「まっか。痛くない? 大丈夫?」
憂いを多分に含んだ響の目も十分に赤い。玄関先で寝転がって向かい合うおかしな状況。響なんか靴を履いたままだ。
「響は偽名が独特だな」
「えー、いいでしょ、響。樒央くんが教えてくれたんじゃん」
「え? ……憶えてない」
記憶を探ってみても見つからず素直に言えば響は唇を尖らせて「ひどい」と口にした。根幹は全然変わらないけれど感情表現が結構オーバーになっている。いいことなのだろう。感情を出しても大丈夫な場所にいたということだから。
「響の読み方、樒央くんが全部教えてくれた。ひびき、ひびく、どよめく、きょう。響は玉響だけの例外ってことも。まあ僕が憶えてるから別に憶えてなくてもいーけどねー」
絶対にいいって思ってない。ジト目に笑い返せばなぜかゆっくりと逸らされた。
「変えたんだ。名前の読み方。響じゃなくて、ひびき。ずっと白石響って名乗ってたけど正式に変えたのは去年」
「じゃあ、ひびきって呼んだ方がいい?」
「ううん。樒央くんは響って呼んで。誰も呼ばない呼び方がいい」
「そう……響、か。なんか、慣れてるような慣れないような」
ずっと響と呼んでいたし、ユラと呼んでいた。
「どうせ日常になるよ」
「日常?」
訊き返せば、響は待ってましたと言わんばかりにくしゃりと笑んで立ち上った。俺は上半身を起こして響を見上げる。
「そう。家を買うんだ。そこで樒央くんと暮らす。どう? いいでしょ? さすがに高いのは無理だけど、安い一軒家はいくらでもあるから。近所付き合いがあんまりないところで、あ、できれば光回線引けるところがいいなあ。値段が安いからそれなりの覚悟は必要だけどきっと今よりずっと楽しいよ。二人だったら」
楽しそうにバッと手を広げて、響がずっと握っていた袋がガサリと音を立てた。
「誕プレだよね。わあ、ありがとう樒央くん」
「うん……」
響の言うことを噛み砕いていると目の前に響がしゃがみこんできた。響は窺うように上目で俺を見やる。
「どうしたの?」
「……響は犯人蔵匿罪って知ってる?」
俺と一緒に暮らすだなんて軽々しく言うけれど、響が犯罪者になるぐらいだったら俺は警察へ行く。理由ができた。そうか、理由がなかったから今までずっと逃げていた。響を害する存在を殺して、今度は俺が響の人生を奪う存在になってしまう。
「知ってるよ」
響は軽く頭をかいて、紙袋を丁寧に床に置いた。
「罪を犯すってどういうことか分かってる?」
「分かってる。本来僕がすべきことも分かってるよ。その上で言ってる」
「俺が人殺しなことちゃんと分かってる?」
「誰よりも」
もう響の顔に笑みは浮かんでいなかった。本気ならなおのこと癲狂だ。響はこんなに分からず屋だっただろうか。いや、俺がずっと逃げていたせいなのは明白なのに。
「今から」
遅すぎるけれど自首をする。そう口にしようとしたら、響に口をふさがれた。
「今から行きたいところがあるんだ」
そう言うなり響は部屋を出ていった。今、着の身着のままここを出ていくこともできる。その足で警察署に向かうことも。響と一生会わないことも。
◇
伊達メガネに慣れない髪型。隣の響はキャスケット帽を被って喫茶店で会った時のように耳にピアスを付けている。
「お忍びデートみたいだね」
「そろそろ怒るよ」
「ごめんなさい」
結局俺はあの場から動くこともできずに戻ってきた響に服を渡されるがままに着替えた。手を引かれるがままに歩いて、電車に乗って、着いた先はターミナル駅だった。響が慣れた手つきで発券機で新幹線の切符を買った。新幹線なんて何年振りだろう。切符に印字された行き先は、響と俺が三年過ごしたところだった。
いらないと言ったのに二人分の駅弁とペットボトルとを響が買い、ホームで新幹線を待った。誰も、周りの誰も俺が殺人犯だなんて知らない。幸か不幸か大人になった俺は少年法に守られている。
一人二人しか座席が埋まっていない車両で響と二人並んで座った。響は折りたたみのテーブルをアルコールで拭いてそこに弁当を置いた。
