ちのはて

「お前が入部してくれて、本当によかったよ」
 不意に落とされた台詞は、類に向けられたものだった。
 類が視線を上げれば、クイズ部の三年――百合本が頬杖をつきながら、しみじみといった様子で頷いていた。
「恵の相手をするヤツがほしかったから、ですか」
「あいつはちょっと騒がしいが、鬱陶しくはないだろ」
 おまえも嫌いじゃないだろ、と百合本に言われ、類は曖昧に頷いた。
 たしかに、嫌ではなかった。
 近すぎる距離感も、あれこれ理由をつけては絡んでくる無邪気さも、眩しいほどに輝かしい目元も、騒々しさが擬人化したようものだったが、類は恵を嫌いになれずにいた。
「でも、休み時間のたびに俺の教室に来るのは辞めて欲しいですけどね」
「あいつ、そんなことしてたのか」
 クッと百合本が喉を鳴らした。
「かわいげがあっていいじゃねぇか。恵ちゃんに優しくしてやれよ」
「あいつ、男ですよ」
「知ってるよ。お前よか付き合いなげぇからな。――けど、まぁ、ありがとな」
「なにがです?」
「入部してくれたことだよ。――クイズは一人じゃできねぇからな」
「一人じゃできないって、この部、結構部員いますよね」
 類の言葉に、百合本は「まあな」といって笑った。
 入り込む西日のせいか、その表情はどこか憂いを帯びているように、類には映った。
 ――なぜ。
 百合本の笑みに隠された意味を、類は理解できなかった。
 記憶の中にあるこの教室は、いつも人の温もりと声で満ちている。
 恵と同じだ。
 騒々しいといえば騒々しい部室だが、どこか嫌いになれない。
 嫌なら退部すれば良いと思って、気がつけば、一ヶ月が経とうとしていた。恵に「強制部活動の日だけでいいよ」と言われていたが、斜陽の差す薄暗い教室は郷愁を抱くほどに居心地がよく、気がつけば毎日部室に足を運んでいた。
 やることは今までと変わりが無い。
 教室の片隅で、誰も足を運ばない放課後の校舎の隅で、据わりの悪い自然科学部の部室で――。これまで毎日のように続けてきた、日常を繰り返すだけだった。
 だが、居場所はできた。
 ただ教科書を眺めるだけの灰色の日常でも、クイズ部の面々は「それでいい」と、認めてくれた。
 それが狂おしいほどに心地よくて、いつの間にか類の定位置は地学準備室の窓際に固定されていた。
「俺らは――」
 百合本が口を開く。刹那――。
「おっそくなりましたぁ!! 聞いてくださいよ、五里先生がさ――って、うおぉ、類いるじゃん。よっしゃ今日もクイズバするか。先輩問い読み問い読み。あっでもまって、ちょっと水のみたい。類、そっからバトルな」
 ガラッと扉が開かれるのと同時に、聞き覚えのある少年の声が飛び込んできた。パタパタと落ち着きのない足音が床を叩き、ガチャガチャと椅子を動かす。
「恵、一端座れ。一気に話すな」
 せわしない犬に「ステイ」と命ずるように、百合本が先輩らしい落ち着きを払っていった。
「いやぁ、だって類がいるんだよ。やるしかないでしょ!」
 落ち着いていられますか、と言いたげに足踏みをして恵が早く早くと百合本をせかす。
「ね、類も早くやりたいでしょ」
「いや、全く」
 恵から向けられる期待の視線を、類は冷徹に叩ききった。とりつく島もないぶった切りように、恵の顔はみるみる歪んでいった。感情の機微をつぶさに表出する眉毛は八の字に下がり、瞳は今にも泣き出しそうなほど潤んでいる。
 まるで目の前でおやつを取り上げられた仔犬のようだ。
 類の中で、ほんの少しの罪悪感がゆらりと立ち上がった。
「――おい」
 あと数秒。ほんの僅かでも長く彼の瞳を見つめていたら、根負けして「お願い」を聞き入れてしまいそうだった。
 絶対に彼の瞳になびいてはいけない。
 決心を固め、努めて厳しい声で類は訊ねた。
「今日は何曜日だ」
「ん? 水曜日だよ」
「じゃあ、強制部活動の日は何曜日だ」
「そりゃあ、金曜日に決まっているじゃないか」
 簡単なクイズだなと言いたげに、恵は爽やかに答えた。
 そんなことよりもクイズをしようよ、とその瞳は語っている。左右に揺れる身体も、楽しみを全身で表現していた。
