午前の授業を終えると、教室内はいつにない解放感にあふれていた。
勉強合宿の一日目、二日目は普段と同じように一日中勉強、さらに寮に帰ってからも自習時間は机に向かわなくてはいけなかった。
久々の思いきり自由な時間、しかも門限までに帰るのであれば学外に出てもいいことになっている。授業が終わるなり晴れやかな表情で教室を飛び出す者も少なくなかった。
晴れやかさも飛び出しもしなかったが俺も教室を出ると、購買でパンをいくつか買ってから、家庭科室へと向かった。
到着すると、調理台がいくつも設置された広々とした部屋に美琴の姿だけがあった。黒い髪をすっきりひとつにまとめ、去年の美琴の誕生日に俺と誉でプレゼントした臙脂色のエプロンを、二学年の証である青ジャージの上から掛けている。
美琴は俺を捉えると快活な笑みを浮かべた。
「お疲れ、嵐ちゃんせっかくのゴールデンウィークに学校泊まって勉強なんてよくやるよね」
「先生に頼まれちゃったからね」
「頼まれたからって引き受けてあげちゃうのが、マジ嵐ちゃんって感じ」
「ノーと言えない日本人だよね」
「いや、嵐ちゃんの場合はノーと言えないわけじゃないでしょ。ハートフルなだけ」
「ハートフルって」
「ま、私も誉も、嵐ちゃんのそういうとこに甘えてるんだけどね」
裏表なく口にしてくれるその言葉に、俺はほんのちょっぴり後ろめたさを覚えて、少し苦くなる。
「……ところで美琴はなんで学校に? 料理部はゴールデンウィーク部活休みだったよね。お菓子作りをするだけなら家でも出来るし」
「その家のオーブンが壊れちゃったんだよ。昨夜お父さんと夕食の準備してる最中にいや~な気配がしだして、今朝完全に撃沈。今日お菓子作ろうと思ってるんるんで材料揃えたから我慢できなくちゃって、顧問におねだりして、家庭科室の使用許可を急遽もぎ取ったってこと!」
と、美琴はドヤ顔と共に、ピースサインを突き出した。
「んで、嵐ちゃん誘おうと思ったけど、勉強合宿中じゃん……でも、三日目と四日目は午後休だったはず! って思い出して連絡した次第でございます。ってことで、これ!」
と、美琴が俺の分の黒のエプロンを差し出してくる。家の手伝いや料理部に遊びに行く際に使っているものだが。
「あ、私が嵐ちゃんの部屋に勝手に入ったわけじゃないよ。おばさんに頼んで取ってきてもらったの」
「それ、母さんが俺の部屋に入ってるよね……まぁいいけどさ」
俺はブレザーを脱ぎワイシャツの上からエプロンを掛ける。
それから調理台に並べられた美琴が用意した材料を見た。
レモン、バター、薄力粉、アーモンドプードル、エトセトラ……。
「レモンのフィナンシェでも作るの?」
「正解! 嵐ちゃんもだいぶお菓子作りに詳しくなってきたね」
「まぁ、そこそこ料理部にお邪魔させてもらってるからね」
「いっそ入部しちゃったらいいのに」
「俺はたまに遊びに行くくらいがちょうどいいから」
他愛ないことを駄弁りながら、美琴とともにレモンフィナンシェ作りをはじめる。美琴が手際よく粉をふるったり、レモンの皮を削ったりする横で、俺はフィナンシェ型にバターを塗っていく。
「それにしても、今日勉強合宿が午後休だってよく知ってたね」
「そりゃあ、私は去年参加したから。我が料理部の女神、李子先輩目当てでね」
「李子先輩目当てでって」
「ワンチャン同室になれないかなぁと思って」
「それはワンチャンに賭けすぎじゃない? 参加者が多くないとはいえ、特定の誰かと同室になるってのはなかなか難しいでしょ」
「いやいや、賭ける価値はあるよ。なんせ、一年生は同室希望アンケートあるから」
「同室希望アンケート?」
「入学したてで不安な時期だし、せっかく交流を深めるなら同じ部活や委員会の先輩後輩同士の方がいいでしょ。そういう配慮で、どの先輩と同室になりたいかっていうアンケート、っていうか、先生から直接聞き取りがあったの。ただ料理部一年女子は大体李子先輩狙いで合宿に参加して希望したから、負けたって感じ」
