ちのはて

 高校生クイズ。
 それは、知力、体力、チームワークの限界に挑戦する高校生による知の甲子園である。
 高らかにそう語るのは、他でもない藤堂恵だった。
 放課後の地学準備室。金曜日の強制部活動の時間に開催されたその講義を聞いているのは、類と百合本の二人だった。
 他の部員は――というと、顔をつきあわせながらノートを繰り、時折新しく何かを書き込んでいる。百合本を含め、他の先輩方は皆、三年生だ。既に引退が決まり、受験勉強に備えなければならない時分ではあるはずだが、受験生特有の神経質さは彼らからは漂っていない。
 久方ぶりに訪れた暇に、歓談をする社会人のような雰囲気があった。
「先輩方は受験勉強、しなくていいんですか」
 恵の講釈を聞き流し、類は隣にいた百合本に声をかけた。
「根詰めてばっかりじゃ、息詰まるからな。こういう、息抜きの場も必要なんだよ。――それに、ああやってわちゃわちゃ問題を出し合っていた方が、記憶に残るってもんさ」
 そういうものだろうか。
 ずっと教科書とばかり向き合ってきた類には分かりかねる領域の話だった。
「ちょっと、類。先輩。聞いてる?」
 ひそひそと話しているのに気がついたのだろう。熟々と語っていた恵が、ビシッと類を指さしていった。
「ああ、聞いてはいる」
「聞き流しているだけだよねっ」
 間髪入った恵のツッコミを、類は「よく分かったな」と悪びれるでもなく頷いた。
「他人事みたいにいっているけど、この部室がなくなったら困るのは類も同じだからね」
「まぁ、わかっているんだが」
 いかんせん気が乗らない。
 遊ぶな。勉強しろ。
 繰り返し言い聞かされてきた呪いの言葉が、頭蓋を跳ね返り増幅する。まるで、こうして部室でまったりと語らっている類を責めるように――。
 漸く見つけたはずの安息の地が、たちまち、針のむしろと化した。
 勉強しなきゃ。勉強しなきゃ。勉強しなきゃ。
 居心地の悪さに、呼吸が浅くなる。寄る辺を求めるように、指先が鞄の方へと伸びた。何だっていい。とにかく「勉強をしている」という既成事実だけでも作れたら。
 それだけで、ここにいて良いと承認できる――はずだ。
 
「るーい」
 類のその行動を窘めるように、恵がズイッと顔を寄せてきた。
 吐息が頬を撫でるほどの側に彼の温度を感じながら、類は視線を落とす。
 彼の情熱に満ちた視線は、今の類にとって劇物だった。真っ直ぐに向けられる輝いた瞳を、到底、受け止められそうにない。
「なんだよ」
 机に浮かび上がる木目を視線でなぞりながら類は応じた。
「類はなにを恐れているの」
「別に、なにも」
「嘘だ」
 机を挟んだ反対側に恵がしゃがみ込んだ。机の下から類の顔を覗き込んでくる。
 恐れを知らぬ好奇心の獣がそこにいた。
 だが、瞳は獣のような獰猛さを持っていない。あるのはただ、洞窟の奥を照らす蝋燭のような、柔らかく確かな光だった。
 きっと、この光の下では、どんな嘘もたちまちに明るみに出るだろう。
 諦念に似た思いを抱き、類は息を吐いた。
「――成績が落ちること」
「嘘だね」
 クスリと喉を鳴らして恵が言った。
「類の恐怖は、そことは別のところにある」
 信託者。
 彼の声を表現するとすれば、それ以外に相応しい言葉がなかった。荘厳で、確信を持った口ぶりは、正しく神の啓示を授ける信託者であろう。
 無邪気な子犬のような好奇心がなりを潜めた恵の眼は、心の奥底を見透かしてくるようだった。
「――そこまでいうなら、答えをいえよ」
「やだね。だってそれは、類がみつけないと意味ないもの」
 言い切るやいなや、パンッと恵が手を叩いた。
「それよりもさ、クイズしよう!」
 普段の溌剌さが戻ってきた。弾けるような笑顔と、教室の戸を破らんばかりの元気さを宿した声が、地学準備室に響き渡る。
「先輩は問読みで、類は僕とバトルね! 大会までの時間は有限なんだから、場数を踏まないと」
 さあ早く早くと恵がせき立てる。