 ――それをたたき壊すのは忍びない。
 一度芽吹いた罪悪感の灯火は、そう簡単には吹き消されてはくれない。中途半端な風を送れば、それは逆に炎を強める結果となる。
 現に、婉曲的に伝えようとした類の台詞はまるで意味をなしていなかった。寧ろ、その問いかけ事態がクイズの予行練習となってしまった事が逆効果になっていた。恵の中では期待感の炎が燃えさかり、それと比例するように類の中では罪悪感が燻っていった。
 ひと思いに吹き消さねばならぬのだろう。
 類は覚悟を決め、なるべく直線的になるように言葉を選んだ。
「お前、いったよな。俺が参加するのは強制部活動の日だけでいいって」
「あぁ――。いった、かも、ね」
 結論が恵にも読めたのだろう。視線が上下左右に落ち着き無く動き、歯切れが悪くなる。
 この駄犬を沈めるまで、あと一息。
 類は続けた。
「よって、今日の俺は部活動の義務から解放されている。――例えここに存在しているように見えたとしても、それは本来あり得ないもの。つまり、幽霊だと思っていて欲しい」
「幽霊部員を名乗るにはバリバリ存在感あるからねッ」
 何なら皆勤賞じゃん、と恵が叫ぶ。
 その掛け合いがツボにはまったのだろう。それまで沈黙を守っていた百合本が激しくむせ込んだ。
「確かに。類は皆勤賞だな」
 豪快に笑いながら、百合本が息も絶え絶えにいった。
「しがない地縛霊ですよ」
 ここにしか居場所がないから――。
 ほんの少し、頬が熱くなるのをごまかすように類は視線を伏せ、手にした参考書を読むフリをした。
「入部一ヶ月前だよね。そこからの地縛霊って、この教室が事故物件になるじゃん」
「幽霊に話しかけるなよ。霊感少年を気取るのはイタいぞ」
「圧倒的に類のせいだよね」
 打てば響くというように、恵が小気味よくツッコんだ。
「でもさ、クイズしないなら、ここじゃなくて他の教室とか使えばいいんじゃない? それこそ図書室とかさ」
 恵の主張は正論だ。だが、「いや」と類は首を横に振る。
「今日は演劇部が辻斬りをしている」
「あぁ、そういえば道端寸劇月間だっけ。――校内をうろつく演劇部が出会い頭に即興劇を仕掛けてくるアレ、巻き込まれると厄介だよね」
 軽く白目を剥きながら恵が言った。
  恵も、百合本も覚えがあるのだろう。「ああ」と得心いったように頷く彼らの背後には、疲労が影を濃くして佇んでいた。
「ちなみに図書室では文芸部が川柳大会を繰り広げている」
「――うちの文化部って、運動部に匹敵するぐらい活動的だよね」
 類の発言に、恵がドンマイというように頷いた。
 進学校という場所が等しくそうなのか、類には知らない。ただ、特定分野にずば抜けた執念(才覚)を携えた人間が発揮する特異性というなの化け物がこの学校の中には満ちあふれていた。
 自らの好奇心の赴くままに、誰を巻き込もうと意に介さず、ただ、好きを貫く社会からのあぶれもの。
 それが、青春の権化である高校生活の風土を纏っているのだから、必然、校内に満ちる空気は学校特有の騒々しさと、若さ故の活気で満ちあふれている。
 その風土が、そこに迎合できぬ杜類という存在を責め立てたいるようにも思えた。
 依然、学校という場所には息をする場所も立ち上がるための足場もない。常に、海上で溺れているようなものだ。
 類自身がこれまでに積み上げてきた努力に裏打ちされた学力なるものは、所詮は海辺の砂に過ぎない。
 寄せては返る青春の波に、その足場は緩やかに、確実に削られていき、気がつけば荒れ狂う海の只中で辛う時で死なぬように、海面から鼻を堕すことぐらいしかできない。
 その悪あがきも、光の速さで進んでいくシラバスと、自分よりも秀でた同級生の存在という波に覆われ、息をすることすらままならない。
 そうやって、社会の荒波に飛び出す前の青春の暴風にじわじわと絞め殺されているのが、類の日常だった。
「類が『無駄』を嫌うのは分かるけどさ、クイズ部に入ったからには週一の活動でもちゃんと動いてもらうからね」
「強制部活動の範囲なら」
 ――どこぞでほっつき歩いて遊んどるとちゃうやろな。
 母の声が耳元でこだました。