「俺はいいって」
「これも樒央くんとやりたいことなんだけど、だめ?」
ああ、響に押されれば俺が譲歩することを完全に見抜かれている。早々に諦めて箸を手にした。嬉しそうな顔をしているのは横を向かなくても分かった。
「響が今まで、どう過ごしてきたか知りたい。俺のせいで辛い思いさせたよな」
「……なんでそう思うの」
「なんでも何も。もっと他にあったはずだから。響を両親から引き離す方法。俺一人じゃできないことかもだけど」
「それをしてくれなかったよ、今まで家に来た人たち。なんで樒央くん一人のせいになるの?」
「俺はその人らより重くて酷いことをしたんだよ。なあ、俺のことはいいから響の話聞かせて」
俺達が責任の所在を議論したところで俺のやったことの残忍性は変わりはしないし、罪の重さを決めるのは裁判所だ。机上の空論より響が経験したこと過ごしてきた時間を話してほしい。
「……わかった。事件のあとは十八になるまで養護施設で暮らした。里親候補も来たけど、親ができちゃったら十八を過ぎても関係を持たないといけなくなるから全部断ったんだ。中学でデザイナー目指すようになって、勉強して、コンテスト出したりした。高校、自由時間が欲しかったから通信制に入ってバイトしながらね。それで十八になって施設出て大学には行かずに今に至る、って感じ」
「だいぶざっくりだな。友達はできた?」
「うん」
それはよかった。さっきは危険を帯びた奇妙な感情を響に抱いたが、響はやっぱり俺の日常とはかけ離れた生活を送っている。中学に行って高校に行って友達を得た。
「他には? 学校の思い出とかはないの?」
そうせがめば響は口をもぐもぐさせながら記憶を引っ張り出すように目を閉じた。
響が語る思い出は、物語やコマーシャルで描かれるような派手な青春とはとても言えないものだった。けれど普通に溶けてしまいそうな出来事を思い出として拾う響が、クリームソーダを大切に味わう昔の響に重なった。生きてほしかった。響は立派に生きていることを実感して、嬉しくて嬉しくて堪らなくなった。
十年ぶりの故郷は変わらないような気もするし、雰囲気も街並みもがらりと変わったような気もする。感慨がわかないのも歳月を経たがための変化を捉えられないのも俺がこの場所に特別愛着を持っていないからだろう。
「同級生とかばったり会ったら、バレるんじゃない?」
「大丈夫だよ。マスクにサングラスとかの方が却って怪しまれる。こういう絶妙な変装が一番いいの」
「そう……?」
響といるところで捕まるのは絶対に避けたい。周りを警戒したところで無意味だろうが周囲に気を払って歩いた。
「どこ行くの?」
通ったことのある道は見慣れた道に変わった。十数分も歩けば住んでいたマンションに着く。まさかとは思うがそこへ行くつもりだろうかと訊けば響は「すぐに分かるよ」と笑顔で答えた。
言葉通り、大分懐かしい小路に入って行き先を確信した。こじんまりとした、あまり人目につかないところ。
「響、さすがにバレるだろ」
「店主が代わったんだよ。店員も。だから心配することはないよ」
見えてきた看板は当時とはなんら変わりない。けれどドアの色はパステルっぽい桃色に彩られている。
「懐かしいな」
入口の脇に置かれた鉢も、可愛らしい手書きのOPENとCLOSEDの木の板も。扉を開けたらこれまた懐かしいベルの音が小さく鳴った。店内は変わらないように見えて、たしかにカウンター内に立つ人は見覚えがない。奥の二人掛けのソファー席に響が向かうので着いて行く。
「何にする? 樒央くんいつも頼まなかったから今日は頼んでよ」
響に渡されたメニュー表に目を通す。いつもクリームソーダを頼むだけだったからメニュー表にはろくに触れたことがない。
「クリームソーダで、いいかな」
「うん、りょーかい」
すると響はスマホを取り出して、メニュー表の表紙のQRコードを読み取った。スマホの画面に商品が表示された。
「それは?」
「注文と決済がスマホで済ませられるんだよ。口頭での注文もやってるんだけどね」