 まるで台風のようだ。クイズに陶酔した青年の勢いに、類は抗うこともままならず、すっかり彼のペースに飲み込まれていった。

「なんだかんだで面倒見良いよな、類って」
 鍵返してくるから待ってて、と廊下を駆けていった恵の背中を見送りながら百合本がいった。
 日が長くなったとは言え、部室を閉める頃にはすっかりと日が暮れていた。どこの教室も消灯され、廊下を照らす蛍光灯の微かな瞬きの音だけがそこにはあった。
「ただ巻き込まれているだけですよ」
 向こう一年分の声を出したのでは無かろうか。
 活動可能時間のギリギリまでクイズに付き合わされていたのだ。何度も問題に答えさせられ続け、類は喉にいがらっぽさを感じていた。
 下手に反論しても面倒なだけだ。面倒を厭う正確が裏目に出て、ズルズルと深みに飲み込まれているだけに過ぎない。足掻くほどに飲み込まれていく蟻地獄かと思いきや、恵という捕食者は狙った獲物は絶対に逃がさない執念を携えていた。
「ただ、諦めただけです」
「そういう所は、三男っぽいな」
 面倒な兄貴に絡まれる弟らしいといって、百合本はカラカラと笑った。
 兄貴――だろうか。
 廊下を転がるように掛けだしていく恵を思い出しながら、類は首を傾げた。ああやって無邪気に掛けだしていく様子は、兄というよりも末っ子感がにじみ出ているし、もっといえば仔犬だ。若さと歯止めの効かない好奇心の化身――ジャックラッセルが一番近い。
 ――が、それよりも。
「――前もいったような気がしますが、俺、三男じゃないですよ。一人っ子です」
「ん? そうだっけか」
 類の反論に百合本は首を傾げた。釈然としないようすで、腕を組み顎をしゃくる。
「お前さん、杜類だろ」
「ええ」
「んで、親は医者で、りんたろー」
 そうですねと、類は頷いた。
「ってなると、やっぱり三男なんだよな」
 独り言のように百合本はいった。彼がなにを思い、どこに違和感を抱いているのか類には理解できない。彼の頭蓋に広がる知識の宇宙は、類の理解の範囲を遙かに凌駕しているように思う。
「なんの話してるの」
 ひょっこりという擬音が相応しい様子で、恵がズイッと顔を寄せてきた。
 職員室に鍵を返却して、戻ってきたのだろう。軽く上がった息が、頬に触れた。
「近い」
 類が顔をしかめれば、恵はごめんごめんと軽い謝罪を零す。
 僅かに身体を引いて、「で、それで?」と恵は類と百合本を交互にみて再び疑問を口にした。
「二人でなんの話してたの?」
「類が三男じゃないのに違和感があるって、それだけだよ」
 だって「もり るい」だろうと、先ほどと同じ口調で百合本が言う。その言葉に、恵は「ああ」と小さく息を零して頷いた。
「確かに。――僕は類が一人っ子って知ってたから特に気にしなかったけど、名字が『もり』で『りんたろー先生』の息子で『類』って名前なのに、兄貴がいないのは違和感があるかも」
 百合本に同意を示すように、恵は何度も頷いた。
 この二人の宇宙には共通部分があるらしい。二人して納得したように頷く姿を眺めながら、類は微かな疎外感を抱かずにはいられなかった。

 
「ただいま」
 玄関に放り投げた言葉に返事など無かった。暗く、少し冷えた玄関を通り抜け、その先にあるリビングへと類の言葉は転がった。
 ――おかえり。
 最後に暖かな声に迎えられたのは、一体いつだっただろうか。
 パチリとスイッチを押せば、暖色の灯りがリビングを包んだ。照明に目を瞬けば、明順応が遅れて訪れる。
 誰もいない。
 空虚に広がる屋内はいつものことだ。もうすっかりと慣れた日常のはずなのに、心の隙間を冷たい風が通り抜けていく気がした。
 寒々しく、どこまでも空虚。
 直前まで、和気藹々とじゃれついてくる仔犬の温度に触れていたせいもあるのだろう。今日は、より一層、冷え冷えと感じられた。
 この感情を一言で表現するとすれば――。
 頭の中で辞書のページがパラパラとめくられていった。やがて指先が、該当する単語に触れる。
 この感情は――。
「馬鹿らしい」
