あれから何度も夢に見る。
真っ赤に染まった、おぞましい火事場の惨状を。
たとえ、どれだけ日が経とうと。
あのむせかえるような焼け焦げた匂いが染み付いて消えない。
——約束、守れなくて。
あの日、レイは完全に機能を停止した。
ボディの損傷が激しく、修復も不可能だと言われた。
レイは、もうここにはいない。
火災騒動の後、彼の機体は、ロボット業者に回収されてしまって。
今はどうなったのかさえわからなかった。
「わたし、ひとりぼっちだ……」
レイのいないと、部屋が無駄に広い感じがする。
夏はまだこれからだというのに。
わたしのいる空間だけが、まるで永遠の冬に閉じ込められてしまったみたいだった。
* * *
研究所の火災から数日。
お父さんの意識が戻ったと、搬送先の病院から連絡があった。
けれど、今すぐ行く気は起きなかった。
レイを失って以来、時間を浪費するだけの日々が続いている。
学校もずっと休みっぱなしだった。連絡すらいれていない。
なのに、どうしてか、わたしの足はひとりでに動いていて。
気が付いた時には、病院の入り口に立っていた。
あれ……わたし、なんで来たんだろう。
薄々、心のどこかでは、わかっていたんだと思う。
ただ、それを認めたくない自分がいただけ。
案内された部屋に入ると、病服を身にまとったお父さんがベッドで寝ていた。
ところどころ腕に点滴の管が繋がれていたけど、大きなケガは見当たらない。
——レイが、命懸けで助けてくれたから。
ドアの前に突っ立っていると、気が付いたお父さんが、手すりにつかまりながら、ゆっくりと体を起こした。あいかわらず、感情の見えない、胡乱げな瞳。前に電話で話した時よりも、クマの色が濃くなっているような気がした。
「……すまない」
ゆっくりと、お父さんの口が動く。 発せられたのは、たったのそれだけ。
病室には再び沈黙が降りた。 かすかな空気の振動音ですら、聞き取れそうなほどの。
「なんで、いつもそうやって黙るの……?」
胸の奥に押しこんでいた感情の蓋が外れる。いい加減、我慢の限界だった。
「わたし、なんもわかんないよ……。お父さんのことも、お母さんのことだって。誰も何も教えてくれないっ!」
「……」
それでもお父さんの口は、依然として固く閉ざされたまま。まるで、普段の自分を見ているみたいだった。
「やっぱり、お父さんは、わたしと話す気なんてないんだね……」
言葉にした刹那、胸の奥が小さく軋む。
本当は、気付いてた。 きっと、ずっと前から。
ほんの些細なことでいい。
テストで良い点を取れたこと、お父さんの研究のこと、月之木さんのこと。
——本当は、お父さんにも聞いてほしかった。
贅沢なんて言わない。ありふれた幸せでいい。
いつかレイと、三人でご飯を食べたり、笑ったりしたかった。
でも、それは全部、わたしだけが抱いていた願望。
お父さんの眼中にあったのは、いつだって研究のことだけ。
「……もう、いいよ」
逃げるように背を向ける。
一瞬、お父さんの口元が、かすかに歪んだように見えた。
でも、振り返る気にはなれなくて。わたしは部屋を後にする。
胸が苦しかった。
誰も寄り添ってくれる人なんていない。
レイを失った今、わたしは正真正銘のひとりぼっちだから。
裏口へ続く階段を駆け下りる。
前をよく見ていなかったから、最後の二段で踏み外した。
「わっ!」
視界が急下降して、体が傾く。
「危ない!」
足が宙に浮いた瞬間、声と同時に腕を掴まれた。
ふわりと、柔らかい布に鼻先が埋もれる。
「大丈夫?」
落ち着いた、大人の女の人の声。
反射的につむってしまっていた目を開けると、白のナース服を着た看護師さんが、倒れないようにわたしを支えてくれていた。
「あ……」
何か言わないと。
頭ではわかっているのに、言葉が出てこない。
