『──君が思っている以上に僕は君が好きで、大事に思っているから』
そんな言葉をかけられたのは、生まれてはじめてだった。優しさのかけらを丁寧に紡いで、惜しみなく渡してくれる彼のことがとてもすきだった。
見つめあった目が熱を帯びる瞬間が好きだった。
何かあったの、大丈夫?と目を見て話を聞いてくれるところが好きだった。美しい所作が、細くて綺麗な指先が、私の手を掬って逃さぬようにと繋ぎ止められる瞬間が、すきだった。
秘密ごとは無し、すべて彼に伝えなければ、と口をパクパクと動かすわたしに、「無理に話さなくて大丈夫だよ」と降ってきた言葉のあたたかさを今になって思い出しては、もう触れられない彼の優しさをずっと探し続けている。
なにが彼の気持ちを変えてしまったのか、結局わたしは知らないままだ。
思い返せば自分の反省すべきところはたくさんあった。自己肯定感の低さが、関係に支障をきたすまでになっていたこと、分かっていたのに、彼の「大丈夫」に甘えて関係を破綻に持ち込んだのはわたしなのかもしれない。彼とは喧嘩したことがなかった。わたしの話を聞き、不満を伝えれば「話してくれてありがとう」と言える彼は、わたしにひとつも不満を言ったことはなかった。
もしかすると、伝えることでわたしが傷つくから飲み込んでくれていたのかもしれない。そんな自分勝手な憶測をひとり重ねては、じゃあどうすればよかったのだろう、と意味のない自問自答を繰り返している。
きっと相性はよくなかった。考えすぎるわたしと、あまり考えていない彼。不器用で生きるのが下手くそなわたしと、器用になんでもこなして自分のポテンシャルをフルに活用できる彼。なんとかなるよ、が口癖のポジティブ人間を嫌うわたしと、弱さを人に見せない前向きな彼。言葉を大切にしたいわたしと、行動で示そうとする彼。不安になって距離を詰めるわたしと、整理したくて距離を取る彼。
少しずつ、少しずつ、歯車が噛み合わなくなっていることを自覚しながら、踏み込む勇気がでなかった。
あの日、彼のロック画面がわたしじゃなくなった日、約束を破られた記念日、あのとき踏み込めていれば、あるいは切り捨てるほどの勇気を持てていれば、結末は違ったのだろうか。こんなに苦しまずにすんだのだろうか。
あなたっていい人だよね、というたびに「えー、期待しないでよ」と返される重みにしっかり気づけていれば、今も彼はわたしの目を見て、大好きな顔で笑っていてくれただろうか。たらたらと綴る未練にもならない想いを、彼にはもう届かない言葉を並べている。こういうところもきっと重いんだろうな、と自覚して、ふいに涙が出た。
彼が小さな過ちを犯して「ごめん。もうしない」と謝ってきたとき、いいよ許すよあなたが好きよと抱きしめてあげられたら。きっとわたしのことが大好きに違いないと確信して、じっと駅のホームで待っている彼を振り返ることができていたら。そっとしておく、という余裕が自分のなかにあったなら。
忘れたくなくて必死に記憶と日記に刻みつけてきた彼を、はやく忘れてしまわないと楽になれないことが悔しかった。忘れなくてもいい思い出として留めておきたかったのに、忘れなければいけないものになってしまって、ひとつずつ証が消えていくたびに、彼からもらった優しさも消えてしまうような気がした。
だって、彼はもうきっと、わたしに手渡したことすら覚えていない。わたしがどれほどそのきらきらした欠片を大切にして、この世の中を生き抜く力にしていたのか、きっとあなたは知らない。
それはあまりにも残酷で、それでも痛いほどの事実だった。
「……だいじょうぶ?」
駆けつけてくれた友人が、ぼろぼろと泣いているわたしを見て、戸惑うように声をかけてくれた。
あのね、わたし、ちょっと無理かもしれなくて。
会いたい、会いたい。
