「何か、吹っ切れた?」
机に頬杖をついた恵が、奇っ怪なものをみるように眉根を寄せ、類をみていた。
「まあ、長年の便秘が解消した、って感じだな」
「長年のって、どのレベル」
「ゾウの出産以上だな」
「二年以上とか、病気だろ、それ」
淡々と返す類に、恵が小気味のいい相づちを打った。恵がいるだけで、薄暗い部室が一気に華やぐようだった。旅人が思わず外套を脱いでしまうような暖かな恵という太陽は、類が長年纏っていた孤独と拒絶のベールをゆっくりと剥いでいく。
「なあ」
相変わらず一人で愉しそうにしている恵に、類は声をかけた。
「おまえ、俺が畏れていると言ったよな」
「――言ったっけ?」
キョトンと首を傾げる恵に、類は「言った」と断言する。
「高校生クイズに出るって言ったとき。――気乗りしていない俺に、お前は確かに言った」
「あぁ、言ったかも、ね。――うん、言った。類には成績が落ちるよりもずっと怖いものがある」
宙空に視線を向けていた恵が、ハッと思い出したように繰り返し頷いた。
「俺の恐れはなんだ」
「知ること」
恵はきっぱりと言い切った。以前ははぐらかしてクイズに逃げたくせに、自棄にハッキリとした物言いで、恵は言う。
「正確には、『無知の知』かな。――類は、自分に何も無いって、無知だって知ることが怖かったんだよ」
「過去形か?」
だった、という恵の口ぶりに首を傾げれば、彼は頷いた。
「なんか吹っ切れたみたいだからさ。――飛び込む勇気、出たんでしょ」
「さあな」
類は肩を竦めた。
一瞬輝いていた恵の目が、見る間に微かに陰る。本当にわかりやすい仔犬だ。その姿に類は口元を緩めた。
「俺は、多分まだ怖いんだよ」
ぽつりと零した言葉が、放課後の地学準備室に転がった。
――怖い。
ずっと学問が全てで生きていた。テストというわかりやすい指標で結果を出すことが全てだと、それができなければ愉しむ権利がないと勝手に決めつけて、いつの間にか作り上げられていた呪いにがんじがらめになって生きてきた。
正直、今更「好きに生きて言い」と了承を得たところでどうすればいいのか分からない、というのが類の所感だった。
泳ぎ方も知らないのに、大海に放り出されたようなものだ。
それはクイズに対しても同じだ。
愉しんでいいのかと自分を赦しきれず、同時に、クイズをするたびに知らぬ事が増えていく。
灰色で凪いでいた類の日常は、恵という極彩色に塗り替えられた。ふれあうたびに、世界が知らない色で満ちていく。
それを知ろうと思うたびに、類の足は震えるのだった。どれだけの幸福を、愉悦を知らずに生きてきたのかと自分の過去を嘆くことになりそうで――。
「なあ、どうすれば、俺はこの畏れを克服できる」
「そんなの感嘆だよ」
類の心を覆い尽くす暗雲を吹き払うように、恵はカラっと笑った。
「ただ、飛び込めばいいんだ」
恵は言って、両手を広げた。――が、その抽象的な表現を類は理解しきれなかった。
「すまん。もっと具体的に頼む」
肩を竦めて項垂れる類に、恵はうーんと背中を反らした。両手を頭の後ろで組んで身体を揺らす。
感覚で認識しているものを言語化することは、恵にとって難しい事なのだろう。
うーんと唇の端から空気を零しながら、恵は揺れる。そうして数分が経過した後、彼は言った。
「知識の海に、身を委ねる。――欲求のままに求めれば良い」
「――それが難しいんだよ」
自嘲気味に笑って、類は肩を竦めた。
知ろうとするたびに、知らないモノが累積していく。
知らずに生きることだってできるのに、一度知り始めたら、見て見ぬふりができなくなる。例えば、日常で着ている安価な衣服が、残虐な奴隷制度で産み出されたものだと知るように。
知れば、それを知らなかった過去の自分に愕然とし、同時に、それ以上のスケールで世界が類にとっての無知で満ちている事に気がついて身の毛がよだつ。
知識の海に飛び込むことは、いってしまえば、海の中で漂流するようなものだ。
寄る辺を失い漂い、どこか「既知」で塗り固められた寄る辺がないかと縋り、できず、溺れる事しかできない。
「いいんだよ、飛び込んで」
恵の手が、類の手を強く掴む。
「僕はずっとその海で漂ってきた。類のザイルを握るくらいならできるさ」
「そうか」
掌に伝わる確かな温度と、力に、類は笑った。
「頼りにしているぞ、恵」
「――今、名前!」
類の台詞に、恵は破顔した。ぱぁっと喜びが爪先から全身へと駆け巡っていく様が手に取るように分かる。
「クイズするぞ。高校生クイズで勝つんだろ」
恵ともう一度名を呼べば、彼は無邪気に笑って頷いた。
