学校という場所は、どこもかしくも特有の喧噪に満ちていて、そこになじめずにいる自分のことを杜類はどこか亡霊のように感じていた。
学生たるもの、学業に集中するべきだ。
学生たるもの、部活動に精を出すべきだ。
学生たるもの、学生たるもの、学生たるもの――。
校内の其処彼処から聞こえてくるさざめきの中に、その圧力は紛れ込んでいた。生徒から、先生から、或いは学校そのものから。
模範的生徒、模範的学生、模範的青春。
それを謳歌することが正しいと、その空気は語っている。
そんな圧力に押し出されるように、類は、深く息を吐き出した。吐息と共に、体を支えていた最後の軸が抜け出ていくような気がした。
ざらざらとした壁に背を委ね、類は、斜陽の差し込む校舎の外れに腰を下ろした。青春の吐息から身を潜めるように身を抱え、類は両の目を閉じる。
――居場所がない。
放課後といえども、校内にはやはり狂騒に似た同調圧力が犇めいている。
遠く聞こえる吹奏楽部の調子の外れたチューニングの音も、野球部が硬式ボールを打ち返した瞬間の金属の響きも、マンドリン部の独特な音色も――。
おまえはそれでいいのか、と責め立ててくるようだと類は感じていた。
市内一の進学校である、北高校の入学して半年が過ぎ去ろうとしていた。
ボール拾いしかできていなかった侵入部員が、運動場の端でグローブやバッドを手にできるようになった今、同窓たちがバラ色の高校生活を謳歌し始めている。
その端で、類は一人、灰色の高校生活に足を踏み入れていた。
全てに面白みがなく、無意味に思え、色彩を欠いている。
――つまらない。
ふっと湧き上がった感情は、瞬く間に類の全身を支配した。
何に対しても面白みがなく、色とりどりの青春に身を投じ始めた周囲がどこか、痛く、寒々しく思えた。
目に映る全てが、モノトーンを貼り付けたように思え、味気ないない日々を送り、やがて類は察した。
――自らに色彩がないのだと。
遠くで歓声が響いた。
どうせ野球部の誰かがホームランでも打ったのだろう。カーンと高く響いた金属音と、遅れて響いた歓声に類は身を縮めた。折りたたんだ足の間に顔を沈み込ませ、耳を塞ぐ。
外に広がる色とりどりな風景は、類自身の世界に色がないと強調してくるようで嫌いだった。
学生である以上、学問を辞める事などできない。
ならば遅れを取り戻せばいいだろうと思うが、どれだけ教科書を繰ったところで、やはりそれはただの文字列に過ぎず、頭にはちっとも入らなかった。
そうしている内に、遅れはどんどんと広がり――。
かつて神童といわれた類は、赤点連発の出来損ないと成り果てた。
「それでぇ」
「え、それまじ」
賑やかい声がすぐ側で響いたような気がして、類は弾かれたように立ち上がった。声の主であろう女性たちの姿は視界には入らない。
最も、無駄にでかい校舎の外れに位置する埃にまみれたこの場所に、自分以外の生徒が訪れるなどあり得ない。しかし、あり得ないからこそ――。
すぐ側で声がした、という事実に、類の心は激しく波打った。
女性特有の良く響く軽やかな声音は、色鮮やかな青春の代名詞のようなものだ。きっと、下世話なゴシック話をするのに、ファミレスに出向くよりも薄暗い校舎の方が、おもに懐的に丁度良いと思ったのだろう。
キュッキュッ、と上履き特有の足音が少しずつ大きくなる。
――頼むから。
きゃははと、黄色い笑い声が確かに近づいてくる。目下の話題はクラスメイトの恋愛事情らしい、色づいたテーマとそれに相乗してボルテージのあがる賑やかな声々に類は思う。
――これ以上、俺を惨めにさせないでくれ。
軽やかに近づいてくる色づいた世界から逃げるように、類は荷物を抱え身を縮めてひっそりとその場を立ち去った。
立ち去ったと言えど、類のいる場所は変わらず学校だ。
居場所がないのであれば早々に帰宅すれば良いだろう。而して、類の居場所は、この居心地の悪い校内の片隅にしか存在しないのだった。
家に帰れば、きっと、母は怒鳴るだろう。
いや、怒鳴るほどわかりやすい仕草で示してくれればいいが――。
冷え冷えとした怒りと、あからさまな失望と、娯楽の全てを奪い去るほどの徹底的な管理の視線。それが隅々まで行き届いた自宅は、類にとっての牢獄だった。
――理想の子供であれば良かったのだろう。
少なくとも、中学までの類は、母の求める「理想」の枠組みに収まっていた――と思う。
だが、今はどうだろうか。
理想を遙か下回る点数がデカデカと記された答案用紙が詰められた鞄が、鉛のように重たく感じた。
帰る気持ちには到底なれそうにない。
――これから、どこに行こうか。
類にとっての唯一の避難場所だった校舎の片隅は、今や名も顔も知らぬ女生徒に占領されている。教室はどこも、数多ある部活動の練習場所として侵略済みだろう。
ならば図書室か――と考えが至ったところで、類は首を振った。
――くだらない雑文なんか読みよってからに!