そんなアンケートが実施されていたのか。そういえば、萩原の同室はバレー部の後輩だと聞いていた気がする。すごい偶然だと思っていたけれど、必然だったということか——もしかして、槐くんも。
俺と槐くんが同室になったのはたまたまなどではなく、槐くんが希望をしてくれたから、だったりするのだろうか。
「……あのさ、美琴。ちょっと、相談したいことがあるんだけど。いい?」
今日の午後は特に用事もなかったし、美琴からの誘いであればなにがなくとも乗ってはいただろう。だがこと今日においては、渡りに船であった。
俺を今最も悩ませている、ひとりで考えていても底のない沼に沈んでいくばかりの恋について、誰かに相談したいと思っていた。
そして相談できる間柄の相手を思い浮かべたとき——誉はモテてはいるが恋愛に関心がなく、萩原はいいやつではあるがモテを望みすぎて恋人ができておらず、過去に経験もないと聞いている。俺自身も恋愛経験のない俺が言えたことではないが、彼らではだいぶ心許ないと思った。美琴も恋人がいたことはないが、恋愛漫画をとても好んで読んでいる。知識の源がフィクションといえど、親しい人の中では最も頼りになるように思えた。
美琴は生地を混ぜていた手を止め、ぱっと瞳を煌めかせた。
「えっ、嵐ちゃんが私に相談!? なになに、なんでも聞くよ!」
「作業しながらで大丈夫だから」
「あの嵐ちゃんが私に相談を持ち掛けてくれたのに!? しっかりと腰を据えて聞きたいよ! でも、中途半端で手を止めちゃうとお菓子が美味しくなくなっちゃう……完成してからとかじゃダメ?」
「いや、本当、ながらで大丈夫な内容だから」
腰を据えてとなると俺の方が恥ずかしくて相談できなくなってしまいそうだ。美琴は不服そうではあったものの「分かった」と頷いてくれた。
「と、友達の友達の話なんだけど」
「うんうん」
「その……最近、告白されて」
「まさかの恋愛……!」
いっそう表情を華やがせた美琴が「どうぞ、続けて!」と力強い眼差しを向けてきて、俺の方はいっそういたたまれなくなるも一度切った舵だと続けた。
「その告白してくれた相手のこと、人としては好きだし、尊敬もしているけど。恋をしたことがないから、恋心っていうのが分からなくて。相手の気持ちにどう向き合って返事を出せばいいのか分からなくて困ってる……んだって」
「なるほどなるほど」
「……」
「えっ、それで終わり?」
「終わりです」
美琴はうーんうーんと唸ってから、尋ねてきた。
「嵐ちゃん……の、友達はさ。その人と話してたり一緒にいてどきどきすることはない?」
「……ある」
「恋人同士になったらすることを想像してみたりは?」
「……した」
「それで嫌だと思った?」
思わなかった、けれど。
美琴は鍋に火にかけ、フィナンシェの味の決め手となる焦がしバターを作っていく。言葉の途切れた空間にしばし、バターをホイッパーで混ぜる音と香ばしさのみが漂う。
やがて引き上げた鍋を、水を張っておいたボウルにつければ、じゅうっと水が蒸発する音がする。
それが止む頃に、美琴は口を開いた。
「一緒にいてどきどきするから、恋人同士がすることを想像して受け入れられるから。だからそれは恋だーって、断定できる訳じゃないとは思う。気持ちの名前っていうのは結局、自分が納得しないと付けられないものだと思うし」
美琴は冷めた焦がしバターを生地に混ぜ合わせていく。バターとレモンの香りが、豊かに爽やかに絡み合う。
「でも世の中にはさ、あっさり名付けられる気持ちも、名前がなくてもいいっていう気持ちもあるじゃん? 私はポイ捨てする人と歩きたばこする人にはすぐに嫌いって気持ちを持つし。それから——私たちと嵐ちゃん」
「え?」と瞬く俺に、美琴は続ける。
「私たちは幼馴染で、友達でしょ。でも〝幼馴染〟って言葉だけじゃ表現しきれない、〝友達〟でもやっぱり埋まらない、言葉にし難い思いを私は、誉も。嵐ちゃんに抱いてる」
