ルームメイトの口説き方

 ペンギンタイムを楽しみ、他の展示もぐるりと巡ってから、もう一度プランクトンの展示室をのんびりと眺めた。そうして外に出た頃には、日が傾きはじめていた。
 寮の門限があるため、夕食を食べるならそろそろ移動しないと間に合わないだろうと俺たちはファミレスへ向かった。
 食事中は、水族館の感想を話したり、互いについて質問しあったりした。好きな食べ物、飲み物、得意な教科、苦手な教科。槐くんが「嵐先輩はよく行く場所や好きな場所はありますか」と聞いてくれたが、槐くんにとっての水族館的スポットは思い至らなかった。けれど中学時代の校外学習で行った隣市が綺麗で好きだったと話したら、今度一緒に行きたいと言ってくれた。未来の約束ができたことが、嬉しかった。
 そうしているうちにそろそろ帰らなくてはいけない時間になり、俺たちは電車に乗った。
 学校の最寄り駅に着くと、繋いでいた手も離した。なににも触れていない手が、寂しかった。
 そうして俺たちは寮部屋に戻った。
 初めてのデートはとても楽しく、槐くんについて色々と知れたとてもいい日だった。
 けれど、キスがしたいという俺の気持ちを槐くんに伝えることはできなかった。
 夕食を外で食べてきたことでできた自習までの自由時間にも切り出せるタイミングをはかった。だが、水族館で館内アナウンスが流れる前に一度勇気を振り絞ったせいか、それが挫けてしまったせいか。伝えられないまま自習時間に突入した。
 俺も槐くんも三十分ほど経ったところで、ゴールデンウィーク課題を完遂した。色々あったものの、自習時間は必ずローテーブルを挟んで課題をしていた成果だろう。残り時間は今後の予習に取り組むことにした。その最中に、槐くんが言った。
 「今日で嵐先輩と同じ部屋で過ごすのも最後ですね」
 勉強合宿は五日間。昨夜は槐くんとあと二日も共に過ごすことになるとドキドキしていたが、寝起きをともにするのは今日が最後である。
 明日の夜には自宅に帰り、ゴールデンウィークがあけたらいつも通りの学校生活がはじまる。帰る場所はもちろん、学年も違い、バレー部も忙しい槐くんと顔を合わせる機会はどんと減り、昨日今日ほどの濃密な交流は難しくなるだろう。
 それでも、俺たちが恋人であることには変わりない。出来る限り槐くんに会いに行こうと思うし、そのうちにキスをしたいと伝えられるタイミングも訪れるかもしれない。別に、焦ることはない。
 そう思うのに、俺の気持ちは塞いだままだった。
 「嵐先輩?」
 シャーペンを握った手が止まってしまっていた俺に、槐くんが首を傾げる。
 「どうかしましたか?」
 「あ、いや……」
 「もしかして、寂しいって思ってくれてますか」
 それは。
 「……思ってるよ」
 答えてすぐ、槐くんは俺の手に触れた。
 「俺も寂しいです……ねぇ、嵐先輩。今日も一緒に寝ていいですか」
 「うん」
 「抱きしめてもいい?」
 「うん」
 「キスも、してもいいですか」
 さらりと放たれたそれに、俺は一瞬呼吸を忘れた。
 そしてその動揺を真正面にいる槐くんに晒してしまった。
 槐くんはわずかに目を見開くと、眉尻を下げ、俺の手からそっと手を離した。
 「すみません。ちょっと調子に乗っちゃいました」
 苦笑する槐くんの向こうに、俺が付けてしまった傷が透けた。とんでもないことをしてしまった、と思った。
 俺が今日一日切り出せなかった言葉を、槐くんの方から言ってくれると思っていなかった。それに、びっくりしてしまった。そして安堵してしまう自分もいた。そんな自分が情けなくて、俺は動揺とともに対表情を歪めてしまい、槐くんに勘違いをさせてしまった。そしてやっぱり、俺がかつてキスを全力で拒んだことを槐くんはきっと、気にしていた。
