ルームメイトの口説き方

 朝はすっきりと目覚め、朝食もたっぷりと食べ、午前の授業で教師に当てられた問題も滞りなく答えられ褒められた。
 いつにない快調で迎えた昼。昨日は午後の自由時間を楽しむべく意気揚々と教室を出る人たちをなんとなしに見ていたけれど、今日は俺もそのひとりとなっていた。
 といっても向かうのはまず、寮の部屋。槐くんはもういるだろうか。それとも、まだ部活中だろうか。デートの服装は、私服は寝巻しかないから制服でいいだろうか。他になにか必要なものごとは。
 そんなことを考えながら寮の部屋に向かう足取りは弾み、「105号室」のドアを勢いよく開けて中に入る——。
 「あ」
 「え」
 そこには槐くんがいた——制服に着替えている最中らしく、シャツの前がはだけた槐くんが。
 俺は一瞬固まり、それから「失礼しました!」と廊下に戻ろうとしたが、槐くんに腕を引かれる。
 「失礼しないでください」
 槐くんは俺を室内に引き入れると、ぱたんとドアを閉める。そして俺の体を背後から抱きしめた。
 「お疲れ様です、嵐先輩」
 「お、お疲れ様……えっと、俺、廊下出てるから」
 「なんでですか」
 「なんでって、槐くん、着替えてる最中だし」
 「ルームメイトになってから俺の着替えなんて何度も見てるでしょう?」
 それはそうなのだけれど。関係性も変わったし、槐くんが俺に触れたいと思っていることも、俺が槐くんに触れたいという欲を抱いていることも知ってしまった。意識するなという方が無理な話だ。
 「嵐先輩に意識してもらえるの、嬉しいです」
 心を読んだように、はたまた端から俺の動揺の理由を知っていてか、槐くんが頭上で小さく笑いを零した。さすがにそれには揶揄われていると思い、身を翻して文句を呈そうとしたら、そこにあったのはうっとりとした表情をした槐くん。
 少し蕩けた瞳と視線が絡むと、喉元まで出て来ていた言葉は泡となり、口腔はからりと乾く。
 槐くんの両手が俺の頬を包む。相変わらずひんやりとしている。槐くんに引き寄せられるままに顔が近づき、鼻先が触れ、呼吸が交わる。
 そこで俺ははっとした——このそれっぽい雰囲気は、早速キスチャンスが訪れたのでは!?
 あと少し、俺が動けばきっと唇が重なる。朝から快調のお陰か、思ったよりもすぐに腹は決まる。よし、出来る。やるぞ、と距離を詰めようとしたとき。槐くんの両手が俺の頬から外れ、槐くんはくるりと俺に背を向ける。
 「話してたらデートの時間、減っちゃいますね。すぐ着替えるので、ちょっと待っててください」
 「え、あ、うん……」
 キスチャンスは呆気なく過ぎていった。もっと早く腹を決めるべきだったか。いやでも、俺にしては早く腹を決められた方だと思うのに。失敗に悶々としている間に、槐くんは制服に着替え終えた。
 「じゃあ、出かけましょうか」
 「あ、うん」
 最初のチャンスは逃してしまったが、デートはこれから。まだまだ機会は訪れるはずだと俺は奮起した。
 槐くんについていき向かったのは学校の最寄り駅。そこから地下鉄で数駅行き降りたのは、この街で唯一複数の路線と繋がっているターミナル駅。商業や観光の中心地でもあるため、常に老若男女問わず多くの人々で賑わい、学生同士で遊びに行く際にもよく選ばられる場所だ。
 改札を潜り、地下から外に出たところで、俺は槐くんに尋ねた。
 「どこ向かってるの」
 「俺の行きたい場所、と言ってくれたので、俺がたまに行く好きな場所です」
 槐くんがたまに行く好きな場所。考えてみるも思い浮かばず、そこで改めて俺は槐くんのことをまだあまり知らないのだと実感する。
 そもそも今日のデートは、俺が槐くんのことを知りたいと望んだから、互いのことを知るためにと槐くんが設置してくれたもの。槐くんのことをよく知る大事な機会なのに、俺はといえばデートでいい雰囲気なってキスをしたい……なんてことばかりに囚われていた。恥ずかしくて情けなくなる。
 ちゃんとデートを楽しもう。槐くんのことを知ろう。そして、槐くんに俺のことを知ってもらう一環として、伝えよう。槐くんにキスをしたいというこの思いを。もう拒むことはないから、槐くんもしたいと望むときにしてほしいと望んでいることを。雰囲気や流れに任せてただ俺からキスをしようとするのではなく、まずはしっかりと、言葉にして。
 やがて辿り着いたのは、商店街に面する大きな商業施設。その中に入っている、水族館だった。
 存在は知っていたが訪れるのははじめてだった。
 雰囲気づくりのためか、受付フロアの時点から既に青暗い。ゴールデンウィークの最中ということもあり、客足はそこそこ。チケットを買うために列に並ぼうとしたら、槐くんが俺の袖を引いた。
 「朝のうちに電子チケット買っておきました」
 「えっ、用意周到だ。代金いくら?」
 「内緒です」
 「……調べるから待ってて」
 「調べないで」
 スマホを取り出そうとするも、槐くんに阻止される。
 「俺の方は年パスなので実質タダですし。俺が先輩に見てほしくて連れて来たので、奢られてください」
 年パスを持っているほど好きなのか、とか、タダではないだろ、とか、奢らせたくない、とか。色々な感想が行き交う。けれど、槐くんは微笑みながらも主張を譲ってくれる気配はない。このまま押し問答になるのも嫌だったから、不服ながらも俺の方が折れることにした。
 「……じゃあ、夕飯は外で食べて帰ろう。それで、俺に奢らせて」