ヒステリックな母の声が耳元で蘇った。
あの場所だけはいけない。
生まれ落ちたときから叩き込まれた、絶対的なルールが類の足を止めた。
結局、行く場所などどこにもないのだ。
出口のない迷路に放り込まれた絶望と孤独とが、類の心を支配していた。ほんの微かな闇から立ち上り、たちまち全てを飲み込んで覆い尽くしてしまうようなナイトメアが、類のすぐ傍らで冷たい息を吐いている。
「だぁ!! くっそ、読み違えた!!」
「読み違えじゃねぇよ、二択潰す前に早押しして間違えてるだけだてめぇは!」
弾けるような声が、教室の扉をぶち破って類の鼓膜を震わせた。
まだ声変わりを迎えていないような僅かに高い男子の声と、とっくに声変わりを迎えた渋い男の声が激しく罵り合っている。
いいや押すね、と若い男子生徒の声が言った。
「今のは押すだろ。『寒冷地域に住む恒温動物ほど――』ってきたら、答えは『アレンの法則』に決まっているだろ」
「それが早計なんだよ。身体を大きくして熱を蓄える性質を持つようになったのがベルクマンの法則で、耳や鼻などの突出部位を小さくすることで熱放出を少なくするように進化したのがアレンの法則。てめぇの押した場所じゃ、まだ二択を絞りきれないんだよ」
コレだから経験不足の若人が、と低い男の声がする。
コレまで、遠くから鼻白むように聞き流してきた「青春」の協奏とは違う色合いの叫声に、類は思わずその出に視線を向けた。
地学備室。
過去に使われていたその教室は、地学が科目から消えると同時に使われることは無かったはずだ。それが今、生徒たちの声で活気づいている。
――何をやっているのだろうか。
ほんの微かに開いた扉からは、未だに男子生徒たちの罵り合うような言い合いが溢れ出ていた。そこから漏れ出る埃と同じぐらいに微かな好奇心に導かれ、類はその教室を覗き込んだ。
案の定――というべきか。教室の中では、声変わり前の小柄な男子生徒と、先生と見まがうレベルに成長しきった男子生徒が、やんややんやと言い合っている。
「先輩の言うことはわかるけどさ、やっぱ、択二は掛けてなんぼだと思うんですよ」
やがて、小柄な生徒の方が折れたのだろう。机に突っ伏すようにして項垂れながら、情けない声を出す。
「掛けたい気持ちは分かるよ。正直、『多分こっちだ』ってゾーンが決まるときもある。けどさ、確証のない掛けに可能性をベッドするのはばかしかやらねぇよ」
勝ちを望むなら慎重になれ、と大人びた男子生徒は先輩風を吹かせてそう言った。
でもぉ、と以前、小柄な生徒は駄々を捏ねた。机に突っ伏したまま顔を上げ、その中央にはめ込まれた薄茶色の溌剌とした瞳が、類の瞳と絡んだ。
ガタン、と音がしたときには既に、その好奇心に満ちた輝かしい瞳は類の目の前にあった。
「入部希望者だぁ!」
ちがうと類が否定する寄りも先に、その生徒は「歓迎するよ」と柔やかに笑った。逃げようにも、類の身体はその馬鹿に元気な少年の身体によって抱きとめられていて、びくりとも動かなかった。
「俺は、通りかかっただけで」
「この教室を『通りかかる』なんて無いでしょ。何もないんだよ、こっちの棟はさぁ」
まずは狩り入部かな、などといって、その溌剌さを具現化した生徒は、類の手を引いて教室の中へと引きずり込んでいく。
「先輩先輩! 部員新たに確保しましたぁ」
この少年に類の声など届いていないのだろう。せめて少年に「先輩」と称される人物だけには伝わって欲しい。一縷の望みを掛け、類は首を激しく横に振った。
「あぁ。その、なんだ。――ご愁傷、いや、ようこそ我がクイズ部へ」
あなかなしや。
例え先輩であれど、この若い暴れ馬は制御できないらしい。若さと無邪気さとを味方につけた少年の活気ある声に気圧されるように、そして、類の切々たる視線から逃げるように、曖昧に笑って瞳を伏せた。
その瞳に浮かぶ意味を、類は誰よりも知っていた。
――憐憫。
――哀憐。
――惻隠。
要は憐れんでいるのだ。
愚かに落ちぶれた息子を蔑む母のように。期待通りに育たなかった子とを嘆くように。
この先輩もまた、厄介な好奇心の獣に絡め取られた類を、かわいそうで不憫な役回りだと、そう蔑んでいる。
「ふざけるな」
類は自らの肩に回された少年の手を払った。
――嫌いだ。
腹の底でグツグツと煮えたぎっていた激情が、この一瞬で沸点に達した。
なんで誰も彼もがこうも一方的なのだろう。
やはり学校という場所には独特の空気が満ちている。
日々を謳歌しろ、学業に専念しろ、友と肩を並べろ、和気藹々と色鮮やかな青春の一頁を刻め。
そして、家も同じだ。
期待される成績、望まれる子供としての振るまい。
勝手に理想を押しつけたくせに、それが叶わないと分かれば一方的に憐れむ視線を向けてくる。
