ダダッと短く鈍い振動が壁を伝わってきて、思わず肩が跳ねた。
その様子を、真正面からじっと見つめる視線がある。
「……笑っただろ」
向かいの席から、笑いを無理に堪えたような喉を鳴らす音がした。
「すみません。先輩の反応がかわいくて、つい」
「……黙れよ」
安堂凌太は悪びれる様子もなく、長い指先でページをめくる。
俺は本の角度を変えて視界を遮断した。
放課後の図書室。
ここが俺だけの聖域じゃなくなってから、一週間が経つ。
ピ、とアラームが鳴った。
「休憩時間ですね」
「ん……」
凝り固まった背中を伸ばすと、背骨が小さく音を立てた。
安堂が小袋を差し出してきた。
「今日はピスタチオ味です」
「どーも」
口に放り込むと、思ったより香ばしい。
「......うまい」
「ですよね。先輩、ナッツ系好きですもんね」
そう言って、俺の反応をじっと見る。
なんでお前が満足そうなんだよ。
俺は勉強をして、安堂は漫画を読んでる。
時々、甘いものを食べる。
――どうして、こんなことになってるんだ。
最初の日、安堂は宣言どおりに現れた。
当然みたいな顔で、俺の正面に座って。
絶対に相手するもんか、と無視を決め込んだ。
「推し活しにきました」
「......好きにしろよ」
安堂が身を乗り出してきて。俺のノートを覗き込んだ。
――距離が近い。
「うさみ、すい。……宇佐美粋先輩」
「勝手に名前読むな」
「綺麗な名前ですね」
その声が、やけに柔らかかった。
「名前も知らないで推しとか言うな」
「名前は必要ない、特別な間柄だったんで」
冗談みたいな口調なのに、目だけが真剣で言葉に詰まる。
「......俺は目立ちたくないんだ」
「周りなんて気にしなくていいでしょ」
「どうでもよくない!」
声が響いて、はっとする。
目立つと、いいことなんてないんだ。
気づいたら、親友だと思っていた奴が、俺の悪口を広めていた。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
それ以上、思い出さないように口を閉じた。
安堂が一瞬だけ目を伏せた。
「……すみません」
「いや......俺も」
気まずい沈黙の中で、安堂が言った。
「どうすれば、先輩が困らないですか。先輩を困らせたいわけじゃない」
その聞き方が、ずるかった。
捨てられそうな目をされたら、強く出られないだろ。
「……俺に構うな」
「それは無理です」
「即答かよ……」
「……誰もいない時なら、まぁ、少しくらいなら」
安堂の顔が、一気に明るくなった。
「わかりました。人前では話しかけません。誰もいないから、毎日ここに来ます」
「俺は勉強してるんだ。邪魔すんな」
「約束します。ただ先輩を眺めてるだけでいいんで」
「……悪趣味」
「推し活ですから」
そうして結ばれた、奇妙な密約。
最初は、居心地が悪かった。
視界の端に安堂がいるだけで、集中できない。
でも、沈黙に耐えられなくなったのは、俺の方だった。
「それ、そんなに面白い? ずっと同じの読んでるけど」
安堂は手にしていた漫画から顔を上げた。
「ああ、これですか? ……まぁ、面白いです。それより先輩の課題、大変そうですね」
「別に平気だけど」
「休憩しないと」
安堂が自分のスマホを取り出し、アラームの画面をこちらに向ける。
「アラームが鳴ったら5分休憩。これ、新しいルールです」
「……勝手に決めんなよ」
反論はした。……だけど、まあ、休憩くらいしてもいいか。
「もらいものですけど、どうぞ」
ポケットから取り出されたチョコ。
「ありがと」
包みを開け、口に放り込む。
「ん! これうまい!」
思わず声が弾む。我ながら子どもみたいなリアクションだと思い直し、急に恥ずかしくなった。
「……そんなに喜んでくれるんだ。明日も持ってきます」
安堂が嬉しそうに目を細めた。
人前では話しかけず、放課後の図書室で会う。時々、甘いものを食べる。
俺たちの密約に、新しいルールが加わった。
いつものように休憩のアラームが鳴ると、安堂がスマホをいじりながら言った。
「あ、先輩。スマホ貸してください」
