The guard FBI連邦捜査官シリーズ

 この間――正確な日にちは忘れたが、久しぶりにアルコールを飲んで寝ていた。気持ちが良かった。空も晴れていて、いい気分で路上に転がっていた。セントラルパークに近かったので、トレーニングウエアを着て走っている姿をよく見かけた。ケビンはぼんやりと目を開けていた。目の前の郵便ポストへも、手紙を出してゆく人々がいる。いつもと変わらない光景だった。ケビンもまた変わらず、飲み干したビンを抱えていた。

 だが、その日はひとつだけ変わったことが起きた。

 手紙を投函した一人が、鼻歌を歌ったのだ。

 ケビンはちょっぴり眠たくなって、瞼が半分落ちていた。だがいきなり耳に飛び込んできた鼻歌に、びっくりして目がぱっちりと開いた。

 郵便ポストの前にいたのは、ジョギング姿の男性だった。立派な体格の成人男性で、手紙を出すと、普通に走り去って行った。

 ケビンはこの時思った。よほど愉快なことがあったに違いないと。そうでなければ、鼻歌しながら手紙なんて出さない。ちくしょうめ。羨ましいじゃないか。

 どんな幸運が舞いおりた男なのか見てやろうと思ったが、横顔しか見えなかった。しかも一瞬だったので、顔つきまではわからない。ただ、鼻の側面にほくろが一つだけ見えた。

「本当に、愉しそうに鼻歌していてなあ……」

 聞くんじゃなかったと、ボーイは後悔した。鼻歌なんて、この地球上で聞かない日はないだろう。ハミングしながら手紙を出しただけで疑われるなんて冗談ではない。それを忙しい捜査官に話したら軽蔑されるだけだ。

 ボーイは郵便車に乗り込んで、その話を忘れることにした。けれど、地区を回って郵便物を回収し、ニューヨーク中央郵便局へ戻って来て、一番にしたことは、ケビンの話を捜査官へ話すことだった。ボーイは根が堅実なのである。

 事件の担当捜査官であるアーヴィン・ジョイスは、始め、煩い蝿を手で叩きたくなる衝動に駆られた。だがすぐに冷静沈着に思い直して、その話を真面目に聞いた。引っかかったのは、その男の鼻の側面にほくろがあったという指摘だった。

 クアンティコの捜査支援課でプロファイリングをした結果、犯人は市長へ個人的な私怨があり、おそらく周辺にいた人物であろう。捜査官たちは市長と関わりのあった人物たちを徹底的に洗い出し、プロファイリングに適応する怪しい人物を全てリストアップした。その数は五十名を越えたが、アーヴィンはケビンを重要参考人として招いて、そのリストアップした写真を見させた。ボーイが心配して付き添ったが、ケビンは日頃の酔っ払いとは思えないほど模範的に協力した。その過程で退役軍人であることがわかったが、軍人だった頃の使命感がにわかに甦ったらしいケビンは、気が遠くなりそうな写真の群れにつき合い、何十枚目かで、こいつじゃないかと指した。その人物は、ミュラー市長が昔クビにした部下だった。すました顔で映っている写真には、確かに顔の鼻の側面にほくろがあった。捜査官たちはその男を重点的に捜査した。そして、逮捕に至った。

 後日、一連の逮捕までの過程を説明された市長は、アーヴィンへこう述べた。「私がその男をクビにした理由がわかっただろう? 脅迫文を出すときに、鼻歌なんて歌うからだ――」

 ……と、まだそこまでは知らないミュラー市長は、笑顔で自分を警護してくれた捜査官一人一人と挨拶をした。

「ランディには、私からちゃんと説明しておくから安心して欲しい」

 ウェントワース市長から捜査官たちの熱心な仕事ぶりに抗議がきたらしく、ミュラー市長は安心させるように言った。

「ありがとうございます。何事もなく、私たちも安堵しています」

 トーマスはセールスマンのような口調で答えた。隣のヒースは肩をすくめて、差し出された手を握り返した。

「何よりです、市長」
「ありがとう」

 ミュラー市長はトラヴィスの前に立った。

「トラヴィス・ヴェレッタ捜査官」

 と、フルネームが口からすべり出て、右手を差し出す。トラヴィスも儀礼的に手を出した。握手という儀式を終えたら、このくそったれ市長とようやく同じ息を吸う必要もなくなるという事実が、この任務における唯一の良いことだったので、さっさと済ませたかったが、いきなり手を強く握られて、ぎょっとした。

「君に謝りたい」

 ミュラー市長はトラヴィスを見つめながら、開口一番、心から詫びるように言った。

「君をひどく侮辱してしまった。私の悪い癖でね、その相手に興味を覚えてしまうと、ついからかいたくなってしまうんだ。その謝罪をさせて欲しい。君は素晴らしい捜査官だ」

 トラヴィスは胡散臭そうに眉をしかめた。市長の頭がどこかおかしくなったのかと思ったが、そこは面倒なので大人しく相槌を打った。

「ありがとうございます」
「君は私の頭がおかしくなったと思っているだろう?」

 ミュラー市長は手を握りしめたまま、トラヴィスの胸の内を読んだかのように、二つの目を覗き込んだ。その青い瞳は、奇妙に強い力を放っている。

「君が私を悪く思うのは当然だ。私はそれに弁解はしない。だが、君は君自身の力で、私の評価を覆した。これは凄いことだ。君は、それを誇りに思って欲しい」
「……」

 トラヴィスはますます首をひねった。酔っ払っているのかと疑ったが、どうも正気のようである。だが、まっすぐに向けられる熱心な視線に、何となく不愉快さを感じて、適当に頷きながら握手している手を離そうとした。が、それを阻止するように、一層激しく握られた。

「私は嘘を言わない、トラヴィス・ヴェレッタ捜査官。本当に心から、君を素晴らしいと思っている」
「……ありがとうございます、市長」
「オスカーと呼んで欲しい」

 ミュラー市長は十年来の知己であるかのように言う。

「私も君を、トラヴィスと呼ぶ」

 見つめる眼差しが、トラヴィスの心に入り込もうとするかのように魅力的に微笑んだ。

「私たちは、良い友人になれると思う」
「……」

 トラヴィスは文字通りあ然となった。まるでロシア語で言われているのかのように、難解すぎて市長の言葉が全く理解できない。――何を言っているんだ? このくそったれは――まるで、ぐるぐると回るジェットコースターに無理やり手錠で繋がれて、両隣の座席に押し込められたような気分になった。