「へえ。知らなかった。便利だな」
自分の時間は止まっているのだと思わざるを得なかった。もちろんスマホは十年前もあったけれど親が使っていただけで俺はガラケーだった。時折ニュースや新聞を見ることはあれど細かな発展には疎い。
運ばれてきたクリームソーダは淡い赤い色合いでさくらんぼものっている。これには懐かしいという感情よりもよく知る友達に会うような馴染みの方が強い。飲むのはいつも響で俺はそれを眺めていただけ。実際に飲んだことがあるのは数回程度なのに妙な感覚だ。
「自分でも何回か作ったことあるんだけど、美味しいけどなんか物足りなかったんだよね。でも樒央くんがいる店で飲んだらすごく美味しかった。比べ物にならない。ね、僕がどれだけ樒央くんを好きだか分かる? 覚悟なんてずっと前から決まってるよ」
鋭い眼差しがふっと和らいで、響はスプーンを持ってアイスを口に含んだ。唇がそれだけで表情が成立するように穏やかに緩んだ。響は十年経ってもそんなに幸せそうにするのか。喫茶店でのバイトでは、客の食べている姿をじろじろ見るなんて言語道断だったから初めて知った。少しでも、表情がほころぶその瞬間を見ていたら、響だと俺は分かったかもしれない。
「……だから、そんなに見られるとさすがに恥ずかしいよ」
「いつもこうだった。響の楽しそうな顔見るのが俺の一番の幸せだったから」
身を乗り出して響の頬を軽くつまんだ。柔らかいのも変わっていないとは。感触的にも外面的にもベビーフェイスだな、響は。
「み、樒央くんも食べてよ。あのね、ずっと一緒に居ればいつだって俺の顔なんて触れるし見れるんだよ、好きなだけ」
顔を赤くして響は早口でまくし立てた。ああもう、かわいい。ユラをかわいいと思っていたのは響だったからなんだろう。そのかわいいに不純な感情は含まれていなかったとはいえ、プラス相手が成人していたとはいえ、なんだか響だと知ると複雑だ。野蛮な衝動。人を殺して昇華した、なのにまだ微塵も消え去っていない。
下の部分がソーダと混じり合ってきた。とりあえず響に倣ってアイスをすくった。赤と白が渦巻き状に色づくストローでソーダを吸う。
「美味しいな。響が毎回頼むのも分かる」
「うん、ね。それと、クリームソーダって容器おっきいでしょ? 俺にはすごい魅力的に見えたんだよね」
「たしかに。俺から見てもでかかった。よく飲み切れたな」
「正直最後は気合」
「言ってくれればよかったのに……」
「無理して飲むのもまた楽しかったんだよ」
「今は無理してない?」
「全然。成長期とかどれだけ食べて伸びたと思う?」
気に掛ける余裕がなかったけれど、響の身長は俺を越していた。あんなに小さくて細かったのに、力だって俺の肩に今でもまあまあな痛みを残すほどに強くなっている。
「泣きそう」
「ええっ!? まっ、泣かないで~」
俺の涙腺は元栓が壊れているのかというぐらい涙がすぐに出てきてしまう。涙ぐんで、でも目の前でわたわたする響に笑いが込み上げてきて感情も表情もパニックだ。声は抑えないとと必死に堪えたら喉奥から変な音がして更に笑える。メガネを外して目元を袖で拭った。笑いは収まらないからそのまま手を下に持って行って口元を袖で覆った。
「わ、笑ってる!? 樒央くんの情緒が分かんない……」
小刻みに揺れる視界でアイスがじんわりソーダに溶けていくのが見える。食べ時だと思うと冷静になっていって、笑いは徐々に鎮火した。
「ごめん、なんか止まらなくて」
「いや……すごい楽しそうだったからいいよ。びっくりしたけど」
「響といると楽しすぎて怖いな」
楽しすぎて自分の行いを忘れそうになる。昔に戻ったみたいで。全然幸せじゃないのに響といるだけで心が安らいだ。いるだけでよかったとき。
完全に全部が溶けきる前にと飲み進めればあとはソーサーに除けていたさくらんぼだけになった。
「樒央くん」
「ん?」
「あ」
