二週間弱の盗み聞きが功を奏してユラと遭遇することはなかった。アパートを借りられたからもう数ヶ月はここに居たかったけれど、いつでもすぐに離れられるように日雇いで食いつなぐことにした。ユラがどんな人間かまだ分からない。最近不安が付きまとうようになってきた。似た男、ボロに住まう若い隣人。そもそもなんのために逃げているというのか。だから、考えない。先なんてないものを考えたって仕方がない。
ユラはあの日以来訪ねてくることはなかった。やっぱりユラはただの隣人なのだろうかと甘っちょろい考えが過ぎる。まだ気を張っていなければならない。
最近、純喫茶の彼より響のことをよく思い出す。それに付随する記憶と傷と。手にまだ残っている。ナイフを強く握った感触、そこから伝わる肉を突き破る重さは、響に触れた温もりを上書きすることはなかった。小さい弱い生きものを守らなければって、人間はできているはずだから。記憶に響だけが残っていてほしかった。
コン、と壁のノックされる音が、ユラが帰ってきて間もなくにわかに聞こえてきた。一回であれば気にすることでもないがノックは控えめに二度続いた。明らかに俺とコンタクトを取りたいという意志表示だ。ユラが寝入ってから荷物をまとめてここを出る。今はじっと息を潜めていなければ。
「……心配です」
ノックではなく、声は壁越しでくぐもっていながらも静かに、クリアに聞こえるような気がした。
「毎晩あなたの苦しそうな声が、聞こえてきて……ただ隣に越してきただけでこんなこと言うの、怪しいって分かってます。でもあなたが苦しそうにしていると僕も辛くて。返事は結構です。僕が勝手に心配してるだけ。僕が力になれるかは分からない、いや、きっとなれないんでしょうけど、でも、僕にできることがあれば言ってください。信頼。してもらえるように頑張ります。おやすみなさい」
気づけば隣を隔てる壁に身体を寄せていた。足が畳に摺れる音はユラにも聞こえていただろう。そろそろと手のひらを壁に押し当てた。ユラは一体何者だろうか。
◇
「おはようございます。あの、ごめんなさい。あなたが、過ごしにくいかなって思って、平日決まった時間に家出て帰宅してって生活してたんですけど、本当は在宅が主の仕事してるんです。でももう話しかけてるからいいかなって。僕のことは気にしないでください。あなたのこと、無理に知ろうとはしません。絶対に」
「おかえりなさいっ! ……あ、気持ち悪いですよね、ごめんなさい。ここほんと筒抜けですよね……聞かれたくないことがあったらいつでも言ってください。あれ、これもなんか気持ち悪いな」
「おやすみなさい。……良い夢を」
◇
「おはようございます。今日は雨ですね。ちょっと肌寒い。でももうすぐ暖かくなってくるみたいです。春が近づいてきますね。僕、大好きなんです、春。でも嫌いなとこもある。はは、愛憎一如ってやつかもです」
「今日はどこも行かれないんですか? じゃあ僕も今日は仕事やめておこうかなあ。あ、僕ね、フリーランスのデザイナーやってるんです。家の方が作業環境いいから基本ずっと引きこもってて。あっ。パソコンカタカタうるさいとかリモート中の声うっとうしいとかあったら全然言ってくださいね!」
「お昼食べました? 僕は定期便頼んでる完全食です。日々の食事とか気にかけるのが苦手で。でも甘い物は大好きなんです。冷凍庫、アイスでいっぱいなんですよ。一気にたくさん買い込んでも腐らないから。クリーム系からさっぱり系までなんでも揃ってるので、いつか一緒に食べれたら嬉しいです」
「ここ、ボロいけどシャワーあるのは嬉しいですよね。引きこもりだから銭湯とか行くの面倒。お湯の出悪いのが玉に瑕ですけど」
「おやすみなさい。今日はたくさん話せて楽しかったです。……あー、はは、あなたにとってはうるさかったかも、ごめんなさい。また、明日」
◇
「うっわ、七時過ぎてるー……もう出ますか? いってらっしゃい」
「おかえりなさい。今日は美容院行ってきたんです。色落ちしてきて、ダークブラウンにしてみました。久々昔っぽい色です。ほんとは戻したかったけどブリーチしてるからすぐには無理で。ずっと派手めだったから慣れないけど……あなたにもし、会える日がきたら、この姿で会いたいな」
「うー……アイス食べたい。さっさと歯磨きしますね……。おやすみなさい」
◇
「おはようございます。今日は休日ですけど納期近いので僕は仕事しないとです。うるさかったら出ますので、遠慮せずに教えてくださいね」
「あれ? うわやば、重いな……光回線光回線光回線引いてほしー……光回線ないと無理だあ~……」
「どう思います? まずは大家さんに確認取らないとですかね。こっちが費用負担するのは致し方ないとして許可取れるかなあ。ルーターだとちょっと遅いんですよね。でもずっとここいたら慣れるかな」
