「俺、一ヶ月後に転校するって知ってる?」
四月から遅れること約三ヶ月。六月下旬に転校生として華々しい新生活のスタートを切る予定だった俺――三角春希の淡い期待は、初日にして儚く散る。
休み時間にクラスメイトから囲まれたり、よそのクラスの生徒が廊下に群がったり、名前も知らないかわいい女子に待ち伏せされたり。身の丈に合ってないと知りつつも、誰もが一度は夢みる妄想を時折、見た。
当然そんなドラマは起こりえなくて、ならせめて、友達作りのきっかけにできればよかったのだけど、なぜか俺はクラスメイトたちから受け入れてもらえなかった。
その理由が今、判明した。
バレーボールの授業を見学する俺に話しかけてきたのは、クラスメイトの清瀬流楓。すらりとした長身が、体育座りでいる俺を物珍しそうに見下ろしてくる。
「知らなかった」
「だよな。転校生にこんなこと言うのも変だけど、俺、一ヶ月後に転校するんだよね」
「そうなんだ」
興味がないわけじゃなかったけど、そうとしか答えられなかった。
「ま、それだけなんだけど」
清瀬は軽い感じでぼやくと、背を向けてバレーのボールを手まりのようにつき始めた。
空気が足りてないのか、ボールはあらぬ方向へと転がっていく。そのたびに清瀬は無邪気に追いかけて、俺の目の前に戻ってきてはまたつき始める。
なにがしたいのかよくわからない。まりつきがうまくなりたいわけでもないだろうに。
なのに、しばらくしないうちにボールが手もとに戻るようになった。清瀬の細く長い手にボールが吸い込まれていく。すると、ボールが床を跳ねて生まれる震動が、俺の胸に響いてくるようになった。
迷惑っちゃ迷惑。でも……。
ボールの震動はたしかに俺の安寧を阻害してくるけど、それ以上に体育館の中がうるさいからあまり気にならなかった。
五時間目の体育はみんな元気だ。
放たれたサーブボールがネットを掠って、軌道を変える。ボールに誰も触れられず、床に落ちた。片方のチームが「あー!」と悔しさを張り上げ、あまりかっこいいとは言えない点の入り方をした相手チームでは笑いが起こる。
元気というか、元気であろうとしているのが伝わってきた。このあとの六時間目で地獄を見ようとも、昼食後の眠気を吹き飛ばす勢いを感じさせる。
それを俺はただ眺めているだけ。開け放たれた扉のそばに腰を落ち着かせて、さっきからずっと観客になりきっている。
コートの反対側にいる得点係の男子と目が合った。
「流楓! そのボールこっちにちょうだい!」
俺を見たわけではなかった。清瀬の手が止まって、床を跳ねたボールをわしづかみにする。
「空気抜けてっけどいいー?」
「マジか! まあいいや」
得点係はコートの向こう側にいる。手を上げる彼に向かって、清瀬はボールを投げる構えを大きくとった。
「よし行くぞー!」
ボールが清瀬の手から離れる。二次関数のグラフのように急激な放物線を一直線に駆け上がろうとしている。
その先にあるのは体育館の天井。と、その手前にバスケットボールのゴール。
ボールは放物線の頂点まで達することなく、バスケットゴールのバックボードに当たって跳ね返った。
そして、戻る軌道をわずかに外れ、遠慮なく俺の顔面に飛び込んできた。それを受け止めきれなかった俺の身体が、弾かれたようにのけ反る。
すべてをスローモーションのように鮮明に捉えられたのはおそらく、なにが起こっているのかを理解しようとしないで頭が思考を放棄したからだろう。
背中に床の硬く冷たい感触が伝わったとき、ようやくなにが起こったのか理解に追いつこうとした。
俺はどうやら、攻撃を受けたらしい。
「うわ! 三角ごめん!」
清瀬の叫びが頭の中をこだまする。今の今までうるさかった体育館は、なぜか一瞬にして静まり返った。
視界に映るのは、焦りにゆがむ清瀬の顔と開け放たれた扉からのぞく青空だけ。ほかにはなにも見えないのに、注目を浴びているのが肌を伝う空気感でわかる。
どうしてこうなった?