 凄惨な結果に終わった中間テストの答案用紙が発掘された瞬間の事だった。手が出ないというのは彼女の美徳ではあろうが、それを凌駕する勢いで言葉が出る。
 破れたオブラートしか持たない彼女の言葉は、それを飲み下すたびに類の内側を引き裂いていった。
 学問を疎かにすることは、馬鹿のすることだ。
 学生の領分は勉強。それ以外のことは、学をきちんと修めているものに赦された特権である。
 昔からそうだった。
「勉強をしなさい」という母の声は、「おはよう」よりもたくさん聞いてきた。
 ――テストで百点を取ったら。
 ――模試で一番だったら。
 ――主席で合格できたら。
 母との約束は、いつも学が優先に来ていた。
 評価指標を数値化できるというのが主な理由だろう。母の目はいつも類の成績に向けられていた。
 小さい頃は簡単だった。
 教科書をしっかり読み込めば、ワークにきちんと取り組んでいれば、それだけで優秀な成績を取ることができた。
 しかし、いつからか「満点を取る」ということが無理なんだいと化していった。
 部分的減点も赦されない。
 完璧な正答だけが求められる日々。
 そこに、そこに至るまでの努力は換算されない。
 端的に言えば、苦しくなったのだ。
 それが類の元を訪れたのは唐突だった。
 難関校に主席で入れたという安心感がそうさせたのか、あるいは、確認テストで部分的な減点を喰らった事が尾を引いたのか、全くもって定かではない。
 しかしながら、類の頭蓋の内側にはゆっくりと鉛が流し込まれ、世界をモノトーンに染め上げていった。
「類ってさ」
 追想を繰り広げながら、半自動的に教科書をめくっていた類に、恵が声をかけた。
「自分じゃ馬鹿だ、落ちぶれだって言うけど、成績トップスリーには入っているよね」
「――それじゃ駄目なんだよ」
「なんで?」
「意味が無い」
「なんの」
 ――この日々に何の意味がある。
 類の心の片隅で静かに息づいていた疑問を読み取ったかのような恵の問いかけに、類は黙することしかできなかった。
 そんなもの、俺が聞きたい。
 喉まででかかった言葉を飲み込み、類はただ、教科書を繰る。内容なんてどうでも良かった。ただ、無為で無意味な現実から逃れる手段が、手元にしか無かった。
「そんなに勉強して、将来なにになるの? 学校の先生?」
「――医者」
「りんたろーせんせーの息子だから?」
 それって類のやりたいことなの、と言外に含まれているような気がして、類の心はさざなみをたてた。
  ――類。
 耳元で再び母の声がした。
 ――あなたは、お父さんのような立派なお医者さんになるのよ。
 ――お父さんも、きっとそれを望んでる。
 医者の子供として生まれた時点で、類の将来は決定づけられていた。
 優秀であれ。善人であれ。父の跡をつぐに相応しい人格者であれ。
 ――おまっさんは、お父さんに似て頭も気立てもええ。立派なお医者さんになるじゃろな。
 誰かの放った言の葉が、鎖となって類を縛り付けていた。
「それが、俺の役割だから」
 だから優秀でなければならない。
 だから学問に専念しなければならない。
 理由はそれだけだった。
 だからこそ、県内トップクラスの進学校へ進んだのだし、主席合格だって成し遂げてみせた。
 そう出なければ、望まれた姿を体現することなどできないのだから。
「でもさ、類」
 恵がいった。
「今の類は、なんか、苦しそうだよ」
「今のってなんだよ。――俺はずっとこんなんだよ」
「もっと、自由であって良いと思うんだけどな。――この間のクイズの時のこと覚えてる?」
「お前が、ですが問題で早々に自滅したヤツか?」
 忘れる訳がない。
 時間と言い知れぬプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、藻掻き、足掻いて、どうにか答えを捻り出そうと、脳みそをフルに稼働させた濃密な数秒間。
 そして、蓄えた知識の海から正答を掴み上げた高揚。
 ――久々に息ができたような気がした。
「あの時の類さ、めっちゃ愉しそうだったよ」
「それでも、娯楽は罪だ」
