青々とした空がどこまで続いているのがわかる。
俺がいた町では、こうも世界が広いと思うことはあまりなかった。それも、校庭のベンチから知れるなんてな。
しかし、照りつける初夏の日差しは痛く、そよぐ風は涼しく心地よい。まるで地獄と天国。
「ごめんなさい。気まずいですよね」
ふと、となりの少女が口を開いた。
透明感のある黒色のポニーテールが風に揺れている。
「まあ、そうだね」
「兄ちゃんに頼まれたんですよね?」
「うん」
清瀬といっしょに帰ったその道で、奇妙な頼み事をされた。紹介したい人がいる、と。
昼休みに時間をとって、指示された場所に来てみれば、まるでデート相手を待つかのようにそわそわする少女がいた。それがこの子だ。
胸に飾るりぼんの色からして一学年下の後輩。
なぜ俺は、転校早々に後輩の女子とラブコメもどきをしてるんだ?
「俺、よくわかってないんだけど……」
「はい、ですよね。まず自己紹介すると、わたしは二年二組の清瀬美桜といいます」
「清瀬?」
「三年二組の清瀬流楓の妹です」
マジか。
「俺は……」
「兄ちゃんと同じクラスの三角春希先輩ですよね。転校生で有名です」
「あ、そう」
ただの後輩だと思っていた少女は、あの清瀬流楓の妹だったらしい。
たしかによく見ると、清瀬と同じ遺伝を受け継いでいるとわかるキレイな顔立ちをしている。横顔の凜々しさなんかは、清瀬の面影と被る。
「たぶん、兄ちゃんが余計なことしましたよね。わたしもキレてます」
凜とした声から発せられるのは、切れ味のいい正直な言葉。
あまりにストレートなので笑いがこぼれてしまった。
「わたしが彼氏ほしいって言ってたから、三角先輩を紹介してくれたんだと思います。ガチでうざいですよね」
「お兄さんに厳しいね」
「だって、ほんとに余計なお世話なんだもん」
「知らないやつを紹介されてもなって感じ?」
「あ、それは思ってないです」
あっさり否定する妹。
「三角先輩かっこいいですし、紹介してくれたのはうれしいです。……あ、かっこいいとか言っちゃった」
恥ずかしいと、口もとを押さえた。わざとらしさのようなものは感じられず、本当に恥ずかしそうだ。
これが清瀬の妹じゃなかったら、素直にかわいいなと思ったところだけど、クラスメイトの、それも清瀬の妹にそれを抱くのは気が引けて、そっと目をそらした。
暑いな。風があるとはいえ、やはり七月の太陽は侮れない。
額に汗が滲んでいるのがわかる。
「清瀬ってどんな兄貴?」
気がつけば、ひとり言ちていた。
自分だけに向けた言葉のつもりだったのに、問いになってしまっていた。
「兄ちゃんですか? そうですね……」
妹はわりかし真剣に考えてくれた。
思いつきの言葉だったから申し訳なくなる。
「見たまんまですね。いつも楽しそうで、マイペースで、シスコンでうざいです」
「シスコンなんだ」
「兄ちゃんは否定しますけどね。わたしはそう思ってます」
ゴソゴソと音がしてとなりを見ると、妹がコンビニの袋からサラダパスタと野菜ジュースの紙パックを取り出していた。
「あ、昼ご飯にしていいですか?」
「どうぞ」
妹はサラダパスタにタレをかけて、割り箸でかき混ぜながらもう片方の手で紙パックにストローを挿す。
「兄ちゃんは言っても、心配なだけなんですよね」
妹の視線は、よくかき混ぜようと割り箸に集中している。
「心配?」
「知ってると思うんですけど……」
ザザッと強めの風が吹いた。前髪が目にかかり、小さな痛みを感じる。
それを手でよけながら俺の耳は、彼女の続く言葉を聞き逃すまいと必死だった。
額に滲んでいた汗が顔の輪郭をなぞるように滴って、制服のズボンを濡らす。
シャツが肌に張りつく不愉快さはすべて彼女の言葉に吸い込まれていった。
美桜が食べ終わって、解散となる。
「兄ちゃんの言いなりになって、今後ともよろしくお願いします」
丁寧にお辞儀されて、俺も頷くように頭を下げた。
先に校舎へ戻る美桜の背中をじっと見つめる。
最初は紹介なんて端からもとめてないものに乗り気になれなかったけど、彼女に出会えたのはよかったかもしれない。