君は悪くないと、勝手に――。
「俺は入部希望でも何でもねぇよ。大体、てめぇは誰なんだよ」
類が少年を軽く押し飛ばす。軽くよろめいた少年は怒るでもなく、キョトンとした無垢な視線を類に向けた。
「うん? 僕は恵。藤堂恵。類君と同じ一年生だよ」
まぁクラスは違うけどねぇとケラケラ笑って少年――恵は言った。
「――なんで、てめぇは俺の名前を知っているんだよ。まだ名乗ってもないだろ」
「君は有名人だからね。一年十組、特進クラス所属、主席合格を果たしながらも代表挨拶を辞退した杜類くん」
宙空に視線を向けながら、恵はすらすらと類の個人情報を諳んじてみせた。
そうでしょ、と首を傾げながら見つめてくる栗色の瞳を真っ直ぐに見つめることができず、類は視線を落とした。
「杜って、もしかして杜医院の?」
「そうですよ。りんたろーせんせーの一人息子です」
類が答えるよりも先に恵が頷いた。
杜倫太郎。類の父に当たる人物は、この辺りでは名の知れた医者だった。「地域に根ざした医療」をスローガンに掲げている地域密着型の治療院を経営しており、その言葉に沿うように、家にいるよりも職場である病院に身を置くことが多かった。
最後に姿をみたのは、一体いつだっただろうか。
言葉を交わすこともなく、類が父について知っているのは、地域の皆に愛され、頼られる医院長ということだけだった。
恵が「りんたろーせんせー」と呼称するように、この近辺に住まう人物であれば、幼少の頃から父のことを知っている。
それが類にとって酷く重く、苦しい肩書きだった。
杜医院、あるいは、父の名が興味をそそったのだろう。視線が集まるのを類は感じていた。一つ一つの視線が針のように突き刺さった。
主席合格。特進クラス。
医者の一人息子という生まれながらに与えられた肩書きに見合うように、中学までで積み上げてきた努力を全て質に入れて手に入れた肩書きだった。
――だが、その全てが類にとって真鍮の甲冑のように重く、苦しいものとなっていた。
後々明かされる中間テストの成績と、噂が広まれば、この視線の全てが失望と嘲笑で満たされる事だろう。そう思うだけで、彼らの視線の全てがそれと同じ色に染まっていく。
――頼むから、俺をみるな。
逃げ出してしまいたい。
衆目を集めるのは今に始まった事ではないが、見世物にされるのは心地よくない。適当に捨て台詞でも吐いて逃げ出してしまいたい。そんなことを切望しながらも、類の意識は、身体は硬直したまま動かなかった。
「『もり りんたろう』の息子が『類』ね」
恵に先輩と呼ばれていた、ゴリラのように彫りの深い青年が口を開いた。もごもごと口元で転がせるような発声で呟いて、首を傾げている。
「変なことを聞いてもいいか」
「なにか」類は肩を竦め、先輩に先を促した。
「お前、三男じゃないのか」
思ってもみなかった問いに、類は「え?」と聞き返すこともできずに、ただゴリラのように深く野生じみた先輩の顔を見つめル子としかできずにいた。
それは、先ほどまでの硬直とは違う。
水面に落とされた一滴の雫が波紋をうみ、やがて凪いでいくように、その質問は類の思考に一瞬の動揺と混乱を引き起こした後に、静寂を齎した。
「うん。類はりんたろーせんせーの一人息子、長男だよ」
類が答えるよりも先に恵が応じていた。
類は兄ちゃんもねぇちゃんもいないもんね、と恵が遅れて類に訊ねてきた。
――なぜこいつは俺の個人情報を熟知しているのだろうか。
うっすらと疑問に思いながらも、無垢な光を宿す栗色の瞳に、類はただただ頷くことしかできなかった。
「そうか」
先輩の疑問はそこでつきたらしい。
些か納得がいかないように首を傾げながらも、「まぁそういうこともあるか」と独り言を呟いて頷いた。
「それよりもさ、クイズ同好会についてなんだけど」
恵が類の手を引いた。純朴な瞳と、無邪気な仕草はまるで犬のようだった。縦横無尽に庭を駆け回るジャックラスカルの幻影が彼の姿に重なってみえる。
彼にとって類は「散歩道で見つけた何か良い感じの棒切れ」なのだろう。
新しいおもちゃを見つけた仔犬は、類にじゃれつきながら嬉々として「クイズ同好会」なるものについて説明をし始めた。
「――そんで、僕としては類が入部してくれるととっても嬉しいんだよねぇ。ホント、来てくれてありがとう、るい~」
破顔一笑とはこんな表情を差すのだろうか。
否――。
こいつの場合、最初っから相好が崩れているのだから意味合いが少し違う。
手の付けられないジャックラスカルの全力アタックから逃れるように、類の思考はあらぬ方向へと向かっていた。
「じゃ、これが入部届ね。ここに名前書いてよ。練習は各々の采配だから、金曜日の強制部活動以外は、暇な放課後に来てくれたら大丈夫だよ」