 結論をはじき出すよりも先に、類は吐き捨てた。
 馬鹿らしい。尽く愚かな行いだ。
 勝手に訪れた心象に名前をつけるほど馬鹿らしい行いはないだろう。計量化できないものを推し量ろうとし、目に見えない傷を数える行為など、ただのメランコリックな自傷癖だ。
 類は軽く頭を振って、訪れた感傷を振り落とした。
 脳内に広げた辞書を閉じ、類は意識を現実に引き戻す。目の前にあるのは、相も変わらず、空虚なリビングだ。リビングを包む電飾は柔らかなオレンジ色だが、そこにある温もりはどこまでも人工的で、むしろ、虚ろさを際立たせているように思えた。
 ふと、ダイニングテーブルの上の小さなホワイトボードが視界に入った。
 類がまだ小さい頃から使われている家族の伝言板だ。落としきれ無くなった水性ペンの汚れがうっすらと蓄積され、ホワイトというよりもグレイにみえる。
【類へ――】
 見慣れた丸っこい文字に、類は目を通した。
【急な夜勤になったので、夕食は適当に済ませてください。買い置きは好きに使って大丈夫です。勉強はしっかりすること。それじゃ、いってきます。おやすみなさい。おはよう。いってらっしゃい】
 書かれる言葉はあまり変わらない。変化があるとすれば、夜勤が日勤になったりする程度だ。決まり切った言葉しか書けないのなら、メールにするなり工夫すればいいものを、母は何故かその都度、この文字を消しては新しく書き直す。
 これは無駄――ではなかろうか。
 ふうっと息を吐いて、類は天井を見上げた。
 ――勉強はしっかり。
 書かれた文字が温度を持って、類の鼓膜に触れる。

「勉強、しなくちゃ」
 自分に言い聞かせるように類は呟いた。クイズ同好会――恵との馴れ合いで時間を無駄に使っているのだ。それに、中間試験では無残な成績を晒してしまったのだ。もっと、勉強をしなければ。そして、挽回しなければ――。そうで無ければ――。
 ――類、あなたはちゃんと勉強して、立派にお父さんの跡を継ぐのよ。
 母の声が寄り明瞭な形を持って蘇った。
 優秀な成績を取らなければならない。
 医者を目指せるだけの学力を持たなければならない。
 そのためにはいかなる娯楽も「無駄」として切り捨てるだけの覚悟を持たなければならない。 
 それだけの努力をしなければ、母の求める場所には立てない。そして、今、類が辛うじて立っている足場さえも、緩やかに瓦解してしまうだろう。
 心の表面がざわりと粟立った。
 これ以上考えてはいけないと、理性が危険信号を灯した。ただ何も考えずに、無心に教科書をめくり、ワークをこなすだけで十分だ。
「数学、やるか」
 その呟きを聞くのは、相も変わらず類ひとりだった。中が空っぽな分、よく響くのだろう。囁く程度に呟いたつもりの声が、思いのほか大きく響いて聞こえ、類は空咳をした。
 咳してもひとり、とはよくいったものだ。
 たった一文、ほんの八文字で、この空虚さを紡ぎ出せるのだから尾崎放哉の表現力は怖ろしい。
 ふと思いついた事から、四方八方に思考が飛び散ってしまうのは類の悪い癖だった。
 ――今は勉強をしなければ。
 両手で頬を叩き、意識を今につなぎ止める。数学の問題集を開き、ノートに解法を書き付けていく。計算をしていれば、頭を数字で埋め尽くしていれば、そうすればこの無頼な思考もなりをひそめるだろう。
 類は自分の思考を好いてはいなかった。
 あちらこちらに飛び散っては、よく分からないところに行き着く思考回路は、落ち着きのない幼子そのものだ。もっと論理的に考えることができたら、と肩を落としたのも数度ではない。
 賢く生きなければ。
 跳ね回る思考を持ったままでは、社会の荒波では容易く難破してしまうだろう。せめて、この無邪気な子供のように飛び回る思考回路をカモフラージュできるだけの理性を携えなければならない。
  類はノートにシャーペンを走らせた。
 数学は美しい。さらさらと紡がれていく数式も、理論的で、自らノートに書き付けたものとはいえ、思わす嘆息を零さざると得なかった。