転校生ならあっと目を引く存在になれるかもしれないと思ったけど、こういう形で目立ちたかったわけじゃない。
そもそも、なんで清瀬は俺に話しかけてきたんだろうか。
*
転校してきたクラスにはすでに俺とは別の転校生がいて、期待していた特別な出会いは、いとも簡単に日常に飲み込まれた。
そいつは海外でも活躍するモデルの母親を持ち、遺伝をしっかり受け継いだ容姿をしていた。
すらりとした長身。身体の半分以上はありそうな脚。細く長い指。血色感のある健康そうな肌。太陽の光に照らされると赤く輝く茶色の髪。顔の輪郭はシャープで、鼻筋が通っている。
パーツひとつひとつが洗練されていた。
当然、彼はクラスで人気を集めていた。
休み時間になって囲まれるのは俺ではなく彼で、放課後になるとほかのクラスからお誘いがくるのも彼にだけ。
かわいい女子と二人でいるところは見てないけど、ほとんどの状況でまわりに女子がいる。
陽キャ、一軍、勝ち組。そのどれにも当てはまる彼の名前は、清瀬流楓。名前までもキレイだ。
俺がクラスに受け入れてもらえなかったのは、人気者が転校するかわりにやってきた転校生、という微妙な立ち位置についてしまったせいだった。
初日は、転校生に与えられた特等席――窓際の一番後ろの席でひっそりと過ごした。
ここにいれば、とりあえず、できあがったクラスの雰囲気を邪魔することはないだろう。
今日は、その二日目。俺が人気者の転校生のかわりになれることはないと判明した。
卒業まで残り半年。受験を考えれば、その程度の時間を一人で過ごすのは大して苦じゃないはずだ。
このクラスでなにかを成し遂げようとするのは諦めよう。
荒波を立てずに、平穏に過ごせればいい。
鉄に似た匂いがつんと鼻を刺激する。
鼻腔にまとわりつく生温かいものは、水のようにさらりとはしていなかった。とろりと粘り気がある。こちらの意思に反して垂れてくるのが不快感極まりない。
体育教師のポケットから出てきたくしゃくしゃのティッシュを鼻に当てると、あっという間に赤く染まった。
「鼻血ブーひさしぶりに見たわ」
保健室に着いて養護教諭から処置を受けていると、清瀬がケラケラと笑い声を上げながら言った。
「誰のせいだよ」
「だからごめんて。まさか、あんなキレイに決まるとは」
清瀬は語尾を声にできず、肩を揺らして笑っている。笑いが最高潮に達したらしい。失礼なやつだ。
とは思わなかった。
人気者は人気者らしくつねに人に囲まれていて、まるで発光しているかのようにどこにいるのかわかる。主張が激しいとも言えるけど。
見るたびに清瀬の表情はやわらかかった。
いつも明るくて、楽しいのが表情から滲み出ているやつがいるけど、そういうのとは違う。
笑っているわけじゃなくて、いつでも笑える準備が整っている、みたいな表情。
そのくせ、破顔するほど表情を崩すことはない。笑える準備を整えたまま、ずっといるのだ。準備が本番を迎えることはない。
そんな清瀬が初めて破顔した。涙を滲ませるほど笑っている。
鼻を明かしたような気分だった。誰も成し遂げられなかった偉業を果たした気分。
……まあ、俺が笑かした手応えはまったくないけど。
「笑ってる場合じゃないわよ。血は止まった?」
思春期男子の鼻血なんて見慣れているかのように、テキパキと処置してくれた養護教諭が訊ねてきた。
鼻を押さえていたティッシュを退けると、彼女は鼻の中を確認し「大丈夫そうね」とつぶやく。
「それじゃあ、ここに名前記入してくれる?」
養護教諭に来室記録を渡されて、クラスや名前、日時などを記入していく。
まだ慣れない三年二組の文字。出席番号では、何番だっけ、と一度手が止まってしまった。
「そうだ。三角くん、ついでに身長と体重を量っていかない?」
すべての欄を埋めたタイミングで、養護教諭がそう提案してきた。
学校の定期健康診断は四月から六月の間に行われる。前いた学校では四月に、この学校では五月にやったようだけど、俺はどちらの学校でも受けていなかった。
まずは身長計に立つ。養護教諭が数値を確認する。
「一七六・二センチね」
「え、マジ?」
計測結果に反応したのは清瀬だった。ちょっと伸びてるやった、とか思う間もなかった。
俺よりも高いはずの清瀬が驚く理由がわからない。
「俺より高いじゃん」
「清瀬くんは何センチなの?」
「四月に測ったときは一七六センチびったりだった」
マジか。俺より全然高いと思ってたけど、二ミリが誤差とはいえ、低いのか。意外だ。
ということは、今のマジかは、自分より下に見てたやつがじつは上だったのかよクソってやつ?