それは。
「……なんとなく、分かるかも。多分、俺も同じだ」
「それに私たちはわざわざ名前を付けようとはしないし、求めようともしない。もちろん、そこに良し悪しもない。けど、そういう色んな気持ちがある中で。名前のついていない気持ちに出会ったとき、その気持ちがなんなのか知りたいと思ったこと。知ったことを、誰かに伝えたいと思っていること。それで、悩んだり、外からのアドバイスを頼ってみたこと。そういう行動自体もさ、その人に抱いている気持ちのひとつなんだって考えてみたら、また一歩、答えに近づけるんじゃないかな」
「まぁ、漫画の受け売りだけどね」とぱっちりウィンクをした美琴は、型に生地を注いでいく。生地の色にも量にもムラはちっともない。
誰かが自分に恋をしてくれていることを知ったら、それに真剣に向き合うことは当然のことだと思っていた。実際、告白してくれたのが槐くんじゃなかったとしても、俺はその人に自分がどんな思いを抱いているか考えたとは思う。けれど……深い沼底に沈むほどぐるぐると悩んだり、アドバイスを求めたりしたかと言われると……どうだろう。
告白をしてくれたのが槐くんだから、現状があるようには思う。けれど。
「……気持ちについて知りたいって悩んだり伝えたいって思うのは、相手が自分のことを慕って、何度も好意を口にしてくれるから……それに絆されてるだけ、かも」
「恋愛に限らずそういうものじゃない?」
「え?」
「そりゃあ世の中には一目惚れっていうのもあるけど。基本的には相手の行動によって心は動いたり変わったりするものじゃん。私だって、嵐ちゃんと出会ってすぐは近所の男の子としか思ってなかったけど。迷子になった私と誉を泥だらけになりながら探しに来てくれた嵐ちゃんを見て、好きーってなったもん。それで私たちは嵐ちゃんの言うことだけはちゃーんと聞くようになったわけだし」
「……聞くようにはなってなかったと思うけど。あれからも俺が駄目って言っても川に飛び込もうとしたり、背の高い木に登ろうとしてたでしょ」
「あはは、それは若気の至りってやつだよ」
今もその名残はあるが、幼い頃の誉はとにかくぼんやりとしていて、美琴は自由奔放だった。
両極端な双子は少しでも目を離すといなくなっていたり、危ないことをしていた。
そんな彼らと家が隣同士でよく遊んでいた俺は、勝手に彼らを心配し世話を焼いていた。
だからある日、双子が遊びに行ったきり帰ってこないと聞いたときはショックを受けた。一緒に遊んだり興味を示していた覚えのある場所を片っ端から探した。そして見つけたときは安堵のあまりに、つい泣きじゃくってしまったものだった。
それまでは俺が双子を構い倒していたが、双子の方から話しかけられたり構われたりするようになったのは、たしかに今思えばあの頃からだった。
それでもそのことを言葉ではっきり聞くのは、認識したのは、これがはじめてだった。
家が隣同士だって、反りが合わなければきっと親しくはならなかった。俺が、誉と美琴を放っておけないと思ったのは、危なっかしいと思ったのもあったけれど、自分のやりたいようにやる彼らの在り方が幼心にも魅力的に感じていたから。そして彼らもまた、俺が起こした行動になにかを感じてくれた。惹かれ尊べる点が互いにあって、絆し絆され絆が芽生えたから、俺たちは親しくなれた。
「っていうか、相手だって嵐ちゃんに好きになってほしい! と思ってアプローチしてるんじゃない? それで実際嵐ちゃんの心が動いてくれてるなら、嬉しい以外ないと思うけどなぁ」
「いや、俺じゃないから。俺の友達の話だから」
「それはもう無理あるくない?」
「あるくない」
むっとした俺と、への字口の美琴はしばし見つめ合い、やがてどちらからともなくぷっと噴き出した。
「嵐ちゃんってただでさえ嘘下手なのに。それを嵐ちゃんのことが大好きな私たちが見破れないわけがないじゃん」
「下手って、そんなに?」