毎日来てくれると僕が嬉しいけどねと、にまにまとした笑みを浮かべて、恵が一枚の書類を差し出してきた。
「いや、入部するとは一言も言っていない」
きっぱりと断りを煎れながら、類は肩に掛けた通学鞄の位置を直した。
やはり、重い。
鞄に詰められるだけ詰めている参考書と、及第点にも満たない点数が散った答案用紙の重みが類の肩にめり込んでいた。
――無駄なことをする暇があれば、勉強でもしたらどう。
冷ややかな母の声が鼓膜に蘇った。
――貴方はお父さんの子供なのだから。
――できるでしょう。
期待と失望が入り交じった複雑な色合いの瞳と声音が、頭の中を反復した。
「えぇ!! ここは入る流れでしょ」
新喜劇よろしく盛大にずっこけてみせた恵を、類は冷めた瞳で見つめた。
――無駄な事ばかりだ。
恵のみせる大ぶりな動作は無駄な体力の消費だ。コロコロと良く変わる表情と感情は、表情筋と情動のエネルギーの無意味な浪費。そして部活動は――。
何よりも無駄なことだ。
――無駄なことをする暇があれば。
母が耳元で囁いた気がした。
そもそも類の中には部活動に入る予定など、一ミクロンもなかった。
部活で生まれる人間関係も、交流も、それに費やす時間も。その全てが「無駄」だ。
「類ぃ~。入ろうよ、クイズ部。たのしいよ! それに類なら」
縋るように抱きつきながら尚も勧誘を続ける恵を引き剥がし、類は「くだらない」と吐き捨てた。
「学生の本分は勉強だろう。余計な事に時間を費やすのはバカのすることだ」
「でもっ! 一見無意味な事に時間を費やせる何て、学生にしかない特権だろう。それを捨てて、ノートと教科書に埋もれた灰色の青春で終わらせるなんて、それこそ馬鹿のすることじゃないか」
「そうじゃなきゃ、碌な大学にも行けず、くだらない仕事について、将来をドブに捨てることになる」
「確証のない未来のために、今そうやってうらぶれているのは違うだろう」
「未来への確実性を捨てた馬鹿にしか出ない台詞だな」
「さっきから、馬鹿馬鹿ってーー。その場かに中間試験で負けたのはどこのどいつだよ」
本当に感情がコロコロと変わるヤツだった。さっきまでふてくされた子供のように唇をとがらせて拗ねていた恵が、今じゃ氷のように冷めた視線を類に向けていた。
恵から放たれた怒りに沈んだ声と静かな怒気に、類は息を飲んだ。
「類が勉強に励みたいって思う気持ちはわかるよ。それをするべきだって言い分もよく分かる」
「じゃあ、ほっといてくれよ」
――もっと良い点数が取れるはずでしょう。
――結局、時間を無駄にしているだけね。
母の幻影が耳元で何度も囁いた。
こうしている時間だって無駄だ。遅れいる分を取り戻さなければならない。
今日はどこまで読み直せば良いのだろうか。
帰ってきたばかりの情けない点数の中間テストを思い返しながら、類は計画を立てた。
――否、立てようとした。
しかし、積み上げようとした計画はすぐに霧散していってしまった。
結果の伴わない努力は無為でしかない。
中間テストという形で見せつけられたコレまでの「無駄」に、類の思考はゴールのみえない迷路に迷い込んでしまった。
「僕は類を知ってる。杜類という男を知っている。その上で断言する。――君はクイズ部に入るべきだ」
「お前、証明問題で解のみを提示して減点を喰らうタイプだろ。それか、解法を省略しすぎて小言を言われるタイプだ」
初めての邂逅、会話は数分。されど、類はこの藤堂恵という男を理解し始めたように思う。
寄せては返る波のようにつかみ所がなく、無垢で無邪気な心の持ちようは制御の聞かない仔犬のよう。彼の思考の全てを理解することは、類にはできないだろう。それでも、興味深いと思ってしまった。
パッと触れた程度では解を見出せない。
それは類の頭を支配する先の見えないトンネルと酷似している。しかしながら、藤堂恵という男の齎す「理解不能」は、複雑に汲み上げられた迷路のようで――。
「なんで、お前はそこまでして俺に拘るんだよ」
知りたいと思ってしまった。
類の口は彼が思考するよりも先に、素直な問いを放っていた。
「言っただろう。僕は君を知っている」
「答えになっていないだろう」
「いいや」
恵が首を振った。
「それが答えだよ。君は、――杜類という男はそうやって燻っている人間じゃない」
「だからって何でクイズ部に拘る」
「それが、君の強みを発揮できる場所だから」
得意げに言い切って恵は笑った。
「まずは仮入部で良い。ただこの教室にくるだけでいい。――僕はどうしようもなく、君が欲しいんだ」
恵は右手を差し出した。栗色の瞳が斜陽をうけて輝いていた。
溌剌として、それでいてどこか悪魔的に思える囁きに吸い込まれるように、類は彼の右手を握っていた。
学生たるもの、学業に集中するべきだ。
