キスしたくなるような衝動に駆られたことがある。それが恋というならば、なんて野蛮な感情と、思う。

  ◇

 純喫茶で働いたことがある。今まで働いた中で一番落ち着く場所だったし、自給は安いにしても、人の良い店長と穏やかな奥様と陽気な常連さんのいる空間で働くのは中々乙な体験だった。それに俺がバイトをする前からの常連さんとは別の、俺が勤務を始めてからよく来るようになったお客さんが来店するのも、楽しみしていたものだ。
 彼は二十にも満たないあどけなさも残る美しい容貌だったが実際のところは分からない。どこか儚げな雰囲気に似合わず耳にはピアスが幾つかあって、黒い髪には白っぽい金のメッシュが入っていた。注文を取りに行くとふわりと微笑んで決まってクリームソーダをお願いしますと口にする。彼は決して長居はせず、クリームソーダを飲み終わると支払いを終えてすぐに店を出る。一品しか注文していないことの負い目かクリームソーダだけ飲めれば満足なのか。どちらにせよもっと居てくれと願うようになるにはそう長い月日を要さなかった。コーヒー一杯で数時間店長と雑談する常連だっていたのだから、前者の理由であるならこっちからお願いしたいぐらいだった。
 けれどまあ、そんな生活もそろそろ潮時かと俺はその喫茶店のバイトを辞めて引っ越した。何年もこんな生活をしている。人や土地との別れには慣れていたつもりだったがそこから離れる時ばかりは胸が塞がった。彼の名前だけでも知りたかった。

 実際のところ、接客のバイトをすることは少ない。純喫茶でのバイトはもうすぐ十年経つ放浪生活の中でもまれな仕事だった。大抵は炊き出し場に向かい手配師から仕事をもらう。ホームレスとそう変わらない暮らしだ。手配師からもらう仕事は身分証なんかいらないし、アパートを借りることが難しい場合は寮付きの現場を選ぶこともできる。
 二十代である俺は働き場には困らない。ただこんな生活もいつまで続けられるか。先は考えないことにしている。
 今回の土地では審査の緩そうな不動産屋がなく、あまり進んで選びたくはないが寮へ行くことにした。建築現場で黙々と作業をこなし、あの温かい喫茶店と彼とを思い出す。
 特に切り詰めなければならないほど金に困っているわけではない。朝ご飯は面倒だから寮で食べるが、昼と夜はコンビニで食べたいものを買う。仕事をし、近隣のコンビニに通い、寝に帰る。なんのために生きているのか。だから、先は考えない。
 この土地で生活を始めて数日が経った。新しく入ったであろうコンビニの店員がなんだか彼に似ているような気がする。ピアスはないし、後ろで一つに結ばれた柔らかな灰っぽい髪にリップのついた唇や薄らと引かれたアイラインという中性的な容姿は彼とは淡く離れている。いらっしゃいませと動く唇に目が行った。彼は笑んだ。
 契約期間が終わってすぐに、そこを去った。彼は一体誰だろうか。もしかしてという焦燥が行く当てもない俺を急き立てた。新しい土地では昔作った身分証でアパートを借りた。バイトは探さず、暫くは貯金を切り崩して身を潜めていようと決めた。
 スマホはないしテレビもゲームもない。特に趣味もないから、寝て過ごす。食事は一日一食だけで済ませるようになった。寝て寝て寝て起きる時に頭をじんわりと襲う痛みが日に日に酷くなった。頭痛薬を買って、眠った。