顔を上げたら響が口を開けてこちらをじっと見ていた。もしかしなくてもさぐらんぼを要求されているのだろう。今更恥ずかしいなんてないけれど一応周りを見渡してから、同じくソーサーに佇むさくらんぼを取った。野蛮で醜怪で卑しい。響の口元まで手を動かした。響が唇を閉じても、かすりもしなかった。響の笑顔が一層煌いて心は逆に凪いでいく。紙ナプキンに遮られて響の顔の下部は隠れた。
ソーサーごとグラスを端に寄せてテーブルに両手をついた。白いナプキンが顔から離れる。淡紅の唇めがけてキスをした。きっとあの時の衝動よりもずっとずっと深いものだ。
「響。響と俺は違う。立場も気持ちも全部。だから一緒に居てもお互い苦しくなるだけだ」
響の顔を見る勇気はなかった。瑞々しいさくらんぼを食べて財布から千円札を取り出した。逃げるように店を出てどこへ向かおうかと考えながらさまよい歩く。せっかく来たのだからきちんと弔ってからにしよう。
十七年間暮らした街だ。すっかり記憶に根を張った街並みを思い出しながら生花店へ向かった。伊達メガネの位置を直して乱れかけた髪を整える。あらい生花店は向かった先で変わらず営業していた。といっても入ったことはなく素通りするだけ、生活の背景にいつもあった。
バケツから花のついた樒を一本抜き取った。包装を断って足早にそこを後にした。
◇
粉末のクリームソーダが一番美味しく飲める水の量は百十ミリリットルとか、サボりに関する先生の説教を回避する方法とか、くだらないことを憶えている。
こんなくだらないことを集めたら響と俺の日常はいたって普通のように思えて安堵が胸に広がった。現実に戻るのはいつだって家に帰ってからだった。壁越しの声を聞きたくなかったけれど聞いていなければならないと思っていた。何もできないのに目を瞑って耳をふさぐのは卑怯に思えた。家の中からの争う声も加われば身体は中から攪拌されるように目の前が眩んだ。
あのマンションは大嫌いだ。今でも苦しい。けれどマンションの前に立ってみても不思議と、あの頃家に帰る道中の重い足取りのように苦しくはなかった。ここに帰りはしないしきっと両親もここにいないから。
エントランスホールの入り口に一本の樒を置いて、手を合わせた。報告することが、できた。響は今日で二十歳になりました、傷をこさえる人生を送らずに生きることができたみたいです、きっとこの先もそうでしょうしあなた方の影に苦しむ日はあると思うけれど響は強く生きていくことができると思います。
俺が何を考えて響の両親を殺したのか傍目からは何も分からないように、響の両親が何を思って響を傷つけたのか俺には何も分からない。こればっかりは聞きたくもないけれど。
意外と強い風に身を竦め、少し冷えた指先をもんだ。ここに放置するわけにもいくまいし拾おうと膝を屈めたら上から何か降ってきた。地面に落ちたそれは俺が一本しか買っていないはずの樒だった。振り返れば響が怒りを湛えた鋭利な表情で俺を見下ろしていた。違うな、悲しいのか。
「決めつけないで」
半ば無理矢理立たせられて、響は痛いぐらいに俺の手を強く握った。
「何年焦がれたと思ってるの。憎くて憎くて大好きでたまらなかった。僕から離れる選択したのが許せなかったよ」
はく、ともっと言いたげに口を動かした響は悲痛そうにうつむいた。こんな顔をさせたかったんじゃない。自分の浅はかな衝動の代償を目の当たりにした。
「こんなこと言いたいんじゃなくて、僕はただ、樒央くんといたいだけだよ。二人で普通に暮らそうよ」
「だから、響」
「同じだよ。愛してる」
合わされた唇を拒む術はなかった。瞬く間のキスはそれだけで幸福に満ち満ちた。遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた、気がした。これだけでもう一生分の愛を得たんじゃないかと思うほど。十年間の逃亡生活が報われた。響がこつん、と額を合わせて俺の頬を撫ぜた。
「これから立場は一緒になるよ。何が問題?」
「響は馬鹿だな」
なけなしの嫌味に、響はえも言われぬ美しい笑顔を浮かべた。目を閉じてキスをした。