バカにされてんじゃねえか。
「四月ってことは伸びてるかもね。測ってみる?」
「いいの? やった。測る測る」
俺が身長計から降りるのと入れ替わりに、清瀬が嬉々として乗る。
すれ違いざまに頭のてっぺんのほうを見やると、たしかに思っていたよりも身長差はないようだった。
なのに、身長計に背筋をぴんと張って立つ清瀬は、やっぱりでかく見える。
「あら、伸びてるわよ。二ミリ」
「二ミリ? てことは……」
「三角くんといっしょ」
「ドローだ。セーフ!」
ドロー。つまり、なんだ?
俺より高く見えるのは、単純にこいつのスタイルがいいからか?
「二人とも高くて羨ましいわ。次は体重計に乗って」
俺が体重計に乗ろうとすると、清瀬がデジタルの表示部をのぞき込んできた。
「見んなよ」
「なんで? あ、体重見られたくないタイプ?」
こいつじゃなかったら、べつに気にしなかった。平均から大きく外れてないのは知ってるし。
けど、こいつにだけは知られたくない。
数字を見られたら、比べられる。身長差というハンデがなくなった今、それはもう正面から殴り合うようなもので。
これで俺のほうが地球に負担をかけているとわかったら、俺の尊厳が塵となって消えてしまう気がする。知られてたまるかよ。
「ここに乗ったからって、すべてが丸裸になるわけじゃないんだけどね」
クスッと笑う養護教諭。
身長計と体重計で人間の身体が丸裸になるわけじゃないけど、俺の思考は彼女には丸裸だった。
体重測定は一瞬で終わった。養護教諭が記録用紙に記入し、それを俺に渡してきた。
「最後に必要事項を記入してくれる?」
A4の用紙の上部に、名前や生年月日を記入する欄がある。
聴力や血圧の欄もあるけど、これは後日に実施するということなんだろう。
とりあえず、今埋められそうな名前と生年月日を書き込んでいく。
三角春希。二〇××年八月三〇日生まれ。
名前に春が入っているのに夏生まれなんだ、というツッコミは、俺が五歳のときにすでにしている。
言語学者である父が春にまつわる詩を研究していたことから、どうしても「春」の漢字を入れたかったらしい。
「え!?」
思わぬところから声が飛んできたのは、ちょうど生年月日を書き終えたときだった。
いつの間にかすぐそばに清瀬が並んでいて、俺の手もとをのぞいている。
「だから見んなって――」
「おまえ、八月三〇日生まれなの!?」
俺の言葉を遮った清瀬の目は大きく見開かれ、星を散りばめたみたいにキラキラと輝いている。
「そうだけど。八月三〇日、乙女座」
「俺も! 八月三〇日の乙女座!」
「まあ。それはすごい偶然ね」
うふふと笑みをこぼす養護教諭は、なんだか楽しそうだ。
「こんな偶然ある!?」
「あるだろ」
「ないだろ。俺が転校する前に転校してきて、身長いっしょ、誕生日もいっしょ。星座もいっしょ! これって、もはや運命じゃね?」
違うと思う――とは言えなかった。
たとえば、俺が郵便配達員だったとして。サンタクロースに手紙を出したいという少年を前にして、正しいことを言えるだろうか。
「ちゃんと送り先の住所を書いて、切手を貼って出してね」などと言ったら、目の前の少年は絶対に悲しむだろう。
そうとわかっているのに、運命じゃないと否定できるだろうか。
まさしく目の前のでっかい少年は、そんな目をしていた。
「いや。星座いっしょはあたりまえだろ」
俺のガチツッコミは、興奮する清瀬には届かなかった。
「俺、決めたわ。残り一ヶ月、俺の時間を全部、おまえにやる!」
四月から遅れること約三ヶ月。六月下旬に転校生として華々しい新生活のスタートを切る予定だった俺――三角春希の淡い期待は、初日にして儚く散る。