絞り出したLINEに、会おう、と言ってくれる人がいること。あなたが傷つけられること、それを私は許さないよと言ってくれる人がいること。あなたは間違っていないよと言ってくれる人がいること。毎日泣かずに学校に行き、えらい今日も頑張ったと褒めてくれる親がいること。大切にされていないことになれてはいけない、雑に扱われる自分を当たり前にしてはいけない、と諭してくれる人がいること。
わたしの周りにはこんなにも手を差し伸べてくれる人がいて、そしてなによりも救われるのは、彼らはわたしが自分の手で繋いだ存在であるということだ。
傷つけたり、傷つけられたり、そんななかでも手を伸ばして、離すまいと引き寄せあって、わたしの周りに残ってくれた確かな縁。
彼らの愛を一身に受け、友人と家族のありがたみを知れたのはこの失恋のおかげだった。
「あんたから聞いてた限り、そんなことする人には思えなかったんだけど」
「……うん」
駆けつけてくれた友人が、ポテトをつまみながら首をかしげる。わたしはオレンジジュースを飲みながら「僕もお揃いにしよっかなあ」とオレンジジュースを注ぐ彼を思い出して、またじわりと涙が込み上げた。
「わたしもびっくりしてる。だって、こんなに急に変わると思わなかったから」
わたしの何がだめだったのか。急な冷め期なのか。気づかなかっただけで、蓄積だったのか。そりゃあ、泣いてばかりの女いやだよなあ、と心の中でひっそりと自己否定する。嫌われて当然だよなぁ重くて下向いて泣いてる女なんて、と自己否定する。思えば彼との恋愛は自己否定の連続だった。
「わたしがもっと自立するべきだったんだと思う」
連絡がなくても返信が遅くても、そっけなくても気にしない。誕生日プレゼントがなくたって、約束を破られたって、そんな人なんだねあなたは、と言えるような寛容さがあれば、よかったのかもしれない。
そう思ってみても、結局のところそれは自分を雑に扱っているのと同じで、そもそもそんな彼は切り捨てなさい、と恋愛エッセイには書いてあるけれど、それで手放せたら世の女の子たちはきっと苦労していないんだよなぁ、とぼんやり思う。
「でもさぁ、うち思うんだけど。好きな男前にして冷静な女なんていないと思うよ。冷静さは違いがあるかもしれないけどさ、そりゃぐちゃぐちゃになるでしょ。好きだもん」
「え」
「あんた間違ってないよ。だって好きだもん。なにしてるか気になるじゃん、最低限の誠実さは欲しいよ。それに、逐一連絡するのはたしかにめんどくさいかもしれないけどさ、あんたが言ってるのは『今お風呂あがったよ』『寝てたよ』とかじゃなくて、『映画を観るから3時間後に連絡するね』とか、『いま忙しいから連絡返せないけど、今日の夜には返すからね』とか、そういう不安になる暇もないような安心が欲しかったんじゃないの」
心臓のど真ん中を突くような友人の言葉に、思わず息を呑んだ。そうだ、と思う。彼との恋愛がうまくいっていたと感じていた時、毎日楽しくて幸せで仕方がなかった時、彼からはそういう『安心させるための』連絡がきていたのだ。
「今を逐一伝えてくれるほどマメな男性すらいるんだよ。相手のことを思って安心を与える連絡をする、その手間を省くような不誠実な男はあんたには似合わないって言ってるの。確かにあんたが人よりも不安になりやすくて、勝手に落ち込んで泣き虫なのはよくなかったと思う。でも、連絡がちゃんとしてたら? 約束が破られなかったら? そしたら、あんたは不安になることなく今もにこにこで笑ってたんじゃないの? あんたの状態をここまで落としたのは、いったい誰なの?」
どんな男にも優しくない面はある。だが、その男の最大限の優しさを引き出せる女がいい女である。と、どこかで見た言葉を思いだした。彼の優しい面を引き出してあげられていたわたしと、別れ際のわたしはやはり何かが違っている。けれど、わたしの醜い部分を引き出したのもまた彼だ。