「もう三月も終わりますね。四月……お花見とか、行ったことありますか? 僕は一度もないんですよね。一緒に行きたい人がいて、一緒に行けるまで絶対に行かないって決めてるんです。きっとその人と一緒に見る桜は綺麗です。いや……その人のことずっと見つめちゃうかも。花より団子より、なんて……うわ、何言ってんだろ。はず……」
「おやすみなさい。僕はもうちょっと作業してから寝ますね」
◇
「おはようございます。結局夜更かししちゃいました。ちょー眠いです。おやすみなさい」
◇
ユラの声が聞こえなくなって、布団から起き上がった。向こうにユラがいる。壁に背を預けて体育座りで膝を抱えた。何年ぶりだろうか、こんな体勢。膝頭に額をくっつけて細く息を吐いた。
「なんなんだ……」
俺は何もユラに返さないのに、ユラは気にした風でもなく感情むき出しで話しかけてくる。あまりにも軽くて毒気の抜けるユラの話に返事をしてしまいそうになる。ユラの言うおはようございますに、おやすみなさいに、おはようと、おやすみと返したらユラはどんな反応をするだろうか。慌てふためく? 動揺で言葉が出なくなる? それとも怖がらせてしまう? 不審に思われるかもしれない。俺は今楽しいのか。
掛け布団を引き寄せて、壁と向かい合って目を閉じた。
畳を踏む音に意識が引っ張られて、寝転がったまま壁に指の腹を沿わせた。人差し指を曲げてノックをする。一拍して何か硬質なものが床に落ちる音がした。
「毎晩……苦しそうな声がと言っていたけど、うるさかった? ごめん。今は大丈夫?」
「え、え、いや、そん、そんなわけないじゃないですか……あなたが苦しそうなのが嫌で、うるさいなんて思ったこと……そりゃうなされない方がいいです。あなたが辛いのが、嫌だ」
「……何歳?」
「じゅ、十九です。もうすぐハタチ」
「それで、フリーランス? すごいな。俺には考えられない世界だ」
「僕は、全然ひよっこですよ。自分の裁量で働ける環境がほしかっただけです」
「へえ。なんで?」
「……会いたい人がいるんです」
「一緒にお花見したい人?」
「お花見、以外も、もっとたくさんのことをその人とやりたいです」
「叶うといいね」
「はい。きっと叶えます」
ユラはまっすぐな人間だと思った。ユラは壁越しでも笑っているのが分かった。
響の柔らかい髪の毛、笑いかけてくる愛おしい表情、抱きしめたときの腕にすっぽりはまる小さい体も、全てを憶えているのに、声だけはどうしても再生されはしなかった。響の言うことにどんな声音を当てはめても吹き替え音声のように、そこには常に違和感が帯びる。
成長していたら、きっと、響の声はユラのように優しいものかもしれない。そうだったらいい。きっとそうだ。
◇
「おはようございます。今日はちょっと遠くまで出ないといけないんですよね。早く帰れるといいなあ」
「おはよう。今日は外出するんだ。頑張って」
「……」
「今更、返事は遅い……?」
「いッ! いえ! うれし、すぎて」
「そう。……な、泣いてる? 大丈夫?」
「ううぅ~……うれしいです~」
「そっかあ」
「僕は先に出ますね。いってきます」
「いってらっしゃい」
「……うれしい~」
「あ、はは……」
「ただいま帰りました! いますか?」
「いるよ。おかえり」
「今日はクライアントのところに行ってきたんです。お土産ドアに掛けておきました。よかったら召し上がってください」
「そうなんだ。わざわざありがとう」
「いえ。好みじゃなかったら全然言ってくださいね」
「おやすみ。明日は早いから朝うるさいかも。起こしちゃったらごめんね」
「分かりました。おやすみなさい」
◇
「おかえりなさい。今日は……えっと、何してるかとか、訊いてもいいですか?」
「ただいま。日雇いのバイト。定職に就いたことがなくてね」
「そうなんですね。いつもお疲れ様です」
「君もお疲れ」
「そうだ。りんごタルト美味しかったよ。ありがとう」
「甘いもの、大丈夫でした?」
「うん。あんまり食べないけど好きだから」
「よかったです。またどっか行く時買いますね」
「気にしないでいいのに。でもありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい」
◇
「おはようございます」
「おはよう」
「今日から四月ですね。とはいっても何も変わんないんですけど」
「俺も。あ……もうすぐ二十歳って言ってたけど、誕生日四月とか?」
「はい。四月です。あなたはいつですか?」
「俺は十月」
「じゃあ十月にはお祝いしないとですねえ」
「君の方が先でしょ。何日?」