休み時間にクラスメイトから囲まれたり、よそのクラスの生徒が廊下に群がったり、名前も知らないかわいい女子に待ち伏せされたり。身の丈に合ってないと知りつつも、誰もが一度は夢みる妄想を時折、見た。
当然そんなドラマは起こりえなくて、ならせめて、友達作りのきっかけにできればよかったのだけど、なぜか俺はクラスメイトたちから受け入れてもらえなかった。
その理由が今、判明した。
バレーボールの授業を見学する俺に話しかけてきたのは、クラスメイトの清瀬流楓。すらりとした長身が、体育座りでいる俺を物珍しそうに見下ろしてくる。
「知らなかった」
「だよな。転校生にこんなこと言うのも変だけど、俺、一ヶ月後に転校するんだよね」
「そうなんだ」
興味がないわけじゃなかったけど、そうとしか答えられなかった。
「ま、それだけなんだけど」
清瀬は軽い感じでぼやくと、背を向けてバレーのボールを手まりのようにつき始めた。
空気が足りてないのか、ボールはあらぬ方向へと転がっていく。そのたびに清瀬は無邪気に追いかけて、俺の目の前に戻ってきてはまたつき始める。
なにがしたいのかよくわからない。まりつきがうまくなりたいわけでもないだろうに。
なのに、しばらくしないうちにボールが手もとに戻るようになった。清瀬の細く長い手にボールが吸い込まれていく。すると、ボールが床を跳ねて生まれる震動が、俺の胸に響いてくるようになった。
迷惑っちゃ迷惑。でも……。
ボールの震動はたしかに俺の安寧を阻害してくるけど、それ以上に体育館の中がうるさいからあまり気にならなかった。
五時間目の体育はみんな元気だ。
放たれたサーブボールがネットを掠って、軌道を変える。ボールに誰も触れられず、床に落ちた。片方のチームが「あー!」と悔しさを張り上げ、あまりかっこいいとは言えない点の入り方をした相手チームでは笑いが起こる。
元気というか、元気であろうとしているのが伝わってきた。このあとの六時間目で地獄を見ようとも、昼食後の眠気を吹き飛ばす勢いを感じさせる。
それを俺はただ眺めているだけ。開け放たれた扉のそばに腰を落ち着かせて、さっきからずっと観客になりきっている。
コートの反対側にいる得点係の男子と目が合った。
「流楓! そのボールこっちにちょうだい!」
俺を見たわけではなかった。清瀬の手が止まって、床を跳ねたボールをわしづかみにする。
「空気抜けてっけどいいー?」
「マジか! まあいいや」
得点係はコートの向こう側にいる。手を上げる彼に向かって、清瀬はボールを投げる構えを大きくとった。
「よし行くぞー!」
ボールが清瀬の手から離れる。二次関数のグラフのように急激な放物線を一直線に駆け上がろうとしている。
その先にあるのは体育館の天井。と、その手前にバスケットボールのゴール。
ボールは放物線の頂点まで達することなく、バスケットゴールのバックボードに当たって跳ね返った。
そして、戻る軌道をわずかに外れ、遠慮なく俺の顔面に飛び込んできた。それを受け止めきれなかった俺の身体が、弾かれたようにのけ反る。
すべてをスローモーションのように鮮明に捉えられたのはおそらく、なにが起こっているのかを理解しようとしないで頭が思考を放棄したからだろう。
背中に床の硬く冷たい感触が伝わったとき、ようやくなにが起こったのか理解に追いつこうとした。
俺はどうやら、攻撃を受けたらしい。
「うわ! 三角ごめん!」
清瀬の叫びが頭の中をこだまする。今の今までうるさかった体育館は、なぜか一瞬にして静まり返った。
視界に映るのは、焦りにゆがむ清瀬の顔と開け放たれた扉からのぞく青空だけ。ほかにはなにも見えないのに、注目を浴びているのが肌を伝う空気感でわかる。
どうしてこうなった?
