ルームメイトの口説き方

 他愛のない話を交わしているうちに、レモンと焦がしバターのうっとりするような香ばしさ部屋中に広がり、フィナンシェは焼き上がった。
 美琴は双子の兄が所属しているということもあり、時々男子バレー部に顔を出しては、料理部などで作ったお菓子を差し入れしていた。今回も差し入れのつもりで作っていたらしく、俺と美琴でいくつか味見を楽しんでから、一緒に男子バレー部に持っていくことにした。
 正直、少し気まずさはある。男子バレー部に差し入れを持っていくとなればほぼ確実に、槐くんと顔を合わせることになるから。思うだけで、緊張するしドキドキもする。知り合いも少なくない中で顔が赤くなってしまわないか、平常心を保っていられるだろうか。
 ただ一方で、部活に勤しんでいる槐くんの姿が見てみたい気持ちもあった。高い背丈に逞しい肉体でバレーボールをする槐くんの姿はさぞかっこいいのではないかと思う。
 そんなことを思いながら辿り着いた、第一体育館。
 ドアを開けるなり響いたのは、きゅっとバレーシューズがフローリングを擦る音。
 目に飛び込んでくるのは、羽でも生えているかのように高く跳躍する、長身を緑ジャージに包んだ男——槐くん。
 膝を折り、背をぐっと撓らせ、すらりと長い左手を伸ばし、右手を引く。弓のように美しい、ボウ&アロウのスパイクフォーム。
 黒い髪はふわりと舞い上がり、澄んだ瞳が攻撃の狙いを定める。振り下ろされた右手が、宙を舞うボールと、高い打点を結ぶ。
 その一連の動きは一見、静謐でしなやか。しかし、ボールを打つ音、そして、打ち込まれたボールが凄まじい速度で相手コートの床を突く音は、鼓膜の震えを感じるほどに鋭かった。
 そしてスパイクを決めた後の槐くんの着地は、大鳥が水面に降り立つように荘厳で美しく、それでいてその足音は立派な体躯に合わせてしっかりと力強かった。
 ピピーッと笛が高らかに鳴って、俺ははっとした。
 そこでようやく、槐くん以外の部員の姿が俺の視界に入ってくる。どうやら三対三の試合形式で練習をしていたようで、コート上には槐くんを含めて六人の部員がいた。彼らはネットの前に集まるとそれぞれ深く礼をし、それぞれタオルや水筒を取るために体育館脇へと駆けていく。
 「誉~!」
 美琴が呼びかけると、コート脇で審判役をしていた誉が、俺と美琴の姿を捉えた。その表情はあっという間に、男子バレー部員から幼馴染の、やわらかな雰囲気のものへと変わっていく。
 美琴が呼びかけたことで他の部員の視線も体育館入口に集まり、槐くんもこちらを見た。ばち、と視線が合って、俺の心臓は高鳴る。思わずぱっと目を逸らしてしまってから、もう一度おずおずと槐くんの方を見ると、やわらかく瞳を細めた彼がそっと手を振ってくれる。俺はドキドキとしながらも、小さく手を振り返した。
 誉は俺たちの元に駆け寄ってくると、俺と美琴を見ながら、感極まったように言った。
 「美琴、嵐! 試合があるわけでもない休日に、わざわざ応援に来てくれたのか……!」
 「いや、俺は勉強合宿でもともと学校にいて」
 「今朝、うちのオーブンが完全に壊れちゃったでしょ。だから学校でお菓子作ろうと思って、嵐ちゃんに声を掛けたの。で、本当は明日持っていかせる予定だった差し入れだけど、せっかくなら作ったその日のうちに食べてもらった方が美味しいから、直接持ってきたってわけ」
 話しているうちに、男子バレー部の中でも特に親しい同級生たちがわらわらと集まってくる。その中には萩原も見て、体育館の中へ明るい声で呼びかけた。
 「部長ー、宮永と美琴ちゃんが差し入れ持ってきてくれたんで、休憩にしませんかー!」
 その呼びかけに部長は快く承諾し、一、三年生からもお礼の声が上がった。