 世界は数式でできている。この世の全ては数学で証明できる。
 そんなことをいっていたのは一体誰だっただろうか――。
 簡単な練習問題から取り組んでいるせいか、答案を紡ぎ出す手は淀みなく動く。ほぼ反射的に答えを選び取れる問題が多いせいで、思考の一部はどこか別の場所を漂っていた。
 もしも――。
 もし、本当にこの世界が数式でできているというのならば、もっとわかりやすくてもいいのではないだろうか。
 ふわりと彷徨っていた思考は、ついにはそんな事を考え始めた。
 気がつけばさらさらと動いていた手が、ピタリと止まっていた。解を導き出せず、ノートの一点にぐりぐりとペン先を押しつける。つかみ所の無い霧のような黒々とした感情が、類の心を満たした。
 その感情に答えが出せない。
 ――否、出さないようにしているのだろうか。
 それすらも、類自身分からずにいた。
 数学の問題は簡単に答えを紡げるというのに、それによって構成されているはずのこの世界の事は何一つ類には分からずにいた。
 どうすれば、母に認めてもらえるだろうか。
 どうすれば、この劣等感を打ち砕けるだろうか。
 どうすれば、もっと上手く生きられるだろうか。
 どうすれば、罪悪を抱かずに日々を過ごせるだろうか。
 どうすれば――。
 解無しの問題群ばかりが類の思考の一部を支配していた。常に未解決タスクとして類の中に蓄積し、本来自由自在に巡るであろう思考を妨げていた。
 寧ろ、逆か――。
 類は思った。考えたところで答えの出ない問題を棚上げにするために、敢えて、思考を縦横無尽に巡らせているのだろうか。
 油断すれば跳ね回り、芋蔓式にいろいろな場所に行き着いてしまう思考の癖を思い返しながら、類は思う。
 もう、勉強の気分ではなくなってしまった。
 類はシャーペンを机に放り出し、椅子の背もたれに背中を押しつけた。長く使っている椅子は若干草臥れていて、体重の変化に微かに軋む。つなぎ目からギシリと音がした。
 人のいない家には、そのささいな音さえも大きく響いた。
 もしも、こんな時に話せる友がいたとしたら、この鬱屈とした感情は少しは救われるのだろうか。
 淀んだ思考の海の底から、そんな感情がぷくりと泡のように浮かんできた。真っ黒に濁った水の中で、そのあぶくは、どこか希望を抱かせるように淡く輝いているような気がした。
 この場所に恵がいればと思ってしまう。
 あの快活で溌剌とした嵐のような少年ならば、このリビングに満ちた陰鬱な空気を一息で吹き飛ばしてしまうだろう。
 ありもしないそんなことを考えて、類はフッと口元を緩めた。
「――そういえば」
 ふと思い出したことがあった。ずっと気がかりで、それでいて、さして調べようと思わなかったこと。

「もり りんたろー」先生の息子の類が一人っ子って、やっぱり違和感があるよな。

 事ある毎にクイズ部のメンバーが口にしていた言葉だった。姉、または兄が存在するに違い、そして類が三男であると確信に満ちた口ぶりで彼らは常々口にしていた。 
 類が一人っ子であると知っている恵でさえも、類が三男でないことを訝しむ部員達に「確かに」と頷いていた。
 きょうだいなんていない。
 ふらりと席を立ち、類は部屋を見渡した。カウンターキッチンがついたこぢんまりとしたリビングダイニング。そこに申し訳程度に飾られている家族の写真は、類が幼稚園の時で止まっているが、映っているのは父と母と幼少の類の三人のみ。
 ダイニングテーブルは四人がけのものだが、一箇所は確実に使われないことが決まっていて荷物置きと化していた。伝言板のホワイトボードが置かれている場所も、その使われない一角の物置――もとい卓上調味料設置スペースだった。
 玄関からこのリビングに繋がる廊下には、トイレ洗面風呂場といった水回りが固まっているだけで、類や両親の自室は二階だ。
 類は階段を昇った。踏み板が上げるギシギシとした悲鳴が、がらんどうな室内によく響いた。
 上り詰めた先の二階も埃っぽい。