「あ、あのっ……」
口ごもっていると、看護師さんはちょっと視線を落として、わたしの顔を覗きこんだ。
「もしかして、ユウちゃん?」
「えっ?」
思わず、相手の顔を見つめてしまう。
どうして、わたしの名前を……。
「ああ、やっぱりそうだわ! ほんと、あなたにそっくりね、夕花《ゆうか》」
彼女がつぶやいた名前に脳を弾かれる。
お父さんの口からですら、滅多に聞かなかったのに。
「母のことを、知ってるんですか……?」
高野美由紀。
彼女の胸元のネームプレートには、そう書いてあった。
あれ、 この人どこかで……。
すると、向こうもこっちの心境を察したのか、
「驚かせてしまって、ごめんなさい。実は私、ユウちゃんのご両親——夕花と悠吾くんの、大学時代の同級生だったの」
「えっ」
思い出したのは、部屋に飾ってあるお母さんの写真。
じゃあ、となりに一緒に写っていたナース服の女性は。
「悠吾くんから話は聞いてる。ユウちゃんも、一人で辛かったよね……」
そう言うと、高野さんは、なんのためらいもなくわたしにハグをした。
あたたかくて、優しい。
けれど、レイの時とは少し違う。
腕いっぱいに、そっと包みこむような抱きしめ方。
なんでだろう。
胸の奥がほわほわして、どこかなつかしい感じがする。
——もしお母さんが生きてたら、こんなふうに抱きしめてくれたのかな。
高野さんの腕が、ゆっくりとほどかれる。
指で拭った彼女の涙袋は、うっすらと濡れていた。
「ごめんなさいね、いきなり。ユウちゃんを見ていたら、昔のことを思い出しちゃって」
「あ、いえ……」
びっくりはしたけど、ちっとも嫌じゃなかった。
それはきっと、この人が、優しい人だって、抱きしめられた瞬間にわかったから。
ふっと頭の中にある考えが浮かぶ。
——ひょっとして、これって、チャンスなのかな。
「あ、あの!」
「うん?」
親の友人とはいえ、相手はほぼ初対面。
自分から踏み入るなんて、これまでのわたしじゃありえなかった。
でも、今は——
胸元をぎゅっと握りしめ、大きく息を吸う。
これを逃したら、一生、わからずじまいかもしれない。 それは嫌だ。
「教えてくれませんか……? 母のこと」
思いがわたしを突き動かした。
高野さんの形の整った切れ長な瞳が、大きく見開く。
肩下まである長いストレートの黒髪は、クーラーの風にそよいでいた。
「どんなことでもいいんですっ……だから、どうか、お願いします!」
精いっぱい、震える声を押し出す。 多分、わたしに出せる勇気の最大出力。
「頭なんて下げないで、ユウちゃん」
優しい声で言われて、顔を上げる。
高野さんは、ネームプレートの裏——外すと、ホログラムの数字が浮かんで、現在時刻が表示される仕組みになっているらしい——を確認すると、
「そうねぇ。向こうで、少しお話ししましょう。ちょうど休憩時間にも入ったし、私でいいなら」
* * *
わたし達が足を運んだのは、自販機やキッズコーナーが設置された休憩スペースだった。
壁の一面がガラス張りになっていて、病院の外の景色がよく見える。
「夕花はね、昔からちょっと変わってた。元々、幼馴染だったの、私達」
高野さんが語り始める。
彼女の話を聞いていると、お母さんの姿が手に取るように浮かんだ。
声も顔も記憶にないはずなのに。まるで、何度も会話したことがあるみたいだった。
高野さんによれば、お母さんは生まれつき病気がちで、そう長くは生きられないことを医師に告げられていた。けれど、当の本人は病気だなんて思えないほど明るく、前向きな性格で、どんな時も弱音ひとつ吐かなかった。
「小学5年生の時にね、ある日、突然、夕花に聞かれたの。どうして、いつも周りの顔色ばっかり見てるの? って。それが夕花とした初めての会話だった」