「そんなにだよ。だからね、嵐ちゃん。中学の時、嵐ちゃんが私たちとあんまり一緒にいたくないって思ってたこと……一緒にいると、つらそうにしてたこと。本当は分かってたよ」
俺は一瞬驚き瞠目するも、そりゃあそうだよなという納得もあった。
「それでも、嵐ちゃんのことが好きで、嵐ちゃんから離れられずにいた私たちを、嫌いにならないでいてくれてありがとう」
「それは……俺のセリフだよ」
惹かれ尊べる点が互いにあって、絆し絆され絆が芽生えたから、俺たちは親しくなれた。そこに邪なものなんてなにひとつもなかった。なのに——俺は、一時期、ふたりのことを疑っていた。
誉と美琴は俺を気遣い、俺に甘えているんじゃなくて〝あえて甘えようとしてくれている〟のではないか、と疑ってしまっていたことがあった。蓋を開ければ情けなさしか顔を出さない、中学時代のこと。
男子バレーで活躍し学生スポーツ誌から取材されることもある誉。料理コンテストに挑戦しては上位賞を受賞していく美琴。学内外で大いに注目を集める優秀な彼らの傍に、幼馴染というだけで傍にいる自分。
当時の俺はその構図がなんだか惨めに思えて、特別になろうと足掻いたり、ふたりに対してぎこちない態度を取ったり避けてしまったこともあった。なのにふたりは俺の手を離さずにいてくれた。いつまでもどこまでも、まっすぐ俺に向き合い、在りたいように傍にいてくれた。
「ずっと、俺の傍にいてくれてありがとう。ふたりが幼馴染でよかった」
「ら、嵐ちゃん……!」
美琴は瞳を潤ませ、両手で俺の手を包んだ。
「私、いつでも相談に乗るし、嵐ちゃんのことずっと応援してるからね! 嵐ちゃんには、世界一、宇宙一幸せになってほしいから!」
美琴はにぱっと花が咲くように笑う。それから「じゃあそろそろオーブンでブンと行きますか~!」と予熱したオーブンにフィナンシェ型を乗せた天板を意気揚々と運び入れた。
本当にいい幼馴染を持ったと思うし、彼らのことを愛しいと思う。
そしてその愛しさは、きっと。槐くんに抱く愛しさとは、違う色をしている。
勉強合宿の一日目、二日目は普段と同じように一日中勉強、さらに寮に帰ってからも自習時間は机に向かわなくてはいけなかった。
久々の思いきり自由な時間、しかも門限までに帰るのであれば学外に出てもいいことになっている。授業が終わるなり晴れやかな表情で教室を飛び出す者も少なくなかった。
晴れやかさも飛び出しもしなかったが俺も教室を出ると、購買でパンをいくつか買ってから、家庭科室へと向かった。
到着すると、調理台がいくつも設置された広々とした部屋に美琴の姿だけがあった。黒い髪をすっきりひとつにまとめ、去年の美琴の誕生日に俺と誉でプレゼントした臙脂色のエプロンを、二学年の証である青ジャージの上から掛けている。
美琴は俺を捉えると快活な笑みを浮かべた。
「お疲れ、嵐ちゃんせっかくのゴールデンウィークに学校泊まって勉強なんてよくやるよね」
「先生に頼まれちゃったからね」
「頼まれたからって引き受けてあげちゃうのが、マジ嵐ちゃんって感じ」
「ノーと言えない日本人だよね」
「いや、嵐ちゃんの場合はノーと言えないわけじゃないでしょ。ハートフルなだけ」
「ハートフルって」
「ま、私も誉も、嵐ちゃんのそういうとこに甘えてるんだけどね」
裏表なく口にしてくれるその言葉に、俺はほんのちょっぴり後ろめたさを覚えて、少し苦くなる。
「……ところで美琴はなんで学校に? 料理部はゴールデンウィーク部活休みだったよね。お菓子作りをするだけなら家でも出来るし」
「その家のオーブンが壊れちゃったんだよ。昨夜お父さんと夕食の準備してる最中にいや~な気配がしだして、今朝完全に撃沈。今日お菓子作ろうと思ってるんるんで材料揃えたから我慢できなくちゃって、顧問におねだりして、家庭科室の使用許可を急遽もぎ取ったってこと!」
と、美琴はドヤ顔と共に、ピースサインを突き出した。