 そもそも不在の多い一家だった。使われず、人の流れを失った空気は淀み、動かない時と共に埃を纏っていく。
 いがらっぽい空気に軽く咳払いをして、類は二階の電気をつけた。
 二階にあるのは三つの部屋だった。一つは父の寝室、二つ目は母の寝室、そして三つ目が類の部屋だった。夫婦の寝室が別々なのは珍しいだろうが、結婚当初から部屋を分けることは決めていた――らしい。
 なんでも、夜勤でかみ合わない生活リズムを調整するのに夫婦別室は必須だったらしい。そもそも、この家自体が、結婚と同時に立てたものらしく、部屋数で存在するか分からないきょうだいの有無を判別することはできないだろう。
 少し悩み、類は父の部屋を開けた。
 真っ白な紙にぽたりと落としたインクが広がるように、じわりと罪悪感が心に滲んだ。
 それでも、一度火のついた好奇心は弱まるところを知らず、類を駆り立てていた。「勉強をしなければいけない」という強迫観念からの逃避だろう。
 セルフ・ハンディキャッピングが一番相応しい理由付けだろうか。
 ――類が一人っ子って、違和感があるよな。
 ――確かに。
 夕暮れ時に交わされた百合本と恵との会話が頭の片隅で、ずっと反響していた。
  踏み入れた父の部屋は、案の定空気が淀んでいた。一体、どれほどの間換気をしていないのだろうか。終ぞみることのなくなった父の背を思い起こしながら、類は窓を開けた。
 隙間から入り込んだ生ぬるい風が室内の埃を巻き上げる。それが照明の光に照らされて、煙のように揺らめいて見えた。
 改めて室内をみれば、分厚い書籍と立ち並ぶ本棚がまず目に入った。6帖ほどの部屋に本棚と机とベッドがぎゅうぎゅうに押し込められている、といった印象だった。もっと良いモノを買えばいいだろうに、父の部屋に置かれている机はノートパソコンを置けば卓上が埋まってしまうようなコンパクトなものだった。
 秘密が隠される影など無い。
 科別、背丈別に整然と並べられた医学書が彼の几帳面な内面を反映しているようだった。
 ――もしかしたら隠し子が。
 悲劇の主人公を謡うに相応しい理由があると、どこかで期待しながら、失望に似た不安を抱えていた。それがどうだろうか。
 こんな面白みのない男の内側に入り込み根を張る「秘密」なるものが存在するだろうか。
 馴染みのない文字列が刻まれた分厚い書籍の背をなぞりながら、類は自嘲的に笑った。一体何を期待していたのだろうか。
 ほんの数秒前まで胸の裡に巣くっていた、捉えどころの無い霞のような感覚をたぐり寄せる。
「類か?」
 心臓が跳ね上がり、強く脈打った。比喩表現抜きに心臓が痛い。跳ね回る動悸がそのまま伝わったように肩が撥ねた。
「とう、さん」
 ギシギシと音が鳴りそうなほどぎこちなく応じながら、類は首を回した。部屋の入り口をみる。そこにいるのは、おじさんと表現するのが相応しい白髪交じりの男だった。細い銀縁の眼鏡が照明を反射する。
 白内障を気にし始めたのだろうか。強めのブルーライトカットが入ったレンズは見事に光を反射し、その奥にある瞳を鮮やかな蒼の底に沈めていた。
 彼の瞳はどんな色を浮かべているのだろうか。
 失望か、或いは怒りか。
 みようにも見えない父の本心を覗きみるように、類は父と視線を合わせようと努力した。
「エロ本なら、図解人体寄生虫学の箱の中だぞ」
「探してねぇよ!! クソエロオヤジ」
 思ってもみなかった父の発言に、類の緊張は遙か彼方へと吹き飛んだ。ツッコミはほぼ反射的だった。久々に顔を合わせた父に対する「久しぶり」や「おかえり」といった気の利いた声かけも、同時にどこかへ吹き飛んでしまった。
「そうか」
 しょんぼりと肩を落とし、父は部屋に踏み入った。
「――論文のデータを入れたUSBを忘れてしまってね」
 いいながら父は机に放置されていたUSBを掴み上げた。そして、類をみる」
「一押しのエロ本は父さんの枕の下な」
「加齢臭染み渡るエロ本とか、熨斗つけて返すレベルだわ」