 入居して一度も音を聞いたことがないインターホンがワンルームの部屋に響いた。薄いドアの向こう、人の気配が間近に感じられる。
「初めまして。隣の一〇三号室に越してきました、ユラと言います。……ご不在、ですか?」
 掛け布団をそっと頭まで引き上げて息を殺した。まろやかな甘味のある声音は彼を彷彿とさせたが、鼓動の鳴り渡る頭はやがてじくじくとした疼痛に変わって正常な判断をしようにもできなかった。じり、と後退る足音があって、ついに諦めたようにユラとかいう男は隣の扉を開けた。
 ああ、頭痛薬はもうないんじゃなかっただろうか。流石は築年数不明のボロアパート。当たり前のように隣の物音が筒抜けだ。であれば当然こちらの物音も丸聞こえだろう。今外へ出るわけにはいかない。
 彼を思い出した。彼の頼むクリームソーダ。グリーンほどは見ない赤っぽいピンクのいちごソーダの上に浮かべた丸い濃厚なアイスクリーム。いい塩梅でシロップと炭酸を混ぜアイスクリームをすくう作業はいつの間にやら俺の役目になった。上にのせるさくらんぼは意地でもなくさないのだと、店長は言っていた。彼はさくらんぼを最後まで残して、大事そうに口に含む。あの子もそうだった。特別てっぺんのさくらんぼを嬉しそうに眺めていた。俺は不器用に上がる唇を。
 じく、と血管を苛む痛みで靄がかる脳みそは愚鈍にも彼とあの子の姿を混同し始めた。交じって、混じって、どろりとマドラーで一搔きされたら、知りもしない少年のような純粋さも備えた美しい青年が脳裡に浮かんだ。髪色以外はどことなく彼に似た青年が。真顔で迫ってきた。がっと両手で肩を押さえ込まれた。ナイフが振り下ろされる。痛むくせに冷静な頭は、腕が三本もあるわけがないと、これが幻であることを告げてきた。
 だからといって、下りてくるナイフは怖い。ぎゅっと目を瞑って、開けたら、ヤニと雨漏りのシミに塗れた天井。せんべい布団にうずくまった。春はもうじきやってくる。樒の花はつぼみを開く。

  ◆

 中学生の頃、マンションの隣の部屋に三人家族が引っ越してきた。夫婦の子供である(キョウ)は引っ越してきた当時小学生で、女の子にも見紛うほど愛らしく線が細かった。濃茶の髪は陽に透けるとアンバーのように輝いて、光の粒が響の輪郭を幽けく包んだ。服の下の石膏みたいな白い肌は痣やら切り傷やら擦り傷やら根性焼きやらで溢れていた。俺が知っている限り響は三回骨折していた。
 俺は響と呼んで、響は俺を樒央(みつひろ)くんと呼んだ。俺の名前を紡ぐ、乾燥で切れた響の唇にワセリンリップを塗った。服に隠れた傷は血を水で流して、消毒液をかけて、俺と居られる時間だけはガーゼを当てた。響はだんだんと笑ってくれるようになった。
 隣から微かに耳に入ってくる怒声と嬌声と金切り声は聞くに耐えない。何度が小綺麗な格好をした職員や制服を着た大人がやって来た。帰った。声は更に大きくなり物の壊れる音と何かを殴りつけ叩きつける音が烈しさを増した。この世界がおかしいこと、ほんとは響が俺を初めて見上げた時から知っている。
 響の下校時間に合わせて午後の授業を毎日サボった。隠れ家のような喫茶店に連れて行って、つかの間の休息を響にあげたかったから。アイスクリームを細長いスプーンですくってストローでソーダを吸い上げる。もったいないのかなかなかさくらんぼを食べようとしないから、軸を持って口に運んでやれば毎度それをせがまれるようになった。
 そんな状態が三年ぐらい続いただろうか。俺は高校三年になって、響は四年生に進級した。俺の青春は響に費やされるのだろう。それでよかった。本望だ。そう思っていた。
 いつものようにさくらんぼを響の口へ持っていく。小さく開いた口。軸を短く持っていたせいか、響が口を閉じた拍子に唇が俺の指先をかすめた。樒央くんと呼ばれて、情動がぐるりと理性を搔き乱した。キスを、してしまいたかった。
 決心は固まった。随分と固まるのが遅いコンクリートだったと思う。道徳とか法律とか罪の意識とか世間体だとかの甘さが混じっていたからだろう。
 俺に鍵をちょうだい、と響に頼んだ。大丈夫。もう響を怒る人はいなくなる。殴る人も叩く人も。この世界が正されることはないけれど、きっと響の世界は少しだけよくなる。最低限の荷物をまとめて家の台所から包丁を取った。ポケットにはカッターを忍ばせた。
 春も盛りの頃だ。俺の、春も、夏も、秋も、冬も永遠に閉じた。

