久々にこんな買い物をした。ビニール袋と紙袋を右手に持ち包んでもらった樒を左腕に抱えて帰路に就く。樒には毒があって甘い香りがする。
「なんで起こしてくれなかったんですか」
 ドアを開けた途端にこれである。苦笑いすれば抗議の軽い壁ドンをいただいてしまった。
「今日はもうどこも行かないから」
「……ならいーです。僕も今日はなんもしません」
「納期は?」
「もう納品しました」
 どういう案件だったの? と訊けば専門用語交じりに教えてくれた。どこか楽しそうな声に相槌を打ちながらかさりと音を立てる袋を台所に置いて、口の部分を切ったペットボトルに少量水を注いだ。茎部分に結ばれた紐を解いてラッピング紙を剝がす。樒をペットボトルに入れて窓際に置いた。
「仕事、好きなんだね」
「大好きです」
「なんでデザイナーになろうって決めたの?」
 つやつやの葉に陽光が反射するのを眺めながらユラの声がよく聞こえるように壁にもたれた。
「学生の頃なんですけどね、小さい時よく行ってた店があまり経営が上手く行ってなかったみたいで。閉店も考えないとって話を聞いたんですよ。でも思い出の店だし、やむを得ず閉店っていうなら立て直しに協力したいなあって。とはいっても経営だとかの知識はないんですけどね。自分でもできることを、と。許可貰ってホームページ制作したりSNSアカウント開設したり近所の人にはチラシ作って配ったりしたんです。そしたらだんだんとお客さんが来るようになって。自分のデザインで店にお客さんが増えたのが嬉しかった。だから、です」
 照れくさそうにユラは笑った。あまりにも真っ直ぐな理由に、つられて笑みがこぼれた。
「すごいな。ユラくんは」
「エッ」
 一呼吸おいて、細く鋭く息を吐くような音が微かに聞こえてきた。
「僕の名前、憶えててくれたんですかー……?」
「ええ? もちろん。あ。ごめんね、挨拶しに来てくれたのに」
「いえ……全然……これからも呼んでくださいね。あ、呼び捨てだとなお嬉しいです」
「うん、分かった」
 最近ユラがかわいく思えて仕方がない。弟がいたらこんな感じだろうかとは思うも学生の頃の周りの同級生は弟などクソがつく生意気だと言っていたし弟というにはユラはかわいすぎるかもしれない。じゃあ、後輩? でも中学時代の部活の後輩にかわいい奴はいなかったしな。あ。甥だ。きっと歳の離れた甥はかわいいだろうし、なんだかかまいたくなるだろう。
「ユラ。ユラに訊きたいことがあるんだけど」
「はゎ、はい! なんでもどうぞ!」
「はは、じゃあ遠慮なく」
 無意識に壁に手のひらを押し付けていた。こんなことしても、ユラには触れられないというのに。
「十年前の殺人事件、知ってる?」
「十年前、って……T県で起きた……」
「それ。今日、店の人と少しだけ話したんだ。犯人は正義のヒーローか、殺人鬼か、って。なあ。ユラはどう思う?」
 今までも細切れに聞いたことがある。どうやら世間的には、犯人である隣人の高校生は虐待されていた当時小学生である夫婦の子供を救うために殺人を決行したと捉えられているらしい。正義の執行。クズは死んだほうがいい。大人が何もしないからその子が手を下した。ただの殺人者に大層な。
「……両極端では、語れないと思います。その人が何を思って殺したかなんて誰も分からない。まあ、動機で善悪が決まるわけでもないけど……ただ僕は強く、その人は優しいんだろうなあって思います」
「へえ。珍しい考えだ」
「そうですかね?」
 そうだよ、誰が優しいなんて思う。独特な子だな。けれど殺人者をも糾弾できない様はなんとなくユラのイメージとぴったりな気もした。
 ユラに肯定されただけでもこんなにも嬉しい。浮き立つ心とは裏腹に平静な頭は浴びた血の生ぬるい温度を蘇らせた。別にそんなことせずとも馬鹿みたいにユラの言葉をありのままに受け止めたりなどしないのに。
「なんか眠いから寝ようかな」
「何時に起きたいか言ってくれれば僕目覚まし代わりになりますよ」
「ほんと? じゃあ十六時にお願い」
「任せてください! おやすみなさい」
「……うん。おやすみ」