 ――何故、久々の父子の会話が徹頭徹尾エロ本に限定されているのか。
 怒られると身構えていた分、父の発言は予想の斜め上どころかねじれの位置にあるようで、拍子抜けした。
 
  お父さん匂うかなと、自分の襟ぐりに鼻を押し当て、父はスンっと鼻を鳴らした。
 少し俯くような姿勢で、丁度父の頭頂部が見えた。毛が少し細くなっているのだろうか。照明が父の頭部の皮膚をほんの少しだけ照らしていた。
「で、エロ本じゃないなら、父さんの部屋で何を探してたんだ」
 自分の匂いは分からないと諦めたのだろう。顔を上げた父が類をみた。距離が詰まったお陰で、父の瞳がよく見える。
 黒よりもブラウンに似た瞳が真っ直ぐに類をみていた。柔らかい目付きだ。どこか剣呑としたイメージを抱かせる医者という肩書きには不釣り合いなほど、優しい日だまりのような光があった。
「ちょっと、気になった事があって」
「ほう、エロ本よりも?」
「エロ本は興味ねぇよ」
「年頃の高校生なら、エロ本には無条件で食いつくだろう。ほら、エロ本みているのが親にバレて大ピンチとか、高校生あるあるじゃないか?」
「そのあるあるは、誰も踏み入れてこないだろう自室に親が踏み入れてきた場合に発生するイベントだよ」
 そうか、と父は少し釈然としないように首を振った。頷いたとも、傾げたとも取れる絶妙な角度だった。
「で、エロよりも気になった事ってなんだ?」
「俺の名前について」
 月明かりのような柔らかい父の雰囲気に釣られるように、類は抱えていた疑問を口に出した。
「学校の課題か?」
「いや。――部活で、俺の名前で三男じゃないのは変だって言われて」
「お前の名前で、三男じゃないか――」
 父は顎に手を当てた。指先を軽くはむようにして、少し考えるように押し黙った。
「その、お前の名前っていうのは『類』ってところか? それとも、『杜類』としてみたときにか?」
「いや――」
 類は首を振った。恵と百合本の交わしていた会話を思い出す。
「――『もり りんたろー先生の息子で、類って名前なのに、一人っ子なのは違和感がある』だったかな」
 薄ぼんやりとした記憶をなぞるように、類は口にした。
 ほうと父が感嘆の息を零す。
「その子、かなり物知りだな」
 心底愉しんでいるのだろう。ククっと喉を鳴らした。
「で、実際はどうなんだよ」
 一人で満足そうに頷いている父の姿が面白くない。彼も、恵も、百合本も、みんなが類と違う世界を共有し合っている。同じ視界を共有できないという事実が、類に世界からはじき出されたような疎外感を与えていた。
「すまんな。――いつか気がつく日は来るのかなとおもっていたものでな」
 父が笑いながら類の頭をポンポンと優しく叩いた。幼子をあやすような優しい手つきを、類は軽く払った。
「もうガキじゃねぇよ」
「面白くないと下唇が前に出る。――ガキの頃から変わらん癖だな」
 父が更に笑みを深め、類の頭をぐしゃぐしゃとなで回す。
「これは別に話すべきじゃ無いと思っていたからいっていなかっただけなんだがな」
 父が空気に混ぜるような優しい声音で口にした。
「お前は、三番目の子供なんだ」
 ぽつりと落とされた言葉が、明瞭な輪郭を持って重くのしかかるようだった。類は静かに父をみた。父もまた、月影のような笑みを浮かべ類をみている。
「死産だったんだ。戸籍にも残らない。――母さんは、お前を産んだときに『無くなったきょうだい達のことも忘れないでほしい』って言って、お前に三番目と分かる名前をつけようとしたんだ」
「――父さんは違った?」
 父は頷いた。
「お前が背負うべきではないと思ったんだ。死産に終わった一子も二子も、知らなくたって生きていけるし、知らなくて困ることはないからな。なら、態々、三番目を知らしめる名前にする意味は無いだろうと思ったんだ」
 母さんは違ったみたいだがなと、父はぎこちなく笑った。
「それで、お前の名前は『類』にした。三番目であることが分かる人には分かる。でも、知らなくても困らない。俺と母さんの折衷案だったんだよ」