  ◇

 夜半過ぎに家を出た。把手に粗品の紙袋が掛かっていたからそのまま外に持って行って、近くの公園のベンチに向かった。街路灯の下で隈なく確認する。何の変哲もないタオルでほっとしたが隣人の存在は気がかりだった。
 声は若そうだった。今どきの若者があんなボロを選ぶだろうか。よほどの困窮者でもあそこに住まおうなどとは思わないだろうに。引っ越してしまうべきか。けれどそろそろ金を貯めなければならない。生きるために金がかかること、知っていたけれども生きなければという原動力がなければ死んだ方がマシだという思念が浮かぶほどに疲れる。
 頭痛薬と当分の食料とを買い込んで部屋に戻った。数日は引きこもって隣のユラの動向を探る。ユラの生活のパターンから少しずれるように生活すれば鉢合わせずに済むはずだ。
 日がな眠ることがなくなって、頭痛は次第に解消された。隣の部屋からは七時にアラームが聞こえてくる。それに合わせて俺も起床して物音に耳を澄ませる。こんな変態みたいな真似、もちろん俺だってしたくない。いや少年に情火を燃やした人間が何をいまさら後ろめたく思うことがある。
 ユラは平日は八時に部屋を出、多少の前後はあれど大体十八時には帰ってくる。大学生ではない。会社勤めと考えるのが妥当だろう。休日でもユラは七時にアラームを鳴らすが部屋を出る気配はない。単調な生活だ。明日から九時に家を出て仕事を探しに行こう。

  ◆

 美しい記憶が存在しているとして、大抵は汚いところの排除された、補正の入ったものなのだと思う。俺だって、補正できるものならしたかった。けれど響との日々は確かに美しかった。響に傷がなければもっともっと美しいものとして保存されていた。そんな補正は行われなかった。
 クリームソーダ以外は頼まないのかと訊いたことがある。高校からはバイトを始めたからクリームソーダ以外にも、ケーキとか、なんならランチも頼んだってよかった。同年代の子供より小さく見えるのは何もかもが足りないからだ。冬でもクリームソーダを頼むものだから寒い日には温かいほうじ茶も注文して飲ませた。
 はじめてだと言った。甘いものを誰かをゆっくりと食べること。響にはきらきらして見えたみたいだ。密かに弾けるいちごのソーダにまろい滑らかなアイス、その境界線が溶けるとき。グラスを伝う水滴までも。透明な氷。
 響は他の子がとっくに当たり前に経験していることを知らなくて、俺から見たらとても些細な出来事は響には天地が覆るほどの非日常に映る。俺には響の存在そのものが非日常だった。
 死ぬのが案外簡単なように、殺すのも思いのほか簡単なものだ。急所なんて狙わなくたっていい。何回か刺したら抵抗しなくなってもう何回か刺せば生死確認をせずとも問題ない。早くやってすぐに部屋を出る。浴びた血を流した。排水溝に流れる温水に曖昧に血が揺蕩う。飲み終わりのクリームソーダ。もう見れないのだなと目が熱くなって目の前がぼやけた。
 頭を撫でた。頬をさすって、抱きしめた。響はこんなにもあたたかくて生きているのにいつだって忽然と死んでしまいそうだった。生きてほしかったんだ。響は生きるために生まれてきた。