おかげで、清瀬のことをコップ一杯程度でも知れたのだから。
*
放課後になると、やっぱり清瀬はすぐに囲まれた。いつものごとく「今日こそ逃がさねえぞ。カラオケ行こうぜ!」と、誘われている。
しかし、清瀬はそれらを柔和な笑みでかわして、窓際一番後ろの俺の席までやってきた。そして、一言。
「ファミレス行かね?」
いつもなら、いつまでこいつの気まぐれに付き合わされるのだと、嫌な顔をせずとも思ったかもしれないけど、今日はちょうどよかった。俺も話があったし。
学校を出て、やはり西岸方面へ歩く。
いつもはまっすぐ行くところを、歩道橋で向こう側に渡る。歩道橋の階段をのぼっているときに、前から小学生の集団が下りてきた。
清瀬がすぐさま俺の後ろにまわり、小学生とあいさつを交わしたあと、さっととなりに戻った。
これまでスルーしてきた清瀬の言動すべてが意味あるものに思えてくる。
途中に学生の懐にも優しいリーズナブルなファミリーレストランがあるので、そこに入った。
入店音に誘われて店員が「いらっしゃいませ」とやってきて、窓際のソファー席に通される。
「美桜と話したんだろ。どうだった?」
ドリンクバーを単品で頼み、それぞれ好きなドリンクを持って席に着くなり清瀬が訊ねてきた。俺これ好きなんだよな、と言って入れた野菜ジュースを飲むよりも先に、だ。
俺はのどが渇いていたので、ホワイトソーダを先に飲ませてもらうけど。
「付き合うことになったよ」
のどを鳴らして飲むホワイトソーダは格別だった。
潤いを得たのどでさらりと答えると、清瀬は「は?」と口をあんぐり開けた。
こういう反応をするのか。動画に撮ってあげればよかったと、ちょっと後悔。
「おまえの望みだろ。妹と俺を引き合わせて」
「そうだけど、そうじゃなくて。いや、そうなんだけど。今日の一回でそこまで進むとは、思わなくて……」
グラスを揺らすと、カランと氷が音を立てた。すっと心が洗われる気がする。
清瀬の動揺がなかなかに愉快だった。
「といっても、友達からって感じだけどな」
本気で付き合おうとなったわけではない。美桜からその気があるならこれからも仲良くしたいと言われて、その気はあると答えたら「じゃあ今後とも」となっただけだ。
いうなれば、男女の友情は存在しないタイプの友達だ。
しばらく彼女はいないし、断る理由が清瀬の妹ってだけなら断る道理もない。それに――。
「兄ちゃんをびっくりさせたいって気持ちもあるんで」
俺も同感だったから、これからも仲良くしていこうと利害が一致した。
妹の望みどおりに清瀬の驚く顔が見られたのはよかった。
清瀬はストローを咥えて、ようやく野菜ジュースに口をつけた。管に血が通うように白いストローにオレンジ色の液体が流れる。
「下手なことすんなよ」
ふいにストローの色が白に戻ったかと思えば、清瀬が目を細めて睨みつけてきた。不服を口にできなくて静かに訴えるしかない人間の目だ。
不服があるのはこっちなのだが。
「下手なことする人間に見えるなら、最初から妹を紹介するなよ」
「失礼だな。見えてねえよ」
「失礼なのはそっちだろ」
清瀬はまた、ちゅーっとグラスの中のドリンクを啜った。
その毒々しいオレンジ色を見ていたら、今日の昼間に同じものを飲んでいた妹の姿が思い浮かんだ。
「知ってると思うんですけど、兄ちゃん転校するんですよね。うちの母がいるアメリカに。両親が離婚したので母についていくって感じで」
このときになって俺は、ようやく美桜が転校しないことを知った。
というより、清瀬が転校するなら美桜も転校するのだろうか、と考えすらしなかったことに気がついた。
両親の離婚は円満だったらしい。
美桜は今の学校を離れたくなかったから父親についていくと即決だった。
一方の清瀬にも、転校しない選択肢はあった。
けれど、美桜が父を選んだから自分は母を……。
「兄ちゃん、そういうところあるんですよね。自分よりも、調和っていうのかな。それを気にするところ」
花の蜜を吸うように野菜ジュースを飲む美桜の姿が、言葉とともに脳裏に焼きついている。
他人の口から聞く清瀬流楓の人物像は、本人が語るよりも説得力があった。