「んで、嵐ちゃん誘おうと思ったけど、勉強合宿中じゃん……でも、三日目と四日目は午後休だったはず! って思い出して連絡した次第でございます。ってことで、これ!」
と、美琴が俺の分の黒のエプロンを差し出してくる。家の手伝いや料理部に遊びに行く際に使っているものだが。
「あ、私が嵐ちゃんの部屋に勝手に入ったわけじゃないよ。おばさんに頼んで取ってきてもらったの」
「それ、母さんが俺の部屋に入ってるよね……まぁいいけどさ」
俺はブレザーを脱ぎワイシャツの上からエプロンを掛ける。
それから調理台に並べられた美琴が用意した材料を見た。
レモン、バター、薄力粉、アーモンドプードル、エトセトラ……。
「レモンのフィナンシェでも作るの?」
「正解! 嵐ちゃんもだいぶお菓子作りに詳しくなってきたね」
「まぁ、そこそこ料理部にお邪魔させてもらってるからね」
「いっそ入部しちゃったらいいのに」
「俺はたまに遊びに行くくらいがちょうどいいから」
他愛ないことを駄弁りながら、美琴とともにレモンフィナンシェ作りをはじめる。美琴が手際よく粉をふるったり、レモンの皮を削ったりする横で、俺はフィナンシェ型にバターを塗っていく。
「それにしても、今日勉強合宿が午後休だってよく知ってたね」
「そりゃあ、私は去年参加したから。我が料理部の女神、李子先輩目当てでね」
「李子先輩目当てでって」
「ワンチャン同室になれないかなぁと思って」
「それはワンチャンに賭けすぎじゃない? 参加者が多くないとはいえ、特定の誰かと同室になるってのはなかなか難しいでしょ」
「いやいや、賭ける価値はあるよ。なんせ、一年生は同室希望アンケートあるから」
「同室希望アンケート?」
「入学したてで不安な時期だし、せっかく交流を深めるなら同じ部活や委員会の先輩後輩同士の方がいいでしょ。そういう配慮で、どの先輩と同室になりたいかっていうアンケート、っていうか、先生から直接聞き取りがあったの。ただ料理部一年女子は大体李子先輩狙いで合宿に参加して希望したから、負けたって感じ」
そんなアンケートが実施されていたのか。そういえば、萩原の同室はバレー部の後輩だと聞いていた気がする。すごい偶然だと思っていたけれど、必然だったということか——もしかして、槐くんも。
俺と槐くんが同室になったのはたまたまなどではなく、槐くんが希望をしてくれたから、だったりするのだろうか。
「……あのさ、美琴。ちょっと、相談したいことがあるんだけど。いい?」
今日の午後は特に用事もなかったし、美琴からの誘いであればなにがなくとも乗ってはいただろう。だがこと今日においては、渡りに船であった。
俺を今最も悩ませている、ひとりで考えていても底のない沼に沈んでいくばかりの恋について、誰かに相談したいと思っていた。
そして相談できる間柄の相手を思い浮かべたとき——誉はモテてはいるが恋愛に関心がなく、萩原はいいやつではあるがモテを望みすぎて恋人ができておらず、過去に経験もないと聞いている。俺自身も恋愛経験のない俺が言えたことではないが、彼らではだいぶ心許ないと思った。美琴も恋人がいたことはないが、恋愛漫画をとても好んで読んでいる。知識の源がフィクションといえど、親しい人の中では最も頼りになるように思えた。
美琴は生地を混ぜていた手を止め、ぱっと瞳を煌めかせた。
「えっ、嵐ちゃんが私に相談!? なになに、なんでも聞くよ!」
「作業しながらで大丈夫だから」
「あの嵐ちゃんが私に相談を持ち掛けてくれたのに!? しっかりと腰を据えて聞きたいよ! でも、中途半端で手を止めちゃうとお菓子が美味しくなくなっちゃう……完成してからとかじゃダメ?」
「いや、本当、ながらで大丈夫な内容だから」
腰を据えてとなると俺の方が恥ずかしくて相談できなくなってしまいそうだ。美琴は不服そうではあったものの「分かった」と頷いてくれた。
「と、友達の友達の話なんだけど」
「うんうん」
「その……最近、告白されて」
「まさかの恋愛……!」
