我が校には文武問わず様々な部活動があり、強豪の冠こそは持たないものの代によっては素晴らしい成績を残しているところもある。男子バレー部も、去年はインターハイ地区予選のトーナメント準決勝まで進んだ。そんなふうに部活を軽んじている学校というわけではないため、ゴールデンウィーク期間、学校内では部活に勤しむ生徒を見かけることもままあった。
そして勉強合宿参加者も事前に申請していれば授業が午前しかない三日目、四日目は部活動側に出てもいいことになっている。
勉強合宿三日目。帰宅部のであるためにそのルールをすっかり忘れていた俺は、かすかに聞こえた物音に瞼を持ち上げ、ジャージ姿でエナメルバッグを肩に部屋を出ようとしている槐くんを見てぽかんとした。
時計を見れば、まだ朝の七時前。
「槐くん?」
と声を掛けると、槐くんは驚いたようにわずかに瞳を見開いてこちらを振り向いた。それからすぐに、眉尻がいつになくくんと下がる。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「こんな朝早くに、どこか行くの」
「今日は部活に参加する日なので、早めに行って朝練しようかと」
ここでようやく俺はルールについて思い出し、学業優秀そうな槐くんならば容易に許可をもぎ取れているだろうと思ったのだった。
「本当は昨日も朝練するつもりだったんですけど……嵐先輩の寝姿に見惚れて気づけば時間が過ぎてしまっていたので。今日も、大変かわいかったです」
槐くんはそっと瞳を細め、口元をほころばせる。俺は耳から首までが一気に熱を持つ。
昨日、俺は槐くんが俺に抱いている気持ちについて知ってしまった。
もともと面映ゆく感じていた槐くんのストレートな好意が、今はよりいっそうずきずきと胸に突き刺さってはじくじくと俺に熱を持たせて仕方ない。
他人に恋愛感情を向けられたのが人生ではじめてのことだから、動揺して当然と言えば当然。それでも、その動揺を齎してきた当人に見られるのがなんだか恥ずかしく感じられて、俺はのそのそと布団の中に隠れようとした。が、ずかずかとこちらに近づいて来た槐くんに手に掴まれる。中途半端に被った布団はずるりとずり下がり、掴まれた手は指がひとつずつゆっくりと絡められる。
槐くんの手はひんやりとしていて、俺の熱がダイレクトに伝わってしまいそうだと思うと、余計に心臓がバクバクと煩くなった。
「あんまりかわいいことされると、またキスしたくなっちゃいます」
「……な、なんで、いきなり。昨夜までは、してこなかったじゃん」
「めちゃくちゃ我慢してましたから。けど嵐先輩かわいすぎるし、ものすごい無防備だから」
「む、無防備って……だって、そういう好きだって思ってなかった」
「でも、そういう好きだって明示した昨夜も、同じ部屋でなんの警戒もなく就寝しましたよね。昨夜から今まで、俺は触ろうと思えばいつだって嵐先輩のこと触れましたし、実際、触りたかった」
「えっ」
思わず肩を跳ねさせると、もう完全に布団が俺の身からずり落ちた。照れに照れて火照りきった体がまるまんま晒されてしまうが、隠れるだのなんだのと考えている余裕はまったくなかった。
寝ている間に……なんて、発想がなちっともなく、槐くんが考えていると思いもしていなかった。でも、人に恋したことも恋されたこともない恋愛経験値ゼロといえど、好きと言われてキスまでされたのだ。少しくらいは過ぎるべきだったのかもしれない、とも思いちょっぴり反省する。
「さすがに、嵐先輩が抵抗できないタイミングで手出しする気はないですけど。でも、万一がないとも限りませんから。俺に襲われたくなかったら、あんまり気を許しすぎないでくださいね」
だがその反省を促してくるのが、俺のことを好きだと、そして万一があるかもしれないと宣う槐くん張本人というなんとも奇妙な状況。
思えば勉強合宿初日から槐くんの言動に振り回されっぱなしのドキドキさせられっぱなしだ。気づいてしまうとなんだか少し悔しくなってきて、俺はなけなしの迎撃に、槐くんを睨んでみる。
「お、起きてるときだって、不意打ちされたら抵抗できないんだけど……?」
「それも、そうですね。じゃあ、これからは嵐先輩になにかしたいと思ったら、ちゃんと宣言してから行動をとります」