「俺、ずっと清瀬は同情してるのかと思ってた」
手持ち無沙汰になってメニューブックを眺めていた清瀬が、ん? と顔を上げた。
清瀬はけっこう表情の加減を省エネしがちだ。相手に好印象を与えるギリギリのラインで表情筋を動かす。
だから、感情が動いてないときに真正面からじっくりと見つめられると、まるで人形のようで、その目に吸い込まれるような錯覚を起こす。
「同情ってのもまた違うか」
意味もなくグラスの口を拭う。
「好奇心のおもちゃにされてるような感覚っていうのかな」
「おもちゃって誰が誰に?」
「清瀬が俺に」
「え!?」
清瀬のその「え」には濁点がついていた。
素っ頓狂な声を聞いただけで、俺の考えはあっさり否定されたとわかる。
「そもそも、清瀬の考えがわからなかったんだよ。清瀬がなんで俺に話しかけてくるのか。前にSNSは無敵だとか言ってたけど、俺はSNSがあっても物理的な距離があれば心も離れていくもんだと思ってたから、そういうのも理解できなかったし」
でも、と話を紡ぐには口の中の潤いが足りなかった。
助けをもとめるようにホワイトソーダを飲んで、目線を清瀬に合わせた。
「でも、わかるようになった。おまえが妹を紹介したのって、妹を心配してのことだろ。付き合うとかどうでもよくて、妹を任せられる顔なじみがいれば、アメリカへ行っても安心できるって。なにをもって俺を信頼してくれたのかわからないけど、どうせそんなとこだろ」
清瀬の顔がめずらしく引きつった。片方の口角が不自然につり上がって、目を伏せる。
そのまま頭を抱えるようにして頭もひれ伏した。
「当てんなよ」
髪の生え際がキレイに整えられているうなじが見えた。
けれど、俺の視線は清瀬の赤く染められた耳に引きつけられて、離れない。
こいつにも恥じらう気持ちとかあるのか、とかそんなことを思った。
「言っとくけど、同情してないからな」
ちらりと顔を上げた清瀬の頬は予想に反して紅潮してない。
表情だけ見ていたら、こいつの変化には気づけない。なるほど、トリックアートのような人間だな。
「ふつうに話したかっただけだし、最初は美桜を紹介するつもりもなかったし」
「うん」
「それに、美桜だけじゃねえよ。三角のことも気になってた。というか、転校生を気にかけるのはあたりまえじゃん?」
クラスメイトたちの顔が浮かんだ。
フラッシュ動画のように次々と顔が切り替わっていく、それのどれもが目線を外している。こっちを見てない。
そういえば、清瀬以外のクラスメイトと目を合わせて話したことがあっただろうか。
英語の授業でトークするとなりの席の秋保しか思い浮かばないほどに、転校生を意識してもらえた覚えがなかった。
「だから、三角に美桜を紹介して、美桜に三角を紹介したんだけど。今は紹介したことちょっと後悔してる」
清瀬はメニューブックをスタンドに戻した。
「だって、友達が妹の彼氏とか気まずくね?」
「彼氏じゃないけどな」
「キスとかしてんのかとか、どこまでいってるんだろうとか考えるじゃん。でも、妹と友達の色恋なんて想像したくねえし。そんなことをまじめに考えてる自分もキモすぎる」
「たとえそういうことになったとしても、まだ先の話だろ」
「お兄さんって呼ばなきゃいけないの?」
「だから、気がはえーつってんだろ!」
思わず張り上げた声は、賑やかな店内の喧噪に簡単にかき消された。
清瀬の耳には届いたようだけど――。
「向こうで良い女を見つけるしかないな」
ただし、心にはまったく届いてない。気が早いと言っているのに、まるで聞いちゃいない。
こいつならその気になればすぐにでも見つけられそうだと思ったけど、教えてあげるのは躊躇われたので口にしなかった。
こういう会話――いわゆる色恋の話を、清瀬と話すのは初めてだった。
入店して店員を待ち席に通される一連の動作をルール説明がなくても行えるように、なんの違和感もなく話した。けれど、違和感がなかったことが違和感で、いつの間にか色恋の話をする仲になっている。
それが俺をむず痒い気持ちにさせた。
本当に清瀬との時間に終わりがくるのだろうか?