「じゅうさん、です……お祝いしてくれるって受け取っちゃいますよいいんですか」
「はは、いいよ。そんな大層なものは用意できないけど」
「そんな滅相もない……! お気持ちだけで僕爆散しますから」
「ばくさん」
「おかえりなさい。お仕事お疲れ様です。僕もあなたと働きたいな」
「肉体労働だよ。得意?」
「う。苦手です……筋トレします」
「ははは。面白いな」
「本気ですよ~」
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
◇
奇妙な生活だ。まるで同じ部屋で暮らしているようで、でも実際はただの隣人で。互いの生活音が丸聞こえで帰宅のタイミングさえ把握されるというのに不思議と不快感はなかった。おはようとかいってらっしゃいとかおかえりとかおやすみなさいなんて学生の頃でもそうそう聞けるような言葉じゃなかった。
まるで純喫茶にいた時のように楽しい。本当に小さい、取るに足らない手助けをしたら、店長は店の看板メニューであるクリームソーダを出してくれた。流されるままにつらつらと雑談した。来たばかりで家も仕事も探せていないのだと話したら、うちで働けばいいと羽のように軽い口調で提案された。聞けば夫婦二人で店を回していて人手が足りないと。働いてみて分かったが十分二人で対応できる客の入りで、店長は俺が罪悪感なく働けるよう小さな嘘を吐いてくれたのだろう。寝床は二階にある二人の住処の余った一室を貸してもらった。
俺は彼らに返せただろうか。感謝してもしきれないといえば聞こえはいいが、言葉は対価にはならない。量れないものをどう返せばいいのか分からなくて戸惑うままにそこを去った。もう会うことはないと分かっているけれど引っ掛かる負い目は疚しいような重苦しいような。
「起きてる?」
おやすみと交わした後に何を言っているのか。返事は期待していないけれど起こしてしまうかもしれないということが頭から抜け落ちていた。意味もないのに口に手を当てた。ユラからの返事はなくて、数日前のユラのように会話調の独り言を呟いた。
「明日は生花店に行くよ。花を買ってくる。まあお供えはできないんだけど」
俺はユラに心配してもらえるような人間じゃない。明日がくること、それが証左だ。
寝苦しくて起きたことはない。だがユラの言うには俺は夜中うなされているらしい。悪夢であればきっと俺はそこで殺されているか殺しているかしてるのだろうし、単に薄い布団越しの畳の硬さに体が悲鳴を上げているのかもしれない。
昨日から目を開けて夜明けを待った。西日の眩さに眠気が舞い戻ってきて目頭を揉んだ。外に出て、歩けば目は醒めるだろう。
体を伸ばして顔を洗ってから持っている服の中でも一番フォーマルなものを選んだ。フォーマルといっても、黒いニットとチノパンという服装はジャケットもネクタイもないのだから私服以上でも以下でもない。
「ん……もう起きてるんですか……?」
「ごめん、起こした?」
「いえ。全然」
「まだ出ないけど。目が覚めて」
「そうですか。んー……ごめんなさい、まだ眠くて」
「何がごめんなの。寝てな」
「出るとき教えてね? あ、ください」
「別に口調なんてなんでもいいよ。それと、起こしはしません」
「意地でも起きますからねー……」
かわいいな。笑いがもれそうになるが限界で眠ってしまったであろうユラを邪魔するまいと笑声をかみ殺した。俺は意地でも起こさないようにしよう。
そろそろ店の開く頃だろうかと抜き足差し足で目と鼻の先の扉まで向かい、自分で評するのもなんだが見事なまでのスローモーションでほとんど音なく外へ出た。歩いて数分の場所に商店街があるのを見掛けたからきっと生花店もあるだろう。
簡素なアーチをくぐってまばらな人通りのなか店を探した。所々シャッターが下ろされていて漠然と寂しい。なかなか見つからないなと歩く速度を上げた。半ば強迫観念のようになっている。花を買わないと、いけない。春に咲く樒の花でいっぱいの花束を抱えて家まで帰れば正座をして手を合わせる。ナイフが握られている。切りかかったかと思えば土下座のように額を床に擦りつけていた。目を瞑れば目の前の服に血が染み込んでいてその服の持ち主は響の父親だと理解する。血に、涙が溺れていった。息を吐く。頭を満たす光景がつと振り払われた。ユラの誕生日。
花を買う前にユラにやる物を選ばなければならないことを思い出した。ユラの好きなものなんて甘いものぐらいしか知らない。ケーキか? けれどケーキ屋のケーキ箱はなんというか簡単な造りであるし見知らぬ人間から贈られるには少々不安というか結構嫌ではないだろうか。きっちり梱包された日持ちのするスイーツが安心だろう。
