帝都あやかし骨董預かり処 烏夜堂より ―大正帝都あやかし綴り─




 電灯が明るく夜を照らし、カフェーや洋食店、洋装などの西洋文化が大衆に浸透をはじめる。新しい文化が次々と取り入れられる華やかな大正の時代。

 四月一日朝陽(わたぬき あさひ)は青空をそのまま映しこんだような瞳で、帝都の空に〝 あるもの〟を見つけた。
 見上げた初夏の気配を感じる朝の青空に、大きな黒龍が気持ち良さそうに泳いでいるのだ。
 帝都には新しい流行りの風が次々と吹くが、まさか龍までやってくるとは。
 墨で描かれたような躍動感溢れる龍が、ぬらりと空を泳いでいる。

(墨の龍なんて、はじめて見たかも)

 龍が黒く長い体をくねらせたかと思えば、背伸びでもするかのように真っ直ぐに体を伸ばす。短い手を水をかくように動かすと、まるで魚が水中を進むかのごとく速度を上げた。
 そのたびに、龍の体からは空にじわりと墨汁が滲むように広がり消える。
 朝陽はそんな自由な龍を視界にとらえながら、墨の龍に雨雲が誘われ、真下の四月一日邸にだけが土砂降りなる光景を頭に浮かべた。

「今日はこれから夏障子に入れ替える大仕事があるのに……」

 龍はそんなことはお構いなしとばかりに、墨色の体で四月一日邸の上空でくるりと回った。
 その龍が大きな目がぎょろりとこちらを捉えようとした瞬間、朝陽は器用にぱっと目をそらした。
 〝人ならざる者に視えると知られると、途端に興味を持たれるぞ〟
 これは朝陽の、祖父の言葉だ。
 朝陽が幼い頃から他人には見えない、〝妙なもの〟にちょっかいを出されたと泣くたびに、祖父が大きな手で朝陽の頭を撫でてそう言い聞かせてきた。
 その都度の感情で色をわずかに変える朝陽の瞳は、とても人とは思えない。不気味な子供だと両親から疎まれた朝陽を引き取り、唯一受け入れてくれた人だ。

 『烏夜堂(うやどう)』という骨董屋を住まう屋敷の一角で営みながら放浪癖があり、仕入れと言っては幼い朝陽を女中に預け行方知れずになってしまう、変わり者の祖父だった。

 いわく付き、呪物、それこそ得体の知れない骨董品で溢れた店内はざわざわと常に賑やかだった。ただしそう感じるのは、祖父と朝陽のみである。

 そんな祖父も一年前に亡くなった。朝陽は十八歳になっていた。

 透き通るような白い肌、整った面立ち、艷めく黒髪。どこか憂いのある雰囲気には、誰もが目を留めてしまう魅力があった。

 性格も控えめで大人しい。祖父の代わりに店に出る日もあり、そういったときにはやたらと店の前を若い男たちが行き来を繰り返す。その光景は、この辺りでは珍しくないものとなっていた。
 朝陽を嫁に欲しいという縁談の気配はあったが、ある出来事がきっかけになり『あの烏夜堂の孫娘』というだけで、そういった話はすべて立ち消えた。
 祖父の死後、疎遠になっていた朝陽の父親が無断で高値の付きそうな品々を次々と運び出してしまったのだ。

 必死にそれを止める朝陽を殴り、驚いた近所の人間が集まってきてもお構いなし。誰かが呼びに行った警官が現れて一悶着したあと、財産分与と言い張り品々を抱え去っていってしまった。
 荒らされた『烏夜堂』はその日から、不気味なほどに静まり返った。
 咳をひとつしても、それが深く光の届かない真っ暗な井戸の底に、どこまでも落ちていくような感覚。
 いっそう不気味な空気に朝陽はただ腫れの引かない頬に手をあて、これから起きるであろうことに身を竦ませるしかなかった。

 それから一週間後、父親は酷い死に方をした。人伝に聞いた話だと、大きな獣に〝齧り取られた〟ような姿になって、川に浮いているのを発見されたらしい。
 祟りを恐れた母親は運び出した品々をすべて『烏夜堂』へ戻しにきた。
 もう二度と店の品には手を出さない、だから残された自分や子供たちには手を出さないで欲しいと懇願してきたのだ。