いっそう表情を華やがせた美琴が「どうぞ、続けて!」と力強い眼差しを向けてきて、俺の方はいっそういたたまれなくなるも一度切った舵だと続けた。
「その告白してくれた相手のこと、人としては好きだし、尊敬もしているけど。恋をしたことがないから、恋心っていうのが分からなくて。相手の気持ちにどう向き合って返事を出せばいいのか分からなくて困ってる……んだって」
「なるほどなるほど」
「……」
「えっ、それで終わり?」
「終わりです」
美琴はうーんうーんと唸ってから、尋ねてきた。
「嵐ちゃん……の、友達はさ。その人と話してたり一緒にいてどきどきすることはない?」
「……ある」
「恋人同士になったらすることを想像してみたりは?」
「……した」
「それで嫌だと思った?」
思わなかった、けれど。
美琴は鍋に火にかけ、フィナンシェの味の決め手となる焦がしバターを作っていく。言葉の途切れた空間にしばし、バターをホイッパーで混ぜる音と香ばしさのみが漂う。
やがて引き上げた鍋を、水を張っておいたボウルにつければ、じゅうっと水が蒸発する音がする。
それが止む頃に、美琴は口を開いた。
「一緒にいてどきどきするから、恋人同士がすることを想像して受け入れられるから。だからそれは恋だーって、断定できる訳じゃないとは思う。気持ちの名前っていうのは結局、自分が納得しないと付けられないものだと思うし」
美琴は冷めた焦がしバターを生地に混ぜ合わせていく。バターとレモンの香りが、豊かに爽やかに絡み合う。
「でも世の中にはさ、あっさり名付けられる気持ちも、名前がなくてもいいっていう気持ちもあるじゃん? 私はポイ捨てする人と歩きたばこする人にはすぐに嫌いって気持ちを持つし。それから——私たちと嵐ちゃん」
「え?」と瞬く俺に、美琴は続ける。
「私たちは幼馴染で、友達でしょ。でも〝幼馴染〟って言葉だけじゃ表現しきれない、〝友達〟でもやっぱり埋まらない、言葉にし難い思いを私は、誉も。嵐ちゃんに抱いてる」
それは。
「……なんとなく、分かるかも。多分、俺も同じだ」
「それに私たちはわざわざ名前を付けようとはしないし、求めようともしない。もちろん、そこに良し悪しもない。けど、そういう色んな気持ちがある中で。名前のついていない気持ちに出会ったとき、その気持ちがなんなのか知りたいと思ったこと。知ったことを、誰かに伝えたいと思っていること。それで、悩んだり、外からのアドバイスを頼ってみたこと。そういう行動自体もさ、その人に抱いている気持ちのひとつなんだって考えてみたら、また一歩、答えに近づけるんじゃないかな」
「まぁ、漫画の受け売りだけどね」とぱっちりウィンクをした美琴は、型に生地を注いでいく。生地の色にも量にもムラはちっともない。
誰かが自分に恋をしてくれていることを知ったら、それに真剣に向き合うことは当然のことだと思っていた。実際、告白してくれたのが槐くんじゃなかったとしても、俺はその人に自分がどんな思いを抱いているか考えたとは思う。けれど……深い沼底に沈むほどぐるぐると悩んだり、アドバイスを求めたりしたかと言われると……どうだろう。
告白をしてくれたのが槐くんだから、現状があるようには思う。けれど。
「……気持ちについて知りたいって悩んだり伝えたいって思うのは、相手が自分のことを慕って、何度も好意を口にしてくれるから……それに絆されてるだけ、かも」
「恋愛に限らずそういうものじゃない?」
「え?」
「そりゃあ世の中には一目惚れっていうのもあるけど。基本的には相手の行動によって心は動いたり変わったりするものじゃん。私だって、嵐ちゃんと出会ってすぐは近所の男の子としか思ってなかったけど。迷子になった私と誉を泥だらけになりながら探しに来てくれた嵐ちゃんを見て、好きーってなったもん。それで私たちは嵐ちゃんの言うことだけはちゃーんと聞くようになったわけだし」
「……聞くようにはなってなかったと思うけど。あれからも俺が駄目って言っても川に飛び込もうとしたり、背の高い木に登ろうとしてたでしょ」