ゆっくりと順繰りに見て回る。こじんまりとした、照明の頼りない小暗い駄菓子屋が目に入った。懐かしさが想起されそうな店構えだ。ああそういえば、中学の時、金が足りず響のためにクリームソーダを頼めないこともあって、安価な駄菓子屋へ一緒に行ったこともあった。お小遣いがないのは当たり前で、お年玉だって親戚から千円札を数枚もらえれば万々歳なものだった。
響と喫茶店に行くようになって、貯めていたお年玉を使い果たして、両親の財布からこっそり小銭を、時々紙幣を抜き出すようになった。駄菓子屋へ行くのは決まって、タイミングが悪くてちょろまかせなかったときだ。そう貧困ではなかったから悪気なくできたことだが流石に悪ガキで済ませられるラインを通り越している。
思い出とは到底言えないが、見渡す限りのちんまりした駄菓子に目を輝かせる響の表情は心に刻まれている。駄菓子屋でも響はひとつだけ手に取って、わくわくの滲み出た笑みで俺に差し出してきた。最初に駄菓子屋へ行った時響が選んだのは粉末のクリームソーダだったっけか。売り場の隅にひっそりとあった。
水で溶かして飲むものらしく、俺たちは急いで公園に走った。俺が持っていた水筒の中の水を全部流してから粉末と公園の水道水を入れた。しゅわしゅわと炭酸の弾けるような音が筒の中から聞こえてきたが当然水筒を覗いても光が遮られてしまい泡が溢れる様子が見られない。次に行くときは家からガラスのコップでも持ってくれば響はもっと喜ぶだろうかなんて考えた。
でも響は音だけでも楽しそうにしていて、そして恐る恐る匂いを嗅いだ。両手に水筒を持たせ飲んでみてと勧めれば高価な芸術作品を吟味するように見えない中身をためつすがめつして、そうっと水筒の縁に唇をつけた。細い首の喉元が上下して、響の顔はパグになった。そのまま無言でずいっと水筒を突き出されたので一口飲めばきゅっと口がすぼまった。もちろん水筒が魔窟と化していて水が腐っていたわけではなく、ただ、ただただ薄かった。粉末自体が不味いのではない。水を入れすぎるとそりゃこうなる。
初めての駄菓子経験がこれでいいはずがないと落ち込んだものだ。次に駄菓子屋へ行く際俺は計量カップを持って行った。当時は本気だったろうが今思えばどれだけ真剣に取り組んでいたのだと笑い草でしかない。高校に進学してからは金欠になることはなく、自然と駄菓子屋へ向かう足も遠のいた。
駄菓子、駄菓子か。ユラのような年頃……響と同じ年齢の子は駄菓子とどういう関わりをしたのだろう。懐かしいのか真新しいのか、知らないということはないだろうが。駄菓子も、買って行ってみようか。
そう広くはないのに商品の数が多くてなかなか足が進まない。小さいカゴに甘い駄菓子を入れながらクリームソーダの粉末を探す。ふと視線を横にやったら番台で片膝を立て頬杖をつく店主らしきおじいさまと目が合った。軽く会釈したら粋に片目を瞑って返してくれた。かっこいい。響と行った駄菓子屋のおじちゃんはお喋りだったななんてことを思い出した。
いっぱいとまではいかずとも子供からしたら豪勢に見える量が入ったカゴを番台に置いた。
「あの、この商店街って生花店ありますか?」
「ああ。北側をも少し歩けば田畑さんのやってる花屋がある。店頭にねえ花も言えば翌日には届けてくれんだ」
「それは助かりますね」
経験があるのか、おじいさまは神妙に頷いた。それでもレジを打つ手は止まらない。
「買うもんは決まってるのか」
「ええ、まあ、お供えの」
『――今日で、十年が経ちます。白石さん夫婦殺害事件。未だ犯人は捕まっていません』
「……樒を」
珠暖簾の向こうから、はっきりと耳に届いた。
「そうか。そりゃロウソクも線香も買って弔ってやらねえとな。五百十円、きっかりワンコインでいいぞ」
「あ、ありがとうございます」
ポケットから財布を取り出して五百円玉を探した。がちゃがちゃと硬質な接触音が遠のいてアナウンサーの声が頭に流れ込んでくる。現場となったのはT県M市のマンションの一室 四日未明、白石海美さん、白石桐也さんの遺体が発見されました 二人の体には複数の刺し傷があり、司法解剖により死因は出血多量による失血死の可能性が高いとされています 当初は――
「どうした? ああ……虐待児の対応やらの問題も明るみに出た事件だろう」
「……え?」
「そこまでは追ってねえか? 事件当時はうちの一番下の息子が子育て真っ最中なこともあってよおく注目したもんだがな」
「それは……」
「犯人は隣に住んでた高校生らしいな。正義のヒーローか殺人鬼か。お客さんはどう思う」
百円玉が三枚。五十円玉が三枚。いや、千円札を一枚出せばいい。すっかり擦り切れ褪せた、高校時代から使っている財布の小銭入れから指を引いた。
「世事には疎くて」
