週が明けると、夏が本格的に顔を出した。
いくらクーラーの効いている教室の中だからとはいえ、窓際の席は暑い。暗いのが嫌だからと、クラスメイトがさっきカーテンを開けていったおかげで光とともに直射日光が入ってくる。
いつも余裕ももって家を出ているので、人はまばらだ。本鈴の十分前あたりから急激に活気が増す。
教室のドアを見ていたら末藤が登校してきて、目が合った。しかし、すぐにそらされる。
次にやってきた秋保は軽く手を上げてきたので、俺もそれに応えて手を上げた。
そうして教室に入ってくるクラスメイトたちを眺めていたのだが、清瀬が来る気配は一向になかった。
やがて本鈴が鳴り、担任の先生が入ってくる。日直の「起立、礼」のかけ声とともにあいさつをした。
「ええ、出席確認の前に清瀬についてなんだが。清瀬は当初、来週に発つ予定だったんだが、ご家庭の都合によって今日、日本を離れることになった」
心の奥がうねりを上げるように、教室の中もざわめきだす。
「だから、もう学校には来ない」
「どういうことだよ!」
末藤が勢いよく立ち上がった。その反動で、椅子が後ろの机にぶつかる。
その席には誰も座っていない。
「先生も一昨日、聞いたんだ。さっき親御さんといっしょにあいさつに来て、改めて言われた」
「学校まで来たのか? なら、教室まで……」
「みんなにあいさつしていけと言ったんだけどな。清瀬本人がこのまま行きたいんだとさ」
先生の言葉はしっかり届いていたはずなのに、言葉の成す意味が理解できなかった。頭の中ではばらばらに単語が浮かび、並び替えられずにいる。
息がのどの奥でひっかかった。
心臓が早鐘を打つように脈を速める。
黒板が、先生が、クラスメイトが、教室が、揺れている。自分の身体も揺れているような錯覚に陥った。
これで終わり? あまりにあっけなくて、現実かもわからない。
かろうじて耳がかすかな音を拾った。机の中からスマホを取り出す。
マナーモードになっていたので、かすかな音はバイブレーションの振動だったらしい。たった今、入ったメッセージには一言だけ。
【ばいばい】
絵文字もスタンプもなにもない、清瀬からのメッセージだった。
窓の外を見ると、ちょうど校門のところに人が立っていた。すらりとした長身の男。太陽の日差しで赤茶色の髪が赤くきらめいている。
向こうからもこっちが見えるのか、俺が顔の向きを変えた瞬間に手を上げて、振った。
「ふざけんなよ」
俺は立ち上がり、教室を飛び出した。ドアが開ききらなくて肩を強く打ちつけてしまったけど、一切の痛みを感じなかった。
頭が熱い。息が簡単に上がる。
それでも空気を裂くように走る。左足を気にしている余裕もない。崩れるように階段を駆け下りた。
上履きのまま校舎を出る。そのときになってようやく、背中にも熱を感じた。クラスメイトたちが追いかけてきているのに気づき、校門に向かう道の途中で追い抜かれた。
地面を踏み込む感触が変わって、走りのリズムがズレる。
俺の横を通り過ぎる末藤につられて歩幅を大きくした瞬間、左足の動きが鈍った。次の一歩で右足を踏み外し、身体が前へ投げ出される。
手のひらとひざを中心に重い痛みが走った。立ち上がろうとして左足がカクンと落ちた。
くそ痛い。傷口が焼けるように熱い。けど、みんなに追いつかないと。
ふいに、かげが落ちた。腕を掴まれて、身体がふわっと上がった。
情けないくらいあっさり持ち上がって、一瞬なにが起こったのかわからなかった。
「大丈夫?」
秋保が俺の腕を掴み、のぞき込んでくる。
黒縁メガネの奥の瞳は漆黒色なのに、優しい色をしていた。
「脚は? 動く?」
矢継ぎ早に訊かれて、頷くことでしか応えられなかった。
秋保に助けられて、さっきまで動かなかった左足が嘘かと思うくらい力が入る。
「大丈夫。ありがとう」
そうして再び校門へ向かった。
学校の敷地を出たところで、クラスメイトたちが清瀬を捕まえていた。
涙を流すクラスメイト――に囲まれた清瀬は困った顔をしている。
人の頭の上で清瀬の視線とぶつかった。二年間、同じ学校で過ごしてきた仲間たちの感動の別れ。それを邪魔しちゃいけない。