憂いを多分に含んだ響の目も十分に赤い。玄関先で寝転がって向かい合うおかしな状況。響なんか靴を履いたままだ。
「響は偽名が独特だな」
「えー、いいでしょ、響。樒央くんが教えてくれたんじゃん」
「え? ……憶えてない」
記憶を探ってみても見つからず素直に言えば響は唇を尖らせて「ひどい」と口にした。根幹は全然変わらないけれど感情表現が結構オーバーになっている。いいことなのだろう。感情を出しても大丈夫な場所にいたということだから。
「響の読み方、樒央くんが全部教えてくれた。ひびき、ひびく、どよめく、きょう。響は玉響だけの例外ってことも。まあ僕が憶えてるから別に憶えてなくてもいーけどねー」
絶対にいいって思ってない。ジト目に笑い返せばなぜかゆっくりと逸らされた。
「変えたんだ。名前の読み方。響じゃなくて、ひびき。ずっと白石響って名乗ってたけど正式に変えたのは去年」
「じゃあ、ひびきって呼んだ方がいい?」
「ううん。樒央くんは響って呼んで。誰も呼ばない呼び方がいい」
「そう……響、か。なんか、慣れてるような慣れないような」
ずっと響と呼んでいたし、ユラと呼んでいた。
「どうせ日常になるよ」
「日常?」
訊き返せば、響は待ってましたと言わんばかりにくしゃりと笑んで立ち上った。俺は上半身を起こして響を見上げる。
「そう。家を買うんだ。そこで樒央くんと暮らす。どう? いいでしょ? さすがに高いのは無理だけど、安い一軒家はいくらでもあるから。近所付き合いがあんまりないところで、あ、できれば光回線引けるところがいいなあ。値段が安いからそれなりの覚悟は必要だけどきっと今よりずっと楽しいよ。二人だったら」
楽しそうにバッと手を広げて、響がずっと握っていた袋がガサリと音を立てた。
「誕プレだよね。わあ、ありがとう樒央くん」
「うん……」
響の言うことを噛み砕いていると目の前に響がしゃがみこんできた。響は窺うように上目で俺を見やる。
「どうしたの?」
「……響は犯人蔵匿罪って知ってる?」
俺と一緒に暮らすだなんて軽々しく言うけれど、響が犯罪者になるぐらいだったら俺は警察へ行く。理由ができた。そうか、理由がなかったから今までずっと逃げていた。響を害する存在を殺して、今度は俺が響の人生を奪う存在になってしまう。
「知ってるよ」
響は軽く頭をかいて、紙袋を丁寧に床に置いた。
「罪を犯すってどういうことか分かってる?」
「分かってる。本来僕がすべきことも分かってるよ。その上で言ってる」
「俺が人殺しなことちゃんと分かってる?」
「誰よりも」
もう響の顔に笑みは浮かんでいなかった。本気ならなおのこと癲狂だ。響はこんなに分からず屋だっただろうか。いや、俺がずっと逃げていたせいなのは明白なのに。
「今から」
遅すぎるけれど自首をする。そう口にしようとしたら、響に口をふさがれた。
「今から行きたいところがあるんだ」
そう言うなり響は部屋を出ていった。今、着の身着のままここを出ていくこともできる。その足で警察署に向かうことも。響と一生会わないことも。
◇
伊達メガネに慣れない髪型。隣の響はキャスケット帽を被って喫茶店で会った時のように耳にピアスを付けている。
「お忍びデートみたいだね」
「そろそろ怒るよ」
「ごめんなさい」
結局俺はあの場から動くこともできずに戻ってきた響に服を渡されるがままに着替えた。手を引かれるがままに歩いて、電車に乗って、着いた先はターミナル駅だった。響が慣れた手つきで発券機で新幹線の切符を買った。新幹線なんて何年振りだろう。切符に印字された行き先は、響と俺が三年過ごしたところだった。
いらないと言ったのに二人分の駅弁とペットボトルとを響が買い、ホームで新幹線を待った。誰も、周りの誰も俺が殺人犯だなんて知らない。幸か不幸か大人になった俺は少年法に守られている。
一人二人しか座席が埋まっていない車両で響と二人並んで座った。響は折りたたみのテーブルをアルコールで拭いてそこに弁当を置いた。