転校生ならあっと目を引く存在になれるかもしれないと思ったけど、こういう形で目立ちたかったわけじゃない。
そもそも、なんで清瀬は俺に話しかけてきたんだろうか。
*
転校してきたクラスにはすでに俺とは別の転校生がいて、期待していた特別な出会いは、いとも簡単に日常に飲み込まれた。
そいつは海外でも活躍するモデルの母親を持ち、遺伝をしっかり受け継いだ容姿をしていた。
すらりとした長身。身体の半分以上はありそうな脚。細く長い指。血色感のある健康そうな肌。太陽の光に照らされると赤く輝く茶色の髪。顔の輪郭はシャープで、鼻筋が通っている。
パーツひとつひとつが洗練されていた。
当然、彼はクラスで人気を集めていた。
休み時間になって囲まれるのは俺ではなく彼で、放課後になるとほかのクラスからお誘いがくるのも彼にだけ。
かわいい女子と二人でいるところは見てないけど、ほとんどの状況でまわりに女子がいる。
陽キャ、一軍、勝ち組。そのどれにも当てはまる彼の名前は、清瀬流楓。名前までもキレイだ。
俺がクラスに受け入れてもらえなかったのは、人気者が転校するかわりにやってきた転校生、という微妙な立ち位置についてしまったせいだった。
初日は、転校生に与えられた特等席――窓際の一番後ろの席でひっそりと過ごした。
ここにいれば、とりあえず、できあがったクラスの雰囲気を邪魔することはないだろう。
今日は、その二日目。俺が人気者の転校生のかわりになれることはないと判明した。
卒業まで残り半年。受験を考えれば、その程度の時間を一人で過ごすのは大して苦じゃないはずだ。
このクラスでなにかを成し遂げようとするのは諦めよう。
荒波を立てずに、平穏に過ごせればいい。
鉄に似た匂いがつんと鼻を刺激する。
鼻腔にまとわりつく生温かいものは、水のようにさらりとはしていなかった。とろりと粘り気がある。こちらの意思に反して垂れてくるのが不快感極まりない。
体育教師のポケットから出てきたくしゃくしゃのティッシュを鼻に当てると、あっという間に赤く染まった。
「鼻血ブーひさしぶりに見たわ」
保健室に着いて養護教諭から処置を受けていると、清瀬がケラケラと笑い声を上げながら言った。
「誰のせいだよ」
「だからごめんて。まさか、あんなキレイに決まるとは」
清瀬は語尾を声にできず、肩を揺らして笑っている。笑いが最高潮に達したらしい。失礼なやつだ。
とは思わなかった。
人気者は人気者らしくつねに人に囲まれていて、まるで発光しているかのようにどこにいるのかわかる。主張が激しいとも言えるけど。
見るたびに清瀬の表情はやわらかかった。
いつも明るくて、楽しいのが表情から滲み出ているやつがいるけど、そういうのとは違う。
笑っているわけじゃなくて、いつでも笑える準備が整っている、みたいな表情。
そのくせ、破顔するほど表情を崩すことはない。笑える準備を整えたまま、ずっといるのだ。準備が本番を迎えることはない。
そんな清瀬が初めて破顔した。涙を滲ませるほど笑っている。
鼻を明かしたような気分だった。誰も成し遂げられなかった偉業を果たした気分。
……まあ、俺が笑かした手応えはまったくないけど。
「笑ってる場合じゃないわよ。血は止まった?」
思春期男子の鼻血なんて見慣れているかのように、テキパキと処置してくれた養護教諭が訊ねてきた。
鼻を押さえていたティッシュを退けると、彼女は鼻の中を確認し「大丈夫そうね」とつぶやく。
「それじゃあ、ここに名前記入してくれる?」
養護教諭に来室記録を渡されて、クラスや名前、日時などを記入していく。
まだ慣れない三年二組の文字。出席番号では、何番だっけ、と一度手が止まってしまった。
「そうだ。三角くん、ついでに身長と体重を量っていかない?」
すべての欄を埋めたタイミングで、養護教諭がそう提案してきた。
学校の定期健康診断は四月から六月の間に行われる。前いた学校では四月に、この学校では五月にやったようだけど、俺はどちらの学校でも受けていなかった。
まずは身長計に立つ。養護教諭が数値を確認する。
「一七六・二センチね」
「え、マジ?」
計測結果に反応したのは清瀬だった。ちょっと伸びてるやった、とか思う間もなかった。
俺よりも高いはずの清瀬が驚く理由がわからない。
「俺より高いじゃん」
「清瀬くんは何センチなの?」
「四月に測ったときは一七六センチびったりだった」
マジか。俺より全然高いと思ってたけど、二ミリが誤差とはいえ、低いのか。意外だ。
ということは、今のマジかは、自分より下に見てたやつがじつは上だったのかよクソってやつ?