 父の言葉に類は首を傾げた。
「――何で『類』が三番目だと分かる名前なんだ」
「作家の森鴎外は知っているか」
 類は首を振った。著作は読んだことがないが、教科書にも出てくる文豪だ。
「彼の本名は森倫太郎。――そして、彼の子供の名前は――」
 長男が於菟、長女が茉莉、次女が杏奴、次男が不律、そして三男が――類だそうだ。
 ――「もりりんたろー」の息子で「類」なのに。
 黄昏に沈む校舎の片隅で耳にした言葉の意味が、ようやっと実感を持って類の中に落ちた。
「すまんな」
 父が自嘲気味に笑う。虚空に投げられたような父の謝罪が、一体なにに対してのものか分からなくて、類は無言で立ち尽くした。
「結局おまえに背負わせている。――私らの愚かさも、そして母さんがお前に向る行き過ぎた期待も、庇護も、ただ眺めていることすらできない」
 もっともみることすら満足にできていないのだがな、と父はいう。
「息子に背を抜かれるのはもっと先になると思っていた。それなのに、気がつけばお前は私と同じ視線でものをみている」
「見れちゃいないのは、俺もおなじだよ」
 類も静かに答えた。
 何も見ていなかった。一方的に押しつけられた期待も、煩わしいと思いながら撥ね除けるだけの勇気を持てず、それが何を意味しているのかも知ろうとせず、ただ目を閉じ、耳を塞ぎ、自分にとって都合のいいルールの世界に潜ろうとした。――そして、潜りきれずに、残酷な現実の中で孤独に溺れ死んでいる。
 物理的に視座が同じになったとしても、見えている世界の濃度はまるで違う。
「――仕事はいいの、父さん」
「そろそろ戻らないとやばいかな」
 父は類の頭を撫でていた。名残惜しそうにその手が離れる。触れていた温度が遠ざかるほどに、冷え冷えとした空気が逃避に触れ、類もまたその温度を恋しく思った。
「タクシー?」
「いや、歩いてきたさ。今日は北総合での当直バイトだからな」
 家から徒歩十分程度で辿り着く、地域の救命の要と呼べる総合病院だ。父は自分の姓を関した町医者をする傍らで、その大病院の救命でのバイトを月に何日も担っている。
「俺もちょっと散歩したいから――」
 類は唇の先だけでもごもごと発した。皆までいうのが気恥ずかしくて、その言葉は途中で霧散する。
「今日はいい月が見れる。――歩くか」
 ご飯は一緒に食べれないがな、と父は笑った。

 月が照らす夜の街の間を、仄かに熱を帯びた風がゆったりと通り抜けていった。星の瞬きさえ聞こえてきそうなほど、静かな夜の帷が降りている。
「夏が近いが、夜は涼しいな」
 父の言葉に頷いた。闇夜に飲み込まれたのか、家出は自然とできていたキャッチボールが、どこかぎこちなく、続かない。
 ぽつりと父が発する言葉に、類は曖昧に頷く事しかできなかった。やがて、煌々と灯る病院の灯りが住居の合間に見え隠れし始めた。
 隣にいる父のペースが、ほんの僅かに緩まった。それに合わせるように、類は歩幅を小さくした。
「――父さんは、なんで医者になったの」
「やりたかったから、だな」
 言って父は少し言い淀むように唇を数度動かした。彼の中で二三反芻された言葉は、声になる前に吐息となって夜の空気に溶けていった。
「お前は、医者にならなくていいからな」
「なんで」
 ――類、あなたはお父さんのような立派なお医者さんになるのよ。
 母が、祖父母が、そして幼い頃から類を知る近所のものたちが口々に言ってきた言葉だ。それは何度も類の鼓膜で反響し、呪いのように彼を縛り付けていた。
「父さんは、俺が医者になるのを望んでいるんじゃないの」
「いや。全く」
 ならん方がいいぞ、と父は笑った。
「じゃあ、なんで父さんは医者になったの」
 またしても父は考え込むように口を曲げた。突き出された唇が数度動く。
「盗んだバイクで走り出す、何てフレーズは、もう伝わらないかな」
「十五の夜だっけ」
 うろ覚えの知識を総動員させて絞り出せば、父は頷いた。