「でも俺、選ぶなら日本語が喋れる人がいいな。英語は日常会話くらいなら喋れるけど、聞き取るのはまだムズいし。意思疎通、大事だよな」
「向こうで生活してれば慣れるんじゃね」
「そうかな。俺の成長、頭打ちって感じするけど」
どうしても終わりがくるとは思えない。まだまだ続くんじゃないかって思ってしまう。
グラスを手に取って。
「やっぱり、行くのは決まってんのか?」
残っていたホワイトソーダを一口で飲み干してから清瀬に訊ねた。
「行くよ」
野菜ジュースをストローでかき混ぜていた清瀬は、手もとから目を離さずに答えた。
「行かない選択肢もあるんだろ」
清瀬の手が止まり、一本線をなぞるように視線を上げる。
「なに。美桜に聞いたの? クラスのやつらには言うなよ。面倒くさいことになるのが目に見えてるから」
円満な夫婦関係で父の異動が決まった俺と違って、清瀬の転校はやめられる。
クラスのみんなには「アメリカの大学に進学にしたいと思ってる」と説き伏せたらしいけど、本当の理由は母を一人にしないためだ。清瀬が一言、父や妹といっしょに残ると言えばいい。
みんなで肩組んで説得したら止められると思うんですよね、と美桜は笑っていた。
準備が進んでいる今の段階でやめるのは、他方に迷惑がかかって厳しいだろうけど、できないわけじゃないはずだ。
けれど、清瀬は「行くよ、行く」と念を押すように繰り返した。
俺は氷だけが取り残されたグラスを手に取って、持ち上げる。
「だったら、最後に運命を試してみねえ?」
斜に構えて見ていた言葉をこの俺が使う日がくるとは思わなかったけど、そんなのどうでもよくなるほどグラスを握りしめている。
「いいよ。どうやって?」
俺はドリンクバーを指した。
「これからドリンクを入れてくる。いっしょのを選んだら、おまえの言う運命を信じてやってもいい」
「おもしろそう。乗った!」
清瀬の知らないところで種を蒔いた。
先に俺がドリンクバーに立って、ディスペンサーにグラスを置いた。ボタンを押して注ぎ、グラスを見られないように席に戻るのと入れ替わりに、清瀬がドリンクバーに向かった。
俺が入れてきたのはコーラにオレンジジュースを混ぜたもの。絶対に被らないものにして、運命を否定してやろうと思った。
これで運命じゃないと証明できたなら、運命なんてないと証明できたなら、清瀬が転校したらもう二度と会えないかもしれないと主張する。
そうしたら……。
清瀬はすぐに戻ってきた。
ストローが挿してあるグラスと挿してないグラスがテーブルに並ぶ。中身は似たような色。
「三角のこれはなに? 俺はね、その名もオレンジコーラ! まんまだけどな。コーラにオレンジジュースを混ぜただけ。これで被ったらもう否定できねえだろ、てやつにした」
歯を見せて笑う清瀬はあまりにも無垢で、心が痛かった。
もし、俺たちの間に運命などないと証明できたなら、もしかしたら、転校を引き止められたかもしれない。
けれど、これで引き止める方法はなくなった。
転校まで残り二週間――。
数字は残酷に現実を突きつけてくる。
俺がいた町では、こうも世界が広いと思うことはあまりなかった。それも、校庭のベンチから知れるなんてな。
しかし、照りつける初夏の日差しは痛く、そよぐ風は涼しく心地よい。まるで地獄と天国。
「ごめんなさい。気まずいですよね」
ふと、となりの少女が口を開いた。
透明感のある黒色のポニーテールが風に揺れている。
「まあ、そうだね」
「兄ちゃんに頼まれたんですよね?」
「うん」
清瀬といっしょに帰ったその道で、奇妙な頼み事をされた。紹介したい人がいる、と。
昼休みに時間をとって、指示された場所に来てみれば、まるでデート相手を待つかのようにそわそわする少女がいた。それがこの子だ。
胸に飾るりぼんの色からして一学年下の後輩。
なぜ俺は、転校早々に後輩の女子とラブコメもどきをしてるんだ?