「俺はいいって」
「これも樒央くんとやりたいことなんだけど、だめ?」
ああ、響に押されれば俺が譲歩することを完全に見抜かれている。早々に諦めて箸を手にした。嬉しそうな顔をしているのは横を向かなくても分かった。
「響が今まで、どう過ごしてきたか知りたい。俺のせいで辛い思いさせたよな」
「……なんでそう思うの」
「なんでも何も。もっと他にあったはずだから。響を両親から引き離す方法。俺一人じゃできないことかもだけど」
「それをしてくれなかったよ、今まで家に来た人たち。なんで樒央くん一人のせいになるの?」
「俺はその人らより重くて酷いことをしたんだよ。なあ、俺のことはいいから響の話聞かせて」
俺達が責任の所在を議論したところで俺のやったことの残忍性は変わりはしないし、罪の重さを決めるのは裁判所だ。机上の空論より響が経験したこと過ごしてきた時間を話してほしい。
「……わかった。事件のあとは十八になるまで養護施設で暮らした。里親候補も来たけど、親ができちゃったら十八を過ぎても関係を持たないといけなくなるから全部断ったんだ。中学でデザイナー目指すようになって、勉強して、コンテスト出したりした。高校、自由時間が欲しかったから通信制に入ってバイトしながらね。それで十八になって施設出て大学には行かずに今に至る、って感じ」
「だいぶざっくりだな。友達はできた?」
「うん」
それはよかった。さっきは危険を帯びた奇妙な感情を響に抱いたが、響はやっぱり俺の日常とはかけ離れた生活を送っている。中学に行って高校に行って友達を得た。
「他には? 学校の思い出とかはないの?」
そうせがめば響は口をもぐもぐさせながら記憶を引っ張り出すように目を閉じた。
響が語る思い出は、物語やコマーシャルで描かれるような派手な青春とはとても言えないものだった。けれど普通に溶けてしまいそうな出来事を思い出として拾う響が、クリームソーダを大切に味わう昔の響に重なった。生きてほしかった。響は立派に生きていることを実感して、嬉しくて嬉しくて堪らなくなった。
十年ぶりの故郷は変わらないような気もするし、雰囲気も街並みもがらりと変わったような気もする。感慨がわかないのも歳月を経たがための変化を捉えられないのも俺がこの場所に特別愛着を持っていないからだろう。
「同級生とかばったり会ったら、バレるんじゃない?」
「大丈夫だよ。マスクにサングラスとかの方が却って怪しまれる。こういう絶妙な変装が一番いいの」
「そう……?」
響といるところで捕まるのは絶対に避けたい。周りを警戒したところで無意味だろうが周囲に気を払って歩いた。
「どこ行くの?」
通ったことのある道は見慣れた道に変わった。十数分も歩けば住んでいたマンションに着く。まさかとは思うがそこへ行くつもりだろうかと訊けば響は「すぐに分かるよ」と笑顔で答えた。
言葉通り、大分懐かしい小路に入って行き先を確信した。こじんまりとした、あまり人目につかないところ。
「響、さすがにバレるだろ」
「店主が代わったんだよ。店員も。だから心配することはないよ」
見えてきた看板は当時とはなんら変わりない。けれどドアの色はパステルっぽい桃色に彩られている。
「懐かしいな」
入口の脇に置かれた鉢も、可愛らしい手書きのOPENとCLOSEDの木の板も。扉を開けたらこれまた懐かしいベルの音が小さく鳴った。店内は変わらないように見えて、たしかにカウンター内に立つ人は見覚えがない。奥の二人掛けのソファー席に響が向かうので着いて行く。
「何にする? 樒央くんいつも頼まなかったから今日は頼んでよ」
響に渡されたメニュー表に目を通す。いつもクリームソーダを頼むだけだったからメニュー表にはろくに触れたことがない。
「クリームソーダで、いいかな」
「うん、りょーかい」
すると響はスマホを取り出して、メニュー表の表紙のQRコードを読み取った。スマホの画面に商品が表示された。
「それは?」
「注文と決済がスマホで済ませられるんだよ。口頭での注文もやってるんだけどね」
