黒い薔薇に魅入られて

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 走って走って走って走って。
 前なんてまともに見れないくらい、天と地が曖昧になってしまうくらい必死に走って。
 わたしは御影さまの元へ向かった。
 そして、開けた道の先で彼を見つけた。

「御影さま!!」

 必死に名を呼びながら駆け寄る。
 周りでは【黒夜】と軍の連中が争っている最中だった。
 良かった。御影さまの味方もちゃんといた。
 このまま応戦しようと軍人に向けて黒蝶を飛ばす。
 御影さまがこちらを振り返り目を見開いた。
 そして口が動く。深月、と。
 そのときだった。

 御影さまがぐらりと体勢を崩し、地面に倒れ込んだ。

「御影さま!!!!」

 お身体を抱えると、左胸部に刺し傷があり、そこから血が溢れていた。白いシャツが赤黒く染まっていく。
 わたしがここに駆けつけたとき、御影さまにこんな傷はなかった。
 つまり、わたしを見つけた一瞬の隙をつき重症を負わせたということ。
 こんなことできるのは、1人しかいない。

「なんっ、で――」

 掠れた声で、目の前を見る。
 そこにいたのは、透明化を解いた、櫻子だった。
 彼女は残念そうにわたしを見つめる。

「やっぱり深月は、あたしたちの誘いに乗らなかったのね」
「櫻子、なんであなたも」
「虎太郎から聞いたでしょう? もう戦いにはうんざりなのよ」

 櫻子は心の底から疲れきった顔をしている。
 昨日まではこんな感じじゃなかった……はず。確信できないのは、わたしにその記憶がないから。
 わたしはずっと、御影さまばかりを目で追っていた。
 だから周りの空気感とか、表情とか、たくさんのものを見落としていたのかもしれない。
 櫻子がようやく気づいたのかと言わんばかりにわたしを笑った。

「深月にはわからないわよ。深月みたいな強い子には」

 諦めたような、突き放すような言い方に胸が締め付けられる。
 ようやく周りに目を向けると、【黒夜】と軍の戦いは終わっており、わたしたちをぐるりと囲っていた。
 さっきまで戦っていたのは、御影さまに裏切り者だとバレないようにするためか。
 御影さまは依然腕の中でぐったりしている。考えないと。この状況で御影さまをお守りする方法を。なにか、なにか……!
 そのとき、とてもとても弱い力で袴の裾を掴まれた。微かに薔薇の香りもする。
 見れば傷口が止血されていた。

 薔薇は傷ついても、自己治癒することができる。

 もしかしたら御影さまもその最中なのかもしれない。
 それならば、わたしが今しなければならないのはひとつ。――時間を稼ぐこと。
 わたしは目を細め、櫻子を冷たく見上げた。

「……櫻子は、知らないでしょ」

 櫻子の眉がぴくりと反応する。

「御影さまは、睡眠時間を削ってまでわたしたちを守ろうとしてたんだよ」

 わたしのお願いによって一晩一緒に過ごす日。
 ふと目覚めると御影さまは机と向き合っていた。何やら書き物をしていたので寝ないのかと尋ねると、御影さまは平然と笑って「【黒夜】のためだからね」と答えられた。その目元にはうっすら隈があった。それから深月はもう寝なさいと優しく頭を撫でてくださった。
 こういうことは度々あった。多分、わたしが見ていないところでも。

「櫻子は強い子にはわからないって言ったけど、そう言う櫻子こそわからないでしょ。弱い子を守る重責は」
「なっ」

 櫻子の自尊心が傷つき、表情が歪む。
 感情のまま攻撃したければすればいい。それで時間を稼ぐことができるなら。

「いつまで手こずっている」

 突然、地響きを起こしそうなほど低音が割って入ってきた。
 御影さまを抱きしめたまま、顔だけそちらに向ける。
 軍人らが道を空け、葉巻を咥えた男がそこを悠々と歩いてきていた。
 その顔には見覚えがあった。確か、軍の上層部の人間。要注意人物として御影さまに見せてもらった人相書と同じ顔だ。
 わたしたちの目の前に来ると、御影さまを見下ろし極めて冷酷に言い放った。

「元被検体番号03610。異能力者の拉致、及び国家転覆を企んだ罪で逮捕する」

 ――"元被検体"?
 なんのことだと考える暇もなく、御影さまが顔を上げた。

「ふざけるな」

 男に負けず劣らずの低い声。その瞳には温度がなかった。
 そのまま彼から目を離さず、傷口に手を当てながらふらふらと立ち上がる。

「お前らはいつもそうだ。それらしい言葉を並べて人を惑わす」
「どこにそんな証拠が?」

 男は不敵に笑った。人を馬鹿にしたような嫌な笑みだった。
 今日はいろんな人の知らない一面を見た。虎太郎、櫻子、他の【黒夜】の子たち……。そのすべてがどうでも良くなるほど、御影さまのお姿に圧倒された。

 男を見つめる冷ややかな顔。その瞳にはいつもわたしに向けてくれたぬくもりはない。まるで別人のよう。
 風に靡く血が跳ねた銀髪は輝きを増し、刀のように鋭く見える。薔薇の香りはむせ返りそうになるほど甘く濃く、意識を持っていかれそうになった。
 ただひとつ変わらないところがあるとすれば、どちらも身が痺れそうなほど美しいということ。
 いつもの御影さまが春の陽光とするなら、今の御影さまは冬の夜月みたい。