僕は君が好きだから一緒に考えたい、ふたりの問題だからと言ってほしかった。そうしたらわたしは彼に向き合って、彼の話も受け止めて、ふたりで前を向けるはずだった。距離を置こう、なんてそんな冷たい突き放しは聞きたくなかった。そんなことを言われてしまうまでに自分の価値を下げて、離れてしまえばそこまでの必要のない女だと思われたくなかった。
「まあ、真相は彼の口から聞かないとわかんないけどさ。なにかあったんだよ、わたしたちはわからない何かが。あんたの何かが嫌だったのかもしれないし、急に気持ちが沈んでいったか、あるいはタイミングとして新生活も始まるし。彼の気持ちはわかんないけどさ、最初から繋ぎ止められるものじゃなかったのかもしれないよ」
去っていく縁は手放しなさい。いいご縁に巡り会うための必要な別れです。
そんな受け身でたまるか、と思っていた。わたしは目の前にいる人を全力で愛したかった。
もう必要ないから、と離れていく人との縁を結び直すようなプライドは持ち合わせていなかった。
復縁がしたい、とは思わない。ただ、もともとの縁を切ってほしくなかった。それだけだ。
結び直すことはできないから、結び直す必要がないように固く結んでいてほしかった。次があると思って手を抜くのではなく、これが最後になるかもしれない、と思いながら噛み締めるようにデートをして欲しかった。少なくともわたしはいつも、これが最後になるかもしれないと思いながら彼の手を握り、こちらには視線が向かない横顔を見つめていたのだ。
「連絡先、消したんだっけ?」
「……うん、消したよ。もう、戻れないから」
大好きだったからこそ、友達関係に戻ることはできない。彼は友達という枠ではなく、恋人という枠にいてはじめて意味があるひとだったから。インスタもLINEもビーリアルも消した。インスタもビーリアルも小規模である上に女子はわたし1人だけだったこと。記念日にはストーリーをあげてくれたこと。女の子といっさい絡むことがなくて、周囲の人間にあまり興味がなさそうだったこと。そんな彼が唯一わたしにだけ興味を示して、知ろうとしてくれて、褒めてくれて、優しく見つめてくれて、そんな彼の毒のような呪いに絆されて、どんどん呑み込まれていったこと。
彼の好きが薄れていくのを感じながら、必死に好きを拾い集めようとしていたこと。少しでも一緒にいたくて電車の時間を遅らせたこと。けれどたぶん、一緒にいたかったのはわたしだけだったということ。電車に乗り遅れそうになって、手を引かれて駆けた夜。ブーツなのに走らせてごめんね、という言葉。お土産を買ってきてくれたこと。自販機でオレンジジュースを買ってくれたこと。電車に乗る時やお店の待ち時間、肩が当たる距離で座ってくれたこと。そういえば冷たく感じた時あたりから、こっちにおいでよと言わないと距離を詰めてこなかったなあ、と思い出しては悲しくなった。
毎日途切れないように連絡をしてくれて、会えない日は電話をしたいんだ、と言っていた彼からの連絡がパタリと止んだこと。声ききたい、という言葉がスルーされても「電話したいって伝わらなかったのかな」と解釈したこと。今考えればサインなんて丁寧すぎるほどに与えられていたのに、違和感を流してしまうほどに執着していたこと。日々、彼のことも、自分のことも、信じられなくなっていたこと。
諸々をぽつりぽつりと話すと、コーンスープをズズズ、と飲み干した友人が「がんばったね、あんた」と言葉を渡してくれた。
「……がんばったかな、」
「よく頑張ったよ。誰だって不安になるわそんなの。よく向き合ったと思うよ」
「彼に会うときね、いつも考えてた。今日は泣かないようにしなきゃ、笑わなきゃって。それで、無事に家に着いて部屋に入ったらぼろぼろ涙出てきてさ、よかった今日も耐えた、って思うの。恋愛ってこういうものだって思ってた。でも、きっと違うんだよね」
「限界まで頑張ったなら、もう手放してもいいんじゃない。楽になってもいいよ、あんた」
「……うん」
会いたい、優しかった頃の昔の彼に。わたしのことを好きだった彼に会いたい。そう思う時点で、わたしたちの恋愛はもう成り立っていなかったのかもしれない。