  ◆

 一瞬だけ目が合った。気がした。夢中のただなかにいた記憶は信じられないほど曖昧で、あれだけ刺したことさえも夢幻だったのではないかとすら今も時々思う。
 乗り上げて下を向いた。刺して、顔を上げた刹那。前髪と涙とで遮られる視界でぼんやりと響の顔を捉えた。立っていたか座っていたか。泣いていたか恐怖していたか笑っていたか。判別できなかったが、そもそも響が本当にそこにいたのかすら怪しいのだけれど。
 どれだけ走っても歩いてもそこから離れても引き戻されるように振り向いた先には血塗れたナイフがある。拾おうと膝を屈めて手を伸ばしたら俺よりも小さい手がナイフを掠め取った。危ないから、汚れてるからダメだよと言おうとして、考え直した。それを向ける先が俺であるならどれだけいいだろう。刃先から垂れた朱殷を帯びてきた血を指先で拭った。わずかに残った血から目を逸らして後ろに倒れこんで仰向けになった。指先を舐めてもほのかに甘みを含んだ鉄の味がするだけで当然いちごの風味すら感じられない。
 徐々に影がやってきて、俺は自分を見下げる顔に笑いかけた。すぐに場違いだと気づいて唇を引き締めても響は変わらず瞬きをした。手にはしっかりとナイフの柄が握られている。ぎゅっぎゅっと響は何度もナイフを握り直して、やがてそれを放り投げた。細い脚は反対の方向へ進み、膝立ちになって床に腕を近づけた。袖を手中に引っ張って床を雑巾がけのように拭いていく。
 訝しく思って起き上がろうとしたが金縛りにあったかのように体は動かない。それとも俺はもう刺された後なのか。死んだ人間は動けない。それでも納得できない事象なのはきっと何度も見た夢だと知っているからなのだろう。だろうというのも、夢と気づくのは大体起きる間際で、起きた後には全部忘れているのだろうなというのも起きかける頃に思って、瞼が開いたらそう思ったことすら、記憶からなくなる。

  ◇

「コンコン、起きてください四時ですよ~」
「……なんで口で言うの」
「あはは。おはよう。よく眠れましたか?」
 畳の上で寝るのは痛い。せんべい布団もそう変わらないだろうと思わないでもないが、まだ少しでも柔らかい布が敷かれている方がマシだ。昔はフローリングに大の字でも爆睡だったのに。
「寝た気がしないな。歳かも」
「歳って。まだ二十代とかでしょ?」
「なんで分かったの?」
「なんとなくです」
 肩を強く揉んでみても更に痛むだけで諦めて布団に寝転んだ。身体を支配する気怠さは一朝一夕では消えてはくれない。あの日からずっと怠い。腕を振り上げたときの勢いも関節の節々が折れそうなほど強く握った手の痛みも、日を繰るごとに身体を蝕む。
「あの。十三日なんですけど」
 控えめなユラの声に壁側に寝返りを打った。
「会えたり、しませんか?」
 声が震えているのが如実に伝わった。口からは自然とため息がもれて、ユラに聞こえていないようにと願った。
「ユラが会いたいなら」
 会えない理由なんてない。会いたくないわけでもない。ただユラからそんなことを言われるなんて思いもしなかったし、この状態がずるずる続いて俺がここを離れて終わりだと思っていた。
「会いたいです。楽しみにしてますね」
「分かった。俺も楽しみにしてる」
 思っていないことはないけれど、どうも空虚なのは今日のせいだ。今日がきてまた今日がくるから。そしたらまた今日がきて、きっとその時にはもうユラはいなくて、怯え続け疲れ続けるだけの日常を送っている。

 夜は孤独なようでいて、背後におぼろげな気配を感じる。子供の頃は布団に包まれば危害など加えられまいとベッドにもぐりこんだものだが、息苦しくなってすぐに顔を出した。涼やかな空気に触れて、後ろの気配のことなんてどうでもよくなる。けれどその後は決まって怖い夢を見る。悪夢とまではいわずとも、電車で特定の人間と何度も目が合うような不気味さを呈した怖い夢。心臓が脈打つ感覚で目が覚めて、憶えていない夢の恐怖にしばらく布団の中でうずくまる。昔の話。朝と夜は俺の家族が揃う。おぼろげな気配じゃなくて二人の声だったか。
 それとはまた、まったく違った気配を後ろに感じながら手を合わせた。彼らの亡霊かもしれない。家を出た時間を憶えている。二十三時十六分。リビングの二分早い壁掛け時計の針の位置と12を引っかく猫の柄。
 鍵は開いていた。鍵を玄関の靴箱に置いて、土足のまま上がった。考える余裕はなかったし今にでも過呼吸を起こしそうだった。視界には細雪のような黒点がちらほら舞って、散発的にノイズが鼓膜を酷く揺さぶる。次第に黒点は陽に照らされた雪のように輝いて針で突かれた痛みが眼球に襲い来る。どろどろと流れる涙は血でもおかしくないぐらいに痛かった。
 彼らがどんな表情をしていたかは見えなくてでも俺よりずっと痛かったのだろうと想像する。響の痛みを思い知ればいいなんて思ってなかった。いなくなってほしかった。響の前から。どれだけ痛くて、傷ついたのだろうか。響が見ていたのが幻覚じゃないとしたらどれだけ怖かっただろうか。
 なんで殺したと響に尋ねられたら俺は答えられない。響にキスしたかったからだよ。冗談みたいな。冗談であれば。
 手を下ろして足を崩した。ごしごしと袖で目元と頬を拭う。今シャワーを浴びたら迷惑だろう。腕時計のアラームを設定して布団にもぐった。掛け布団を頭まで被って脚を折り曲げる。誰の声も聞こえない、怖いものは常に自分の衝動で、正気のまま今ここにいて眠ることのできる自分だ。俺は明日も生きていてユラと他愛もない会話をするのだろう。