 朝陽はただ、静かに首を横に振るばかり。これはもう、手の出しようがなかった。

 朝陽の憂いを浮かべた表情に母親は真っ青な顔をして悲鳴を上げると、『烏夜堂』を覗き込む人々をかき分けて四つん這いになりながら逃げ出した。
 そんな騒ぎ、そして父親の死を知った人々は、『あの骨董屋の品々は呪われている』と口々に噂をはじめた。元々、怪しげな物ばかりを扱う店でもあったものだから、今回の父親の死で真実味が増してしまったのだ。
 年頃の娘だ。この状況に対して、悲観に暮れているかと思えば──。

「騒ぎのおかげで、これで一生独身確定だわ!  そもそも私みたいな根が暗い女が誰かと結婚しても、うまくいくはずがないのよ。結婚願望だってちっともないんだから、どのみち上手くいくはずがないの」

「もう、朝陽さんたら。こんなにわたしとお喋りするのに、なにが根暗ですか」

「自慢じゃないけど、私はこの家から出たら人見知りが炸裂してしまう女よ。外では誰とも長く目なんて合わせられないし、頭は常に早く家に帰りたいって考えてるの。一緒に暮らしている、清江さん相手だからこうやってお喋りできるのよ」

 『烏夜堂』を今度は自分が切り盛りしていくと決めた朝陽は一生独身でいると早々に決めてしまった。
 手順を守らず『烏夜堂』から品を持ち出せば、非業の死が待っている。
 だから、自分が死ぬまで、『烏夜堂』に居続け管理をしていくしかない。そうするしかないと父親の死をもって知った。
 祖父の死は悲しかったけれど、父親の死は悲しめなかった。そんな自分は薄情なのかもしれない、家族のあり方をあまり知らない朝陽は、それを築けるはずがないと諦めてしまった。
 そうして、ぐるりと塀で囲われた小さな屋敷、四月一日邸を一生の住処としたのだ。

 今日はこの四月一日邸で長く住み込みの女中をしてくれている清江と朝陽の二人で、汗ばむ夏になる前に屋敷の襖や障子を、夏障子にすべて代える作業をはじめるところだ。
 葦簾を張った戸は夏障子と呼ばれ、風を呼び込み見た目も涼し気になる。四月一日邸の屋敷のすべての障子を外し、蔵から夏障子を運び込み、障子は手入れをして蔵にしまう。
 着物に襷をかけ、髪に埃をかぶらないように手ぬぐいで頭を覆う。女二人、しかも清江は七十歳近い。季節のこととはいえ、大変な作業だ。

「そういえばさっき、うちの真上に龍が飛んでいたの」

「あらまぁ。龍は水の神様ですから、雨が降らなければいいんですが」

 清江がこの四月一日邸に住み込み女中としてやってきたのは、朝陽が十歳のときだ。それまで何人もの女中が、屋敷に繋がる『烏夜堂』の不気味な雰囲気に気圧されやめてしまった。
 そこに何人目かの女中として、やってきたのが清江だった。夫を亡くし、家庭を持つ息子たちに頼らず生きていきたいと、四月一日邸に住み込み女中として雇われたのだ。
 やってきた翌日。誰もいない台所で、清江は誰かに肩をポンと叩かれた。その話を祖父と朝陽の前で話をするが、表情はあっけらかんとしたものだった。
 いままで働いてくれていた女中たちなら、驚き裸足で逃げ出してしまったかもしれない。
 そうしなかった清江を不思議に思った祖父が理由を聞けば、彼女は東北の出身で、大なり小なり、〝人ならざるもの〟が生活の中に存在するのは当たり前のことだと語った。
 清江自身はそれを見ることはできないが、故郷には視える人もいたと、そういった存在を大事にする風習もあるという。
 小柄だが力強く、料理上手で、なにより視えてしまう朝陽に理解がある。朝陽は自分を気味悪がらない清江に、すっかり心を開いた。
 それから八年。祖父が亡くなり、この屋敷と『烏夜堂』を継いだ朝陽は、清江と共に末永くここで暮らしていくと決めた。