それなら……いや、それでも例えば……き、キスしたい、とか言われたら。動揺してすぐに反応できず、結局食らうことになりそうな気がする——。
「ということで、キスしていいですか」
「わ、本当にきた!」
「予想してたんですか、かわいい」
そりゃあ昨日の今日だから当然だ! と思いながら、俺は自分の口の前で両手のひらを重ね合わせた。予想に反してというべきか、予想通りというべきか、俺はどうにか槐くんに唇を奪われることは回避できた。代わりに、右の手のひらに槐くんの唇がふにりと触れる。
「キス、嫌ですか」
「嫌というか、俺たち、まだ、付き合ってないし」
「まだ」
「言葉の綾だ!」
「ふふ」
「てか、口、離して。息、くすぐったいから」
もう一度槐くんを睨むも、彼はその場でため息を吐いて「かわいい」と呟いた。俺の睨みってそんなに怖くないのか、はたまた、槐くんが睨まれるのが嬉しいタイプの人なのか。
槐くんはようやく俺から少し距離を取った、かと思いきや、もう一度俺の手のひらに唇を寄せて、ちゅ、と音を立てた。
生々しい音に言葉を失う俺に、槐くんはくつりと喉を鳴らす瞳を細める。その顔はまた「可愛い」と言いたげに見えた。
「言質、取ったりしませんよ。先輩に好きになってもらって、お付き合いしたいから。草木が枯れ果て、水が乾き、大地が朽ち、世界が滅びようとも、先輩が許してくれる限り永遠に口説き続け、頷いてくれるのを待ち続けます」
「いや、世界が滅んだら、俺も槐くんももうこの世にいないでしょ……というか、その、永遠とか、死んでもいいとか……」
「大袈裟だと思いますよね。でも、全部本音なんです」
槐くんは自身の胸にそっと触れる。
「先輩は、俺の心臓だから」
「……俺、槐くんになにかした?」
出会って早々にずいぶんと懐いてくれた槐くんに、もしかして以前にどこかで出会ったことがことがあったか、と考えたこともあった。だが、心当たりがなかった。彼の整った顔は一度見たら忘れられなさそうだし、名前だって特徴的。一度でもかかわりを持てば、頭に残っていそうなものだ。
だが、俺の心臓、とまで言うのであれば、やっぱりどこかで会ったことがあったのか。けれど、誰かにとって特別になるような行動をとった記憶もまたなかった。俺はずっと、平均的で平凡な人間だったから。
槐くんはじっと俺を見つめ、やがておもむろに瞬いた。
「どうでしょうね?」
それは……本当に俺は槐くんになにかしたということか。けれど、なにをしたのか。やっぱり分からなくて、けれどこんなにも慕ってくれている子を忘れてしまっているのが申し訳なくて、少し悲しくなった。
「……ごめん」
つい謝ると、槐くんはわずかに目を見開いて、それから小さく笑った。
「嵐先輩が俺に謝ることなんて、なにひとつとしてないですよ。あなたにとって当たり前のことが俺には特別だった。それだけの話なんです」
槐くんは屈めていた腰を伸ばし、すっかり落ちていたエナメルバッグを肩に掛け直す。
「もっと嵐先輩とおしゃべりしていたいですけど、さすがにそろそろ行きますね」
「あ、うん。引き留めちゃってごめ——」
「謝らないでください。部活に行く前に先輩と話せてよかったです。活力もらいました」
背を向け歩き出す槐くんに、俺は数度躊躇ってから、「槐くん」と呼びかけた。槐くんの方は一切躊躇いなく、嫌そうな顔もせず、柔らかな表情で「なんですか」とこちらを振り向いてくれる。
「その……重ためだなとは思うけど……本心だと、思ってるよ。槐くんが、言ってくれる言葉」
槐くんはしばらくの間、瞬きの仕方を忘れたみたいにじっと俺を見つめた。穴が空きそうなほどに見つめられ、だんだんと居たたまれなくなった俺が「槐くん?」と呼びかけると、彼は深々とため息を吐いた。
「……嵐先輩、抱きしめてもいいですか? これも付き合ってないと、駄目ですか?」
妙に切羽詰まった声で槐くんは言う。
さすがにだんだんと分かってきた。槐くんおそらく今、俺のなにかしらをかわいいと思ったのだ。槐くんは俺に一定のかわいいを感じるとアクションを取りたくなる衝動を持っている人間らしいから。
俺は逡巡する。抱きしめる……ハグと考えたらありか。スポーツ選手が得点を入れたときとかに普通にしてるし。槐くんと、ハグ。想像すると——。