 出入り口に集まっていた二年生から順に、簡易的にラッピングしたフィナンシェを渡していく。それから美琴と手分けして、座って休んでいる部員、マネージャーや顧問にも渡していき、そして俺は槐くんの元に辿り着く。
 「え、槐くん、お疲れ様」
 「嵐先輩こそ、お疲れ様です。これ、嵐先輩も一緒に作ったんですか」
 「お手伝い程度だけどね」
 「そうなんですか……堪能したい気持ちと一生大事に取っておきたい気持ちが鬩ぎあっちゃいます」
 「えっと、食べないと駄目になっちゃうと思うかな……?」
 「ですよね……惜しいですが、嵐先輩が作ってくれたものを駄目にしてしまうのは万死に値するのでいただきます」
 心底惜しそうにしながら、槐くんはラッピングを開封し、フィナンシェを一口食べる。本当に俺は手伝い程度、メインで作ったのは美琴だし、味見して美味しいことを知ってはいる。それでも、槐くんの口に合うだろうかと緊張しながらその様子を見てしまう。
 ゆっくりと咀嚼し、嚥下した槐くんはそっと眦をほころばせた。
 「とても、美味しいです」
 「よかった」
 「実は先輩方から、嵐先輩と美琴先輩がたまに手作りのお菓子を差し入れをしてくれる、という話は聞いていたんです。それはもう羨ましくて仕方なくて、いつか俺も頂けたり……なんて思っていたので、叶って嬉しいです。ありがとうございます、嵐先輩」
 そう言う槐くんは本当に嬉しそうで、俺までつい頬が緩んでしまう。
 それから、俺の脳裏は先に見た、槐くんのスパイクが過った。とても美しく、かっこいい姿。
 「ねぇ、槐くん——」
 思い出すとその感動を本人に伝えたくなって、口を開いたとき。
 「嵐ちゃん、黒木くんとなに話し込んでるの」
 俺の傍に美琴と誉がやってきた。誉は意外そうな表情を浮かべながら槐くんを見ている。
 「黒木」
 「なんですか、橘先輩」
 「お前って、笑うんだな」
 至極神妙なトーンで誉が言う。
 「そりゃあ、笑うことくらいあるでしょ。私も見たのはじめてだけど」
 それに美琴が呆れたように突っ込む。
 その一連の一連のやりとりは自然なのに、どこかが引っかかる——あれ。
 「……美琴」
 「なぁに? 嵐ちゃん」
 「一年生入部してから差し入れに来るの、今日が初めてだよね?」
 俺が美琴とともに男子バレー部に最後に差し入れに訪れたのは、三月。俺と美琴はよくつるんでいるとはいえ、常に一緒にいるわけではないから、それ以降に美琴がひとりで差し入れをしていた可能性もなくはない。だが、黒木くんは俺たちがたまに差し入れを持ってくることをあくまで伝聞でしか知らないようだった。
 そして、俺の尋ねに対して、美琴はなんら迷いなく「そうだよ」と頷いた。
 「美琴と槐くんって同じ委員会?」
 「俺は委員会に入ってないですよ」
 今度は槐くんがあっさりと答えた。
 一年生が入学してから初めての差し入れ。委員会も同じではない。ならば、なぜ——美琴は槐くんのことをかねてから知っていたような口ぶりなのだろう。
 胸のあたりに小さなとげが刺さった感覚がした。ちくり、ちくりと細い痛みが走る。胸を擦ってみるもそれは和らがない。そんな俺の様子がおかしく感じたのか、槐くんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
 「嵐先輩、どうかしましたか」
 「あ、いや、なんでもないよ」
 「ねぇねぇ、嵐ちゃんと黒木くんっていつの間にそんなに仲良くなったの」
 まさに俺が抱いていたような疑問を、美琴の方が口にした。
 「黒木くん、ずいぶん嵐ちゃんに懐いてるじゃん」
 「黒木は中学のときから嵐に懐いていたぞ」
 そうさらりと口にしたのは、誉だった。
 俺はぽかんとする——中学のときから、俺に懐いてた……?