困り顔に肩をすくめて見せた。世間でどう受け止められているのかなんて、考えたこともなかった。問題が明るみに出た。取り返しのつかない大きな出来事が起きてから。
「けど……俺はただの犯罪者だと思います。人を殺したことに変わりはありませんから」
ユラはあの日以来訪ねてくることはなかった。やっぱりユラはただの隣人なのだろうかと甘っちょろい考えが過ぎる。まだ気を張っていなければならない。
最近、純喫茶の彼より響のことをよく思い出す。それに付随する記憶と傷と。手にまだ残っている。ナイフを強く握った感触、そこから伝わる肉を突き破る重さは、響に触れた温もりを上書きすることはなかった。小さい弱い生きものを守らなければって、人間はできているはずだから。記憶に響だけが残っていてほしかった。
コン、と壁のノックされる音が、ユラが帰ってきて間もなくにわかに聞こえてきた。一回であれば気にすることでもないがノックは控えめに二度続いた。明らかに俺とコンタクトを取りたいという意志表示だ。ユラが寝入ってから荷物をまとめてここを出る。今はじっと息を潜めていなければ。
「……心配です」
ノックではなく、声は壁越しでくぐもっていながらも静かに、クリアに聞こえるような気がした。
「毎晩あなたの苦しそうな声が、聞こえてきて……ただ隣に越してきただけでこんなこと言うの、怪しいって分かってます。でもあなたが苦しそうにしていると僕も辛くて。返事は結構です。僕が勝手に心配してるだけ。僕が力になれるかは分からない、いや、きっとなれないんでしょうけど、でも、僕にできることがあれば言ってください。信頼。してもらえるように頑張ります。おやすみなさい」
気づけば隣を隔てる壁に身体を寄せていた。足が畳に摺れる音はユラにも聞こえていただろう。そろそろと手のひらを壁に押し当てた。ユラは一体何者だろうか。
◇
「おはようございます。あの、ごめんなさい。あなたが、過ごしにくいかなって思って、平日決まった時間に家出て帰宅してって生活してたんですけど、本当は在宅が主の仕事してるんです。でももう話しかけてるからいいかなって。僕のことは気にしないでください。あなたのこと、無理に知ろうとはしません。絶対に」
「おかえりなさいっ! ……あ、気持ち悪いですよね、ごめんなさい。ここほんと筒抜けですよね……聞かれたくないことがあったらいつでも言ってください。あれ、これもなんか気持ち悪いな」
「おやすみなさい。……良い夢を」
◇
「おはようございます。今日は雨ですね。ちょっと肌寒い。でももうすぐ暖かくなってくるみたいです。春が近づいてきますね。僕、大好きなんです、春。でも嫌いなとこもある。はは、愛憎一如ってやつかもです」
「今日はどこも行かれないんですか? じゃあ僕も今日は仕事やめておこうかなあ。あ、僕ね、フリーランスのデザイナーやってるんです。家の方が作業環境いいから基本ずっと引きこもってて。あっ。パソコンカタカタうるさいとかリモート中の声うっとうしいとかあったら全然言ってくださいね!」
「お昼食べました? 僕は定期便頼んでる完全食です。日々の食事とか気にかけるのが苦手で。でも甘い物は大好きなんです。冷凍庫、アイスでいっぱいなんですよ。一気にたくさん買い込んでも腐らないから。クリーム系からさっぱり系までなんでも揃ってるので、いつか一緒に食べれたら嬉しいです」
「ここ、ボロいけどシャワーあるのは嬉しいですよね。引きこもりだから銭湯とか行くの面倒。お湯の出悪いのが玉に瑕ですけど」
「おやすみなさい。今日はたくさん話せて楽しかったです。……あー、はは、あなたにとってはうるさかったかも、ごめんなさい。また、明日」
◇
「うっわ、七時過ぎてるー……もう出ますか? いってらっしゃい」
「おかえりなさい。今日は美容院行ってきたんです。色落ちしてきて、ダークブラウンにしてみました。久々昔っぽい色です。ほんとは戻したかったけどブリーチしてるからすぐには無理で。ずっと派手めだったから慣れないけど……あなたにもし、会える日がきたら、この姿で会いたいな」
「うー……アイス食べたい。さっさと歯磨きしますね……。おやすみなさい」
◇
「おはようございます。今日は休日ですけど納期近いので僕は仕事しないとです。うるさかったら出ますので、遠慮せずに教えてくださいね」
「あれ? うわやば、重いな……光回線光回線光回線引いてほしー……光回線ないと無理だあ~……」
「どう思います? まずは大家さんに確認取らないとですかね。こっちが費用負担するのは致し方ないとして許可取れるかなあ。ルーターだとちょっと遅いんですよね。でもずっとここいたら慣れるかな」