「へえ。知らなかった。便利だな」
自分の時間は止まっているのだと思わざるを得なかった。もちろんスマホは十年前もあったけれど親が使っていただけで俺はガラケーだった。時折ニュースや新聞を見ることはあれど細かな発展には疎い。
運ばれてきたクリームソーダは淡い赤い色合いでさくらんぼものっている。これには懐かしいという感情よりもよく知る友達に会うような馴染みの方が強い。飲むのはいつも響で俺はそれを眺めていただけ。実際に飲んだことがあるのは数回程度なのに妙な感覚だ。
「自分でも何回か作ったことあるんだけど、美味しいけどなんか物足りなかったんだよね。でも樒央くんがいる店で飲んだらすごく美味しかった。比べ物にならない。ね、僕がどれだけ樒央くんを好きだか分かる? 覚悟なんてずっと前から決まってるよ」
鋭い眼差しがふっと和らいで、響はスプーンを持ってアイスを口に含んだ。唇がそれだけで表情が成立するように穏やかに緩んだ。響は十年経ってもそんなに幸せそうにするのか。喫茶店でのバイトでは、客の食べている姿をじろじろ見るなんて言語道断だったから初めて知った。少しでも、表情がほころぶその瞬間を見ていたら、響だと俺は分かったかもしれない。
「……だから、そんなに見られるとさすがに恥ずかしいよ」
「いつもこうだった。響の楽しそうな顔見るのが俺の一番の幸せだったから」
身を乗り出して響の頬を軽くつまんだ。柔らかいのも変わっていないとは。感触的にも外面的にもベビーフェイスだな、響は。
「み、樒央くんも食べてよ。あのね、ずっと一緒に居ればいつだって俺の顔なんて触れるし見れるんだよ、好きなだけ」
顔を赤くして響は早口でまくし立てた。ああもう、かわいい。ユラをかわいいと思っていたのは響だったからなんだろう。そのかわいいに不純な感情は含まれていなかったとはいえ、プラス相手が成人していたとはいえ、なんだか響だと知ると複雑だ。野蛮な衝動。人を殺して昇華した、なのにまだ微塵も消え去っていない。
下の部分がソーダと混じり合ってきた。とりあえず響に倣ってアイスをすくった。赤と白が渦巻き状に色づくストローでソーダを吸う。
「美味しいな。響が毎回頼むのも分かる」
「うん、ね。それと、クリームソーダって容器おっきいでしょ? 俺にはすごい魅力的に見えたんだよね」
「たしかに。俺から見てもでかかった。よく飲み切れたな」
「正直最後は気合」
「言ってくれればよかったのに……」
「無理して飲むのもまた楽しかったんだよ」
「今は無理してない?」
「全然。成長期とかどれだけ食べて伸びたと思う?」
気に掛ける余裕がなかったけれど、響の身長は俺を越していた。あんなに小さくて細かったのに、力だって俺の肩に今でもまあまあな痛みを残すほどに強くなっている。
「泣きそう」
「ええっ!? まっ、泣かないで~」
俺の涙腺は元栓が壊れているのかというぐらい涙がすぐに出てきてしまう。涙ぐんで、でも目の前でわたわたする響に笑いが込み上げてきて感情も表情もパニックだ。声は抑えないとと必死に堪えたら喉奥から変な音がして更に笑える。メガネを外して目元を袖で拭った。笑いは収まらないからそのまま手を下に持って行って口元を袖で覆った。
「わ、笑ってる!? 樒央くんの情緒が分かんない……」
小刻みに揺れる視界でアイスがじんわりソーダに溶けていくのが見える。食べ時だと思うと冷静になっていって、笑いは徐々に鎮火した。
「ごめん、なんか止まらなくて」
「いや……すごい楽しそうだったからいいよ。びっくりしたけど」
「響といると楽しすぎて怖いな」
楽しすぎて自分の行いを忘れそうになる。昔に戻ったみたいで。全然幸せじゃないのに響といるだけで心が安らいだ。いるだけでよかったとき。
完全に全部が溶けきる前にと飲み進めればあとはソーサーに除けていたさくらんぼだけになった。
「樒央くん」
「ん?」
「あ」