当時、クラスの学級委員だった高野さんは、両親や先生といった周囲から寄せられる期待にプレッシャーを感じていた。誰もが思い描く理想の優等生になりきるために、気を抜けない学校生活。いつしか我慢することでしか、自分の存在価値を得られなくなっていた。
だけど、そんな時、お母さんに出会った。
「彼女にだけは見破られてしまった。みんなが思ってるほど、私は優れた人間じゃないこと。本当は頼られるより、誰かに甘えたいくせして、うわべだけ必死に取り繕ってたことも」
でもねと、テーブルの上のコーヒーカップの側面をなでながら、高野さんは続ける。
「夕花は言ってくれた。カッコ悪い自分を誰かに打ち明けるのは、ものすごく勇気がいる。でも、美由紀ちゃんは話してくれた。だから、やっぱり、カッコ悪くなんてない。美由紀ちゃんは素敵な人だって、わたしがお墨付きをあげるから、もっとリラックスして生きてって」
その会話をきっかけに、二人は打ち解けあった。ただのクラスメイトから気心の知れた親友へ。関係を築くのにそう時間はかからなかった。
その後、二人は同じ中学、高校、大学に進学。大学は学部こそ違えど、毎日のように顔を合わせていた。だから、高野さんの知らぬ間に、お母さんとお父さんが付き合っていることを聞かされた時は、驚きで腰を抜かしそうになったという。
「だって、まるっきり正反対のタイプだったのよ、夕花と悠吾くん」
遠い昔をなつかしみ、高野さんは朗らかに笑う。年はお父さんと同じなのに、なんだか若々しく見えるから不思議だ。
大学を卒業後、お母さんとお父さんは結婚。わたしを授かったのは、そのわずか1年後だったという。
「ごめんなさい、ユウちゃん。私が話せるここまでなの」
しかし、そこで高野さんは話を切ってしまう。
どこか儚げな視線を、手元のコーヒーカップに泳がせて。
「は、話して欲しいです……!」
身を乗り出したわたしに、高野さんが目を瞬かせる。
「ち、父はっ、母のことを何も教えてくれません……。でも、わたしは、ちゃんと知らなくちゃいけない。いつまでも逃げていたくないんです」
正面から高野さんをまっすぐに見つめる。
膝の上で、ぎゅっと握ったこぶしが小刻みに震えていた。それでも艶やかに揺れる切れ長の瞳から、決して目はそらさない。
「……わかったわ」
静かに高野さんがうなずく。
コーヒーカップからは、まだかすかに湯気が立っていた。
「急に夕花の体調が悪くなってしまったの。ユウちゃんを産んでから」
耳の奥深く、鼓膜に近い場所で、黒い潮騒がする。
「元々、妊娠が発覚した時、周りはみんな反対していたの。当時の主治医の先生も、夕花の体調のことを考えると出産は危険だって。でも、夕花は、どうしてもお腹の子に会いたいんだって言って聞かなくて。だから、私は一人の友人として、夕花の意志を尊重しようと決めた」
まるで、どこか果てしなく遠い話のように聞こえた。それはきっと、わたしの無意識下で発動してしまう防衛本能で。ほんの刹那、聞かなければよかったかもしれないなんて思ってしまった。
「でも、現実はそう優しくなかった。ユウちゃんを産んで、半年くらい経った日に、夕花は突然、発作を起こして亡くなったの……」
ドクン。
見えない手に、心臓を握りつぶされる。
聞いた時点で、覚悟はしていたはずだった。
でも、こんなのって……。
ガタン! イスが後ろに倒れる音。
「ユウちゃん!?」
気付けば、無言で駆け出していた。
後ろで、高野さんの声が聞こえる。けれど、足は止まらない。
激しく動悸する胸は、今にも張り裂けそうで。
自分が怖くなった。
——だって、これじゃあ、わたしがお母さんを殺したようなものじゃんか。
* * *
無数の水滴が、トゲとなって肌にまとわりつく。
やがて、勢いを増した雨は涙と溶け合い、冷たいアスファルトへ落下した。
バシャリ!