「もう三月も終わりますね。四月……お花見とか、行ったことありますか? 僕は一度もないんですよね。一緒に行きたい人がいて、一緒に行けるまで絶対に行かないって決めてるんです。きっとその人と一緒に見る桜は綺麗です。いや……その人のことずっと見つめちゃうかも。花より団子より、なんて……うわ、何言ってんだろ。はず……」
「おやすみなさい。僕はもうちょっと作業してから寝ますね」
◇
「おはようございます。結局夜更かししちゃいました。ちょー眠いです。おやすみなさい」
◇
ユラの声が聞こえなくなって、布団から起き上がった。向こうにユラがいる。壁に背を預けて体育座りで膝を抱えた。何年ぶりだろうか、こんな体勢。膝頭に額をくっつけて細く息を吐いた。
「なんなんだ……」
俺は何もユラに返さないのに、ユラは気にした風でもなく感情むき出しで話しかけてくる。あまりにも軽くて毒気の抜けるユラの話に返事をしてしまいそうになる。ユラの言うおはようございますに、おやすみなさいに、おはようと、おやすみと返したらユラはどんな反応をするだろうか。慌てふためく? 動揺で言葉が出なくなる? それとも怖がらせてしまう? 不審に思われるかもしれない。俺は今楽しいのか。
掛け布団を引き寄せて、壁と向かい合って目を閉じた。
畳を踏む音に意識が引っ張られて、寝転がったまま壁に指の腹を沿わせた。人差し指を曲げてノックをする。一拍して何か硬質なものが床に落ちる音がした。
「毎晩……苦しそうな声がと言っていたけど、うるさかった? ごめん。今は大丈夫?」
「え、え、いや、そん、そんなわけないじゃないですか……あなたが苦しそうなのが嫌で、うるさいなんて思ったこと……そりゃうなされない方がいいです。あなたが辛いのが、嫌だ」
「……何歳?」
「じゅ、十九です。もうすぐハタチ」
「それで、フリーランス? すごいな。俺には考えられない世界だ」
「僕は、全然ひよっこですよ。自分の裁量で働ける環境がほしかっただけです」
「へえ。なんで?」
「……会いたい人がいるんです」
「一緒にお花見したい人?」
「お花見、以外も、もっとたくさんのことをその人とやりたいです」
「叶うといいね」
「はい。きっと叶えます」
ユラはまっすぐな人間だと思った。ユラは壁越しでも笑っているのが分かった。
響の柔らかい髪の毛、笑いかけてくる愛おしい表情、抱きしめたときの腕にすっぽりはまる小さい体も、全てを憶えているのに、声だけはどうしても再生されはしなかった。響の言うことにどんな声音を当てはめても吹き替え音声のように、そこには常に違和感が帯びる。
成長していたら、きっと、響の声はユラのように優しいものかもしれない。そうだったらいい。きっとそうだ。
◇
「おはようございます。今日はちょっと遠くまで出ないといけないんですよね。早く帰れるといいなあ」
「おはよう。今日は外出するんだ。頑張って」
「……」
「今更、返事は遅い……?」
「いッ! いえ! うれし、すぎて」
「そう。……な、泣いてる? 大丈夫?」
「ううぅ~……うれしいです~」
「そっかあ」
「僕は先に出ますね。いってきます」
「いってらっしゃい」
「……うれしい~」
「あ、はは……」
「ただいま帰りました! いますか?」
「いるよ。おかえり」
「今日はクライアントのところに行ってきたんです。お土産ドアに掛けておきました。よかったら召し上がってください」
「そうなんだ。わざわざありがとう」
「いえ。好みじゃなかったら全然言ってくださいね」
「おやすみ。明日は早いから朝うるさいかも。起こしちゃったらごめんね」
「分かりました。おやすみなさい」
◇
「おかえりなさい。今日は……えっと、何してるかとか、訊いてもいいですか?」
「ただいま。日雇いのバイト。定職に就いたことがなくてね」
「そうなんですね。いつもお疲れ様です」
「君もお疲れ」
「そうだ。りんごタルト美味しかったよ。ありがとう」
「甘いもの、大丈夫でした?」
「うん。あんまり食べないけど好きだから」
「よかったです。またどっか行く時買いますね」
「気にしないでいいのに。でもありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい」
◇
「おはようございます」
「おはよう」
「今日から四月ですね。とはいっても何も変わんないんですけど」
「俺も。あ……もうすぐ二十歳って言ってたけど、誕生日四月とか?」
「はい。四月です。あなたはいつですか?」
「俺は十月」
「じゃあ十月にはお祝いしないとですねえ」
「君の方が先でしょ。何日?」
「じゅうさん、です……お祝いしてくれるって受け取っちゃいますよいいんですか」
「はは、いいよ。そんな大層なものは用意できないけど」
「そんな滅相もない……! お気持ちだけで僕爆散しますから」
「ばくさん」