「父さんも昔はそんな悪ガキでな、誉められた事はなぁんにもしてこなかった。親ですら手を焼くクソガキだ、勉強もしない、夜は遊びと喧嘩に明け暮れる。人生の絶頂だったんだろうな。なにをしても赦されると根拠のない全能感に溺れていた。――そんなある日だ、とんでもないポカをやらかした」
 事故って死にかけた、と何でも無いことのように父は言い放った。
「それで、救われて医者になろうって思ったの」
「平たく言えばなそうだな」
 全てを語る気は父に無いのだろう。寧ろ、語り尽くせるだけの語彙を持っていないか。
 父が黙し、夜の静寂が耳に触れる。
「救命で救われて、救命に身を賭した。父さんが医者になった理由は、それだけだよ」
 静かな声が月夜に溶けた。柔らかく放たれた声音は煙のように不確かで、ゆったりと月に向かって昇るようだった。
「救命に賭したのに、なんで開業医なんかやってるのさ」
 血の繋がった親子のはずなのに、知らない事が溢れいる。一度走り出した好奇心は、やはり留まるところを知らないのだろう。問いが次々と溢れてくる。
「救命は愉しかったさ。――だが、いつしかそれは仕事ではなく業務担った。ベルトコンベアで仕分け作業をするようなものだ。次々に運ばれてくる患者を、検分して、担当の科に振り分けていく。掬い上げた先にある、その人達の人生なんて考えていなかった」
 それが厭で救命から距離を置いた、と父は言った。
 一際明るい光が目の前に現れた。病院の看板だった。救急外来の文字が煌々と灯る不夜城がそこにあった。
「類」
 威厳と柔らかさを兼ね備えた優しいテノールが、類の名前を呼んだ。
 炯々とした照明に目を瞬きながら、類は父をみた。
「――好きに生きろよ」
「父さんが言うと、説得力があるね」
 ダイジェストで語られた父の半生を反芻しながら、類は口の端を上げて頷いた。
「馬鹿やっていた過去も、家庭を顧みずに仕事に明け暮れる日々も、誉められたものじゃないだろう。――父さんの人生は間違いだらけだ。だが、どこかで辿り着くべき場所に辿り着く」
 父の手が類の頭を撫でた。そして、後頭部が軽く押される。空気が僅かに揺れるだけの柔らかな力に従って、類は一歩足を踏み出した。
 暖かな温度が類を包む。
「類、つまらん人生を生きるな。ちゃんと遊べ。責任を取らない他人のために、お前が人生を棒に振る必要は無いさ」
「――とんでもない反グレに成長したらどうするのさ」
「そしたら、父さんの子供だって笑うさ」
 カラカラとした笑い声が、類の鼓膜を震わせた。
「まぁ、なんだ。お前が返す義理はないが俺にとってお前は、比類なき子だ。お前が困れば相談に乗るし、無条件に愛する。――だからお前は好きに生きていい。存外、盛大に踏み外したはずの人生が、振り返ってみれば正解って事もあるもんだからな」
 父の温度が離れた。熱いと思っていたはずなのに、離れてみると、やはり恋しく思う。
「俺さ、クイズ同好会に入ったんだ」
「愉しいか」
 類は頷いた。
「みんな馬鹿みたいなことで騒ぐくせに、馬鹿みたいに知識が深くて、広くて――」
 類は恵のことを思った。無邪気に駆け回る仔犬の裡には、膨大に蓄えられた知識が銀河のように広がっている。
 教科書をなぞることしかしてこなかった類の、濁り、淀んだ知識の海とは一線を画している。
 ――初めて、羨ましいと思った。
「愉しいよ、クイズ」
「そうか、なら、全力で愉しめ。好きを拾い集めていけば、その先に人生の答えは転がっているものさ」
 遠くから微かに救急車の音がした。
 時間だ。
「じゃあ、父さんは仕事に戻るな」
 類は頷く。
「行ってらっしゃい」
 踵を返した父は、類の言葉に軽く手を振って応じた。その背中が不夜城に溶けていくのを、類は見送った。
 やがて、類も踵を返す。一人で返る夜道はどこか心細い。だが、心の中では父とのやり取りがまるで小さな生き物のように動き回り、確かな温度を発している。
 時間にして一時間も無かっただろう。だが、この十六年で最も充実した、家族の時間だった。