 ただ、今は見惚れてばかりいられない。
 御影さまが軍と対峙する場面は幾度となく見てきた。そのときでさえ余裕を保ち、淡々と対処されていたというのに。
 それほどまでに相手が強力だというのですか。
 御影さまの黒薔薇がするするとわたしたちを囲う。
 男が葉巻を吐き捨て、ぐりぐりと踏み潰した。
 わたしが目を閉じた、瞬間。
 御影さまの黒薔薇を、男が切り刻んだ。
 すぐに距離をとり、蔦で男の急所を刺そうとする。
 だが、男はそれも切りつける。
 御影さまの攻撃に耐えているが反撃はできていない。
 男が御影さまの攻撃を防ぎきれなくなったら御影さまの勝ち。反対に男が御影さまに反撃出来たら多分――男が勝つ。
 最悪が脳裏にちらつくけれど、それよりもわたしにはすべきことがある。

「櫻子、と、みんな。あと軍人さん」

 だらりと力を抜いた手を彼らに向ける。まるで焦点を定めるように。

「全員まとめてわたしが相手になるね」

 ――誰にも御影さまの邪魔はさせない。
 途端、裏切り者たちが蝶を躱し間合いを詰めてきた。
 わたしは基本異能を使って戦うので、近づけさえすれば勝てると思ったのか。
 あと一歩でわたしに届きそうになったところで、
「え、」
 彼らは灰のように崩れた。
 理由は簡単。鱗粉をたくさん浴びたから。
 わたしの異能は黒蝶自体が害を与えているんじゃない。蝶の放つ鱗粉こそが、この異能の核。
 元同胞の間を舞うように進み、次々と溶かしていく。
 これ自体はなんの問題もない。が、軍人の動きが気になる。
 後方に小銃を構えて立っているばかりで、打ってくる気配がない。
 なにを企んでいるの?
 彼らを中止しようとしたとき、わたしの毛先が散った。

「櫻子」

 透明化しているから姿を視認できないけれど、ぽっかりと空いているところに黒蝶を放つ。
 櫻子は御影さまにも虎太郎にも言いにくい悩みを聞いてくれる存在だった。でも、わたしたちは道を違えた。

「さようなら」

 僅かに目を伏せたとき、銃声が響いた。
 反射的に黒蝶を飛ばすが、小銃に打たれ崩れてしまった。
 おかしい、と凝視する。
 黒蝶は小銃に打たれてもすぐに元の形に戻る。にもかかわらず崩壊した。考えられる原因は、強制的に異能が解除されているということ。
 御影さまが仰っていた機械の正体って小銃のことだったんだ。
 さっきまで動かなかったのが嘘のように軍の連中は一切に発砲を始めた。弾丸が横殴りの雨のように迫ってくる。
【黒夜】はあくまで陽動で、わたしの体力を消耗したところを狙ったこちらが本命か。
 でもこの程度なら黒蝶で相殺できる。大丈夫、大丈夫。
 異能を失う恐怖と戦いながら自身を鼓舞する。
 このときのわたしは銃弾を相殺することばかりに気を取られて、他の大事なことが見えていなかった。
 ぐさ。

「深月!!」

 狭まる視界の端で、御影さまがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
 わたし、お腹を刺されたんだ。――誰に?
 倒れながら刺された方に視線を向けると、そこには誰もいなかった。
 これは、異能【透明化】だ。

 ――国の法律では異能を持つ子どもは軍で保護される決まりになっている。

「御、影さま……」

 わたしを抱きとめた御影さまのシャツを掴む。
 お願い、お願いですから。

「逃げて、ください。逃げ、逃げて……」

 小銃に気を取られて、軍人らは異能を持っていないと勝手に思っていた。
 でも冷静に考えたら、そんなわけない。御影さまを捕らえに来ているのに、そんな手抜きをするはずがない。
 御影さまが危ない。このままだと御影さまが死んじゃう。
 だから逃げてと言ったのに、御影さまはわたしをぎゅっと抱きしめた。それだけに留まらず、異能を使ってわたしの傷口を治療までしてくれる。

「な、んで……」

 なんで、なんで逃げないのですか。
 御影さまは、わたしの頭を撫でながら、顔を覗き込んだ。

「深月」

 大好きなひとから貰った、初めての贈り物。
 それを大好きなひとに呼ばれてふいに泣きそうになった。

「深月は、最後まで私の味方でいてくれるんだね」

 確かめるような声。
 そんなの当たり前だと精いっぱい頷く。
 御影さまは眉尻を下げながら笑って、わたしを強く抱きめた。

「み、御影さま……」
「大丈夫。大丈夫だよ。後は私がなんとかするから」

 薔薇の香りが肺を満たす。
 こんな状況だと言うのに、少しずつ気持ちが落ち着いていく。
 わたしの呼吸が安定したところで、御影さまが例の男をまっすぐ捉えた。

(かつら)

 芯のある強い目だった。

「私は、自首する」

 わたしが息を呑む。
 御影さまがより強くわたしを抱きしめる。

「だから、深月にはもう手を出すな」

 御影さまの言葉には、一寸の迷いすらなかった。