 「分かりました。嵐先輩と夕飯、嬉しいです」
 案内に従い、俺たちは館内へと進んでいった。どうやらこの水族館には順路なるものはないらしく、気に入った場所を自由に楽しんでもらう、というのがコンセプトのひとつらしい。
 だからまずは槐くんが一番気に入っているという場所に連れて行ってもらった。
 ひときわ暗い空間、壁の電車の窓のように繰り抜かれた部分が水槽となっていて、そこにクラゲをはじめとしたプランクトンがふよふよと泳いでいる。幻想的で、なんだか落ち着く場所だった。
 「綺麗……」
 「ひとりでくるときは、この部屋でぼーっとプランクトンを眺めていることが多いです」
 ふよふよ、ひらひら。水の流れのままにプランクトンたちが舞っている。
 それを眺めている槐くんの横顔は、穏やかで、瞳は煌めいていて、それにもまた「綺麗」という感想が唇から転び出た。
 槐くんの瞳がこちらを向いて、そっと細む。
 「気に入っていただけましたか」
 「あっ、うん……ごめん、今はちょっと、槐くんに見惚れてた」
 ぱちりと瞬いた槐くんが小さく笑った。
 「嵐先輩、素直ですね」
 「でも、ここが気に入ったのも本当だよ。俺、水族館って、学校の見学学習くらいでしか行ったことなくてさ。自分で行こうと思ったこともなくて、ここに来たのもはじめてだけど……楽しいし、落ち着く。槐くんはいつ頃からここに来てるの」
 「中学のときですね。勉強ばっかしてないでたまには息抜きしなさいって親にチケットを押し付けられたのが最初です」
 「勉強しなさいじゃなくて、勉強の息抜きしなさい、なんだ」
 「自分の親ながら親っぽくないと思います。まぁ、中三の受験期で、部活引退してからはひたすら机に向かっていたのもありますけど。うちの親は結構楽観的なところがあるので、勉強も大事だけど遊びももっと楽しめって煩かったんですよ。長期休みには遊園地や旅行にも連れ出されました」
 槐くんは呆れた表情で肩を竦める。はじめて見る槐くんの一面、家ではこういった態度を取ることが多いのかもしれない。思春期の男の子らしくて微笑ましい。
 「楽しそうな親御さんだね」
 「まぁ……いい親だとは思います。俺が学校行きたくないと思っていた時期は、行かなくていいって言ってくれましたし」
 「それは……中学生の頃?」
 「いえ、小学生のときです。人見知りでおどおどしてるのに、背だけは人より高くて目立ってたから、結構揶揄われていたんですよ。それに対して俺はやめてと抵抗することもできなくて。そのうち学校に行きたくなくなって、六年生の頃は結構休んだり、保健室登校してました」
 「そう、だったんだ……」
 「だから中学は校区外申請を出してもらって、小学校時代の知り合いがいないところに進学したんです。新しい環境に行けば、新しい自分になれて、また一から学校生活を楽しめると思ったんです。それで……新しい環境で揶揄われることはなくなりました。でも俺自身は変わりませんでした。当然です。環境の変化に合わせて俺の人間性も自動で変わるわけじゃない。変わろうとしなくちゃ変われないのに、頑張らなかった。相変わらず人見知りで、自己主張が出来なくて、おどおどとしたまま。そんな不甲斐ない俺にも、あなたは光を齎してくれた」
 槐くんが俺の手をそっと握った。
 「ここにいる間だけ、握っててもいいですか。暗くて、きっと、誰にも見えないと思うから」
 自己主張が出来なかった頃の槐くんのことを、俺はほとんど知らない。けれど、槐くんが俺に触れるときの手の冷たさは、よく知っている。
 俺が槐くんにした励ましは、俺がどれだけささやかだと思っていても、槐くんにとっては光で、人生の導に値するものだったのだろう。それでも、「頑張って」と言われて実際に頑張れたのは、バレーを楽しめるようになったのは、緊張しながらもほしいものに手を伸ばせるようになったのは。傷ついた過去がありながらも、ここまで大きく花開いたのは。間違いなく槐くん自身の、たゆまぬ努力と勇気によるものだ。
 だから槐くんが、めいっぱい捧げてくれる愛に……きっと俺が知りたいと望んだからこそ口にしてくれた彼の深い話に、俺の胸は激しく震えた。ただその思いに答えたいではなく、俺の望みも、それが気恥ずかしく口にするには勇気がいることでも、伝えたいと思う。
 「……俺は、ここを出ても、離したく、ないんだけど」
 汗ばむ手で握り返し、俺よりも高い位置にある槐くんの顔を仰ぐ。槐くんはわずかに目を見開き、それから嬉しそうに、少し、泣きそうに、微笑んだ。
 「前言撤回してもいいですか。デートが終わるまで、ずっと、嵐先輩と手つないでいたいです」
 「うん。つないでいよう。あの、それから、その……」
 伝えたい、の気持ちで胸がいっぱいになった、今。俺は昨日から抱えている、まずは言葉にしてしっかりと伝えようと決意した望みも口にする勇気が湧いた。
 「俺、槐くんとキ——」
 『間もなく、ペンギンタイムが開演いたします。興味のあるお客様はペンギンエリアにお越しいただき、ペンギンたちが泳いだり食事をする姿をぜひお楽しみください』
 天井のスピーカーから穏やかな声の館内アナウンスが流れてくる。伝えようとしていた言葉の勢いを失った俺は呆ける。周囲の人々はアナウンスに惹かれてか、移動しはじめる。
 「嵐先輩?」
 その中で立ち止まったままきょとんと首を傾げる槐くんに、ややあってから俺が言えたのは。
 「……ペンギン見に行く?」