 「っ、違う、嫌だったわけじゃないよ」
 俺は咄嗟に槐くんの手を掴んで訴えるも、槐くんの申し訳なさそうな表情は引っ込まないどころか、いっそう濃くなる。もしかしたら、俺が露骨に拒んでしまった罪悪感からから取り繕い気遣っているように見えているのかもしれない。俺の焦りは増す。
 これまで槐くんの努力と勇気をたっぷりと浴びてきて、触発もされてきたのに。
 ちょっと勇気を挫かれたというだけで、キスをしたいという望みをすっかり伝えられなくなってしまった。あまつさえ、それを容認し時の流れに身を任せようとした自分が不甲斐なくて、俺は勝手に凹んでしまっていた。
 それに、槐くんも、きっと。昨夜も、着替えのときも、本当はキスをしたいと思っていてくれていたのではないかと思う。だが俺が拒んだ過去から躊躇わせてしまい、それでもこの流れに沿ってキスをしたいと言ってくれたのではないか。なのに、その勇気を踏み躙ってしまった。
 自分の思いに勝手に振り回されて、大切な人を傷つける。俺は中学時代からちっとも変われていないらしい。
 激しい自己嫌悪に襲われる——けれど。そう思うのなら。
 ただ情けなさに俯いて耽るだけでは、本当に今までの俺と変わらない。変わるためには、頑張らなくてはいけない。槐くんが俺の言葉を糧にそうしたというように。俺も、槐くんの愛を糧に、彼のそばに少しでも胸を張っていられるように。
 「俺、昨夜から、ずっと、槐くんにキスがしたくて……!」
 どれだけ慣れなくて緊張することでも、勇気が挫かれても、それでも、ちゃんと伝えるんだ。
 俺は掴んでいた槐くんの手をぎゅっと握り、彼の方に身を乗り出した。
 「今日のデート中に伝えようって思ってたのに、ずっと切り出せなくて。だから、槐くんの方からしたいって言われて、びっくりしちゃって。それと同時に、俺から言わなくても槐くんが望んでくれてよかったって、安堵もしちゃって。そう思っちゃった自分が嫌で、あんな態度取っちゃったんだ。本当に、ごめん!」
 一度思いきり頭を下げてから、俺は槐くんをまっすぐに見つめた。
 「俺、槐くんとキスしたい。槐くんは、こんな俺と、まだ、キスしたいって思ってくれてますか」
 俺は小さく首を横に振った。
 「ううん、もう、思ってくれてなくても。したいってまた思ってもらえるまで、俺、槐くんのこと口説くから——」
 「……したいんですか」
 槐くんが静かな声で言った。
 「俺と、キスしたいんですか。嵐先輩」
 俺は躊躇いなく頷いた。
 「うん、したい」
 「本当に?」
 「本当に。すごく……すごく、したい」
 槐くんはじっと俺を見つめていた。その瞳は不安と期待とどうしようもない熱に揺れて見えた。それに吸い寄せられるように、俺は気づけば槐くんに顔を近づけていた。互いの吐息が混ざると、俺はついに我慢できなくなって、槐くんの唇に自分の唇を重ねた。触れあってから、俺ははっとして唇を離した。
 「ご、ごめん、我慢できなかった——んっ」
 紺ドア槐くんの方から唇を押し付けられ、塞がれる。しっかりと触れ合った唇はやわらかくて熱かった。そのうちに、更なる熱を持ったぬめったものが俺の唇をノックした。びっくりしたわずかに開いた俺の唇の隙間から、槐くんの舌が侵入してきた。
 俺の内側に、槐くんが入っている。舐められ、吸われ、なぞられている。未知の、とんでもない状況。だが、一切の嫌悪感も拒絶感もなかった。酸素が失われていく苦しさはあったがそれさえも、なんというか……気持ちよかった。
 意識が少し蕩けてきたところで、槐くんは俺から唇を離した。見れば、槐くんの頬はすっかり上気し、瞳も蕩けていた。かわいい、と思って、俺はぼんやりするままにもう一度キスをしようとしたが、槐くんはか弱い声で「嵐先輩、ダメ」と言った。
