無能の鬼姫〜最強次期当主様との出逢い〜

4章

まさか、私のような「無能」が神城さんの婚約者になるなんて、今でも幸せな夢を見ているのではないかと思ってしまう。
でも、明日からの学園生活を思うと不安で胸が押し潰されそうだった。                             今日の全校集会で見せつけられた、あの憎悪に満ちた皆の反応。特にAクラスやBクラスの生徒たちは、まるで親の仇でも見るかのような鋭い眼差しを私にぶつけていた。
そして、誰よりも恐ろしかったのは、あの時の薫の表情……。
結局、あの後は動悸が収まらず、午後の授業に出ることは叶わなかった。
そして今、ようやく帰路についているのだけれど――。
「あの、神城さん。なぜわざわざ家まで……?」
「なぜ、とは? 婚約者を送り届けることに、何か不都合でもあるか?」
「いえ、そういうわけでは無いんですが……」
神城さんは当然のように、私を家まで送ると言って聞かなかった。
今は神城家の立派な車に揺られ、自宅へと向かっている。
車内には運転手さん以外、私と神城さんの二人きり。
(き、気まずい……っ!)
密閉された贅沢な空間の中で、神城さんの存在感が嫌でも肌に伝わってくる。何を話せばいいのか、どんな顔をしていればいいのか。 沈黙が続くほどに心拍数が上がり、私はただ膝の上で指を絡めることしかできなかった。
「今日、玲花の家へ向かうのは、正式な婚約者として挨拶を済ませるためだ」
こっ、婚約者の挨拶……!?
「あ、あの……ご挨拶に伺うのは、あまりに早すぎるのでは……っ」
あまりの急展開に、心臓が跳ね上がる。
だって、私たちが初めて言葉を交わしたのは今日で、婚約者になったのも、つい数時間前のこと。
学園での騒ぎはすでに広まっているかもしれないけれど、家にいる両親や家族はまだ何も知らないはずだ。もし、このことが彼らの耳に入ったら……。
その瞬間、脳裏を過ったのは、両親の容赦ない怒声と、何度も叩きつけられた痛みの記憶。忌まわしい過去が鮮明にフラッシュバックし、胃の奥が冷たく凍りつく。
(怖い……っ)
逃げ場のない恐怖に襲われ、気づけば全身がガタガタと震え始めていた。
「玲花」
不意に、低く柔らかな声で名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。
すると、目と鼻の先には、ため息が出るほど美しい神城さんの顔が迫っていた。
「ど、どうしましたか……っ」
あまりの近さに声が上ずってしまう。けれど彼は、私の怯えを見透かすように真っ直ぐに見つめ、強く、確かな声で告げた。
「大丈夫だ、玲花。何があっても、必ず俺が君を守るから」
その言葉が、凍りついていた私の心を溶かすように温めた。いつの間にか、あれほど酷かった体の震えが、嘘のように収まっていく。
神城さんは、私の不安を感じ取って、あえて優しい言葉をかけてくれたのだろうか。
(なんて……優しい人なんだろう)
出会ったばかりだというのに、その温もりに触れるたび、私の胸は甘い鼓動を刻んでしまう。
「玲花様、お屋敷に到着いたしました」
運転手さんの落ち着いた声に引き戻され、窓の外を見れば、そこには見慣れたはずの不吉な家影があった。
「ありがとうございます」と運転手さんにお礼を伝え、神城さんの手でエスコートされながら車を降りる。
けれど、一歩足を踏み入れた邸宅の中に、今日という記念すべき日を祝うような温かい声は、どこにもなかった。
代わりに私の耳を貫いたのは、家の空気を震わせるほどの、凄まじい怒号だった。
「どういうことだ!! あの無能が神城家の次期当主様の婚約者だなんて、何かの間違いだろう!!」
屋敷の奥から響き渡ったのは、地を這うような父の怒号だった。
久々に聞く本気の怒声に、私の足はすくみ、心臓が恐怖で凍りつく。
けれど、それ以上に恐ろしかったのは、隣に立つ神城さんの変貌だった。
ふと見上げた彼の横顔は、全校集会で全校生徒を震え上がらせたあの冷酷な表情に戻っていた。
(どうしよう……お願い、誰か早く気づいて……!)
まだ、家族の誰も私たちの帰宅には気づいていない。だからこそ、いつも通りの醜悪な本性が剥き出しになっているのだ。
「全く、どうなっているんだ! あの無能が帰ってきたら、即座に問い詰めて……!」
吐き捨てるような言葉と共に、父が奥の部屋から姿を現した。
その背後には薫と継母も続いていたが、玄関に立つ私たちの姿を認めた瞬間、三人の顔から血の気が一気に失われ、幽霊でも見たかのように真っ青に染まった。
「れ、玲花……! なぜ、神城家の次期当主様が、お前と一緒に……っ」
父の声が、先ほどまでの勢いを失って無様に震える。
自分たちの罵声を神城様に聞かれたかもしれない――その恐怖に、彼らは喉を震わせ、立ち尽くしている。
すると、神城さんは先ほどまでの凍てつくような冷徹さを一瞬で消し去り、仮面を被るかのような、非の打ち所がないほど爽やかな笑みを浮かべた。