顔を上げたら響が口を開けてこちらをじっと見ていた。もしかしなくてもさぐらんぼを要求されているのだろう。今更恥ずかしいなんてないけれど一応周りを見渡してから、同じくソーサーに佇むさくらんぼを取った。野蛮で醜怪で卑しい。響の口元まで手を動かした。響が唇を閉じても、かすりもしなかった。響の笑顔が一層煌いて心は逆に凪いでいく。紙ナプキンに遮られて響の顔の下部は隠れた。
ソーサーごとグラスを端に寄せてテーブルに両手をついた。白いナプキンが顔から離れる。淡紅の唇めがけてキスをした。きっとあの時の衝動よりもずっとずっと深いものだ。
「響。響と俺は違う。立場も気持ちも全部。だから一緒に居てもお互い苦しくなるだけだ」
響の顔を見る勇気はなかった。瑞々しいさくらんぼを食べて財布から千円札を取り出した。逃げるように店を出てどこへ向かおうかと考えながらさまよい歩く。せっかく来たのだからきちんと弔ってからにしよう。
十七年間暮らした街だ。すっかり記憶に根を張った街並みを思い出しながら生花店へ向かった。伊達メガネの位置を直して乱れかけた髪を整える。あらい生花店は向かった先で変わらず営業していた。といっても入ったことはなく素通りするだけ、生活の背景にいつもあった。
バケツから花のついた樒を一本抜き取った。包装を断って足早にそこを後にした。
◇
粉末のクリームソーダが一番美味しく飲める水の量は百十ミリリットルとか、サボりに関する先生の説教を回避する方法とか、くだらないことを憶えている。
こんなくだらないことを集めたら響と俺の日常はいたって普通のように思えて安堵が胸に広がった。現実に戻るのはいつだって家に帰ってからだった。壁越しの声を聞きたくなかったけれど聞いていなければならないと思っていた。何もできないのに目を瞑って耳をふさぐのは卑怯に思えた。家の中からの争う声も加われば身体は中から攪拌されるように目の前が眩んだ。
あのマンションは大嫌いだ。今でも苦しい。けれどマンションの前に立ってみても不思議と、あの頃家に帰る道中の重い足取りのように苦しくはなかった。ここに帰りはしないしきっと両親もここにいないから。
エントランスホールの入り口に一本の樒を置いて、手を合わせた。報告することが、できた。響は今日で二十歳になりました、傷をこさえる人生を送らずに生きることができたみたいです、きっとこの先もそうでしょうしあなた方の影に苦しむ日はあると思うけれど響は強く生きていくことができると思います。
俺が何を考えて響の両親を殺したのか傍目からは何も分からないように、響の両親が何を思って響を傷つけたのか俺には何も分からない。こればっかりは聞きたくもないけれど。
意外と強い風に身を竦め、少し冷えた指先をもんだ。ここに放置するわけにもいくまいし拾おうと膝を屈めたら上から何か降ってきた。地面に落ちたそれは俺が一本しか買っていないはずの樒だった。振り返れば響が怒りを湛えた鋭利な表情で俺を見下ろしていた。違うな、悲しいのか。
「決めつけないで」
半ば無理矢理立たせられて、響は痛いぐらいに俺の手を強く握った。
「何年焦がれたと思ってるの。憎くて憎くて大好きでたまらなかった。僕から離れる選択したのが許せなかったよ」
はく、ともっと言いたげに口を動かした響は悲痛そうにうつむいた。こんな顔をさせたかったんじゃない。自分の浅はかな衝動の代償を目の当たりにした。
「こんなこと言いたいんじゃなくて、僕はただ、樒央くんといたいだけだよ。二人で普通に暮らそうよ」
「だから、響」
「同じだよ。愛してる」
合わされた唇を拒む術はなかった。瞬く間のキスはそれだけで幸福に満ち満ちた。遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた、気がした。これだけでもう一生分の愛を得たんじゃないかと思うほど。十年間の逃亡生活が報われた。響がこつん、と額を合わせて俺の頬を撫ぜた。
「これから立場は一緒になるよ。何が問題?」
「響は馬鹿だな」
なけなしの嫌味に、響はえも言われぬ美しい笑顔を浮かべた。目を閉じてキスをした。