などとは、一ミリも思わなかった。
いや、〇・五ミリほどは頭にあったかもしれない。けれど、どちらかといえば、今は怒りのほうが大きい。
クラスメイトたちの輪をかき分けて、清瀬の前に立った。
「見つかっちゃったか」
「見つかったじゃねえよ。急すぎね?」
「ごめん。母上から急に呼ばれちゃってさ」
「一言あってもよかっただろ」
「だからメッセージ送ったんじゃん」
「読んでない」
既読をつけてしまっているので見苦しい嘘だった。
清瀬も気づいているのか苦笑する。
「やっぱり苦手なんだよ、こういうの。自分が主人公?みたいに送り出されるの。明日また会えるって感じで送り出してほしくてさ。うん。だから、しれっといなくなろうかなと思ってたんだけど。三角には一応、バイバイくらい言っとこうかなって――」
心臓が止まりそうになるくらい苦しかった。
目頭に熱が集まってくるのがわかって、俺は清瀬を抱きしめた。絶対に泣かない。
最後くらいこいつの願いを聞き届ける。湿っぽいことはしない。――でも。
「ありがとう、清瀬」
これだけは、どうしても伝えたかった。
文字でもいい、電話でもいい。手段はなんでもいいから、絶対に伝えるつもりだった。
だけど、直接伝えられるならそうさせてくれ。
「おまえに会えてよかった」
「大げさだなあ」
「大げさじゃねえよ。別れとか関係なく、こういうことはいつでも伝えるべきなんだよ」
目を伏せると、これまでの日々が黒い視界に映し出された。
それは映画のように流れていく。たった一ヶ月弱のショートムービー。
「もっと早くこっちに来られたら本当によかったんだけど、でも今は、一ヶ月あとにならなくてよかったって思うことにした」
「もう一ヶ月あとだったら、会えてなかったもんな」
清瀬の手が俺の背中にまわる。
「俺も、最後におまえに会えてよかったよ。絶対に戻ってこようって思えた」
俺はここでやっていく。
残り半年の高校生活。本当は転校するのが楽しみだった。不安と緊張もあったけど、新しい土地での出会いに、誤解を恐れずに言うと、胸を躍らせていたんだ。
そんな現実はこなくて、もうないものだと諦めていたけど、諦めないことにした。清瀬がそう思わせてくれた。
「一生の別れじゃないからな」
「運命、なんだろ?」
「そうだよ。やっと認めたな」
俺たちはまた、どこかで絶対に会える気がした。
エピローグ・清瀬流楓の想い
「流楓や美桜が最近、よく話してた三角くんって、さっきの彼?」
「そう。かっこいいっしょ」
「イケメンだったね。それに、良い子そうだ」
父さんの運転する車の中で、心地よい揺れに身を任せながら、俺は数ヶ月前のことを思い出していた。まだ新学期が始まる前、三月のことだ。
「三角春希? うちのクラスに転校生くるの?」
三角を初めて見たのは、職員室にある担任の机の上だった。ぽんっと、無造作に顔写真が置かれていた。
毅然としていて、なかなかかっこいい。
「おいおい、見るな見るな」
担任の先生が慌てて写真をひっくり返した。
「もう遅いよ」
「まだみんなには言うなよ。シーだからな」
シーと言って、口もとに人差し指を持ってくる先生。大人の男にはかわいらしすぎる動作に、つい笑ってしまった。
「わかってるよ」
うちの学校では二年から三年にかけてのクラス替えはない。同じメンバーで残り一年間をやっていく。そこに新しい顔が加わるとわかったら、みんな喜ぶと思うんだけどなあ。
その瞬間から三角が来るのを楽しみにしていた。自分のクラスに転校生が来るなんて、そんな漫画みたいなことが本当に起こるのか、と。
まさか三角の転校が伸びて、俺も転校生になるなんて思わなかったけれど、この一ヶ月は本当に充実していた。
「なあ、父さん」
「ん?」
「距離があると、心も離れてくのかな?」
「うーん、どうだろう。離れはするだろうけど、また会えば、自然と戻ってくるんじゃないかな。……なんて、俺が言っても説得力ないかもしれないけど」
「いや、ありがとう」
窓の外の流れゆく景色はまだ見慣れた光景。
つーっと頬を伝わるしずくは温かくて、初めて、この町を離れたくないと思った。