 そのために、とある〝大事なもの〟を探す必要がある。

 時刻は午前九時を回った。朝陽と清江は声を掛け合い、さっそく今日の大仕事に取り掛かった。
 屋敷の壁沿いに藁で作られた敷物を広げて並べ、屋敷中の襖や障子を外しそこへ立てかけていく。それから蔵から去年手入れを済ませてある夏障子を運び出し、襖や障子を外したところにはめていくのだ。
 それから外した襖や障子の手入れをして、蔵に運び込み秋までしまっておく。大変な作業だが、部屋に風を通す夏障子にするだけで過ごしやすさが段違いになるのだ。
 昼食を挟み、二人が大仕事を終えた頃には、日は傾きかけていた。まだ十分に明るいが、陽射しはかすかに夕暮れ色を含もうとしている。
 二人は汗をかきへとへとになった。しかし屋敷の中に夏障子が入った光景は、気持ちを爽やかにした。
 手入れされた庭の木々には緑が光る。風が吹けば枝を揺らし、気持ちよく頬を撫でていく。
 縁側に二人してひと息をついていたが、静江は髪を覆った手ぬぐいを外しながら立ち上がろうとした。

「では、これから夕飯の支度をはじめますね」

「今日くらいは、外食にしましょう?  お風呂屋で汗を流して、帰りにお蕎麦でも食べましょうよ」

 あらあら、なんて静江は言うが、表情は嬉しそうだ。

「その前に、私は少し蔵で探し物をするわ。静江さんは、ここでもう少し休んでいて」

 朝陽は立ち上がると台所へ向かい、昼にきた氷売りから買った氷を砕きコップに入れ、水を注いだものを清江に手渡した。

「冷たいものでも飲んで、ゆっくりしていて」

「ありがとうございます。はー……、冷たい」

 清江は冷たさを楽しむように、コップを大事に持ち氷水を少しずつ飲んでいる。
 朝陽は敷地内にある蔵に向かう途中、日中も四月一日邸の真上から離れずにいた墨の龍の色が、だいぶ薄くなっていることに気付いた。

(あの龍、このままでは消えてしまう……?)

 じわじわと、空に墨が滲んでは消えていくのを、朝陽は不安な気持ちで見守る。どうにかしたほうがいいのか、それとも放っておいても大丈夫なのか。
 悩んだが、解決法を知らなければどうにもならない。それに関わってはならない類のものであれば大変なので、墨の龍に気付かれないようにその姿から目をそらした。
 観音扉の戸をまだ開けたままの蔵の側までくると、白壁の立派な蔵はまるで真っ黒な口を開けたように佇んでいた。
 蔵の中に静江と行き来していたときには日が差し込んでいたのに、朝陽一人で訪れた途端にこれだ。蔵の中からはクスクスと笑う声が聞こえてくる。
 朝陽は気合いを入れ、蔵の口の中に一歩踏み込んだ。明かりをつけて、中を見回す。

「朝陽ちゃん!  戻ってきてくれたんだ!」

 すると足元にどんっと、三人の着物を着た子供が勢いよく抱きついてきた。朝陽はかろうじて踏ん張り、転倒しなかったことにほっと息を吐く。
 抱きつく三人とも肩で切りそろえた真っ白な髪に、まるで宝石のような青い瞳で朝陽を見つめる。
 その頭についた白い虎の耳が、ぴるぴると朝陽が戻ってきたと喜びで震えている。

「ちょっと探し物にきただけよ。またすぐに戻らなきゃ」

「ええー、つまんない!  また喜一の物を探してるの?」

「そう。おじいちゃんの〝あれ〟がないと、お店を続けることが難しくなっちゃうのよ。あなたたちだって、〝 あれ〟がないと新しいお家に行けないんだから」

 三人の虎耳の子供は、一斉に「ずっと朝陽といる〜!」と騒ぎ出した。その大合唱は耳を塞がなくなるほどうるさいが、聞こえているのは朝陽一人だ。
 三人の虎耳の子供たち。見た目は可愛らしいが、これは仮の姿だ。
 元は江戸時代に、珊瑚、銀、檜作られた白虎の根付けだったが、そのうち根付を抜け出し人を襲うようになった。
 一度は封印されたものの、人から人の手に渡り、ついに『烏夜堂』へやってきた。いまでは子供の姿で飛び出してくるほど封印の力は弱まっているが、朝陽を気に入りここで悪さをする気配はない。
 虎たちが騒ぐと、蔵に収められた他の骨董品も一緒に騒ぎ出す。朝陽は阿鼻叫喚や笑い声、呪詛の囁きを聞き流しながら探し物をはじめた。
 店には出せない、いわく付きの品々の山を崩していると、ふと寒気が走った。

(……なんだろう?)

