパソコンと、ステンレスのマグカップと、紙媒体の古い資料が置かれている。値無はそちらに目をくれず、隅に寄せられたソファを二人に勧めた。

「さっそくで悪いが、あんた、毎晩の夢の内容を記録してるんだって?」

 値無は先輩を見おろしつつ、本題に切りこんだ。

「……ええ。持ってきました」

 先輩はおずおずと鞄からメモリを取りだし、値無に手渡した。
 値無は受けとったメモリを手のひらで弄ぶようにすると、デスクの方に向かう。彼女は椅子に座ると、乱雑に足を組み、パソコンにメモリを挿した。しばらくして、スクリーン上に言葉の羅列が並んだ。先輩が乱暴に、衝動的に、何日も何日も書き連ねてきた夢の描写が、痛いくらいの眩さを放って、あらゆる画面に映しだされた。

「……公開処刑だわ」

 小さく嘆いた先輩の声は、値無にも届いていたはずだ。けれど彼女は気に留める様子もなく、スクリーンに釘づけになっている。
 恐らく数分もしない間を経て、値無はガタンと盛大に立ちあがった。次には、苛立たしげに片足の裏を床に叩きつけ、白衣のポケットから電子タバコを取りだして咥えた。唇の隙間に八重歯がのぞいた。

「どうかしたんすか」

 冥留が不安げに、あるいは我慢ならないといった風に尋ねた。けれど、またしても値無は答えず、代わりに先輩の方に詰めよった。
 
「なあ、さっきの星空を見て、あんたは何かを感じたか?」

 必死の形相で、突然に問いかけられた先輩は、困惑しながらも口を開く。

「……きれいだと思いました」
「どうして」

 さらに値無は追随した。

「とある女の子に似ていたから」
「あんたの夢に出てくる子?」
「ええ。彼女、前に言っていたんです。もし君が、窮地に陥った誰かに大丈夫だとか、そういう無責任な言葉を放ちたいと願ったなら、相手の立場に値するくらい自分も傷つかなくちゃいけないんだろうって……」

 言いながら、先輩は力なく腰をあげた。そして誰かに操られているみたいな足どりで、勝手に部屋を出ていく。扉の先にあるのは、無論さっき通ってきた、星空の広がる空間だ。

「待ってよ」

 冥留が慌てて先輩を追いかける。
 しかし先輩は、偽物の星空の下に、立ち尽くしているだけだった。微動だにせず、頭上の煌めきに目を奪われている。
 冥留はそんな先輩に声をかけられないまま、傍らで彼女を見守っていた。すると、後からやってきた値無が、冥留の隣に並ぶ。

「オレはね、自傷の最果てがこの世でいちばん美しいんだと信じてるのさ」

 値無の言葉に、冥留はあからさまに顔を顰めた。

「アタシは信じない。そんなの絶対に間違ってる」
「ああ、お前のスタンスはいつだってそうじゃなくちゃな」

 あっさり肯定する値無に、冥留は舌打ち紛いな音を鳴らす。

「なあ、冥留。お前はもしかしたら、悪夢に抗える唯一の存在になれるかもしれねえ」

 値無が笑って、タバコを咥える。吐きだした煙がたちまち上流して、あたしはその行く先を目で追いかけて、星々に対する弔いみたいだ、と場違いに思った。

 *

 週に一度、先輩は値無のもとを訪れ、カウンセリングを受けることになった。決まって冥留も同伴してくれた。悪夢の症状を抱える人間は、とても不安定な状態にあるのに、未だ彼らを支えるための設備は整っていない。だから、先輩が値無に出会えたことは本当に良かったと思う。
 しかし、値無の目的はあくまでも悪夢の研究にあるようだ。彼女は、悪夢を引き起こす元凶について、簡潔に語った。

「死霊さ」

 先輩の対面に座る値無は、実に淡々とした調子で言った。ちょうど冥留が席を外しているタイミングだった。
 先輩の背後に浮くあたしは、彼女の言葉に撃ち抜かれるような思いがしていた。

「……冥留も同じことを言っていました」
「そうだな。冥留には多少の霊感が備わってんだろ。もともとはあいつの方からオレに連絡をとってきて、まあ話くらい聞いてやろうってのが始まりだったんだよな」
「でも、値無さんには霊が見えてないんでしょう?」
「ああ。残念ながらね」
「じゃあ……どうして……」

 先輩が言い淀む。自分の見えていないものを、どうしてそう真っ向から信じられるのか、と聞きたいんだろう。

「そうでもないぜ」

 値無が言った。
 先輩はそれが言葉にならなかった自分の問いの答えであることに、遅れて気づいたようだった。

「オレは今まで、悪夢に侵された奴らに度々話を聞いてきたが、彼らには共通点がある。皆身近な存在をなくしてんのさ。それも、悪夢を見るようになる直前にな。なにかあるとしか思えねえだろ?」
「けれど、私の周りでは誰も亡くなっていません」
「そうか。するとオレの説は振りだしに戻ることになるね」

 値無は微塵も不服な様子を見せず、むしろ面白がっているみたいな調子で言った。
 先輩は軽く唇を噛んで、それから思い切ったように口を開く。

「……幽霊は、憎むべき対象ですか」

 値無が顔を強ばらせる。それから、まるで自身を落ち着けるみたいにタバコを深く吸った。彼女の手もとから煙がくゆる。

「侮辱だよ」

 思わぬ返しに先輩は首を傾げる。

「この世には死にたくても死ねない人間がいるんだ。死んでなお現世に執着するなんて、オレには理解できねえ」

 そう言って、次に値無は口の端をもちあげた。彼女が笑うと、いつも特徴的な八重歯がのぞいた。

「約束するよ。オレはいつか、悪夢の全貌を解明するし、それに立ち向かえるだけの方法を生みだすさ」

 先輩は曰くがたい表情を浮かべ、楽しみにしてます、と無難な返事をした。

 結論から言って、値無の夢は叶わなかった。
 半年後、夢喰いの値無は、偽物の星空の下で首を吊った。彼女はひた隠しにしてきたが、恐らくずいぶん前から悪夢に侵され苦しみ続けてきた一人だった。