 「これ以上したら、止まれなくなっちゃいます」
 「止まれなく……?」
 「えっちなこと、したくなる」
 俺はしばしフリーズした。それから、全身が爆発したみたいに熱くなった。
 「そ、それは」
 「なんの準備もしていない状態で手を出して、嵐先輩を傷つけたくはないので。今はまだ、我慢、させてください」
 それにおいては俺もさすがに心の準備どころか、想像すらできていなかった。
 こくこくと頷けば、槐くんはほっとしたように息を吐き、それから俺の頬に手を伸ばしてそっと撫でた。
 「なんだか不思議ですね。この部屋で最初に嵐先輩に対面した時は、嵐先輩をどうやって口説こうか悩んでいたのに。今は、嵐先輩が俺を口説くって言ってくれるなんて」
 「それは、だって。槐くんのこと、好きだから……好きになったのに。上手に好意を伝えられなくてごめん……」
 「嵐先輩はびっくりするくらい俺に好意を示してくれてますよ」
 「でも、さっきも俺の自分勝手な思いで槐くんのこと傷つけちゃったし……これからも、そういうこと起こしちゃうかも」
 「傷ついてないですよ?」
 「え、でも」
 「嵐先輩の嫌がることをして傷つけてしまったかも、とは思ってましたけど……いや、そういう意味では、ショックではあったかも?」
 槐くんは平然とそんなことを宣う。
 槐くんはやっぱり俺のことが好きすぎる。だからこそ俺は槐くんに出会うことができ、惹かれ、恋をした。
 だが槐くんが限りなく注いでくれる愛の甘美さに身を委ね溺れてしまえば、俺は、俺たちは、駄目になる。
 好きな人に拒まれて傷つかないことはやっぱりないと思うし、好きな人を傷つけてしまったかもしれないという悲しみだって激しい痛苦を伴う。俺も今味わって知った。
 槐くんの愛情を決して搾取したくない。注いでもらった分、いやそれ以上に、槐くんに答えられる自分でありたい。過程や根拠が弱くても、それでも——俺が槐くんのことが好きな気持ちは、これからもずっと一緒にいたいという思いは、間違いなく本物だから。
 だから、槐くんが俺にそう望んでくれるように、俺も槐くんを傷つけない人になりたい。そして、好きな人が自分を慮りたっぷりと愛情を表現してくれる喜びと多幸感を、槐くんにも教えたい。
 「——よし、決めた」
 「嵐先輩?」
 「俺、槐くんのこと、口説く」
 槐くんはきょとんと目を丸くする。
 「口説くって。キスは拒んでないですし、俺はもう嵐先輩にメロメロですよ?」
 「うん。それでも、俺がもっと槐くんに緊張なく好きを伝えられるようになりたいし、槐くんにも知ってほしいから。だから明日から、ルームメイトじゃなくなっても。いっぱい会いたい。そして、たくさん、槐くんのことを口説きたい」
 ぱちり、ぱちりと瞬いた槐くんはやがて頬を染め、へにゃりと困った顔をした。
 「大変嬉しい申し出ですけど……俺の理性は決して鋼じゃないってことだけは、理解しておいてくださいね」
 「それは……えっちなことしたくなるかもってこと?」
 「なるかもってことです」
 「……か、覚悟、しておきます。ま、前向きに!」
 決して嫌なわけではないと全力で主張すれば、槐くんはくすりと微笑んだ。
 「なるべく早めに、準備を整えておきますね」
 やわらかく細められた瞳は「本当にかわいい」とでも言いたげな慈愛と、触れたら火傷してしまいそうな熱を孕んでいて。俺もなるべく早めに準備を整えなくてはいけないかもしれない、と、いっそう頬の火照りを感じながらこくりと頷いた。
 怒涛の勉強合宿は、明日、ついに終わりを迎える。
 それでも——運命的にルームメイトになった俺たちの縁は、恋は、これからも、ずっと、続いていく。