「この時代で、戦時中のスローガンを掲げているのは類ぐらいなものだよ。もっと愉しもうよ」
 っていっても難しいよね。
 恵が眉根を寄せ、困ったように笑った。
「強制部活動は酸化するから、それで我慢してくれ」
 儚げに笑う恵は、耳も尻尾も垂れた仔犬のようだった。おもちゃも、お菓子も取り上げられて、いじける犬を前にすると、いくら類といえど、良心の一部がうずく。
 気休めにそう口にすれば、たちまち、かわいげのある駄犬は尻尾を振った。
「ホント!? じゃあ、明後日はタイムアタッククイズやろうよ。先輩は問い読みをお願いね」
 途端に機嫌を良くした犬は、百合本にも溌剌とした笑顔を向ける。
 期待に満ちた恵のお願いに、「ああ、わかってるよ」と百合本は手を上げて、軽く応じた。
 当然の如く問い読みに回ることを承諾する百合本の姿に、類は微かな違和感を覚えた。
 類がクイズをやったのはたったの一回切りだ。だが、その一回で理解したことがある。
 クイズはやることが愉しい。
 極限の環境で、脳みそを限界まで稼働させ、知識の海からたった一つの正解を導き出す知のスポーツ。
 恵の姿がそれを体現しているようなものだ。
 正解は飛び跳ねるほど嬉しく、誤答は次の飛躍に向けたバネと化す。
 故に、クイズ同好会に所属しながら、その快楽の海に飛び込まず、敢えて裏方である問い読みに専念する百合本の姿には違和感があった。
「先輩が恵とやればいいんじゃないですか」
 百合本もまた、毎日この薄暗い地学準備室に足を運んでいる皆勤賞部員だった。それだけ、熱心に部活に勤しんでいるのであれば、クイズのことしか頭にない仔犬の相手など容易いだろう。
 真面目に部活に望む百合本と、やる気だけは一人前の恵とが一緒に練習をした方が、効率が良い気がしてならない。
 泡のように浮かび上がった疑問を率直に投げかければ、百合本は薄く笑った。
「いっただろ、クイズは一人じゃできないって」
「だから、百合本先輩とコイツが――」
 一緒にやれば良いだろう、と言おうとした瞬間、「先輩とじゃ意味ないんだよなぁ」と恵が言った。
「意味が無い?」
「うん。だって、先輩達はもう引退してるじゃん? そしたら部員は僕と類だけになるでしょ。だから、僕と類の二人で成績出せるようにしないと意味ないんだよ」
 引退。
 部員は二人だけ。
 聞き捨てならない単語が立て続けに言い放たれ、類の思考は静止した。
 それが顔にも出ていたのだろう。恵が、「いってなかったっけ?」と首を傾げた。
「聞いてない」
「恵が説明しているとき、類は心ここにあらずってかんじだったもんな」
 百合本が頷く。彼曰く、恵はきちんと説明をしていたとのことだった。類がこの地学準備室に迷い込んだ放課後、怒濤の勢いで語る恵の口からそれは明言されていた――らしい。
 当然、覚えていない。が、どこか納得した部分がある。
 あの日、憐れみに満ちた視線を向けていた他の部員の姿だ。
 もう、引退するから。
 その上で、この元気だけが無駄に溢れた駄犬の面倒を任せられるだろう迷える子羊に、心の底からの憐れみと同情を捧げていたのだろう。
 この部活に関わって初めて気がついた事であるが、類はどうも素早く思考を巡らせるということがほとほと苦手らしい。
 ゆったりと状況を咀嚼した。そして、咀嚼しきれなかった部分を、疑問文として吐き出す。
「部活動って、確か最低人数が五人だよな」
「そうだね」
「じゃあ、この部はどうなるんだ」
 類と恵だけでは部活動として認められない。校内ルール上、「クイズ同好会」は部活動ではなくなり、それぞれが別の部への異動を余儀なくされる。加えて、この居心地の良い部室もまた、動揺に剥奪される。
 せっかく手に入れたはずの居場所が、緩やかに崩壊していくのを類はひしひしと感じていた。
「でもね、ちゃんと抜け穴はあるんだ」
 絶望に心が折れかける類をよそに、恵は相変わらずのエネルギッシュな声を上げた。
「校規にはこうある、『部活動には五人以上の活動部員、もしくは、それに相応する成績を求める』ってね。つまり、大会で成績を出せば部活動としての活動は認められるんだよ」