「あはは、それは若気の至りってやつだよ」
今もその名残はあるが、幼い頃の誉はとにかくぼんやりとしていて、美琴は自由奔放だった。
両極端な双子は少しでも目を離すといなくなっていたり、危ないことをしていた。
そんな彼らと家が隣同士でよく遊んでいた俺は、勝手に彼らを心配し世話を焼いていた。
だからある日、双子が遊びに行ったきり帰ってこないと聞いたときはショックを受けた。一緒に遊んだり興味を示していた覚えのある場所を片っ端から探した。そして見つけたときは安堵のあまりに、つい泣きじゃくってしまったものだった。
それまでは俺が双子を構い倒していたが、双子の方から話しかけられたり構われたりするようになったのは、たしかに今思えばあの頃からだった。
それでもそのことを言葉ではっきり聞くのは、認識したのは、これがはじめてだった。
家が隣同士だって、反りが合わなければきっと親しくはならなかった。俺が、誉と美琴を放っておけないと思ったのは、危なっかしいと思ったのもあったけれど、自分のやりたいようにやる彼らの在り方が幼心にも魅力的に感じていたから。そして彼らもまた、俺が起こした行動になにかを感じてくれた。惹かれ尊べる点が互いにあって、絆し絆され絆が芽生えたから、俺たちは親しくなれた。
「っていうか、相手だって嵐ちゃんに好きになってほしい! と思ってアプローチしてるんじゃない? それで実際嵐ちゃんの心が動いてくれてるなら、嬉しい以外ないと思うけどなぁ」
「いや、俺じゃないから。俺の友達の話だから」
「それはもう無理あるくない?」
「あるくない」
むっとした俺と、への字口の美琴はしばし見つめ合い、やがてどちらからともなくぷっと噴き出した。
「嵐ちゃんってただでさえ嘘下手なのに。それを嵐ちゃんのことが大好きな私たちが見破れないわけがないじゃん」
「下手って、そんなに?」
「そんなにだよ。だからね、嵐ちゃん。中学の時、嵐ちゃんが私たちとあんまり一緒にいたくないって思ってたこと……一緒にいると、つらそうにしてたこと。本当は分かってたよ」
俺は一瞬驚き瞠目するも、そりゃあそうだよなという納得もあった。
「それでも、嵐ちゃんのことが好きで、嵐ちゃんから離れられずにいた私たちを、嫌いにならないでいてくれてありがとう」
「それは……俺のセリフだよ」
惹かれ尊べる点が互いにあって、絆し絆され絆が芽生えたから、俺たちは親しくなれた。そこに邪なものなんてなにひとつもなかった。なのに——俺は、一時期、ふたりのことを疑っていた。
誉と美琴は俺を気遣い、俺に甘えているんじゃなくて〝あえて甘えようとしてくれている〟のではないか、と疑ってしまっていたことがあった。蓋を開ければ情けなさしか顔を出さない、中学時代のこと。
男子バレーで活躍し学生スポーツ誌から取材されることもある誉。料理コンテストに挑戦しては上位賞を受賞していく美琴。学内外で大いに注目を集める優秀な彼らの傍に、幼馴染というだけで傍にいる自分。
当時の俺はその構図がなんだか惨めに思えて、特別になろうと足掻いたり、ふたりに対してぎこちない態度を取ったり避けてしまったこともあった。なのにふたりは俺の手を離さずにいてくれた。いつまでもどこまでも、まっすぐ俺に向き合い、在りたいように傍にいてくれた。
「ずっと、俺の傍にいてくれてありがとう。ふたりが幼馴染でよかった」
「ら、嵐ちゃん……!」
美琴は瞳を潤ませ、両手で俺の手を包んだ。
「私、いつでも相談に乗るし、嵐ちゃんのことずっと応援してるからね! 嵐ちゃんには、世界一、宇宙一幸せになってほしいから!」
美琴はにぱっと花が咲くように笑う。それから「じゃあそろそろオーブンでブンと行きますか~!」と予熱したオーブンにフィナンシェ型を乗せた天板を意気揚々と運び入れた。
本当にいい幼馴染を持ったと思うし、彼らのことを愛しいと思う。
そしてその愛しさは、きっと。槐くんに抱く愛しさとは、違う色をしている。