「写真とか、どうしたの?」
「……初デートの写真だけ、消せてない。映画の原作本、わざわざ持ってきてくれたのが嬉しくてさ。こんなことしてくれるんだ、って思って。だって、ずっと好きだった人がまさか趣味が同じでさ、本が好きだなんて、そんなの運命、とか思っちゃうじゃんね」
「まーね、本好き男子はあんたのなかで強烈だろうね」
「本好きだから好きになったわけじゃないよ。好きな人が偶然読書家だった。でも本好きなイメージなくて、だからこそ、だよね。本好きが決め手になったんだよね」
「いいなあ、大恋愛だったんだね」
「……そうかもね」
僕だけかもしれないけどさ、別れる気しなくない?と屈託のない笑みを浮かべた彼の声がこだましている。どこにいってしまったのかな、と何度も探して捕まえようとしたけれど、もうあの頃の彼はどこにもいないのだろう。
「彼より好きになれるのかな。そんな人、今後現れるのかな」
恋愛経験が乏しいなかで、ようやく巡り会えた相手。自分から好きと言ったのも、触れられて嫌な気がしなかったのも、彼がはじめてだった。彼よりいい人はいっぱいいます、という言葉に「でも彼はひとりしかいないから」と返したくなる日もたくさんあった。
「なれるよ。だって、あんた大事にするの上手じゃんか。こんなに大好きになれたんだもん。もっと大好きになれる人があんたのこと待ってるよ」
「そうかな」
「そうだよ。あんたの好きをちゃんと受け止めて、それ以上の愛で返してくれる人に出会えばいいよ。それまでに勝手に不安になったりせずに、言葉をまっすぐ受け取る練習をしたらいいじゃない。マイナス思考になりすぎるんじゃなくて、プラスにとらえる練習して自分と向き合ってたら、きっといい出会いあるよ」
「うう〜〜やっぱりあんたのこと大好きだわ」
「うちもだいすき〜だからもう大好きな人が傷つくとこみたくない〜大事な親友傷つけたやつ1発殴りたいくらいよ」
「あはは、ありがとね」
苦くて、けれどまっすぐに恋をしていた。
不器用ながらに、傷つき傷つけ合いながら、それでも繋ぎ止めようとしていた。
涙が出る夜もある。ふと、思い出して切なくなってしまう瞬間もある。
『君を想って聴いています』
言葉の代わりに、好きな音楽を教えてくれた彼。街で曲が流れた瞬間に、ぶわっとよみがえる思い出がある。
聴けないな、と思う日もあれば、泣きながらでも聴ける日だってある。
わたし、あなたでよかったです。あなたに恋をして、奇跡のような偶然で結ばれて、たくさんの優しさをもらって、知らなかった感情を知って、傷ついて、最後は望む終わり方ではなかったけれど、それでも。
あなたに恋をしたことだけは、間違いではなかったと認めたい。それだけは、自分自身の選択に胸を張りたい。
「もし、いま目の前に彼が現れたとして、そしたらあんたなんて言うの?」
友人がじっとわたしを見ていた。
『君のいいところはね、ありがとう、って感謝の気持ちをたくさん伝えてくれるところだよ。だから僕も真似するね』
ありがとうが飛び交うLINE、会話、それがすごく嬉しかったのを覚えている。
彼にひとつ、言葉を贈るとするならば、わたしの頭に真っ先に浮かぶのは、やっぱり。
「……今までたくさんありがとう、かな」
「うん。今ので確定したね。あんたは絶対幸せになれる。てか、幸せになれ、絶対に。自分で自分を幸せにすることを諦めるな」
「うん、わかった。ありがとう」
いつかこの痛みも、この縁のためだったと思いだして感謝できるような、そんな日が来るといい。そんな人に出会えるといい。
「あーあ、大好きだった! まじで!」
「こんなに想ってもらえて相手もほんとに惜しいことしてさー! 幸せもんよーー、ったく」
「ふはは、ありがとう」
さようなら。ありがとう。
だいすきでした。
作業BGM🎧
エバーグリーン/SIX LOUNGE