「おかえりなさい。お仕事お疲れ様です。僕もあなたと働きたいな」
「肉体労働だよ。得意?」
「う。苦手です……筋トレします」
「ははは。面白いな」
「本気ですよ~」
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
◇
奇妙な生活だ。まるで同じ部屋で暮らしているようで、でも実際はただの隣人で。互いの生活音が丸聞こえで帰宅のタイミングさえ把握されるというのに不思議と不快感はなかった。おはようとかいってらっしゃいとかおかえりとかおやすみなさいなんて学生の頃でもそうそう聞けるような言葉じゃなかった。
まるで純喫茶にいた時のように楽しい。本当に小さい、取るに足らない手助けをしたら、店長は店の看板メニューであるクリームソーダを出してくれた。流されるままにつらつらと雑談した。来たばかりで家も仕事も探せていないのだと話したら、うちで働けばいいと羽のように軽い口調で提案された。聞けば夫婦二人で店を回していて人手が足りないと。働いてみて分かったが十分二人で対応できる客の入りで、店長は俺が罪悪感なく働けるよう小さな嘘を吐いてくれたのだろう。寝床は二階にある二人の住処の余った一室を貸してもらった。
俺は彼らに返せただろうか。感謝してもしきれないといえば聞こえはいいが、言葉は対価にはならない。量れないものをどう返せばいいのか分からなくて戸惑うままにそこを去った。もう会うことはないと分かっているけれど引っ掛かる負い目は疚しいような重苦しいような。
「起きてる?」
おやすみと交わした後に何を言っているのか。返事は期待していないけれど起こしてしまうかもしれないということが頭から抜け落ちていた。意味もないのに口に手を当てた。ユラからの返事はなくて、数日前のユラのように会話調の独り言を呟いた。
「明日は生花店に行くよ。花を買ってくる。まあお供えはできないんだけど」
俺はユラに心配してもらえるような人間じゃない。明日がくること、それが証左だ。
寝苦しくて起きたことはない。だがユラの言うには俺は夜中うなされているらしい。悪夢であればきっと俺はそこで殺されているか殺しているかしてるのだろうし、単に薄い布団越しの畳の硬さに体が悲鳴を上げているのかもしれない。
昨日から目を開けて夜明けを待った。西日の眩さに眠気が舞い戻ってきて目頭を揉んだ。外に出て、歩けば目は醒めるだろう。
体を伸ばして顔を洗ってから持っている服の中でも一番フォーマルなものを選んだ。フォーマルといっても、黒いニットとチノパンという服装はジャケットもネクタイもないのだから私服以上でも以下でもない。
「ん……もう起きてるんですか……?」
「ごめん、起こした?」
「いえ。全然」
「まだ出ないけど。目が覚めて」
「そうですか。んー……ごめんなさい、まだ眠くて」
「何がごめんなの。寝てな」
「出るとき教えてね? あ、ください」
「別に口調なんてなんでもいいよ。それと、起こしはしません」
「意地でも起きますからねー……」
かわいいな。笑いがもれそうになるが限界で眠ってしまったであろうユラを邪魔するまいと笑声をかみ殺した。俺は意地でも起こさないようにしよう。
そろそろ店の開く頃だろうかと抜き足差し足で目と鼻の先の扉まで向かい、自分で評するのもなんだが見事なまでのスローモーションでほとんど音なく外へ出た。歩いて数分の場所に商店街があるのを見掛けたからきっと生花店もあるだろう。
簡素なアーチをくぐってまばらな人通りのなか店を探した。所々シャッターが下ろされていて漠然と寂しい。なかなか見つからないなと歩く速度を上げた。半ば強迫観念のようになっている。花を買わないと、いけない。春に咲く樒の花でいっぱいの花束を抱えて家まで帰れば正座をして手を合わせる。ナイフが握られている。切りかかったかと思えば土下座のように額を床に擦りつけていた。目を瞑れば目の前の服に血が染み込んでいてその服の持ち主は響の父親だと理解する。血に、涙が溺れていった。息を吐く。頭を満たす光景がつと振り払われた。ユラの誕生日。
花を買う前にユラにやる物を選ばなければならないことを思い出した。ユラの好きなものなんて甘いものぐらいしか知らない。ケーキか? けれどケーキ屋のケーキ箱はなんというか簡単な造りであるし見知らぬ人間から贈られるには少々不安というか結構嫌ではないだろうか。きっちり梱包された日持ちのするスイーツが安心だろう。
ゆっくりと順繰りに見て回る。こじんまりとした、照明の頼りない小暗い駄菓子屋が目に入った。懐かしさが想起されそうな店構えだ。ああそういえば、中学の時、金が足りず響のためにクリームソーダを頼めないこともあって、安価な駄菓子屋へ一緒に行ったこともあった。お小遣いがないのは当たり前で、お年玉だって親戚から千円札を数枚もらえれば万々歳なものだった。