 手を止め、無意識に自分の腕をさする。
 すると虎の子供の一人が、聞いたこともない低い声で「朝陽ちゃん」と言った。
 ──その瞬間。さっきまで無数の蝉がけたたましく鳴いているような、鼓膜がおかしくなるくらい騒がしかった骨董品たちの声が……一斉に消えた。
 ぞくりとするほど、一気に蔵の中の気温が下がる。どっと、背中に汗が噴き出して、朝陽は体を緊張させながら静かに息を吐いた。
 ……開け放ったままの蔵の入口に、誰かがいる。
 とてつもない気配、空気がずんと重く、息をするので精一杯だ。
 本来なら、この音ひとつしない状態が普通のことなのに、いまは騒がしくあって欲しいとさえ思ってしまう。

(どうして敷地内に人が……っ)

 とてもではないが、すぐには振り向けない。

「……こんにちは。こちらは、『烏夜堂』……預かり処でよろしかったでしょうか」

 〝預かり処〟と言った低い、男の声。朝陽は、静かにゆっくりとごくりと息をのんだ。
 『烏夜堂』を〝 預かり処〟だと知る人間は、そうは居ない。
 『烏夜堂』は表向きこそどこにでもある骨董屋だが、店や蔵にあるほとんどの品々は、実際は〝預かっている物〟だ。
 祟り、いわく付き、呪物。手元には置きたくないが、訳があり簡単には手放せない物。預かり金をもらい、それらを持て余す人から一旦引き取り、保管しているのが『烏夜堂』だ。
 持ち主、物、欲しがる人の仲介をし、元の持ち主から物を手放すのを手伝う場合もある。危険な目にも何度もあったようだが、祖父はそれを乗り越えてきた。
 朝陽の祖父、喜一は人並み外れた好奇心と交渉力、そして霊力を使い、〝預かり処〟として『烏夜堂』を営んできた。
 それはいつしか人間相手にとどまららくなっていたことを、朝陽は知っている。

 そういった存在が、祖父を頼りにやってくることも──。

 朝陽は覚悟を決め、重くのしかかるような空気の中、ゆっくりと振り返った。
 蔵の入口に、一人の背の高い男が、風呂敷に包まれた小さな荷物を大切そうに両手で持って立っていた。
 長身で年の頃は二十代前半から後半、傍で見なくてもわかる上等な御召縮緬の着物を上品に着こなしている。

「……ええ、はい。いまは私が、『烏夜堂』を祖父から引き継いでおりますが」

「存じております。とある方から、ある物を朝陽さまに預かって欲しいと、その使いできたのですが……」

 男がそう話しながら蔵の中に一歩入り込んだのを見て、朝陽の頭の中には警報が大きく鳴り響いた。
 蔵の入口を含めた四月一日邸全体には、誰これやすやすと出入りができないよう、朝陽が祖父から習った強力な結界が張り巡らせている。
 朝陽や清江が、他人と接触するのは四月一日邸の玄関か『烏夜堂』の店内だけ。その二箇所以外からは、普段は結界のせいで外部からの立ち入りが難しくなっている。
 特に蔵には、二重に結界を張り、他人の立ち入りを防いでいた。
 なのに、この男は、四月一日邸の敷地内に突然現れ、簡単に侵入してきたのだ。
 わずか二、三メートルの距離で見上げた男の顔に、朝陽は驚いてしまった。
 まるで俳優、少女雑誌に載っているような、まことに整った顔立ちだったからだ。
 凛々しい眉に、くっきりとした深い二重まぶた。美しい鼻梁に、薄く笑みを作る形のよい唇。真ん中で分けられた髪は、さらさらとした絹糸のように見える。
 思わずしっかりと男と見つめ合った朝陽だったが、きちんとした身なりの男とは正反対に、自分は手ぬぐいで頭を覆ったままの埃と汗にまみれた姿なのに気がついた。
 慌てて手ぬぐいを外し、再び男と向き合う。

「……どんなご用件でしょうか?」

 本来ならば、客人ならば『烏夜堂』に案内し、お茶を出しながら話を聞くところだ。しかしこの男は、結界をものともせずに敷地内に入ってきてしまった。
 清江を危険な目に合わせる可能性を捨てきれず、朝陽は埃っぽい蔵の中で男から話を聞くことにした。万が一にもなにかされそうになれば、男を睨みつけている虎の子供たちが朝陽に加勢してくれるのを期待して。
 普段なら誰かと目を合わせるのは苦手な朝陽だが、仕事ならば話は違う。男の一挙一動を見逃さないとばかりに、じっと視線を合わせ外すことはない。
 男はそんな朝陽の様子に、改めて頭を下げた。