机に頬杖をついた恵が、奇っ怪なものをみるように眉根を寄せ、類をみていた。
「まあ、長年の便秘が解消した、って感じだな」
「長年のって、どのレベル」
「ゾウの出産以上だな」
「二年以上とか、病気だろ、それ」
淡々と返す類に、恵が小気味のいい相づちを打った。恵がいるだけで、薄暗い部室が一気に華やぐようだった。旅人が思わず外套を脱いでしまうような暖かな恵という太陽は、類が長年纏っていた孤独と拒絶のベールをゆっくりと剥いでいく。
「なあ」
相変わらず一人で愉しそうにしている恵に、類は声をかけた。
「おまえ、俺が畏れていると言ったよな」
「――言ったっけ?」
キョトンと首を傾げる恵に、類は「言った」と断言する。
「高校生クイズに出るって言ったとき。――気乗りしていない俺に、お前は確かに言った」
「あぁ、言ったかも、ね。――うん、言った。類には成績が落ちるよりもずっと怖いものがある」
宙空に視線を向けていた恵が、ハッと思い出したように繰り返し頷いた。
「俺の恐れはなんだ」
「知ること」
恵はきっぱりと言い切った。以前ははぐらかしてクイズに逃げたくせに、自棄にハッキリとした物言いで、恵は言う。
「正確には、『無知の知』かな。――類は、自分に何も無いって、無知だって知ることが怖かったんだよ」
「過去形か?」
だった、という恵の口ぶりに首を傾げれば、彼は頷いた。
「なんか吹っ切れたみたいだからさ。――飛び込む勇気、出たんでしょ」
「さあな」
類は肩を竦めた。
一瞬輝いていた恵の目が、見る間に微かに陰る。本当にわかりやすい仔犬だ。その姿に類は口元を緩めた。
「俺は、多分まだ怖いんだよ」
ぽつりと零した言葉が、放課後の地学準備室に転がった。
――怖い。
ずっと学問が全てで生きていた。テストというわかりやすい指標で結果を出すことが全てだと、それができなければ愉しむ権利がないと勝手に決めつけて、いつの間にか作り上げられていた呪いにがんじがらめになって生きてきた。
正直、今更「好きに生きて言い」と了承を得たところでどうすればいいのか分からない、というのが類の所感だった。
泳ぎ方も知らないのに、大海に放り出されたようなものだ。
それはクイズに対しても同じだ。
愉しんでいいのかと自分を赦しきれず、同時に、クイズをするたびに知らぬ事が増えていく。
灰色で凪いでいた類の日常は、恵という極彩色に塗り替えられた。ふれあうたびに、世界が知らない色で満ちていく。
それを知ろうと思うたびに、類の足は震えるのだった。どれだけの幸福を、愉悦を知らずに生きてきたのかと自分の過去を嘆くことになりそうで――。
「なあ、どうすれば、俺はこの畏れを克服できる」
「そんなの感嘆だよ」
類の心を覆い尽くす暗雲を吹き払うように、恵はカラっと笑った。
「ただ、飛び込めばいいんだ」
恵は言って、両手を広げた。――が、その抽象的な表現を類は理解しきれなかった。
「すまん。もっと具体的に頼む」
肩を竦めて項垂れる類に、恵はうーんと背中を反らした。両手を頭の後ろで組んで身体を揺らす。
感覚で認識しているものを言語化することは、恵にとって難しい事なのだろう。
うーんと唇の端から空気を零しながら、恵は揺れる。そうして数分が経過した後、彼は言った。
「知識の海に、身を委ねる。――欲求のままに求めれば良い」
「――それが難しいんだよ」
自嘲気味に笑って、類は肩を竦めた。
知ろうとするたびに、知らないモノが累積していく。
知らずに生きることだってできるのに、一度知り始めたら、見て見ぬふりができなくなる。例えば、日常で着ている安価な衣服が、残虐な奴隷制度で産み出されたものだと知るように。
知れば、それを知らなかった過去の自分に愕然とし、同時に、それ以上のスケールで世界が類にとっての無知で満ちている事に気がついて身の毛がよだつ。
知識の海に飛び込むことは、いってしまえば、海の中で漂流するようなものだ。
寄る辺を失い漂い、どこか「既知」で塗り固められた寄る辺がないかと縋り、できず、溺れる事しかできない。
「いいんだよ、飛び込んで」
恵の手が、類の手を強く掴む。
「僕はずっとその海で漂ってきた。類のザイルを握るくらいならできるさ」
「そうか」
掌に伝わる確かな温度と、力に、類は笑った。
「頼りにしているぞ、恵」
「――今、名前!」
類の台詞に、恵は破顔した。ぱぁっと喜びが爪先から全身へと駆け巡っていく様が手に取るように分かる。
「クイズするぞ。高校生クイズで勝つんだろ」
恵ともう一度名を呼べば、彼は無邪気に笑って頷いた。