横断歩道を通過する軽自動車に轢かれた水たまりが、しぶきをあげる。
雨水を含んだ服や髪が、まるで鉄の塊みたいに重かった。
けれど、わたしに傘を差す資格はない。
たとえ、この身がどれだけ濡れようが、凍えようが。
* * *
頭の中が、ぼうっとする。
まるで、濃い霧の中を彷徨っているみたいだ。
——お前のせいで。
あれから何度も聞こえてくるようになった幻聴。
塞いでも、声が鼓膜にこびりついて離れない。
「ごめんなさい、お母さん……」
わたしは、尊いあなたの命を奪ってしまった。
お母さんの死を、一体、どれだけの人が悼み、悲しんだか。
罪人のわたしは想像するしかない。
「どうしてなの……」
ねぇ、お母さん。
どうして、あなたは自分の命を代償にしてまでわたしを産んだの?
自分の命が惜しくはなかったの?
「やっぱり、お母さんのこと、何も理解できないよ……」
思わず、握りしめたベッドのシーツがしわくちゃになる。
その時、部屋の奥から電話のコール音が聞こえた。
どうせ、学校だろうと思った。
もうかれこれ一週間くらいずっと無断欠席している。
とても出る気になれず、無視を決めこんだ。けれど、音はなかなか鳴り止まない。
仕方なくベッドから這いあがる。着信先を確認したら、
「お父さんの病院……」
電話に出たのは高野さんだった。どうやら、お父さんの退院日が決まったらしい。そのことを伝えるために、わざわざ連絡をくれたのだという。
「あの、高野さん! この前はっ」
「気にしなくていいのよ」
あの時の非礼を謝罪しようとしたら、
「あのね、ユウちゃん。あなたの抱える苦しみを、私は一緒に背負ってあげることも肩代わりすることもできない。だけど、もしも痛みが酷い時は、いつでも言ってほしい。気休めの傷薬くらいにはなれると思うから」
優しすぎる言葉。
けれど、わたしの心は既に腐りきっていて。
いっそ、ひとりにしてくれた方が楽だなんて、心ないことを思ってしまった。
真っ赤に染まった、おぞましい火事場の惨状を。
たとえ、どれだけ日が経とうと。
あのむせかえるような焼け焦げた匂いが染み付いて消えない。
——約束、守れなくて。
あの日、レイは完全に機能を停止した。
ボディの損傷が激しく、修復も不可能だと言われた。
レイは、もうここにはいない。
火災騒動の後、彼の機体は、ロボット業者に回収されてしまって。
今はどうなったのかさえわからなかった。
「わたし、ひとりぼっちだ……」
レイのいないと、部屋が無駄に広い感じがする。
夏はまだこれからだというのに。
わたしのいる空間だけが、まるで永遠の冬に閉じ込められてしまったみたいだった。
* * *
研究所の火災から数日。
お父さんの意識が戻ったと、搬送先の病院から連絡があった。
けれど、今すぐ行く気は起きなかった。
レイを失って以来、時間を浪費するだけの日々が続いている。
学校もずっと休みっぱなしだった。連絡すらいれていない。
なのに、どうしてか、わたしの足はひとりでに動いていて。
気が付いた時には、病院の入り口に立っていた。
あれ……わたし、なんで来たんだろう。
薄々、心のどこかでは、わかっていたんだと思う。
ただ、それを認めたくない自分がいただけ。
案内された部屋に入ると、病服を身にまとったお父さんがベッドで寝ていた。
ところどころ腕に点滴の管が繋がれていたけど、大きなケガは見当たらない。
——レイが、命懸けで助けてくれたから。
ドアの前に突っ立っていると、気が付いたお父さんが、手すりにつかまりながら、ゆっくりと体を起こした。あいかわらず、感情の見えない、胡乱げな瞳。前に電話で話した時よりも、クマの色が濃くなっているような気がした。