「俺、よくわかってないんだけど……」
「はい、ですよね。まず自己紹介すると、わたしは二年二組の清瀬美桜といいます」
「清瀬?」
「三年二組の清瀬流楓の妹です」
マジか。
「俺は……」
「兄ちゃんと同じクラスの三角春希先輩ですよね。転校生で有名です」
「あ、そう」
ただの後輩だと思っていた少女は、あの清瀬流楓の妹だったらしい。
たしかによく見ると、清瀬と同じ遺伝を受け継いでいるとわかるキレイな顔立ちをしている。横顔の凜々しさなんかは、清瀬の面影と被る。
「たぶん、兄ちゃんが余計なことしましたよね。わたしもキレてます」
凜とした声から発せられるのは、切れ味のいい正直な言葉。
あまりにストレートなので笑いがこぼれてしまった。
「わたしが彼氏ほしいって言ってたから、三角先輩を紹介してくれたんだと思います。ガチでうざいですよね」
「お兄さんに厳しいね」
「だって、ほんとに余計なお世話なんだもん」
「知らないやつを紹介されてもなって感じ?」
「あ、それは思ってないです」
あっさり否定する妹。
「三角先輩かっこいいですし、紹介してくれたのはうれしいです。……あ、かっこいいとか言っちゃった」
恥ずかしいと、口もとを押さえた。わざとらしさのようなものは感じられず、本当に恥ずかしそうだ。
これが清瀬の妹じゃなかったら、素直にかわいいなと思ったところだけど、クラスメイトの、それも清瀬の妹にそれを抱くのは気が引けて、そっと目をそらした。
暑いな。風があるとはいえ、やはり七月の太陽は侮れない。
額に汗が滲んでいるのがわかる。
「清瀬ってどんな兄貴?」
気がつけば、ひとり言ちていた。
自分だけに向けた言葉のつもりだったのに、問いになってしまっていた。
「兄ちゃんですか? そうですね……」
妹はわりかし真剣に考えてくれた。
思いつきの言葉だったから申し訳なくなる。
「見たまんまですね。いつも楽しそうで、マイペースで、シスコンでうざいです」
「シスコンなんだ」
「兄ちゃんは否定しますけどね。わたしはそう思ってます」
ゴソゴソと音がしてとなりを見ると、妹がコンビニの袋からサラダパスタと野菜ジュースの紙パックを取り出していた。
「あ、昼ご飯にしていいですか?」
「どうぞ」
妹はサラダパスタにタレをかけて、割り箸でかき混ぜながらもう片方の手で紙パックにストローを挿す。
「兄ちゃんは言っても、心配なだけなんですよね」
妹の視線は、よくかき混ぜようと割り箸に集中している。
「心配?」
「知ってると思うんですけど……」
ザザッと強めの風が吹いた。前髪が目にかかり、小さな痛みを感じる。
それを手でよけながら俺の耳は、彼女の続く言葉を聞き逃すまいと必死だった。
額に滲んでいた汗が顔の輪郭をなぞるように滴って、制服のズボンを濡らす。
シャツが肌に張りつく不愉快さはすべて彼女の言葉に吸い込まれていった。
美桜が食べ終わって、解散となる。
「兄ちゃんの言いなりになって、今後ともよろしくお願いします」
丁寧にお辞儀されて、俺も頷くように頭を下げた。
先に校舎へ戻る美桜の背中をじっと見つめる。
最初は紹介なんて端からもとめてないものに乗り気になれなかったけど、彼女に出会えたのはよかったかもしれない。
おかげで、清瀬のことをコップ一杯程度でも知れたのだから。
*
放課後になると、やっぱり清瀬はすぐに囲まれた。いつものごとく「今日こそ逃がさねえぞ。カラオケ行こうぜ!」と、誘われている。
しかし、清瀬はそれらを柔和な笑みでかわして、窓際一番後ろの俺の席までやってきた。そして、一言。
「ファミレス行かね?」
いつもなら、いつまでこいつの気まぐれに付き合わされるのだと、嫌な顔をせずとも思ったかもしれないけど、今日はちょうどよかった。俺も話があったし。
学校を出て、やはり西岸方面へ歩く。