学生たるもの、部活動に精を出すべきだ。
学生たるもの、学生たるもの、学生たるもの――。
校内の其処彼処から聞こえてくるさざめきの中に、その圧力は紛れ込んでいた。生徒から、先生から、或いは学校そのものから。
模範的生徒、模範的学生、模範的青春。
それを謳歌することが正しいと、その空気は語っている。
そんな圧力に押し出されるように、類は、深く息を吐き出した。吐息と共に、体を支えていた最後の軸が抜け出ていくような気がした。
ざらざらとした壁に背を委ね、類は、斜陽の差し込む校舎の外れに腰を下ろした。青春の吐息から身を潜めるように身を抱え、類は両の目を閉じる。
――居場所がない。
放課後といえども、校内にはやはり狂騒に似た同調圧力が犇めいている。
遠く聞こえる吹奏楽部の調子の外れたチューニングの音も、野球部が硬式ボールを打ち返した瞬間の金属の響きも、マンドリン部の独特な音色も――。
おまえはそれでいいのか、と責め立ててくるようだと類は感じていた。
市内一の進学校である、北高校の入学して半年が過ぎ去ろうとしていた。
ボール拾いしかできていなかった侵入部員が、運動場の端でグローブやバッドを手にできるようになった今、同窓たちがバラ色の高校生活を謳歌し始めている。
その端で、類は一人、灰色の高校生活に足を踏み入れていた。
全てに面白みがなく、無意味に思え、色彩を欠いている。
――つまらない。
ふっと湧き上がった感情は、瞬く間に類の全身を支配した。
何に対しても面白みがなく、色とりどりの青春に身を投じ始めた周囲がどこか、痛く、寒々しく思えた。
目に映る全てが、モノトーンを貼り付けたように思え、味気ないない日々を送り、やがて類は察した。
――自らに色彩がないのだと。
遠くで歓声が響いた。
どうせ野球部の誰かがホームランでも打ったのだろう。カーンと高く響いた金属音と、遅れて響いた歓声に類は身を縮めた。折りたたんだ足の間に顔を沈み込ませ、耳を塞ぐ。
外に広がる色とりどりな風景は、類自身の世界に色がないと強調してくるようで嫌いだった。
学生である以上、学問を辞める事などできない。
ならば遅れを取り戻せばいいだろうと思うが、どれだけ教科書を繰ったところで、やはりそれはただの文字列に過ぎず、頭にはちっとも入らなかった。
そうしている内に、遅れはどんどんと広がり――。
かつて神童といわれた類は、赤点連発の出来損ないと成り果てた。
「それでぇ」
「え、それまじ」
賑やかい声がすぐ側で響いたような気がして、類は弾かれたように立ち上がった。声の主であろう女性たちの姿は視界には入らない。
最も、無駄にでかい校舎の外れに位置する埃にまみれたこの場所に、自分以外の生徒が訪れるなどあり得ない。しかし、あり得ないからこそ――。
すぐ側で声がした、という事実に、類の心は激しく波打った。
女性特有の良く響く軽やかな声音は、色鮮やかな青春の代名詞のようなものだ。きっと、下世話なゴシック話をするのに、ファミレスに出向くよりも薄暗い校舎の方が、おもに懐的に丁度良いと思ったのだろう。
キュッキュッ、と上履き特有の足音が少しずつ大きくなる。
――頼むから。
きゃははと、黄色い笑い声が確かに近づいてくる。目下の話題はクラスメイトの恋愛事情らしい、色づいたテーマとそれに相乗してボルテージのあがる賑やかな声々に類は思う。
――これ以上、俺を惨めにさせないでくれ。
軽やかに近づいてくる色づいた世界から逃げるように、類は荷物を抱え身を縮めてひっそりとその場を立ち去った。
立ち去ったと言えど、類のいる場所は変わらず学校だ。
居場所がないのであれば早々に帰宅すれば良いだろう。而して、類の居場所は、この居心地の悪い校内の片隅にしか存在しないのだった。
家に帰れば、きっと、母は怒鳴るだろう。
いや、怒鳴るほどわかりやすい仕草で示してくれればいいが――。
冷え冷えとした怒りと、あからさまな失望と、娯楽の全てを奪い去るほどの徹底的な管理の視線。それが隅々まで行き届いた自宅は、類にとっての牢獄だった。
――理想の子供であれば良かったのだろう。
少なくとも、中学までの類は、母の求める「理想」の枠組みに収まっていた――と思う。
だが、今はどうだろうか。
理想を遙か下回る点数がデカデカと記された答案用紙が詰められた鞄が、鉛のように重たく感じた。
帰る気持ちには到底なれそうにない。
――これから、どこに行こうか。
類にとっての唯一の避難場所だった校舎の片隅は、今や名も顔も知らぬ女生徒に占領されている。教室はどこも、数多ある部活動の練習場所として侵略済みだろう。
ならば図書室か――と考えが至ったところで、類は首を振った。
――くだらない雑文なんか読みよってからに!