  ◇

 ユラの誕生日である十三日がやってきた。響の誕生日は、響が知らないと言うので祝うことができなかった。けれどそうでなくても祝ってやりたいとは思えなかった。生まれてきてくれてありがとう、とは縁遠い日々を送る響にとてもじゃないが言い難かったし俺にとって誕生日は書類を書く際必要な情報でしかなく、誕生日はおめでたい日という感覚は、少しずつ深い思考をするようになる歳になってから得たものだった。だから今は強く思う。誕生日おめでとう、の特別感を、響が誕生日を知らなくても知るべきだった。誕生日を知って祝ってもらうってきっと普遍な幸せの象徴だ。
「おはよう、ユラ。誕生日おめでとう」
「おはようございます。えへへ、ありがとうございます。幸せです」
「簡単すぎるでしょ……。二十歳だから、酒も煙草も解禁だ」
「あー、そういえばそうですね。でも別に興味ないなあ。飲みますか?」
「俺はどっちもないよ。ユラと同じ。興味ない」
「えー? 気が合いますね~。幸せです」
 また言ったな。安価な幸福に小さく笑ってしまい、「ほんとですからね!」と念押しされた。まったくもってかわいい。笑いを抑えようとすればするほど笑いは止まらない。終いにはユラまでつられたのか笑いだして、俺達はしばらく馬鹿みたいに笑い声を上げた。
 ようやく鎮まりそうで目を開けたら、しぼみかけた樒の花が目に入った。白かった花弁は紅茶のシミのような色合いになってしまい、未だ瑞々しい大きな葉の間でひっそりしている。
「誕生日にする話じゃないって分かってるけど、聞いてもらってもいい?」
 こうも曖昧ではユラだって困るだろうと思いつつこんな切り出し方しかできなかった。
「……あなたの話はなんでも聞きます。逃さず、一言一句」
 俺の何がユラをそこまで盲信たらしめるのか分からない。けれどそんなユラでも俺を知ったら蔑みを露わにしてくれるだろう。
「会いたくないって思ったら、それでいい。俺はここを出てくから安心して」
「ほんとは僕と会いたくないんですか」
「違うよ。俺も会いたい」
 壁越しの距離がもどかしい。けれどその距離を壊して顔を合わせてしまえば別れる時をいつまでも遅らせてしまいそうで怖かった。
「どうするかはユラが決めて。警察を呼ぶなら絶対に逃げない」
 まあどうせ捕まったらそんなこと思っている場合じゃなくなる。警察を呼ぶ、行動として一番可能性が高いのだから。二人を惨殺、十年間逃亡して自首しなかった。当時未成年だったとはいえ大人になった今、責任能力は十分にある。あの頃だって責任を取れるぐらいの精神状態ではあったと思うけれど。
「俺は犯罪者だ。人を殺した。前に十年前の事件のこと訊いたでしょ? あれだよ。俺が殺してずっと逃げてる。優しくなんかないよ、もちろん正義のヒーローでもなんでもない。……ごめん、そんな奴が君と楽しく話して」
 ずっとなんで逃げ続けているのか本当に分からなかった。今でも分からない。心のどこかであったのだろうか。これは響を助けるための正当な行為で、自分は捕まって刑を受けるべきではない。自分が犯罪を犯したということ、知っているのに認められないのか。当時は本気でそう思い込んでいたのかもしれないと思うと恐ろしい。
 考えれば考えるほど自分の醜さが表出するようで嫌になる。同時に響に会いたいと焦がれる感情も顔を出してきて、どこまでも自己本位で。何度俺は自分に失望しただろう。
「鍵開けてください」
「え……?」
 まさかこれを聞いてもなお会いたいなんて言うのだろうか。質の悪い冗談だと思われている?
「僕が決めてって言った。だから開けて? お願い」
 そう言われてすぐに隣のドアが開く音がした。ユラの足音が身体に響くようだ。意味もないのに掃き出し窓まで後ずさって息を凝らした。
「……フェアじゃないかな。あなたが話してくれたのに僕が話さないのは」