 槐くんの方を見ると、彼は少しだけばつが悪そうな顔をしていた。
 どういうことか尋ねようとした矢先、部長が体育館内に響き渡る声で言った。
 「そろそろ練習再開するよ」
 体育館のあちこちから元気な返事があがる。槐くんと誉もそれに応じてから、誉が俺と美琴に微笑みかけた。
 「ふたりとも、もしこのあと時間があったら、少し見て行ってくれないか。三対三のミニゲームをやっているんだが、次の試合に俺が出るんだ。美琴と嵐が見ていてくれたら、いつもの一.五倍の力が出せる気がする」
 「妙に細かい数字だなぁ。私は用事ないからいいけど、嵐ちゃんは?」
 「え、ああ、俺も用事はないよ」
 俺がそう答えてすぐ、槐くんが「橘先輩」と手を挙げる。
 「次の試合、俺も出たいです。先輩と、戦わせてください」
 固い声音でそう言う槐くんに、誉は少しきょとんとしてから、嬉しそうに笑む。
 「ああ、俺は大歓迎だ——」
 「大歓迎じゃないよ、橘」
 割って入ったのは呆れた様子の萩原だ。
 「黒木はさっき試合したばっかだろ。部長が許可してくれると思うかー?」
 槐くんはむっすりと唇を尖らせ、黙り込む。
 「ってことでお前は記録係。橘はさっさと試合の準備に行って~。んで、宮永と美琴ちゃんと分かってると思うけど、ボールが飛んできたら危ないから、体育館入口辺りとかで見ててな」
 さすがは副部長、部員たちをてきぱきと活動の方に誘導し、俺たちのことも体育館入口へと導く。
 俺は先のことが気になって、悶々としていた。
 槐くんは同じ中学出身だったのか。美琴が槐くんの名前を知っていたのも、同じ中学かつ男子バレー部の出身だったからか。ならば、美琴に聞けば少しは状況を把握することが出来るだろうか——中学時代から槐くんが俺を慕っていたって、いったいどういうことなのか。
 しかし、今は男子バレー部を見学している状況で、誉が頑張る姿もちゃんと見たい。私語も思考も一旦は慎み、俺はコートに目を向けた。
 コート上には誉をはじめとした六人の選手が立つ。フリーポジションの三対三。誉の敵チームには、緊張しきった表情の一年生もいた。その初々しさを見るに、高校入学を機にバレーをはじめた子なのかもしれない。
 試合開始のホイッスルが鳴り、ファーストサーバーである誉が鋭いスパイクサーブを打つ。二、三年生を中心にボールは床に着くことなく繋がっていくが、先の一年生はその中にうまく参加できずにおろおろとしていた。その様子を見ているとつい応援したくなり、見つめる眼差しや握ったこぶしに力が入る。
 長く続いたラリーは誉チームの得点となり、誉が再びサーブをする。普段は温厚な誉でも、バレーに対しては一切手を抜かない。相手チームの穴と思ったのだろう、誉は俺が応援していた一年生の子を狙うようにスパイクサーブを打った。
 一年生の子はそれを処理できず、サポートに入ろうとしたチームの他メンバーも間に合わず、再び誉チームの得点となり、サーブ権は依然、誉に。再び狙われるだろうことを察した一年生の子は痛ましいほどの焦りが浮かんでいた。
 そのとき、記録係をしていた槐くんが声をあげた。
 「小早川。力み過ぎるな」
 低く抑揚のない淡々とした声。けれど、相手に届くようははっきりと発せられた澄んだ声。
 初々しい一年生、小早川くんは槐くんの方を見てわずかに瞳を見開くと、小さく頷いた。サーブの構えをする誉と向き合う、その体から少しだけ緊張が抜けたのが遠目からでも見て取れた。
 誉がサーブを打つ。やはり小早川くんの方に向かってボールは飛んでくる。小早川くんはアンダーハンドパスでそれを打ち上げた。ボールは難しい位置に打ちあがるも、チームメンバーが上手くボールの下に回って、セットアップし、スパイクを決める。しかしクロス方向に打たれたボールはラインを越えてしまい、アウトとなった。
 小早川くんは申し訳なさそうな顔をしていたが、チームメンバーはすかさず小早川くんがパスを上げれたことを褒めた。
 我が高校の男子バレー部は強豪の名は冠していない。だが皆、バレーボールにもチームメイトにも真摯で、雰囲気がいい。それがチームワークと実力を鍛え、昨年のインターハイでは地区予選トーナメントまで出場できたのではないだろうか。
 今年の一年生もいい子が多そうだし、槐くんもいる。
 萩原は槐くんのことを、部活中は普通にコミュニケーションは取れるがそれ以外だとパーソナルスペースが広い、と評していた。実際、槐くんは休憩になってから俺が差し入れを届けるまでの間に他のチームメイトと話すことなく、誉と相対した折はそれまでやわらかだった言動をあっという間に引っ込めてしまった。本当に俺への態度が特殊なのだと感じ、そしてそこに少しの喜びも覚えてしまったから、ちょっと戸惑った。