いくらクーラーの効いている教室の中だからとはいえ、窓際の席は暑い。暗いのが嫌だからと、クラスメイトがさっきカーテンを開けていったおかげで光とともに直射日光が入ってくる。
いつも余裕ももって家を出ているので、人はまばらだ。本鈴の十分前あたりから急激に活気が増す。
教室のドアを見ていたら末藤が登校してきて、目が合った。しかし、すぐにそらされる。
次にやってきた秋保は軽く手を上げてきたので、俺もそれに応えて手を上げた。
そうして教室に入ってくるクラスメイトたちを眺めていたのだが、清瀬が来る気配は一向になかった。
やがて本鈴が鳴り、担任の先生が入ってくる。日直の「起立、礼」のかけ声とともにあいさつをした。
「ええ、出席確認の前に清瀬についてなんだが。清瀬は当初、来週に発つ予定だったんだが、ご家庭の都合によって今日、日本を離れることになった」
心の奥がうねりを上げるように、教室の中もざわめきだす。
「だから、もう学校には来ない」
「どういうことだよ!」
末藤が勢いよく立ち上がった。その反動で、椅子が後ろの机にぶつかる。
その席には誰も座っていない。
「先生も一昨日、聞いたんだ。さっき親御さんといっしょにあいさつに来て、改めて言われた」
「学校まで来たのか? なら、教室まで……」
「みんなにあいさつしていけと言ったんだけどな。清瀬本人がこのまま行きたいんだとさ」
先生の言葉はしっかり届いていたはずなのに、言葉の成す意味が理解できなかった。頭の中ではばらばらに単語が浮かび、並び替えられずにいる。
息がのどの奥でひっかかった。
心臓が早鐘を打つように脈を速める。
黒板が、先生が、クラスメイトが、教室が、揺れている。自分の身体も揺れているような錯覚に陥った。
これで終わり? あまりにあっけなくて、現実かもわからない。
かろうじて耳がかすかな音を拾った。机の中からスマホを取り出す。
マナーモードになっていたので、かすかな音はバイブレーションの振動だったらしい。たった今、入ったメッセージには一言だけ。
【ばいばい】
絵文字もスタンプもなにもない、清瀬からのメッセージだった。
窓の外を見ると、ちょうど校門のところに人が立っていた。すらりとした長身の男。太陽の日差しで赤茶色の髪が赤くきらめいている。
向こうからもこっちが見えるのか、俺が顔の向きを変えた瞬間に手を上げて、振った。
「ふざけんなよ」
俺は立ち上がり、教室を飛び出した。ドアが開ききらなくて肩を強く打ちつけてしまったけど、一切の痛みを感じなかった。
頭が熱い。息が簡単に上がる。
それでも空気を裂くように走る。左足を気にしている余裕もない。崩れるように階段を駆け下りた。
上履きのまま校舎を出る。そのときになってようやく、背中にも熱を感じた。クラスメイトたちが追いかけてきているのに気づき、校門に向かう道の途中で追い抜かれた。
地面を踏み込む感触が変わって、走りのリズムがズレる。
俺の横を通り過ぎる末藤につられて歩幅を大きくした瞬間、左足の動きが鈍った。次の一歩で右足を踏み外し、身体が前へ投げ出される。
手のひらとひざを中心に重い痛みが走った。立ち上がろうとして左足がカクンと落ちた。
くそ痛い。傷口が焼けるように熱い。けど、みんなに追いつかないと。
ふいに、かげが落ちた。腕を掴まれて、身体がふわっと上がった。
情けないくらいあっさり持ち上がって、一瞬なにが起こったのかわからなかった。
「大丈夫?」
秋保が俺の腕を掴み、のぞき込んでくる。
黒縁メガネの奥の瞳は漆黒色なのに、優しい色をしていた。
「脚は? 動く?」
矢継ぎ早に訊かれて、頷くことでしか応えられなかった。
秋保に助けられて、さっきまで動かなかった左足が嘘かと思うくらい力が入る。
「大丈夫。ありがとう」
そうして再び校門へ向かった。
学校の敷地を出たところで、クラスメイトたちが清瀬を捕まえていた。
涙を流すクラスメイト――に囲まれた清瀬は困った顔をしている。
人の頭の上で清瀬の視線とぶつかった。二年間、同じ学校で過ごしてきた仲間たちの感動の別れ。それを邪魔しちゃいけない。