ヒステリックな母の声が耳元で蘇った。
あの場所だけはいけない。
生まれ落ちたときから叩き込まれた、絶対的なルールが類の足を止めた。
結局、行く場所などどこにもないのだ。
出口のない迷路に放り込まれた絶望と孤独とが、類の心を支配していた。ほんの微かな闇から立ち上り、たちまち全てを飲み込んで覆い尽くしてしまうようなナイトメアが、類のすぐ傍らで冷たい息を吐いている。
「だぁ!! くっそ、読み違えた!!」
「読み違えじゃねぇよ、二択潰す前に早押しして間違えてるだけだてめぇは!」
弾けるような声が、教室の扉をぶち破って類の鼓膜を震わせた。
まだ声変わりを迎えていないような僅かに高い男子の声と、とっくに声変わりを迎えた渋い男の声が激しく罵り合っている。
いいや押すね、と若い男子生徒の声が言った。
「今のは押すだろ。『寒冷地域に住む恒温動物ほど――』ってきたら、答えは『アレンの法則』に決まっているだろ」
「それが早計なんだよ。身体を大きくして熱を蓄える性質を持つようになったのがベルクマンの法則で、耳や鼻などの突出部位を小さくすることで熱放出を少なくするように進化したのがアレンの法則。てめぇの押した場所じゃ、まだ二択を絞りきれないんだよ」
コレだから経験不足の若人が、と低い男の声がする。
コレまで、遠くから鼻白むように聞き流してきた「青春」の協奏とは違う色合いの叫声に、類は思わずその出に視線を向けた。
地学備室。
過去に使われていたその教室は、地学が科目から消えると同時に使われることは無かったはずだ。それが今、生徒たちの声で活気づいている。
――何をやっているのだろうか。
ほんの微かに開いた扉からは、未だに男子生徒たちの罵り合うような言い合いが溢れ出ていた。そこから漏れ出る埃と同じぐらいに微かな好奇心に導かれ、類はその教室を覗き込んだ。
案の定――というべきか。教室の中では、声変わり前の小柄な男子生徒と、先生と見まがうレベルに成長しきった男子生徒が、やんややんやと言い合っている。
「先輩の言うことはわかるけどさ、やっぱ、択二は掛けてなんぼだと思うんですよ」
やがて、小柄な生徒の方が折れたのだろう。机に突っ伏すようにして項垂れながら、情けない声を出す。
「掛けたい気持ちは分かるよ。正直、『多分こっちだ』ってゾーンが決まるときもある。けどさ、確証のない掛けに可能性をベッドするのはばかしかやらねぇよ」
勝ちを望むなら慎重になれ、と大人びた男子生徒は先輩風を吹かせてそう言った。
でもぉ、と以前、小柄な生徒は駄々を捏ねた。机に突っ伏したまま顔を上げ、その中央にはめ込まれた薄茶色の溌剌とした瞳が、類の瞳と絡んだ。
ガタン、と音がしたときには既に、その好奇心に満ちた輝かしい瞳は類の目の前にあった。
「入部希望者だぁ!」
ちがうと類が否定する寄りも先に、その生徒は「歓迎するよ」と柔やかに笑った。逃げようにも、類の身体はその馬鹿に元気な少年の身体によって抱きとめられていて、びくりとも動かなかった。
「俺は、通りかかっただけで」
「この教室を『通りかかる』なんて無いでしょ。何もないんだよ、こっちの棟はさぁ」
まずは狩り入部かな、などといって、その溌剌さを具現化した生徒は、類の手を引いて教室の中へと引きずり込んでいく。
「先輩先輩! 部員新たに確保しましたぁ」
この少年に類の声など届いていないのだろう。せめて少年に「先輩」と称される人物だけには伝わって欲しい。一縷の望みを掛け、類は首を激しく横に振った。
「あぁ。その、なんだ。――ご愁傷、いや、ようこそ我がクイズ部へ」
あなかなしや。
例え先輩であれど、この若い暴れ馬は制御できないらしい。若さと無邪気さとを味方につけた少年の活気ある声に気圧されるように、そして、類の切々たる視線から逃げるように、曖昧に笑って瞳を伏せた。
その瞳に浮かぶ意味を、類は誰よりも知っていた。
――憐憫。
――哀憐。
――惻隠。
要は憐れんでいるのだ。
愚かに落ちぶれた息子を蔑む母のように。期待通りに育たなかった子とを嘆くように。
この先輩もまた、厄介な好奇心の獣に絡め取られた類を、かわいそうで不憫な役回りだと、そう蔑んでいる。
「ふざけるな」
類は自らの肩に回された少年の手を払った。
――嫌いだ。
腹の底でグツグツと煮えたぎっていた激情が、この一瞬で沸点に達した。
なんで誰も彼もがこうも一方的なのだろう。
やはり学校という場所には独特の空気が満ちている。
日々を謳歌しろ、学業に専念しろ、友と肩を並べろ、和気藹々と色鮮やかな青春の一頁を刻め。
そして、家も同じだ。
期待される成績、望まれる子供としての振るまい。
勝手に理想を押しつけたくせに、それが叶わないと分かれば一方的に憐れむ視線を向けてくる。