「だ、駄目!」
俺は咄嗟に身を庇うようにパッと広げた両手を前に突き出した。
槐くんと正面から上体を密着させ、槐くんの体に、温度に包まれる。それはつまり、一度触れた槐くんの鼓動を全身でダイレクトに感じることになるし、逆もまた然り。俺がどきどきしているのも全部槐くんに伝わってしまう。
それを想像するとハグってもしかしてキスよりもとんでもない行為なのではと思えてしまい、ようやく落ち着きかけていた熱がぶり返してしまうほど。とても、許可するわけにはいかなかった。
「駄目ですか……」
槐くんは唇を尖らせ、わずかに項垂れる。その頭に犬耳がしょぼんと垂れ下がっているような幻覚が見えてしまって、罪悪感があった。けれど、流されるわけにはいかない。
「じゃあ、いってらっしゃいを言ってもらうのは……?」
「そ、それくらいなら……いってらっしゃい」
俺が小さく手を振れば、たったそれだけで槐くんの表情は花が咲くようにほころび、頭に見えていた幻覚の犬耳もぴんと立つ。
「はい、行ってきます」
そう告げる声もすっかり明るく、その健気さに俺は胸がきゅっと詰まる。
……流されるわけには、いかない、けれど。だってここで流されてしまったら、俺はそのうち、キスをだって許しかねない、けれど。
槐くんが再び背を向ける。ドアに手を掛ける。それより前に、俺はそろりとベッドから降りると、槐くんの背中に近づいて身を寄せた。
「……あ、朝練。頑張って」
あくまで激励の意で、後ろから俺がそっと抱きしめるなら。さすがに互いの鼓動も伝わらないだろうし、そこまで恥ずかしくないはず。そう判断しての行動だった。それでいて、少しは喜んでくれるだろうか、とも思っていた。
だが、思ったよりも恥ずかしかったし、槐くんはそこからぴくりとも動かなくなってしまった。
どうしたのか、と尋ねる前に、顔を上げた俺は槐くんの項が赤く染まっていることに気づく。
「……嵐先輩って、本当」
低い声で零した槐くんはこちらを振り向く。眦がわずかに朱に染まり、むっとした表情をしていた。
「キスします」
「えっ」
もう一度口元をガードしたが、槐くんが顔を寄せたのは俺の顔ではなく、頭。つむじのあたりが、やわく潰される感覚。
「いつかもう一度、あなたの口にキスがしたいです」
槐くんは囁き俺の頭上から離れ、俺の髪を軽く梳いてから、そっと瞳を細めた。
「行ってきます、嵐先輩」
その微笑みはやけに眩しく見えた。
槐くんとのやりとりですっかり目が覚めてしまった俺は、そのまま朝支度をはじめた。
『いつかもう一度、あなたの口にキスがしたいです』
顔を洗っている間も、歯を磨いている間も、朝の食堂に行ってからも、槐くんの言葉が頭の中で何度もリピートされた。
俺たちは恋人ではない。キスだってハグだって真正面からする間柄ではない。けれど、槐くんは俺に恋を打ち明け、付き合いたいとも言ってくれた。
槐くんの気持ちについて真剣に考え向き合わなくてはいけないと、そしていつかきちんと答えを出さなくてはいけないと思う。そうしなければ本当に槐くんはいつまでだって俺を慕い、望み、口説こうとしてくれてしまうかもしれない。
ときどき衝動的なところも、いじわるなところもある。でもやっぱり、とても立派で素敵な人である槐くんを、いつまでも俺に縛り続けてしまうのはきっとよくないことだ。彼の未来は間違いなく有望で、彼を好きになる人は世の中にきっとたくさんいるのだから。
そう思うくらいには、槐くんのことを人として尊敬している。好きだとは、思う。
キスをされたとき、びっくりはしたけれど嫌だとは思わなかった。抱きしめられるのだって、心底嫌なわけではない。ただ、自分のことを好きだと言ってくれる人に、その思いに答えていない状態で簡単に許してはいけない行為だと思った。
それに、槐くんの熱に直に触れること、それにドキドキさせられることがなんというか……自分さえ知らない自分を突きつけられているような心地になって、少し怖いというのもあった。
槐くんの気持ちに向き合いたいが、そもそも俺は自分の気持ちがよく分かっていない。槐くんの熱にドキドキするのは、どうして。自分に恋をしてくれている人に触れられるのが、はじめてだから? それとも——俺も槐くんに対して恋めいたものを抱いている?