などとは、一ミリも思わなかった。
いや、〇・五ミリほどは頭にあったかもしれない。けれど、どちらかといえば、今は怒りのほうが大きい。
クラスメイトたちの輪をかき分けて、清瀬の前に立った。
「見つかっちゃったか」
「見つかったじゃねえよ。急すぎね?」
「ごめん。母上から急に呼ばれちゃってさ」
「一言あってもよかっただろ」
「だからメッセージ送ったんじゃん」
「読んでない」
既読をつけてしまっているので見苦しい嘘だった。
清瀬も気づいているのか苦笑する。
「やっぱり苦手なんだよ、こういうの。自分が主人公?みたいに送り出されるの。明日また会えるって感じで送り出してほしくてさ。うん。だから、しれっといなくなろうかなと思ってたんだけど。三角には一応、バイバイくらい言っとこうかなって――」
心臓が止まりそうになるくらい苦しかった。
目頭に熱が集まってくるのがわかって、俺は清瀬を抱きしめた。絶対に泣かない。
最後くらいこいつの願いを聞き届ける。湿っぽいことはしない。――でも。
「ありがとう、清瀬」
これだけは、どうしても伝えたかった。
文字でもいい、電話でもいい。手段はなんでもいいから、絶対に伝えるつもりだった。
だけど、直接伝えられるならそうさせてくれ。
「おまえに会えてよかった」
「大げさだなあ」
「大げさじゃねえよ。別れとか関係なく、こういうことはいつでも伝えるべきなんだよ」
目を伏せると、これまでの日々が黒い視界に映し出された。
それは映画のように流れていく。たった一ヶ月弱のショートムービー。
「もっと早くこっちに来られたら本当によかったんだけど、でも今は、一ヶ月あとにならなくてよかったって思うことにした」
「もう一ヶ月あとだったら、会えてなかったもんな」
清瀬の手が俺の背中にまわる。
「俺も、最後におまえに会えてよかったよ。絶対に戻ってこようって思えた」
俺はここでやっていく。
残り半年の高校生活。本当は転校するのが楽しみだった。不安と緊張もあったけど、新しい土地での出会いに、誤解を恐れずに言うと、胸を躍らせていたんだ。
そんな現実はこなくて、もうないものだと諦めていたけど、諦めないことにした。清瀬がそう思わせてくれた。
「一生の別れじゃないからな」
「運命、なんだろ?」
「そうだよ。やっと認めたな」
俺たちはまた、どこかで絶対に会える気がした。
エピローグ・清瀬流楓の想い
「流楓や美桜が最近、よく話してた三角くんって、さっきの彼?」
「そう。かっこいいっしょ」
「イケメンだったね。それに、良い子そうだ」
父さんの運転する車の中で、心地よい揺れに身を任せながら、俺は数ヶ月前のことを思い出していた。まだ新学期が始まる前、三月のことだ。
「三角春希? うちのクラスに転校生くるの?」
三角を初めて見たのは、職員室にある担任の机の上だった。ぽんっと、無造作に顔写真が置かれていた。
毅然としていて、なかなかかっこいい。
「おいおい、見るな見るな」
担任の先生が慌てて写真をひっくり返した。
「もう遅いよ」
「まだみんなには言うなよ。シーだからな」
シーと言って、口もとに人差し指を持ってくる先生。大人の男にはかわいらしすぎる動作に、つい笑ってしまった。
「わかってるよ」
うちの学校では二年から三年にかけてのクラス替えはない。同じメンバーで残り一年間をやっていく。そこに新しい顔が加わるとわかったら、みんな喜ぶと思うんだけどなあ。
その瞬間から三角が来るのを楽しみにしていた。自分のクラスに転校生が来るなんて、そんな漫画みたいなことが本当に起こるのか、と。
まさか三角の転校が伸びて、俺も転校生になるなんて思わなかったけれど、この一ヶ月は本当に充実していた。
「なあ、父さん」
「ん?」
「距離があると、心も離れてくのかな?」
「うーん、どうだろう。離れはするだろうけど、また会えば、自然と戻ってくるんじゃないかな。……なんて、俺が言っても説得力ないかもしれないけど」
「いや、ありがとう」
窓の外の流れゆく景色はまだ見慣れた光景。
つーっと頬を伝わるしずくは温かくて、初めて、この町を離れたくないと思った。