バカにされてんじゃねえか。
「四月ってことは伸びてるかもね。測ってみる?」
「いいの? やった。測る測る」
俺が身長計から降りるのと入れ替わりに、清瀬が嬉々として乗る。
すれ違いざまに頭のてっぺんのほうを見やると、たしかに思っていたよりも身長差はないようだった。
なのに、身長計に背筋をぴんと張って立つ清瀬は、やっぱりでかく見える。
「あら、伸びてるわよ。二ミリ」
「二ミリ? てことは……」
「三角くんといっしょ」
「ドローだ。セーフ!」
ドロー。つまり、なんだ?
俺より高く見えるのは、単純にこいつのスタイルがいいからか?
「二人とも高くて羨ましいわ。次は体重計に乗って」
俺が体重計に乗ろうとすると、清瀬がデジタルの表示部をのぞき込んできた。
「見んなよ」
「なんで? あ、体重見られたくないタイプ?」
こいつじゃなかったら、べつに気にしなかった。平均から大きく外れてないのは知ってるし。
けど、こいつにだけは知られたくない。
数字を見られたら、比べられる。身長差というハンデがなくなった今、それはもう正面から殴り合うようなもので。
これで俺のほうが地球に負担をかけているとわかったら、俺の尊厳が塵となって消えてしまう気がする。知られてたまるかよ。
「ここに乗ったからって、すべてが丸裸になるわけじゃないんだけどね」
クスッと笑う養護教諭。
身長計と体重計で人間の身体が丸裸になるわけじゃないけど、俺の思考は彼女には丸裸だった。
体重測定は一瞬で終わった。養護教諭が記録用紙に記入し、それを俺に渡してきた。
「最後に必要事項を記入してくれる?」
A4の用紙の上部に、名前や生年月日を記入する欄がある。
聴力や血圧の欄もあるけど、これは後日に実施するということなんだろう。
とりあえず、今埋められそうな名前と生年月日を書き込んでいく。
三角春希。二〇××年八月三〇日生まれ。
名前に春が入っているのに夏生まれなんだ、というツッコミは、俺が五歳のときにすでにしている。
言語学者である父が春にまつわる詩を研究していたことから、どうしても「春」の漢字を入れたかったらしい。
「え!?」
思わぬところから声が飛んできたのは、ちょうど生年月日を書き終えたときだった。
いつの間にかすぐそばに清瀬が並んでいて、俺の手もとをのぞいている。
「だから見んなって――」
「おまえ、八月三〇日生まれなの!?」
俺の言葉を遮った清瀬の目は大きく見開かれ、星を散りばめたみたいにキラキラと輝いている。
「そうだけど。八月三〇日、乙女座」
「俺も! 八月三〇日の乙女座!」
「まあ。それはすごい偶然ね」
うふふと笑みをこぼす養護教諭は、なんだか楽しそうだ。
「こんな偶然ある!?」
「あるだろ」
「ないだろ。俺が転校する前に転校してきて、身長いっしょ、誕生日もいっしょ。星座もいっしょ! これって、もはや運命じゃね?」
違うと思う――とは言えなかった。
たとえば、俺が郵便配達員だったとして。サンタクロースに手紙を出したいという少年を前にして、正しいことを言えるだろうか。
「ちゃんと送り先の住所を書いて、切手を貼って出してね」などと言ったら、目の前の少年は絶対に悲しむだろう。
そうとわかっているのに、運命じゃないと否定できるだろうか。
まさしく目の前のでっかい少年は、そんな目をしていた。
「いや。星座いっしょはあたりまえだろ」
俺のガチツッコミは、興奮する清瀬には届かなかった。
「俺、決めたわ。残り一ヶ月、俺の時間を全部、おまえにやる!」