教室に着いて今日の授業の予習を軽くしている間にも、俺の思考は度々そちらに飛んでいってしまい、幾度となくため息が零れる。いつもなら合宿中はよく隣席に座っている萩原が「そんなにため息を吐いてると幸せが逃げるぞ~」なんてつっこんでくれるだろうが、彼も今日は部活に参加する日らしくいなかった。今頃はバレーボールの練習に勤しんでいることだろ……槐くんとともに。
自分の気持ちが分からないまま答えを出すような不誠実な真似はしたくない。だが恋とは、数学の問題のように「こうであれば恋、こうでなければ恋じゃない」といった明確な答えがあるものなのだろうか。恋愛ハウツー本を読む? ネットで検索? AIアプリに聞いてみる? それで出てきた答えで、俺は納得ができるのか。果たして俺はいつか答えを導き出すことはできるのだろうか。
「……分からない」
槐くんは、どうだったんだろう。なにがきっかけで、どういう根拠から、俺に恋をしている、という答えを導き出したんだろう。
槐くんの態度からして、俺たちは多分、以前にどこかで会ったことがあるのだろうと思う。その答えこそ槐くんは教えてくれなかったけれど——あなたにとって当たり前のことが俺には特別だった。って、どういことなんだろう。
頭の中が槐くんと簡単に答えの出ない疑問で埋め尽くされ、いよいよ予習も手につかなくなってくる。
もう何度目か分からないため息を吐き、気晴らしにスマホを取り出すと、チャットが届いていた。
幼馴染のうちのひとり、誉の双子の妹である橘美琴からだった。
『勉強合宿組の授業って今日は午前だけだよね? 午後から一緒に家庭科室でお菓子作らない?』
そして勉強合宿参加者も事前に申請していれば授業が午前しかない三日目、四日目は部活動側に出てもいいことになっている。
勉強合宿三日目。帰宅部のであるためにそのルールをすっかり忘れていた俺は、かすかに聞こえた物音に瞼を持ち上げ、ジャージ姿でエナメルバッグを肩に部屋を出ようとしている槐くんを見てぽかんとした。
時計を見れば、まだ朝の七時前。
「槐くん?」
と声を掛けると、槐くんは驚いたようにわずかに瞳を見開いてこちらを振り向いた。それからすぐに、眉尻がいつになくくんと下がる。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「こんな朝早くに、どこか行くの」
「今日は部活に参加する日なので、早めに行って朝練しようかと」
ここでようやく俺はルールについて思い出し、学業優秀そうな槐くんならば容易に許可をもぎ取れているだろうと思ったのだった。
「本当は昨日も朝練するつもりだったんですけど……嵐先輩の寝姿に見惚れて気づけば時間が過ぎてしまっていたので。今日も、大変かわいかったです」
槐くんはそっと瞳を細め、口元をほころばせる。俺は耳から首までが一気に熱を持つ。
昨日、俺は槐くんが俺に抱いている気持ちについて知ってしまった。
もともと面映ゆく感じていた槐くんのストレートな好意が、今はよりいっそうずきずきと胸に突き刺さってはじくじくと俺に熱を持たせて仕方ない。
他人に恋愛感情を向けられたのが人生ではじめてのことだから、動揺して当然と言えば当然。それでも、その動揺を齎してきた当人に見られるのがなんだか恥ずかしく感じられて、俺はのそのそと布団の中に隠れようとした。が、ずかずかとこちらに近づいて来た槐くんに手に掴まれる。中途半端に被った布団はずるりとずり下がり、掴まれた手は指がひとつずつゆっくりと絡められる。
槐くんの手はひんやりとしていて、俺の熱がダイレクトに伝わってしまいそうだと思うと、余計に心臓がバクバクと煩くなった。
「あんまりかわいいことされると、またキスしたくなっちゃいます」
「……な、なんで、いきなり。昨夜までは、してこなかったじゃん」
「めちゃくちゃ我慢してましたから。けど嵐先輩かわいすぎるし、ものすごい無防備だから」