「申し遅れました。俺の名前は御影(みかげ)といいます。とある品を朝陽さまにお預けしてくるよう……幽世から喜一さまにたまわったのですが……」

幽世? 喜一というのは、祖父の名前だ。朝陽は混乱するが、なにより目の前で悲壮な顔をする御影の様子に戸惑った。

「え、ど、どうしたんですかっ」

「それを、俺は……っ、ああ、どうしましょう」

 御影は整った顔をくしゃくしゃにして、いまにも泣き出しそうな困った表情を浮かべた。それから風呂敷に包まれた小さな荷物を、すっと朝陽の目の前に差し出した。
 それを朝陽は慎重に受け取り、開けてみていいかと確認を取る。御影は小さく頷きながら、側にしまってあった文机の上に荷物を丁寧に置き、風呂敷包みをとく朝陽の手元を見守った。
 風呂敷を広げると、ちょうど皿が一枚入るような平べったい桐の箱がお目見えした。桐の箱の蓋には銘もなにもない。

「これは、皿でしょうか……」

 箱をそっと持ち上げた瞬間、カシャ……と嫌な音を朝陽の耳が拾う。もちろん、御影の耳にも届いたようだ。

「これは、もしかして割れている……?」

「……蓋を開かなければ、皿は割れていない可能性もあるんじゃないでしょうか。ああ、でも龍は皿から飛び出してしまっている……いや、あれは俺の見間違いかも……」

「龍って、うちの真上にいる?」

 龍と聞いて、朝陽は人差し指を蔵の天井、その上の空を泳ぐ龍を差してみせた。御影は朝陽のその行動に、頭を抱えてとうとうしゃがみ込んでしまった。

「さすが、朝陽さまには視えていらっしゃるのですね……。えっと、視なかったことにはできませんか?」

「朝からはっきりと視てしまいましたから、それは難しいかと」 

 桐の箱の蓋をそっと開けると、白磁の……真っ二つに割れた皿が現れた。御影は、重い口を開く。


「……龍はこの皿に描かれ封印されていました。それを俺が少しつまづいたばかりに……、皿は割れ封印が破れた隙に龍は逃げ出し、なぜか俺より先に『烏夜堂』にやってきていました」

「なんで、わざわざ龍がうちへ……」

「龍は喜一さまを気に入っていましたが、龍が騒がしいので、幽世から現世に一度送ってしまおうと喜一さまが仰いまして。龍は怒り『烏夜堂』を巻き込みこの一帯に大雨を降らせ、水没させる気なのかも」

「えっ!  そんなの、八つ当たりじゃないですか!」

「ええ、そうなりますね。あの龍は昔、村を三つもいたずらに水没させ封印をされたものです。龍の体が完全に空に消えれば、たちまちに大嵐が訪れるかと」

 嵐に襲われれば、四月一日邸は水没しまう。そうなれば〝預かり物〟は、一体どうなってしまうか。
 それに、今はたったひとりの、大切な身内同然の静江が危険に晒されてしまう。

「そんな……!」

 想像をして、朝陽は身震いをした。

「そうすれば、ここは水没を免れません。万が一の場合には、朝陽さまにお任せするようにと喜一さまから……」

 幽世にいるという祖父を問い詰めたい気持ちでいっぱいだが、今は一刻の猶予はない。朝陽は立ち上がり、勢いよく蔵を飛び出した。
 するとどうだ。さっきまでの青空はどこへやら、黒い雲が空を覆い尽くそうとしていた。
 生暖かい、不安を煽るような風が、朝陽の着物の裾をからかうように巻き上げる。
 ぎょろりとした目から墨の涙を流し、朝とはうってかわり、龍は苦しげにのたうち回っている。
 後から蔵を出てきた御影も空を見上げた。
 身を捨て、涙を流してまで、『烏夜堂』を水に沈めようとしている。朝陽にしてみれば迷惑な話だが、それほど大きな感情に龍は突き動かされているということだ。
 朝陽は龍を見上げたまま、拳を作り強く握った。