「は? なんで」
「この前のチョコ、限定品みたいです。売ってる場所、送るんで」
「いや、別にいいよ」
「いいから」
俺の拒否権など最初から存在しないかのように、安堂の手が伸びてくる。
あっという間に俺のスマホを奪うと、手際よく操作しはじめた。
「ちょ、勝手に触んな!」
「はい、登録完了」
戻ってきたスマホには「安堂凌太」の文字。
「……これが目的だろ」
「バレました? チョコは口実です」
安堂は悪戯っぽく笑って、自分のスマホを掲げた。
「これでいつでも連絡取れますね」
「用がないのに連絡しない。お前もしてくるなよ」
「それは努力します」
「努力かよ……」
呆れながらも、連絡先に追加されたその名前を指先でそっと撫でていた。
その帰り道のことだ。
職員室に鍵を返し、昇降口を出ると、夕暮れの影から安堂が現れた。
「うわっ。急に出てくんなよ」
「一緒に帰りましょう」
「人前では関わらない約束だろう」
「裏門から出れば誰にも会いませんよ」
安堂は当然のように俺の隣に並んだ。
ふと肩が触れそうになり、俺はわずかに身を引いた。
風に乗って、安堂からふわりと甘い匂いがした。
イケメンだし、いい匂いするし、なんなのこいつチートすぎる。
「先輩、連休って予定あります?」
誘われるのかもしれない。
そんな期待が勝手に膨らむ。
いや、期待ってなんだよ。
「……兄貴のところに行く」
「お兄さん? 先輩、お兄さんいるんですね」
「うん。東京の大学通ってる」
「へぇ……東京」
安堂の声がわずかにトーンを落とした、ような気がした。
「楽しんできてください」
それだけ?
予定聞いて、これで終わり?
もっとしつこく聞かれるかと思ったのに。
「じゃ、俺、ここなんで」
「寮住みだったんだ」
「はい。事情がありまして。また明日」
「うん。また」
手を振るのは恥ずかしくてやめた。
視線を感じて振り返ると、安堂はまだそこに立って、俺を見送っていた。
日はもうすっかり落ちていて、暗くてよく見えなかった。
それがなんだか残念だった。
連休前の最後の日。
いつものようにチョコを口に運びながら、安堂を盗み見た。
ここに来る前に、見かけた光景を思い出す。
安堂は相変わらず、人に囲まれていた。
愛想がいいわけでもない、むしろ不愛想。
俺の前では、笑ったりするのに。
なんで俺の前でだけそんな顔見せるんだろう。
「……先輩?」
目線を上げると至近距離に安堂の顔があった。
「な、なんだよ」
椅子ごと後ろに下がろうとすると、安堂の手が伸びて俺の唇の端をぬぐう。
ビクリ、と背筋が震えた。
「チョコ、ついてましたよ」
安堂はそう言って、俺の唇を拭った親指を、なんと自分の口元へ持っていき――舌先で舐めとった。
「……っ!?」
頭が真っ白になる。
「お、お前、なに、して……」
「マカデミア味も美味しいですね。先輩の味だからかな」
何食わぬ顔で微笑んだ。
背中がぞくりと冷えるのに、胸の奥はどうしようもなく熱い。
「……安堂」
「先輩、思い出しましたか? 俺のこと」
椅子を引き寄せ、机越しに身を乗り出した安堂の整髪料の匂いが、俺の思考を麻痺させる。
「全然思い出してくれないから、ネタばらししてあげます」
「……え?」
「先輩、ネカフェの隣のビルの塾に行ってますよね」
「なんで知ってんだよ」
「中学の頃、あの辺で遊んでて先輩のことよく見かけてたんです。どんな人なんだろうなーって思ってました」
「……」
安堂の手が、俺の手に重なる。
その指先は冷たいのに、触れた場所だけ熱が刺さる。
逃げようとしたのに、なぜか動けなかった。
――俺なんか、誰の視界にも入ってないはずだった。
「今日はここまで。続きはまた今度」
安堂はパッと手を離すと、いつもの何を考えてるかわからない表情に戻った。
けれど、手を離したあとの指先が、ほんの少しだけ震えていた気がした。
まるで、触れてはいけないものに触れたと自覚しているみたいに。
なんだよ、それ。
俺はただのモブだ。
目立たない脇役。
誰かの「推し」になるような人間じゃない。
なのに、安堂は俺を見ていた。