いつもはまっすぐ行くところを、歩道橋で向こう側に渡る。歩道橋の階段をのぼっているときに、前から小学生の集団が下りてきた。
清瀬がすぐさま俺の後ろにまわり、小学生とあいさつを交わしたあと、さっととなりに戻った。
これまでスルーしてきた清瀬の言動すべてが意味あるものに思えてくる。
途中に学生の懐にも優しいリーズナブルなファミリーレストランがあるので、そこに入った。
入店音に誘われて店員が「いらっしゃいませ」とやってきて、窓際のソファー席に通される。
「美桜と話したんだろ。どうだった?」
ドリンクバーを単品で頼み、それぞれ好きなドリンクを持って席に着くなり清瀬が訊ねてきた。俺これ好きなんだよな、と言って入れた野菜ジュースを飲むよりも先に、だ。
俺はのどが渇いていたので、ホワイトソーダを先に飲ませてもらうけど。
「付き合うことになったよ」
のどを鳴らして飲むホワイトソーダは格別だった。
潤いを得たのどでさらりと答えると、清瀬は「は?」と口をあんぐり開けた。
こういう反応をするのか。動画に撮ってあげればよかったと、ちょっと後悔。
「おまえの望みだろ。妹と俺を引き合わせて」
「そうだけど、そうじゃなくて。いや、そうなんだけど。今日の一回でそこまで進むとは、思わなくて……」
グラスを揺らすと、カランと氷が音を立てた。すっと心が洗われる気がする。
清瀬の動揺がなかなかに愉快だった。
「といっても、友達からって感じだけどな」
本気で付き合おうとなったわけではない。美桜からその気があるならこれからも仲良くしたいと言われて、その気はあると答えたら「じゃあ今後とも」となっただけだ。
いうなれば、男女の友情は存在しないタイプの友達だ。
しばらく彼女はいないし、断る理由が清瀬の妹ってだけなら断る道理もない。それに――。
「兄ちゃんをびっくりさせたいって気持ちもあるんで」
俺も同感だったから、これからも仲良くしていこうと利害が一致した。
妹の望みどおりに清瀬の驚く顔が見られたのはよかった。
清瀬はストローを咥えて、ようやく野菜ジュースに口をつけた。管に血が通うように白いストローにオレンジ色の液体が流れる。
「下手なことすんなよ」
ふいにストローの色が白に戻ったかと思えば、清瀬が目を細めて睨みつけてきた。不服を口にできなくて静かに訴えるしかない人間の目だ。
不服があるのはこっちなのだが。
「下手なことする人間に見えるなら、最初から妹を紹介するなよ」
「失礼だな。見えてねえよ」
「失礼なのはそっちだろ」
清瀬はまた、ちゅーっとグラスの中のドリンクを啜った。
その毒々しいオレンジ色を見ていたら、今日の昼間に同じものを飲んでいた妹の姿が思い浮かんだ。
「知ってると思うんですけど、兄ちゃん転校するんですよね。うちの母がいるアメリカに。両親が離婚したので母についていくって感じで」
このときになって俺は、ようやく美桜が転校しないことを知った。
というより、清瀬が転校するなら美桜も転校するのだろうか、と考えすらしなかったことに気がついた。
両親の離婚は円満だったらしい。
美桜は今の学校を離れたくなかったから父親についていくと即決だった。
一方の清瀬にも、転校しない選択肢はあった。
けれど、美桜が父を選んだから自分は母を……。
「兄ちゃん、そういうところあるんですよね。自分よりも、調和っていうのかな。それを気にするところ」
花の蜜を吸うように野菜ジュースを飲む美桜の姿が、言葉とともに脳裏に焼きついている。
他人の口から聞く清瀬流楓の人物像は、本人が語るよりも説得力があった。
「俺、ずっと清瀬は同情してるのかと思ってた」
手持ち無沙汰になってメニューブックを眺めていた清瀬が、ん? と顔を上げた。
清瀬はけっこう表情の加減を省エネしがちだ。相手に好印象を与えるギリギリのラインで表情筋を動かす。