「私、お世話になっているお女中さんに、なにかあったら嫌なんです。それに、屋敷や『烏夜堂』が無くなるのも、本当に困ります。なので……あの龍とお話してみます」

 その朝陽の言葉に、御影は目を見開いた。

 蔵の前から全速力で、清江を待たせてある縁側まで朝陽は走った。その後を、御影も追ってくる。
 急激に怪しくなった空を見上げていた清江を見つけ、朝陽は叫んだ。

「清江さん!  家中の夏障子をすべて開けて! 」

 朝陽の真剣な様子、それから御影の姿を見た清江はなにかを咄嗟に察し、履物を脱いですぐに室内へ入っていった。
 それを見届けた朝陽は、縁側で再び黒い空を見上げた。

「皿は御影さまが割ってしまわれて使えませんので、違う物に龍を移せるか試みてみます」

「誠に申し訳ありません。俺も、手伝えることがあれば、なんなりとお申し付けください!」

 協力してくれるという御影に、朝陽は龍を屋敷内に呼び込み、建具のどこかに一度仮封印したいという計画を伝えた。

「見るからに、あの体は墨です。だから紙や布に一旦留めておき、お話を聞きます」

「あっ!  きました!」

 墨の龍は四月一日邸からの強い朝陽の視線に、なにかを察したのだろう。墨を撒き散らしながら、朝陽めがけて突っ込んできた。
 朝陽はすんでのところで履物を脱ぎ、屋敷の中に飛び込んだ。龍は御影に目もくれず、朝陽を追って屋敷に侵入した。
 大きな体を無理やりに縮め、小さくなった龍は朝陽を追っていく。朝陽は屋敷の中を走りながら、龍を留めておけるような物を探した。
 天袋の戸では小さ過ぎる。衣替えのために出した着物が入った長持も、清江が綺麗に片付けてくれていたようだ。

「夏障子に替えるの、明日にすれば良かった……!」

 目ぼしい物が見つからないまま、朝陽は龍から逃げ回る。途中で転びそうになったところをすかさず御影が助けてくれた。

「朝陽さま、龍を留めておける場所は……っ」

 朝陽の脳裏に浮かんだのは、自分の部屋だった。出来れば人には見せたくないが、そんなことを言っている場合ではない。
 廊下から走り、自室を目指す。
 その部屋だけは、まだ夏障子が閉まったままだった。

「御影さま!  その部屋の夏障子を開けて!」

 朝陽は足を止め、御影を急かす。御影が言われた通りに夏障子を勢いよく開けた。

「龍さま! 話は私がしっかりと聞きます!  龍さまの気がおさまるまで聞きますから、どうかお静まりください!」

 龍は朝陽を追う勢いを殺しきれず、夏障子の向こう、物に溢れた乱雑な部屋の、吊るしっぱなしの蚊屋にぱちゃりと音を立てて突っ込んだ。
 蚊屋の麻生地に、龍の墨の体が染み込んでいく。
 朝陽が蚊屋にそっと触れると、ふわりと光った。それから崩れそうだった龍の体は、朝に見たはっきりとした黒色と形に戻った。
 龍は暴れるのをやめ、蚊屋を布地の中を泳ぎ、そうして朝陽と向き合った。

「……ありがとうございます!」

 龍は仕方がないとばかりに、くるりと回ってみせた。
 慌てて様子を見にきた清江は、その蚊屋のあった部屋、朝陽の自室を見て声を上げた。

「朝陽さん!  お部屋は綺麗にと毎日あれほど言っていますのに! 自室の障子替えだけは自分でやると言ってきかなかったのは、見られたくなかったからなんですね!」

「や、違うのよ、たまたま?  散らかっている方が落ち着くのよ」

 朝陽と清江のやりとりを静かに見ていた御影が、ふっと笑う。

「ふふ、お二人のやり取り、喜一さまから聞いていた通りです。気がよく楽しい二人だから、安心して御影も『烏夜堂』に預かられてこいと……」

 御影の言葉に、朝陽はきょとんとしてしまった。

「預かられる?  私が預かるのは、龍だけでなくて……?」

「俺もです。しばらくよろしくと、伝言とこの台帳を預かっております」

 にっこりと、美しい顔に笑みを浮かべた御影の手には、朝陽が探し回っていた〝それ〟……。預かり物の元の持ち主やいわくを記した、大切な台帳があった。

「探し回ってた、台帳! それに御影さまをうちでって、一体どういうこと……!?」

 祖父が幽世から寄越したこの御影は、一体何者なのか。

 これから、ひと波乱の予感がする。朝陽のそういった予感は、外れたことがないのだ。