中学の頃から、ずっと。
その様子を、真正面からじっと見つめる視線がある。
「……笑っただろ」
向かいの席から、笑いを無理に堪えたような喉を鳴らす音がした。
「すみません。先輩の反応がかわいくて、つい」
「……黙れよ」
安堂凌太は悪びれる様子もなく、長い指先でページをめくる。
俺は本の角度を変えて視界を遮断した。
放課後の図書室。
ここが俺だけの聖域じゃなくなってから、一週間が経つ。
ピ、とアラームが鳴った。
「休憩時間ですね」
「ん……」
凝り固まった背中を伸ばすと、背骨が小さく音を立てた。
安堂が小袋を差し出してきた。
「今日はピスタチオ味です」
「どーも」
口に放り込むと、思ったより香ばしい。
「......うまい」
「ですよね。先輩、ナッツ系好きですもんね」
そう言って、俺の反応をじっと見る。
なんでお前が満足そうなんだよ。
俺は勉強をして、安堂は漫画を読んでる。
時々、甘いものを食べる。
――どうして、こんなことになってるんだ。
最初の日、安堂は宣言どおりに現れた。
当然みたいな顔で、俺の正面に座って。
絶対に相手するもんか、と無視を決め込んだ。
「推し活しにきました」
「......好きにしろよ」
安堂が身を乗り出してきて。俺のノートを覗き込んだ。
――距離が近い。
「うさみ、すい。……宇佐美粋先輩」
「勝手に名前読むな」
「綺麗な名前ですね」
その声が、やけに柔らかかった。
「名前も知らないで推しとか言うな」
「名前は必要ない、特別な間柄だったんで」
冗談みたいな口調なのに、目だけが真剣で言葉に詰まる。
「......俺は目立ちたくないんだ」
「周りなんて気にしなくていいでしょ」
「どうでもよくない!」
声が響いて、はっとする。
目立つと、いいことなんてないんだ。
気づいたら、親友だと思っていた奴が、俺の悪口を広めていた。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
それ以上、思い出さないように口を閉じた。
安堂が一瞬だけ目を伏せた。
「……すみません」
「いや......俺も」
気まずい沈黙の中で、安堂が言った。
「どうすれば、先輩が困らないですか。先輩を困らせたいわけじゃない」
その聞き方が、ずるかった。
捨てられそうな目をされたら、強く出られないだろ。
「……俺に構うな」
「それは無理です」
「即答かよ……」
「……誰もいない時なら、まぁ、少しくらいなら」
安堂の顔が、一気に明るくなった。
「わかりました。人前では話しかけません。誰もいないから、毎日ここに来ます」
「俺は勉強してるんだ。邪魔すんな」
「約束します。ただ先輩を眺めてるだけでいいんで」
「……悪趣味」
「推し活ですから」
そうして結ばれた、奇妙な密約。
最初は、居心地が悪かった。
視界の端に安堂がいるだけで、集中できない。
でも、沈黙に耐えられなくなったのは、俺の方だった。
「それ、そんなに面白い? ずっと同じの読んでるけど」
安堂は手にしていた漫画から顔を上げた。
「ああ、これですか? ……まぁ、面白いです。それより先輩の課題、大変そうですね」
「別に平気だけど」
「休憩しないと」
安堂が自分のスマホを取り出し、アラームの画面をこちらに向ける。
「アラームが鳴ったら5分休憩。これ、新しいルールです」
「……勝手に決めんなよ」
反論はした。……だけど、まあ、休憩くらいしてもいいか。
「もらいものですけど、どうぞ」
ポケットから取り出されたチョコ。
「ありがと」
包みを開け、口に放り込む。
「ん! これうまい!」
思わず声が弾む。我ながら子どもみたいなリアクションだと思い直し、急に恥ずかしくなった。
「……そんなに喜んでくれるんだ。明日も持ってきます」
安堂が嬉しそうに目を細めた。
人前では話しかけず、放課後の図書室で会う。時々、甘いものを食べる。
俺たちの密約に、新しいルールが加わった。
いつものように休憩のアラームが鳴ると、安堂がスマホをいじりながら言った。
「あ、先輩。スマホ貸してください」
「は? なんで」