「む、無防備って……だって、そういう好きだって思ってなかった」
「でも、そういう好きだって明示した昨夜も、同じ部屋でなんの警戒もなく就寝しましたよね。昨夜から今まで、俺は触ろうと思えばいつだって嵐先輩のこと触れましたし、実際、触りたかった」
「えっ」
思わず肩を跳ねさせると、もう完全に布団が俺の身からずり落ちた。照れに照れて火照りきった体がまるまんま晒されてしまうが、隠れるだのなんだのと考えている余裕はまったくなかった。
寝ている間に……なんて、発想がなちっともなく、槐くんが考えていると思いもしていなかった。でも、人に恋したことも恋されたこともない恋愛経験値ゼロといえど、好きと言われてキスまでされたのだ。少しくらいは過ぎるべきだったのかもしれない、とも思いちょっぴり反省する。
「さすがに、嵐先輩が抵抗できないタイミングで手出しする気はないですけど。でも、万一がないとも限りませんから。俺に襲われたくなかったら、あんまり気を許しすぎないでくださいね」
だがその反省を促してくるのが、俺のことを好きだと、そして万一があるかもしれないと宣う槐くん張本人というなんとも奇妙な状況。
思えば勉強合宿初日から槐くんの言動に振り回されっぱなしのドキドキさせられっぱなしだ。気づいてしまうとなんだか少し悔しくなってきて、俺はなけなしの迎撃に、槐くんを睨んでみる。
「お、起きてるときだって、不意打ちされたら抵抗できないんだけど……?」
「それも、そうですね。じゃあ、これからは嵐先輩になにかしたいと思ったら、ちゃんと宣言してから行動をとります」
それなら……いや、それでも例えば……き、キスしたい、とか言われたら。動揺してすぐに反応できず、結局食らうことになりそうな気がする——。
「ということで、キスしていいですか」
「わ、本当にきた!」
「予想してたんですか、かわいい」
そりゃあ昨日の今日だから当然だ! と思いながら、俺は自分の口の前で両手のひらを重ね合わせた。予想に反してというべきか、予想通りというべきか、俺はどうにか槐くんに唇を奪われることは回避できた。代わりに、右の手のひらに槐くんの唇がふにりと触れる。
「キス、嫌ですか」
「嫌というか、俺たち、まだ、付き合ってないし」
「まだ」
「言葉の綾だ!」
「ふふ」
「てか、口、離して。息、くすぐったいから」
もう一度槐くんを睨むも、彼はその場でため息を吐いて「かわいい」と呟いた。俺の睨みってそんなに怖くないのか、はたまた、槐くんが睨まれるのが嬉しいタイプの人なのか。
槐くんはようやく俺から少し距離を取った、かと思いきや、もう一度俺の手のひらに唇を寄せて、ちゅ、と音を立てた。
生々しい音に言葉を失う俺に、槐くんはくつりと喉を鳴らす瞳を細める。その顔はまた「可愛い」と言いたげに見えた。
「言質、取ったりしませんよ。先輩に好きになってもらって、お付き合いしたいから。草木が枯れ果て、水が乾き、大地が朽ち、世界が滅びようとも、先輩が許してくれる限り永遠に口説き続け、頷いてくれるのを待ち続けます」
「いや、世界が滅んだら、俺も槐くんももうこの世にいないでしょ……というか、その、永遠とか、死んでもいいとか……」
「大袈裟だと思いますよね。でも、全部本音なんです」
槐くんは自身の胸にそっと触れる。
「先輩は、俺の心臓だから」
「……俺、槐くんになにかした?」
出会って早々にずいぶんと懐いてくれた槐くんに、もしかして以前にどこかで出会ったことがことがあったか、と考えたこともあった。だが、心当たりがなかった。彼の整った顔は一度見たら忘れられなさそうだし、名前だって特徴的。一度でもかかわりを持てば、頭に残っていそうなものだ。
だが、俺の心臓、とまで言うのであれば、やっぱりどこかで会ったことがあったのか。けれど、誰かにとって特別になるような行動をとった記憶もまたなかった。俺はずっと、平均的で平凡な人間だったから。