 それでも槐くんはチームメイトのことをよく見ていて、声もかける。そして、自身のプレイも素晴らしい。槐くんのあのスパイクは俺の網膜に焼き付いたきり、ずっと、離れない。槐くんが参加した今年の男子バレー部は、更なる成績を残すのではないだろうか。俺はその試合をひとつでも多く見たいと思った。
 「美琴!」
 ぼうっとしていたところに、誉の鋭い声が飛んできた。試合中だろうに一体どうして美琴の名前を、と思ったときには、こちらの方向にボールが飛んできていた。俺が少し意識を飛ばしている間に試合の応酬でなにかがあって、ボールが思いがけない軌道を描いてしまったというところか。
 槐くんや誉が放つスパイクほどの鋭さはないが、当たったら間違いなく痛い。そして、その軌道からして顔面に当たりかねなかった。
 俺は咄嗟に美琴の前に出た。弾き落とすか、受け止めるかしようとしたところで、左がじくりと疼いた。美琴はちょうど俺の左側にいて、彼女の前に出るために踏み出したのが左脚だったせいかもしれない。痛みはなかったが、その違和感に気を取られている間にボールはすぐそこに迫ってしまい、せめて顔に当たらないようにと俺は腕を翳した。
 ボールは俺の腕に当たって、勢いを失って落ちる。皮膚が少し焼けるような痛みが走ったが、それだけで済んだ。
 「嵐ちゃん、大丈夫!?」
 「うん、大丈夫——」
 美琴に答えながら姿勢を立て直そうとするも、左脚が強張って上手く動いてくれなかった。そのまま俺の体勢は崩れ、膝をつきそうになったところで、体がふわりと持ち上がる——槐くんが俺の体を抱え上げた。
 「すみません、記録係、変わってもらってもいいですか。嵐先輩を保健室まで運ぶので」
 「えっ、いや、槐くん、大丈夫だから、おろして」
 「一応行って来いよ。ボール弾いた後のお前、なんかおかしかったしさ」
 近くにいた萩原にまで言われ、そして駆け寄ってきた誉にとどめを刺される。
 「保健の先生にちゃんと看てもらってくれ。無事であればそれに越したことはないし、なにかあったら手当し、必要に応じて病院に行こう。俺も美琴もついていくから」
 「いや、大袈裟だって。本当に大丈夫だから——」
 「このままだとお前が心配で練習に集中できない」
 「う……」
 そう言われてしまうと俺はなにも返せない。
 「黒木、嵐を頼んだ」
 「言われずとも。橘先輩たちは練習に戻ってくださいだ
 せめてこのお姫様抱っこ状態を解除してほしかったが、槐くんはこの状態のまますたすたと体育館を出てしまった。
 槐くんが長い足で半ば駆けたこともあり保健室にはすぐについた。
 ゴールデンウィーク中も部活や勉強合宿があるため保健室の先生は来ているはずだが、現在は留守らしい。用がある人は保健室内で待っているように、という旨が記された看板がドア前にさげられていた。
 槐くんはドアを開けると、俺をベッドの上にそっと置く。俺と視線を合わせるように屈んだ槐くんの表情は痛ましいほどの歪んでいた。
 「左脚、痛みますか」
 「痛くないよ。さっきは急に動かしたからちょっと強張っちゃっただけで、今はもうなんともないよ」
 「本当に?」
 「うん」
 「……念のため、見せてもらっていいですか。熱を持ってそうだったらアイシングもします」
 「そこまでしなくても」
 「させてください。させてくれないのなら、このまま担いで病院に運びますよ」
 真剣な眼差しを向けられ、俺はやむをえずスラックスの裾を捲りあげた。
 槐くんはそっと俺の左足に手を添える。本当にそっと触れているだけなのに「痛くないですか」と都度聞いてくれるから、「大丈夫」と答える。天気が悪い日はいまだに痛むことはあれど、さっきのような疼きは場合はちょっとしたトラウマ、フラッシュバックみたいなもの。やはり炎症などは起こしておらず、槐くんはほっと息を吐く。
 俺の方は、左脚を丁重に扱われるほどに胸の中に妙に重たい靄が膨らんでいき、たしかめたかったことが口から転び出る。
 「俺の中学時代……左脚を怪我してたことまで、知ってるんだね」
 俺を仰いだ槐くんは、わずかに眉を下げて頷いた。
 「さっきの橘先輩の言葉でお察しかと思いますが、嵐先輩と同じ中学に通っていました。嵐先輩が陸上部だったことも……三年の最後の大会前に左脚を怪我したことも、知っています」
 「なんだ、そっか。寮で同室になる前から、俺、槐くんにかっこわるいところ、知られてたんだね」
 「嵐先輩は、昔からずっととってもかわいくて、かっこいい人です」
 肝試しの夜にも聞いた言葉。
 お世辞かと思ったのに、槐くんは自身の胸に俺の手を導き、その鼓動を持って真意であることを証明してくれた。
 槐くんが俺に向けてくれる言葉に嘘はない。それでも、俺の指先は、口端は少し震える。だって、それだけは。どうしたって認めることはできなかった。
 「……かっこよくない、かっこよくないよ。本当に、少しも。だって、あの頃の俺は」
 俺は蓋を開ける。遠くに追いやって目を逸らし続けていたいほどに、痛くて情けなくて仕方がない、中学時代の記憶の蓋を。