 会いたくないと言ってほしかった。早く警察に連絡して、こんな人間と関わったことはすぐに忘れて、大好きだという仕事をして生計を立てながらユラは幸せに暮らすはずだ。本当はこのアパートに住まわなければならないほど金銭的に不自由していることはないんだろう。じゃあユラはなんの目的で、そもそも誰なのか。警察がこんな回りくどい方法をとるわけがないことぐらい分かっている。似た青年が現れた当初の焦りとはまったく違った鬼胎が滲みはじめた。
樒央(みつひろ)くん」
 数歩で辿り着く玄関扉の鍵に手を掛けた。開錠の音は大きい。ドアが開かれて、ちゃんと姿を確認する前に強く抱きつかれた。
「ずっと、探してたよ」
 ずっと、ずっと。会いたかった。響がそう言って、更に腕の力が強まった。俺はたたらを踏んで壁に手をついた。鍵を開けるので力を使い果たした気がして畳にへたり込みそうになる。俺を潰さんばかりの勢いで抱く響は一向に離れそうにない。行き場のない左手で響の頭を撫でようとしてやめた。
「俺も……会いたかった」
 言っていいはずのない本音が口から滑り落ちた。両手で響を抱きしめ返して堪らず目を閉じたら目の前は真っ暗になるどころか光に満ちていく。
「やっぱり樒央くんは優しいよ。善だろうが悪だろうが関係ない」
「そんなわけない」
「僕は今生きてる。樒央くんにも会えた。樒央くんが優しかったから、優しいからここにいるんだよ」
 響の体温が離れていって瞼を開く。笑顔の響はたしかに昔の幼げな面影が残っている。柔らかな濃茶の髪の毛とぱっちりと愛らしいアーモンド型の目、もう傷一つない白皙を彩るシャープな唇。毎日のように見た顔。成長したんだなと当たり前のことを思った。
 疑心は確信に変わった。喫茶店での彼も、コンビニでの彼も、全部響だった。あり得ないような現実を理性は否定して、夢うつつと痛苦はまざまざと真実を映し出す。
「そんなに見られるとさすがに恥ずかしいなー。上がってもいい?」
 昔のようなくだけた口調に頷きかけてすんでのところで踏みとどまった。
「それは……」
「だめ? なんで?」
 響だと分かってから愛おしさが皮膚を突き破りそうなほど暴れる。そりゃ響の甘えには存分に応えたいが立場的にアウトをとっくに越えている。響の両親を俺は殺した。
 途端に響は表情を落としてすっと目線を奥にやった。
「あれ、樒、だっけ? 榊?」
「樒」
「お供えの植物だね。樒央くんらしいな。夜だってそうだよ。ごめんなさいってうなされてるのに赦してとは絶対に言わない」
「……赦す赦さないの次元じゃない。とにかく、俺達が会うのは駄目だ」
 動く気配のない響に、ラッピングすら施していない紙袋を渡した。受け取ろうともしないから響の手を取って無理矢理持たせた。
「誕生日プレゼントっていうにはささやかすぎるけど、おめでとう。俺なんかが言えたことじゃないのは分かってる。でも、ずっと響の幸せを願ってるから」
「樒央くんがいないと幸せになんてなれない」
「なれるよ」
 俺を忘れることでもっと。
「なれない」
 響は低く呟いて俺の肩を指先が食い込むほどに強く掴んだ。気圧されて尻餅をついた。そのまま肩を押されて後ろに倒れこむ。見下ろす真顔、押さえ込まれた両肩。ナイフが振り下ろされる。
「僕は樒央くんに殺してほしくなかった。ずっと一緒に居たかった」
 痛々しい涙が零れてきて俺の肌膚を流れ落ちた。その涙の冷たさに心が芯から冷えてしまいそうだった。
「なのに、なんでそんなこと言うの」
 隣の部屋から、激しい物音や大人の喧しい声は聞こえてきても響の泣き声は一度も聞いたことがなかった。俺の前ですら泣かなかった響が泣いている。
 肩を掴んでいた手は畳に落ちて抜け出そうと思えば抜け出せるのに体は杭を打たれたかのように動かない。違う、動きたくない。響が泣き止むまで傍に居てやりたい。できることなら撫でて抱きしめて、背中をさすって温もりを与えたい。子供を慈しむように。
 泣いている響を見つめることしかできなくて自分の眦にも涙が溢れてきた。唇を噛んでも止まらなくて情けなくて顔を手で覆ったのに手首を引っ張られた。響の顔が近づいてくる。掻き曇って嗚咽が二つ分絡まって、訳が分からなくなるに任せて響の抱擁に手を伸ばした。