槐くんはじっと俺を見つめ、やがておもむろに瞬いた。
「どうでしょうね?」
それは……本当に俺は槐くんになにかしたということか。けれど、なにをしたのか。やっぱり分からなくて、けれどこんなにも慕ってくれている子を忘れてしまっているのが申し訳なくて、少し悲しくなった。
「……ごめん」
つい謝ると、槐くんはわずかに目を見開いて、それから小さく笑った。
「嵐先輩が俺に謝ることなんて、なにひとつとしてないですよ。あなたにとって当たり前のことが俺には特別だった。それだけの話なんです」
槐くんは屈めていた腰を伸ばし、すっかり落ちていたエナメルバッグを肩に掛け直す。
「もっと嵐先輩とおしゃべりしていたいですけど、さすがにそろそろ行きますね」
「あ、うん。引き留めちゃってごめ——」
「謝らないでください。部活に行く前に先輩と話せてよかったです。活力もらいました」
背を向け歩き出す槐くんに、俺は数度躊躇ってから、「槐くん」と呼びかけた。槐くんの方は一切躊躇いなく、嫌そうな顔もせず、柔らかな表情で「なんですか」とこちらを振り向いてくれる。
「その……重ためだなとは思うけど……本心だと、思ってるよ。槐くんが、言ってくれる言葉」
槐くんはしばらくの間、瞬きの仕方を忘れたみたいにじっと俺を見つめた。穴が空きそうなほどに見つめられ、だんだんと居たたまれなくなった俺が「槐くん?」と呼びかけると、彼は深々とため息を吐いた。
「……嵐先輩、抱きしめてもいいですか? これも付き合ってないと、駄目ですか?」
妙に切羽詰まった声で槐くんは言う。
さすがにだんだんと分かってきた。槐くんおそらく今、俺のなにかしらをかわいいと思ったのだ。槐くんは俺に一定のかわいいを感じるとアクションを取りたくなる衝動を持っている人間らしいから。
俺は逡巡する。抱きしめる……ハグと考えたらありか。スポーツ選手が得点を入れたときとかに普通にしてるし。槐くんと、ハグ。想像すると——。
「だ、駄目!」
俺は咄嗟に身を庇うようにパッと広げた両手を前に突き出した。
槐くんと正面から上体を密着させ、槐くんの体に、温度に包まれる。それはつまり、一度触れた槐くんの鼓動を全身でダイレクトに感じることになるし、逆もまた然り。俺がどきどきしているのも全部槐くんに伝わってしまう。
それを想像するとハグってもしかしてキスよりもとんでもない行為なのではと思えてしまい、ようやく落ち着きかけていた熱がぶり返してしまうほど。とても、許可するわけにはいかなかった。
「駄目ですか……」
槐くんは唇を尖らせ、わずかに項垂れる。その頭に犬耳がしょぼんと垂れ下がっているような幻覚が見えてしまって、罪悪感があった。けれど、流されるわけにはいかない。
「じゃあ、いってらっしゃいを言ってもらうのは……?」
「そ、それくらいなら……いってらっしゃい」
俺が小さく手を振れば、たったそれだけで槐くんの表情は花が咲くようにほころび、頭に見えていた幻覚の犬耳もぴんと立つ。
「はい、行ってきます」
そう告げる声もすっかり明るく、その健気さに俺は胸がきゅっと詰まる。
……流されるわけには、いかない、けれど。だってここで流されてしまったら、俺はそのうち、キスをだって許しかねない、けれど。
槐くんが再び背を向ける。ドアに手を掛ける。それより前に、俺はそろりとベッドから降りると、槐くんの背中に近づいて身を寄せた。
「……あ、朝練。頑張って」
あくまで激励の意で、後ろから俺がそっと抱きしめるなら。さすがに互いの鼓動も伝わらないだろうし、そこまで恥ずかしくないはず。そう判断しての行動だった。それでいて、少しは喜んでくれるだろうか、とも思っていた。
だが、思ったよりも恥ずかしかったし、槐くんはそこからぴくりとも動かなくなってしまった。
どうしたのか、と尋ねる前に、顔を上げた俺は槐くんの項が赤く染まっていることに気づく。
「……嵐先輩って、本当」