「突然の訪問となり、申し訳ありません。実はお話があって参りました」
「そ、そうでしたか! ささ、どうぞこちらへ!」
父は神城さんの放つ威圧感に怯えながらも、慌てて客間へと案内した。
家族の三人と正面から向き合うのは、昨日の薫の婚約報告以来だ。
「それで……お話というのは、一体何でしょうか?」
先ほどまでの荒々しさが嘘のように、父は落ち着いた様子で、礼儀正しく問いかけた。
失礼な話だけれど、お父さんがこんなにも洗練された言葉遣いができるなんて、初めて知った。十数年の間、一度も見たことがなかったけれど、これでも彼は名門・鬼龍院家の現当主。立場に相応しい振る舞いなど、できて当然だったのだろう。
(すごい……お父さん、あんなに堂々と話せるんだ)
私はあんな風に淀みなく挨拶することすらできないから、父の豹変した姿に、場違いなほどの尊敬を抱いてしまう。
そんな私の心境など露知らず、神城さんは低く、重みのある声で返答した。
「ああ、そのことだが……。先ほどの様子では、もう知っているようだったな」
神城さんの冷ややかな一言に、父の肩が弾かれたようにビクリと跳ね上がった。
「もしかして……玲花との、婚約の件でしょうか?」
父が絞り出すように発したその言葉に、神城さんは無言で、けれど重々しく頷いた。
その肯定を突きつけられた瞬間、父の顔からは先ほど以上の勢いで血の気が引き、土気色を通り越して真っ青に染まっていく。
「そ、そう……でしたか。しかし、玲花を婚約者に選ばれるとは……」
父の視線が、値踏みするように神城さんから私へと移った。
「玲花は、見ての通り無能で役立たずな娘ですが……それでも、本当によろしいのですか?」
父は神城さんの顔色を窺いながら、あろうことか本人を目の前にして私を貶めてみせた。
その刹那、神城さんの表情から一切の温度が消え、今日一番の、凍てつくような殺気が部屋を満たした。
「――おい。俺の婚約者を、二度と侮辱するな」
低く、地這うような声音。その一言に、家族三人は蛇に睨まれた蛙のように震え上がった。特にお父さんは、今にも恐怖で意識を失いそうなほど、がたがたと歯を鳴らしている。
「申し訳ありませんでした……っ!!」
なりふり構わず、父はその場に膝をつき、額を床に叩きつけるようにして土下座した。
無理もない。父と神城さんの間には、誰の目にも明らかなほどの、圧倒的な力の差がある。逆らえば一族もろとも消されかねないという本能的な恐怖が、彼をそこまで駆り立てたのだろう。
必死に許しを請うその無様な姿を見届け、神城さんはようやく、憑き物が落ちたかのような爽やかな笑顔へと戻った。