君は悪くないと、勝手に――。
「俺は入部希望でも何でもねぇよ。大体、てめぇは誰なんだよ」
類が少年を軽く押し飛ばす。軽くよろめいた少年は怒るでもなく、キョトンとした無垢な視線を類に向けた。
「うん? 僕は恵。藤堂恵。類君と同じ一年生だよ」
まぁクラスは違うけどねぇとケラケラ笑って少年――恵は言った。
「――なんで、てめぇは俺の名前を知っているんだよ。まだ名乗ってもないだろ」
「君は有名人だからね。一年十組、特進クラス所属、主席合格を果たしながらも代表挨拶を辞退した杜類くん」
宙空に視線を向けながら、恵はすらすらと類の個人情報を諳んじてみせた。
そうでしょ、と首を傾げながら見つめてくる栗色の瞳を真っ直ぐに見つめることができず、類は視線を落とした。
「杜って、もしかして杜医院の?」
「そうですよ。りんたろーせんせーの一人息子です」
類が答えるよりも先に恵が頷いた。
杜倫太郎。類の父に当たる人物は、この辺りでは名の知れた医者だった。「地域に根ざした医療」をスローガンに掲げている地域密着型の治療院を経営しており、その言葉に沿うように、家にいるよりも職場である病院に身を置くことが多かった。
最後に姿をみたのは、一体いつだっただろうか。
言葉を交わすこともなく、類が父について知っているのは、地域の皆に愛され、頼られる医院長ということだけだった。
恵が「りんたろーせんせー」と呼称するように、この近辺に住まう人物であれば、幼少の頃から父のことを知っている。
それが類にとって酷く重く、苦しい肩書きだった。
杜医院、あるいは、父の名が興味をそそったのだろう。視線が集まるのを類は感じていた。一つ一つの視線が針のように突き刺さった。
主席合格。特進クラス。
医者の一人息子という生まれながらに与えられた肩書きに見合うように、中学までで積み上げてきた努力を全て質に入れて手に入れた肩書きだった。
――だが、その全てが類にとって真鍮の甲冑のように重く、苦しいものとなっていた。
後々明かされる中間テストの成績と、噂が広まれば、この視線の全てが失望と嘲笑で満たされる事だろう。そう思うだけで、彼らの視線の全てがそれと同じ色に染まっていく。
――頼むから、俺をみるな。
逃げ出してしまいたい。
衆目を集めるのは今に始まった事ではないが、見世物にされるのは心地よくない。適当に捨て台詞でも吐いて逃げ出してしまいたい。そんなことを切望しながらも、類の意識は、身体は硬直したまま動かなかった。
「『もり りんたろう』の息子が『類』ね」
恵に先輩と呼ばれていた、ゴリラのように彫りの深い青年が口を開いた。もごもごと口元で転がせるような発声で呟いて、首を傾げている。
「変なことを聞いてもいいか」
「なにか」類は肩を竦め、先輩に先を促した。
「お前、三男じゃないのか」
思ってもみなかった問いに、類は「え?」と聞き返すこともできずに、ただゴリラのように深く野生じみた先輩の顔を見つめル子としかできずにいた。
それは、先ほどまでの硬直とは違う。
水面に落とされた一滴の雫が波紋をうみ、やがて凪いでいくように、その質問は類の思考に一瞬の動揺と混乱を引き起こした後に、静寂を齎した。
「うん。類はりんたろーせんせーの一人息子、長男だよ」
類が答えるよりも先に恵が応じていた。
類は兄ちゃんもねぇちゃんもいないもんね、と恵が遅れて類に訊ねてきた。
――なぜこいつは俺の個人情報を熟知しているのだろうか。
うっすらと疑問に思いながらも、無垢な光を宿す栗色の瞳に、類はただただ頷くことしかできなかった。
「そうか」
先輩の疑問はそこでつきたらしい。
些か納得がいかないように首を傾げながらも、「まぁそういうこともあるか」と独り言を呟いて頷いた。
「それよりもさ、クイズ同好会についてなんだけど」
恵が類の手を引いた。純朴な瞳と、無邪気な仕草はまるで犬のようだった。縦横無尽に庭を駆け回るジャックラスカルの幻影が彼の姿に重なってみえる。
彼にとって類は「散歩道で見つけた何か良い感じの棒切れ」なのだろう。
新しいおもちゃを見つけた仔犬は、類にじゃれつきながら嬉々として「クイズ同好会」なるものについて説明をし始めた。
「――そんで、僕としては類が入部してくれるととっても嬉しいんだよねぇ。ホント、来てくれてありがとう、るい~」
破顔一笑とはこんな表情を差すのだろうか。
否――。
こいつの場合、最初っから相好が崩れているのだから意味合いが少し違う。
手の付けられないジャックラスカルの全力アタックから逃れるように、類の思考はあらぬ方向へと向かっていた。
「じゃ、これが入部届ね。ここに名前書いてよ。練習は各々の采配だから、金曜日の強制部活動以外は、暇な放課後に来てくれたら大丈夫だよ」