響と喫茶店に行くようになって、貯めていたお年玉を使い果たして、両親の財布からこっそり小銭を、時々紙幣を抜き出すようになった。駄菓子屋へ行くのは決まって、タイミングが悪くてちょろまかせなかったときだ。そう貧困ではなかったから悪気なくできたことだが流石に悪ガキで済ませられるラインを通り越している。
思い出とは到底言えないが、見渡す限りのちんまりした駄菓子に目を輝かせる響の表情は心に刻まれている。駄菓子屋でも響はひとつだけ手に取って、わくわくの滲み出た笑みで俺に差し出してきた。最初に駄菓子屋へ行った時響が選んだのは粉末のクリームソーダだったっけか。売り場の隅にひっそりとあった。
水で溶かして飲むものらしく、俺たちは急いで公園に走った。俺が持っていた水筒の中の水を全部流してから粉末と公園の水道水を入れた。しゅわしゅわと炭酸の弾けるような音が筒の中から聞こえてきたが当然水筒を覗いても光が遮られてしまい泡が溢れる様子が見られない。次に行くときは家からガラスのコップでも持ってくれば響はもっと喜ぶだろうかなんて考えた。
でも響は音だけでも楽しそうにしていて、そして恐る恐る匂いを嗅いだ。両手に水筒を持たせ飲んでみてと勧めれば高価な芸術作品を吟味するように見えない中身をためつすがめつして、そうっと水筒の縁に唇をつけた。細い首の喉元が上下して、響の顔はパグになった。そのまま無言でずいっと水筒を突き出されたので一口飲めばきゅっと口がすぼまった。もちろん水筒が魔窟と化していて水が腐っていたわけではなく、ただ、ただただ薄かった。粉末自体が不味いのではない。水を入れすぎるとそりゃこうなる。
初めての駄菓子経験がこれでいいはずがないと落ち込んだものだ。次に駄菓子屋へ行く際俺は計量カップを持って行った。当時は本気だったろうが今思えばどれだけ真剣に取り組んでいたのだと笑い草でしかない。高校に進学してからは金欠になることはなく、自然と駄菓子屋へ向かう足も遠のいた。
駄菓子、駄菓子か。ユラのような年頃……響と同じ年齢の子は駄菓子とどういう関わりをしたのだろう。懐かしいのか真新しいのか、知らないということはないだろうが。駄菓子も、買って行ってみようか。
そう広くはないのに商品の数が多くてなかなか足が進まない。小さいカゴに甘い駄菓子を入れながらクリームソーダの粉末を探す。ふと視線を横にやったら番台で片膝を立て頬杖をつく店主らしきおじいさまと目が合った。軽く会釈したら粋に片目を瞑って返してくれた。かっこいい。響と行った駄菓子屋のおじちゃんはお喋りだったななんてことを思い出した。
いっぱいとまではいかずとも子供からしたら豪勢に見える量が入ったカゴを番台に置いた。
「あの、この商店街って生花店ありますか?」
「ああ。北側をも少し歩けば田畑さんのやってる花屋がある。店頭にねえ花も言えば翌日には届けてくれんだ」
「それは助かりますね」
経験があるのか、おじいさまは神妙に頷いた。それでもレジを打つ手は止まらない。
「買うもんは決まってるのか」
「ええ、まあ、お供えの」
『――今日で、十年が経ちます。白石さん夫婦殺害事件。未だ犯人は捕まっていません』
「……樒を」
珠暖簾の向こうから、はっきりと耳に届いた。
「そうか。そりゃロウソクも線香も買って弔ってやらねえとな。五百十円、きっかりワンコインでいいぞ」
「あ、ありがとうございます」
ポケットから財布を取り出して五百円玉を探した。がちゃがちゃと硬質な接触音が遠のいてアナウンサーの声が頭に流れ込んでくる。現場となったのはT県M市のマンションの一室 四日未明、白石海美さん、白石桐也さんの遺体が発見されました 二人の体には複数の刺し傷があり、司法解剖により死因は出血多量による失血死の可能性が高いとされています 当初は――
「どうした? ああ……虐待児の対応やらの問題も明るみに出た事件だろう」
「……え?」
「そこまでは追ってねえか? 事件当時はうちの一番下の息子が子育て真っ最中なこともあってよおく注目したもんだがな」
「それは……」
「犯人は隣に住んでた高校生らしいな。正義のヒーローか殺人鬼か。お客さんはどう思う」
百円玉が三枚。五十円玉が三枚。いや、千円札を一枚出せばいい。すっかり擦り切れ褪せた、高校時代から使っている財布の小銭入れから指を引いた。
「世事には疎くて」
困り顔に肩をすくめて見せた。世間でどう受け止められているのかなんて、考えたこともなかった。問題が明るみに出た。取り返しのつかない大きな出来事が起きてから。
「けど……俺はただの犯罪者だと思います。人を殺したことに変わりはありませんから」