だから、感情が動いてないときに真正面からじっくりと見つめられると、まるで人形のようで、その目に吸い込まれるような錯覚を起こす。
「同情ってのもまた違うか」
意味もなくグラスの口を拭う。
「好奇心のおもちゃにされてるような感覚っていうのかな」
「おもちゃって誰が誰に?」
「清瀬が俺に」
「え!?」
清瀬のその「え」には濁点がついていた。
素っ頓狂な声を聞いただけで、俺の考えはあっさり否定されたとわかる。
「そもそも、清瀬の考えがわからなかったんだよ。清瀬がなんで俺に話しかけてくるのか。前にSNSは無敵だとか言ってたけど、俺はSNSがあっても物理的な距離があれば心も離れていくもんだと思ってたから、そういうのも理解できなかったし」
でも、と話を紡ぐには口の中の潤いが足りなかった。
助けをもとめるようにホワイトソーダを飲んで、目線を清瀬に合わせた。
「でも、わかるようになった。おまえが妹を紹介したのって、妹を心配してのことだろ。付き合うとかどうでもよくて、妹を任せられる顔なじみがいれば、アメリカへ行っても安心できるって。なにをもって俺を信頼してくれたのかわからないけど、どうせそんなとこだろ」
清瀬の顔がめずらしく引きつった。片方の口角が不自然につり上がって、目を伏せる。
そのまま頭を抱えるようにして頭もひれ伏した。
「当てんなよ」
髪の生え際がキレイに整えられているうなじが見えた。
けれど、俺の視線は清瀬の赤く染められた耳に引きつけられて、離れない。
こいつにも恥じらう気持ちとかあるのか、とかそんなことを思った。
「言っとくけど、同情してないからな」
ちらりと顔を上げた清瀬の頬は予想に反して紅潮してない。
表情だけ見ていたら、こいつの変化には気づけない。なるほど、トリックアートのような人間だな。
「ふつうに話したかっただけだし、最初は美桜を紹介するつもりもなかったし」
「うん」
「それに、美桜だけじゃねえよ。三角のことも気になってた。というか、転校生を気にかけるのはあたりまえじゃん?」
クラスメイトたちの顔が浮かんだ。
フラッシュ動画のように次々と顔が切り替わっていく、それのどれもが目線を外している。こっちを見てない。
そういえば、清瀬以外のクラスメイトと目を合わせて話したことがあっただろうか。
英語の授業でトークするとなりの席の秋保しか思い浮かばないほどに、転校生を意識してもらえた覚えがなかった。
「だから、三角に美桜を紹介して、美桜に三角を紹介したんだけど。今は紹介したことちょっと後悔してる」
清瀬はメニューブックをスタンドに戻した。
「だって、友達が妹の彼氏とか気まずくね?」
「彼氏じゃないけどな」
「キスとかしてんのかとか、どこまでいってるんだろうとか考えるじゃん。でも、妹と友達の色恋なんて想像したくねえし。そんなことをまじめに考えてる自分もキモすぎる」
「たとえそういうことになったとしても、まだ先の話だろ」
「お兄さんって呼ばなきゃいけないの?」
「だから、気がはえーつってんだろ!」
思わず張り上げた声は、賑やかな店内の喧噪に簡単にかき消された。
清瀬の耳には届いたようだけど――。
「向こうで良い女を見つけるしかないな」
ただし、心にはまったく届いてない。気が早いと言っているのに、まるで聞いちゃいない。
こいつならその気になればすぐにでも見つけられそうだと思ったけど、教えてあげるのは躊躇われたので口にしなかった。
こういう会話――いわゆる色恋の話を、清瀬と話すのは初めてだった。
入店して店員を待ち席に通される一連の動作をルール説明がなくても行えるように、なんの違和感もなく話した。けれど、違和感がなかったことが違和感で、いつの間にか色恋の話をする仲になっている。
それが俺をむず痒い気持ちにさせた。
本当に清瀬との時間に終わりがくるのだろうか?