低い声で零した槐くんはこちらを振り向く。眦がわずかに朱に染まり、むっとした表情をしていた。
「キスします」
「えっ」
もう一度口元をガードしたが、槐くんが顔を寄せたのは俺の顔ではなく、頭。つむじのあたりが、やわく潰される感覚。
「いつかもう一度、あなたの口にキスがしたいです」
槐くんは囁き俺の頭上から離れ、俺の髪を軽く梳いてから、そっと瞳を細めた。
「行ってきます、嵐先輩」
その微笑みはやけに眩しく見えた。
槐くんとのやりとりですっかり目が覚めてしまった俺は、そのまま朝支度をはじめた。
『いつかもう一度、あなたの口にキスがしたいです』
顔を洗っている間も、歯を磨いている間も、朝の食堂に行ってからも、槐くんの言葉が頭の中で何度もリピートされた。
俺たちは恋人ではない。キスだってハグだって真正面からする間柄ではない。けれど、槐くんは俺に恋を打ち明け、付き合いたいとも言ってくれた。
槐くんの気持ちについて真剣に考え向き合わなくてはいけないと、そしていつかきちんと答えを出さなくてはいけないと思う。そうしなければ本当に槐くんはいつまでだって俺を慕い、望み、口説こうとしてくれてしまうかもしれない。
ときどき衝動的なところも、いじわるなところもある。でもやっぱり、とても立派で素敵な人である槐くんを、いつまでも俺に縛り続けてしまうのはきっとよくないことだ。彼の未来は間違いなく有望で、彼を好きになる人は世の中にきっとたくさんいるのだから。
そう思うくらいには、槐くんのことを人として尊敬している。好きだとは、思う。
キスをされたとき、びっくりはしたけれど嫌だとは思わなかった。抱きしめられるのだって、心底嫌なわけではない。ただ、自分のことを好きだと言ってくれる人に、その思いに答えていない状態で簡単に許してはいけない行為だと思った。
それに、槐くんの熱に直に触れること、それにドキドキさせられることがなんというか……自分さえ知らない自分を突きつけられているような心地になって、少し怖いというのもあった。
槐くんの気持ちに向き合いたいが、そもそも俺は自分の気持ちがよく分かっていない。槐くんの熱にドキドキするのは、どうして。自分に恋をしてくれている人に触れられるのが、はじめてだから? それとも——俺も槐くんに対して恋めいたものを抱いている?
教室に着いて今日の授業の予習を軽くしている間にも、俺の思考は度々そちらに飛んでいってしまい、幾度となくため息が零れる。いつもなら合宿中はよく隣席に座っている萩原が「そんなにため息を吐いてると幸せが逃げるぞ~」なんてつっこんでくれるだろうが、彼も今日は部活に参加する日らしくいなかった。今頃はバレーボールの練習に勤しんでいることだろ……槐くんとともに。
自分の気持ちが分からないまま答えを出すような不誠実な真似はしたくない。だが恋とは、数学の問題のように「こうであれば恋、こうでなければ恋じゃない」といった明確な答えがあるものなのだろうか。恋愛ハウツー本を読む? ネットで検索? AIアプリに聞いてみる? それで出てきた答えで、俺は納得ができるのか。果たして俺はいつか答えを導き出すことはできるのだろうか。
「……分からない」
槐くんは、どうだったんだろう。なにがきっかけで、どういう根拠から、俺に恋をしている、という答えを導き出したんだろう。
槐くんの態度からして、俺たちは多分、以前にどこかで会ったことがあるのだろうと思う。その答えこそ槐くんは教えてくれなかったけれど——あなたにとって当たり前のことが俺には特別だった。って、どういことなんだろう。
頭の中が槐くんと簡単に答えの出ない疑問で埋め尽くされ、いよいよ予習も手につかなくなってくる。
もう何度目か分からないため息を吐き、気晴らしにスマホを取り出すと、チャットが届いていた。
幼馴染のうちのひとり、誉の双子の妹である橘美琴からだった。
『勉強合宿組の授業って今日は午前だけだよね? 午後から一緒に家庭科室でお菓子作らない?』