 鼻息を荒くして恵が言った。
「クイズに大会なんかあるのか」
「コレがあるんだなぁ。一番の有名どころなら類だって知っているはず、――高校生クイズだよ」
 テレビでやっている所ぐらいみたことあるでしょ、と恵が言った。
 記憶の片隅に小さくその名前は存在していた。知力、体力、チームワークをコンセプトに、高校生達がしのぎを削る知の祭典だ。
「この大会に出場して、この部活の知名度を上げる! ギネスに登録されるような大会だもん、優勝すれば部活動は認められるはず」
「はずって、確証はないんだよな」
 さらっと優勝すると公言したところにも突っ込みを入れたい。捕らぬ狸の皮算用をこれだけする愚か者もそうはいるまい。
 たらればの妄想だけで、ここまで堂々と宣言できる恵の楽天的な思考回路に、呆れを通り越して類は微かに尊敬を覚えた。
「よくもまぁ、いけしゃあしゃあと」
 とは言え、衝撃を飲み下すのに数十秒。その後に漸くできてきた感想は、あまりにも月並みなものだった。
「でもさ、類だって、この部室がなくなるのは困るでしょ」
 毎日入り浸っているもんね、とウインクをしながら恵はいった。
「この場所を守るには、高校生クイズで優勝するしかない。――協力してくれるよね」
 拒否権のない脅迫に、類はたじろいだ。救いを求めるように彷徨った視線は、自然とこの場における常識人で先輩でもある百合本へと向かう。
 が――。
「悪いな、類。俺は買収済みだ」
 縋り付いた類を、百合本は事もなげに振り払った。
「俺も部員としてエントリーする。もちろん、人数合わせ要員としてだ」
「戦わないと」
「もちろん。戦うのは類と恵。この部に残るお前達だけだ」
 ただ座っているだけだと百合本はいった。
「――その大会っていつあるんですか」
「来月。正確には七月の末から八月にかけてだね。ちょうど夏休みに入るあたり」
 答えたのは恵だった。危機感のない、子供のような屈託のない表情で恵はいった。
 そう、全くもって危機感がない。
「おまえ、その前になにがあるか忘れているんじゃないだろうな」
「何かあったっけ? あ、類って夏休みの課題は初日に全部終わらせるタイプ? それだったらごめん。今年だけはクイズを優先して欲しいな」
 カラリとした笑顔で答えるその姿は、本当に子供だ。自分の「愉しい」に真っ直ぐ突き進む無垢な姿に、類は肩を落とし大きな溜息を吐いた。
「期末試験があるだろうが!」
 吐き出した息を、再び腹の底まで吸い込んで、類は可能な限りの大声を出した。
「あはは、類って本当にテストが好きだよね」
「好きじゃねぇよ」
 好きではない。だが、やらなければならない。
 ――テストで満点を取ったら、好きなだけ遊んで良いのよ。
 幼い自分に放たれた母の言葉が、未だ呪いのように耳の奥にこびりついて離れない。治癒した跡も残り続けるケロイドのように、明瞭な形を持っったそれは、折に触れて熱を持つ。
「嫌でも、やりたくなくても、できなきゃならないんだよ」
 そうでなければ、生きている価値がない。
 母の口から事ある毎に放たれてきた呪詛が、類を締め上げていた。
「類はすごいよ。何でも知ってる。そして、苦しいだけの努力を続けるだけの胆力もある」
「――取って付けたような世辞は辞めてくれ」
「やめないよ。類はすごいもん。僕は誰よりもそれを知っている」
 恵の手が類の手を握った。子供のような彼らしく、その手は熱を持っているかのように温かい。
「類が求める価値がクイズ部(ここ)に無いのはわっかっている。でもさ、そんな生き方じゃつまんないよ。――自分を認めてくれない人のために、自分を削り続けるのは、類を認めている人に対して失礼だよ」
 恵の手がより一層熱を持った。強く、痛いほど強く、熱く類の手を握りしめる。
「類が積み重ねてきた努力も、蓄えた知識も無駄じゃない。僕が、証明してみせるから」
 だからお願い。
 恵の目が真っ直ぐに類を射貫いた。
 ――どうも、この顔には弱い。
 真摯なようで、どこか打ち拉がれた仔犬のような愛くるしさを滲ませる彼の瞳に、類は拒絶も叶わず頷いた。