「でも俺、選ぶなら日本語が喋れる人がいいな。英語は日常会話くらいなら喋れるけど、聞き取るのはまだムズいし。意思疎通、大事だよな」
「向こうで生活してれば慣れるんじゃね」
「そうかな。俺の成長、頭打ちって感じするけど」
どうしても終わりがくるとは思えない。まだまだ続くんじゃないかって思ってしまう。
グラスを手に取って。
「やっぱり、行くのは決まってんのか?」
残っていたホワイトソーダを一口で飲み干してから清瀬に訊ねた。
「行くよ」
野菜ジュースをストローでかき混ぜていた清瀬は、手もとから目を離さずに答えた。
「行かない選択肢もあるんだろ」
清瀬の手が止まり、一本線をなぞるように視線を上げる。
「なに。美桜に聞いたの? クラスのやつらには言うなよ。面倒くさいことになるのが目に見えてるから」
円満な夫婦関係で父の異動が決まった俺と違って、清瀬の転校はやめられる。
クラスのみんなには「アメリカの大学に進学にしたいと思ってる」と説き伏せたらしいけど、本当の理由は母を一人にしないためだ。清瀬が一言、父や妹といっしょに残ると言えばいい。
みんなで肩組んで説得したら止められると思うんですよね、と美桜は笑っていた。
準備が進んでいる今の段階でやめるのは、他方に迷惑がかかって厳しいだろうけど、できないわけじゃないはずだ。
けれど、清瀬は「行くよ、行く」と念を押すように繰り返した。
俺は氷だけが取り残されたグラスを手に取って、持ち上げる。
「だったら、最後に運命を試してみねえ?」
斜に構えて見ていた言葉をこの俺が使う日がくるとは思わなかったけど、そんなのどうでもよくなるほどグラスを握りしめている。
「いいよ。どうやって?」
俺はドリンクバーを指した。
「これからドリンクを入れてくる。いっしょのを選んだら、おまえの言う運命を信じてやってもいい」
「おもしろそう。乗った!」
清瀬の知らないところで種を蒔いた。
先に俺がドリンクバーに立って、ディスペンサーにグラスを置いた。ボタンを押して注ぎ、グラスを見られないように席に戻るのと入れ替わりに、清瀬がドリンクバーに向かった。
俺が入れてきたのはコーラにオレンジジュースを混ぜたもの。絶対に被らないものにして、運命を否定してやろうと思った。
これで運命じゃないと証明できたなら、運命なんてないと証明できたなら、清瀬が転校したらもう二度と会えないかもしれないと主張する。
そうしたら……。
清瀬はすぐに戻ってきた。
ストローが挿してあるグラスと挿してないグラスがテーブルに並ぶ。中身は似たような色。
「三角のこれはなに? 俺はね、その名もオレンジコーラ! まんまだけどな。コーラにオレンジジュースを混ぜただけ。これで被ったらもう否定できねえだろ、てやつにした」
歯を見せて笑う清瀬はあまりにも無垢で、心が痛かった。
もし、俺たちの間に運命などないと証明できたなら、もしかしたら、転校を引き止められたかもしれない。
けれど、これで引き止める方法はなくなった。
転校まで残り二週間――。
数字は残酷に現実を突きつけてくる。