「この前のチョコ、限定品みたいです。売ってる場所、送るんで」
「いや、別にいいよ」
「いいから」
俺の拒否権など最初から存在しないかのように、安堂の手が伸びてくる。
あっという間に俺のスマホを奪うと、手際よく操作しはじめた。
「ちょ、勝手に触んな!」
「はい、登録完了」
戻ってきたスマホには「安堂凌太」の文字。
「……これが目的だろ」
「バレました? チョコは口実です」
安堂は悪戯っぽく笑って、自分のスマホを掲げた。
「これでいつでも連絡取れますね」
「用がないのに連絡しない。お前もしてくるなよ」
「それは努力します」
「努力かよ……」
呆れながらも、連絡先に追加されたその名前を指先でそっと撫でていた。
その帰り道のことだ。
職員室に鍵を返し、昇降口を出ると、夕暮れの影から安堂が現れた。
「うわっ。急に出てくんなよ」
「一緒に帰りましょう」
「人前では関わらない約束だろう」
「裏門から出れば誰にも会いませんよ」
安堂は当然のように俺の隣に並んだ。
ふと肩が触れそうになり、俺はわずかに身を引いた。
風に乗って、安堂からふわりと甘い匂いがした。
イケメンだし、いい匂いするし、なんなのこいつチートすぎる。
「先輩、連休って予定あります?」
誘われるのかもしれない。
そんな期待が勝手に膨らむ。
いや、期待ってなんだよ。
「……兄貴のところに行く」
「お兄さん? 先輩、お兄さんいるんですね」
「うん。東京の大学通ってる」
「へぇ……東京」
安堂の声がわずかにトーンを落とした、ような気がした。
「楽しんできてください」
それだけ?
予定聞いて、これで終わり?
もっとしつこく聞かれるかと思ったのに。
「じゃ、俺、ここなんで」
「寮住みだったんだ」
「はい。事情がありまして。また明日」
「うん。また」
手を振るのは恥ずかしくてやめた。
視線を感じて振り返ると、安堂はまだそこに立って、俺を見送っていた。
日はもうすっかり落ちていて、暗くてよく見えなかった。
それがなんだか残念だった。
連休前の最後の日。
いつものようにチョコを口に運びながら、安堂を盗み見た。
ここに来る前に、見かけた光景を思い出す。
安堂は相変わらず、人に囲まれていた。
愛想がいいわけでもない、むしろ不愛想。
俺の前では、笑ったりするのに。
なんで俺の前でだけそんな顔見せるんだろう。
「……先輩?」
目線を上げると至近距離に安堂の顔があった。
「な、なんだよ」
椅子ごと後ろに下がろうとすると、安堂の手が伸びて俺の唇の端をぬぐう。
ビクリ、と背筋が震えた。
「チョコ、ついてましたよ」
安堂はそう言って、俺の唇を拭った親指を、なんと自分の口元へ持っていき――舌先で舐めとった。
「……っ!?」
頭が真っ白になる。
「お、お前、なに、して……」
「マカデミア味も美味しいですね。先輩の味だからかな」
何食わぬ顔で微笑んだ。
背中がぞくりと冷えるのに、胸の奥はどうしようもなく熱い。
「……安堂」
「先輩、思い出しましたか? 俺のこと」
椅子を引き寄せ、机越しに身を乗り出した安堂の整髪料の匂いが、俺の思考を麻痺させる。
「全然思い出してくれないから、ネタばらししてあげます」
「……え?」
「先輩、ネカフェの隣のビルの塾に行ってますよね」
「なんで知ってんだよ」
「中学の頃、あの辺で遊んでて先輩のことよく見かけてたんです。どんな人なんだろうなーって思ってました」
「……」
安堂の手が、俺の手に重なる。
その指先は冷たいのに、触れた場所だけ熱が刺さる。
逃げようとしたのに、なぜか動けなかった。
――俺なんか、誰の視界にも入ってないはずだった。
「今日はここまで。続きはまた今度」
安堂はパッと手を離すと、いつもの何を考えてるかわからない表情に戻った。
けれど、手を離したあとの指先が、ほんの少しだけ震えていた気がした。
まるで、触れてはいけないものに触れたと自覚しているみたいに。
なんだよ、それ。
俺はただのモブだ。
目立たない脇役。
誰かの「推し」になるような人間じゃない。
なのに、安堂は俺を見ていた。
中学の頃から、ずっと。