「では、玲花は正式に私の婚約者となります。今後、彼女には一切関わらないでいただきたい」
「は、はい……承知いたしましたっ!」
父の震える返諾を聞き届け、神城さんは満足げに頷くと、再び私を優しくエスコートして立ち上がった。
退出の間際、彼は襖(ふすま)に手をかけたまま一度だけ足を止め、背後で平伏する三人へと冷徹な視線を投げかけた。
「言い忘れていましたが……もし今後、少しでも玲花に手出しをするようなことがあれば、その時は命がないものと思ってくださいね」
有無を言わせぬ絶対的な脅し。
(命がないなんて……きっと、冗談だよね?)
神城さんはあんなに優しい人なんだから、本当にそんな恐ろしいことをするはずがない。私は自分にそう言い聞かせ、彼の背中を追って屋敷を後にした。
けれど、玄関を出て門をくぐった先で、なぜか再び神城家の車へと促される。
「あ、あの……どうしてまた車に……?」
てっきりこのまま神城さんを見送って、自分の部屋へ戻るものだと思っていた私は、困惑して足を止めた。
「玲花、急で済まないが……このまま俺の家へ向かうことに決めた」
「えっ!? 神城さんのお家に、ですか!?」
あまりにも性急すぎる展開に、思わず声を上げてしまう。
今日の婚約発表といい、この強引な連れ出しといい、彼は一体何をそんなに急いでいるのだろうか。
けれど、彼ほどの人がここまで頑ななのは、きっと私には計り知れない深い事情があるに違いないし言わないでおこう。       私は溢れ出しそうな疑問を飲み込み、静かに車へと乗り込んだ。
「あの……神城さんのご実家にも、婚約のご報告に伺うのですか?」
おずおずと尋ねると、神城さんは意外なものを見るように、きょとんとした顔で私を見つめた。
(え……あ、あれ? 違ったのかな……)
てっきり、ご両親への挨拶か何かだと思い込んでいたけれど、それ以外に一体何をしに行くというのだろう。
「いや、今日から玲花には俺の家で暮らしてもらう」
神城さんの淡々とした、けれど決定的な一言に、私は石のように固まってしまった。
神城さんの家で、暮らす……?
今日から……えっ、今すぐ!?
数分後、ようやく停止していた思考が再起動し、私は彼に向かって勢いよく詰め寄った。
「ど、どどど、どういうことですか!? 私が、神城さんのお家に住む……っ!?」
あまりの急展開に、自分でも情けないほど口調がしどろもどろになってしまう。
でも、驚かない方が無理だ。今日初めて会ったばかりの人の家で、今日から生活を共にするなんてことが、私の預かり知らぬところで勝手に決まっているのだから。
神城さんは、初めて見る私の激しい動揺に少しだけ意表を突かれたような顔をした。
そして、諭すように私の肩にそっと手を置き、静かな熱を帯びた声で話し始めた。
「すまない。あまりに急ぎすぎたな。……けれど、あんな家に、もう君を置いてはおけないんだ」
その一言で、私はハッと思い出した。先ほどまでの、あの凍りつくような実家の空気と、自分に向けられていた刃のような悪意を。
(あ……もしかして、神城さんは気づいてくれていたの?)
それは、挨拶のために部屋へ通される前、お父さんの凄まじい怒号に身をすくませていた時のこと。
昔から私はお父さんに逆らうことなんてできず、いつもその影に怯えて生きてきた。
特に幼少期の扱いは今以上に苛烈で、容赦なく振り下ろされる拳に、何度も意識を失ったことがある。その時の痛みが、恐怖が、今も体に深く刻み込まれて消えないのだ。
今日も、あの頃に戻ったようなお父さんの気配に、喉がせり上がって息をすることさえままならなかった。
もし隣に神城さんがいなかったら……。きっと私は、昔のように抗う術もなく、倒れるまで殴られ続けていただろう。
思い返すだけで震えが止まらない。
神城さんは、私のその微かな異変を、隠しきれない怯えを、すべて察してくれたのだ。
だからこそ、あんな強引な手段を使ってまで、私をあの地獄から連れ出してくれた。
(どこまでも、優しい人……)
胸の奥に、じわりと温かな感謝が染み渡っていく。
「……ありがとうございます」
今の私にできるのは、ただ素直に彼の差し伸べてくれた手を取ることだけ。
この身に余るほど大きな恩を、いつか必ず返せるように。
その日まで、私はこの人の傍にいよう。そう、静かに心に誓った。

長く、重い鎖から解き放たれるように、私は長年過ごした鬼龍院の屋敷を後にした。
この場所に刻まれた記憶のほとんどは、肌を刺すような痛みと、息もできないほどの孤独。けれど、かつて私を愛してくれた亡き母との、数少ない温かな思い出が眠る場所でもあった。
門をくぐる瞬間、ふと足を止めて振り返る。胸の奥にちくりと走ったのは、名残惜しさだろうか。
(さようなら、お母さん)
私は今日、この場所を捨てて、神城さんと共に生きていく。
もう二度と、この門をくぐることはないだろう。だからせめて、心の中でだけ告げておく。
お母さん、ありがとう。私はこれから、新しい居場所で、新しい自分の人生を歩み始めます。だからどうか、天国から見守っていて。
「――さあ、行こうか」
不意に降ってきた神城さんの穏やかな声に、私はゆっくりと目を開いた。
そこには、夕映えに照らされながら、この世のものとは思えないほど優しい微笑みを浮かべる彼の姿があった。
そのあまりに綺麗な横顔に、心臓がトクンと跳ねたのは……彼には内緒にしておこう。
「はい、神城さん」
数えきれないほどの夜を涙で明かした私が、いつぶりだろう。心の底から安らいだ、本当の微笑みを彼に返した。
車がゆっくりと動き出そうとした、その刹那。
『玲花、いつまでも見守っているわよ』
耳元で、羽毛が触れるような温かく、どこまでも優しい声が響いた。
懐かしくて、胸が締め付けられるほど心地よい響き。――間違いない、お母さんだ。
暗闇の中で独り震えていた私を、いつも抱きしめてくれたあの慈しみに満ちた声。
「……ありがとう、お母さん」
誰の耳にも届かないほどの小さな囁きで、私は最愛の母へ感謝を告げた。
「玲花? 何か言ったか?」
隣で神城さんが、不思議そうに私を覗き込んできた。
心配そうに揺れる彼の瞳を見て、私は少しだけ悪戯っぽく、けれど幸せな気持ちで首を振る。
「いいえ、なんでもありません」
これは、空の上のお母さんと私、二人きりの大切な秘密。
車窓を流れていく景色は、もう二度と戻らない過去。
けれど、隣に座る彼の温もりを感じながら、私は前よりもずっと確かな足取りで、新しい未来へと踏み出していた。