毎日来てくれると僕が嬉しいけどねと、にまにまとした笑みを浮かべて、恵が一枚の書類を差し出してきた。
「いや、入部するとは一言も言っていない」
きっぱりと断りを煎れながら、類は肩に掛けた通学鞄の位置を直した。
やはり、重い。
鞄に詰められるだけ詰めている参考書と、及第点にも満たない点数が散った答案用紙の重みが類の肩にめり込んでいた。
――無駄なことをする暇があれば、勉強でもしたらどう。
冷ややかな母の声が鼓膜に蘇った。
――貴方はお父さんの子供なのだから。
――できるでしょう。
期待と失望が入り交じった複雑な色合いの瞳と声音が、頭の中を反復した。
「えぇ!! ここは入る流れでしょ」
新喜劇よろしく盛大にずっこけてみせた恵を、類は冷めた瞳で見つめた。
――無駄な事ばかりだ。
恵のみせる大ぶりな動作は無駄な体力の消費だ。コロコロと良く変わる表情と感情は、表情筋と情動のエネルギーの無意味な浪費。そして部活動は――。
何よりも無駄なことだ。
――無駄なことをする暇があれば。
母が耳元で囁いた気がした。
そもそも類の中には部活動に入る予定など、一ミクロンもなかった。
部活で生まれる人間関係も、交流も、それに費やす時間も。その全てが「無駄」だ。
「類ぃ~。入ろうよ、クイズ部。たのしいよ! それに類なら」
縋るように抱きつきながら尚も勧誘を続ける恵を引き剥がし、類は「くだらない」と吐き捨てた。
「学生の本分は勉強だろう。余計な事に時間を費やすのはバカのすることだ」
「でもっ! 一見無意味な事に時間を費やせる何て、学生にしかない特権だろう。それを捨てて、ノートと教科書に埋もれた灰色の青春で終わらせるなんて、それこそ馬鹿のすることじゃないか」
「そうじゃなきゃ、碌な大学にも行けず、くだらない仕事について、将来をドブに捨てることになる」
「確証のない未来のために、今そうやってうらぶれているのは違うだろう」
「未来への確実性を捨てた馬鹿にしか出ない台詞だな」
「さっきから、馬鹿馬鹿ってーー。その場かに中間試験で負けたのはどこのどいつだよ」
本当に感情がコロコロと変わるヤツだった。さっきまでふてくされた子供のように唇をとがらせて拗ねていた恵が、今じゃ氷のように冷めた視線を類に向けていた。
恵から放たれた怒りに沈んだ声と静かな怒気に、類は息を飲んだ。
「類が勉強に励みたいって思う気持ちはわかるよ。それをするべきだって言い分もよく分かる」
「じゃあ、ほっといてくれよ」
――もっと良い点数が取れるはずでしょう。
――結局、時間を無駄にしているだけね。
母の幻影が耳元で何度も囁いた。
こうしている時間だって無駄だ。遅れいる分を取り戻さなければならない。
今日はどこまで読み直せば良いのだろうか。
帰ってきたばかりの情けない点数の中間テストを思い返しながら、類は計画を立てた。
――否、立てようとした。
しかし、積み上げようとした計画はすぐに霧散していってしまった。
結果の伴わない努力は無為でしかない。
中間テストという形で見せつけられたコレまでの「無駄」に、類の思考はゴールのみえない迷路に迷い込んでしまった。
「僕は類を知ってる。杜類という男を知っている。その上で断言する。――君はクイズ部に入るべきだ」
「お前、証明問題で解のみを提示して減点を喰らうタイプだろ。それか、解法を省略しすぎて小言を言われるタイプだ」
初めての邂逅、会話は数分。されど、類はこの藤堂恵という男を理解し始めたように思う。
寄せては返る波のようにつかみ所がなく、無垢で無邪気な心の持ちようは制御の聞かない仔犬のよう。彼の思考の全てを理解することは、類にはできないだろう。それでも、興味深いと思ってしまった。
パッと触れた程度では解を見出せない。
それは類の頭を支配する先の見えないトンネルと酷似している。しかしながら、藤堂恵という男の齎す「理解不能」は、複雑に汲み上げられた迷路のようで――。
「なんで、お前はそこまでして俺に拘るんだよ」
知りたいと思ってしまった。
類の口は彼が思考するよりも先に、素直な問いを放っていた。
「言っただろう。僕は君を知っている」
「答えになっていないだろう」
「いいや」
恵が首を振った。
「それが答えだよ。君は、――杜類という男はそうやって燻っている人間じゃない」
「だからって何でクイズ部に拘る」
「それが、君の強みを発揮できる場所だから」
得意げに言い切って恵は笑った。
「まずは仮入部で良い。ただこの教室にくるだけでいい。――僕はどうしようもなく、君が欲しいんだ」
恵は右手を差し出した。栗色の瞳が斜陽をうけて輝いていた。
溌剌として、それでいてどこか悪魔的に思える囁きに吸い込まれるように、類は彼の右手を握っていた。