「……すまない」
ゆっくりと、お父さんの口が動く。 発せられたのは、たったのそれだけ。
病室には再び沈黙が降りた。 かすかな空気の振動音ですら、聞き取れそうなほどの。
「なんで、いつもそうやって黙るの……?」
胸の奥に押しこんでいた感情の蓋が外れる。いい加減、我慢の限界だった。
「わたし、なんもわかんないよ……。お父さんのことも、お母さんのことだって。誰も何も教えてくれないっ!」
「……」
それでもお父さんの口は、依然として固く閉ざされたまま。まるで、普段の自分を見ているみたいだった。
「やっぱり、お父さんは、わたしと話す気なんてないんだね……」
言葉にした刹那、胸の奥が小さく軋む。
本当は、気付いてた。 きっと、ずっと前から。
ほんの些細なことでいい。
テストで良い点を取れたこと、お父さんの研究のこと、月之木さんのこと。
——本当は、お父さんにも聞いてほしかった。
贅沢なんて言わない。ありふれた幸せでいい。
いつかレイと、三人でご飯を食べたり、笑ったりしたかった。
でも、それは全部、わたしだけが抱いていた願望。
お父さんの眼中にあったのは、いつだって研究のことだけ。
「……もう、いいよ」
逃げるように背を向ける。
一瞬、お父さんの口元が、かすかに歪んだように見えた。
でも、振り返る気にはなれなくて。わたしは部屋を後にする。
胸が苦しかった。
誰も寄り添ってくれる人なんていない。
レイを失った今、わたしは正真正銘のひとりぼっちだから。
裏口へ続く階段を駆け下りる。
前をよく見ていなかったから、最後の二段で踏み外した。
「わっ!」
視界が急下降して、体が傾く。
「危ない!」
足が宙に浮いた瞬間、声と同時に腕を掴まれた。
ふわりと、柔らかい布に鼻先が埋もれる。
「大丈夫?」
落ち着いた、大人の女の人の声。
反射的につむってしまっていた目を開けると、白のナース服を着た看護師さんが、倒れないようにわたしを支えてくれていた。
「あ……」
何か言わないと。
頭ではわかっているのに、言葉が出てこない。
「あ、あのっ……」
口ごもっていると、看護師さんはちょっと視線を落として、わたしの顔を覗きこんだ。
「もしかして、ユウちゃん?」
「えっ?」
思わず、相手の顔を見つめてしまう。
どうして、わたしの名前を……。
「ああ、やっぱりそうだわ! ほんと、あなたにそっくりね、夕花《ゆうか》」
彼女がつぶやいた名前に脳を弾かれる。
お父さんの口からですら、滅多に聞かなかったのに。
「母のことを、知ってるんですか……?」
高野美由紀。
彼女の胸元のネームプレートには、そう書いてあった。
あれ、 この人どこかで……。
すると、向こうもこっちの心境を察したのか、
「驚かせてしまって、ごめんなさい。実は私、ユウちゃんのご両親——夕花と悠吾くんの、大学時代の同級生だったの」
「えっ」
思い出したのは、部屋に飾ってあるお母さんの写真。
じゃあ、となりに一緒に写っていたナース服の女性は。
「悠吾くんから話は聞いてる。ユウちゃんも、一人で辛かったよね……」
そう言うと、高野さんは、なんのためらいもなくわたしにハグをした。
あたたかくて、優しい。
けれど、レイの時とは少し違う。
腕いっぱいに、そっと包みこむような抱きしめ方。
なんでだろう。
胸の奥がほわほわして、どこかなつかしい感じがする。
——もしお母さんが生きてたら、こんなふうに抱きしめてくれたのかな。
高野さんの腕が、ゆっくりとほどかれる。
指で拭った彼女の涙袋は、うっすらと濡れていた。
「ごめんなさいね、いきなり。ユウちゃんを見ていたら、昔のことを思い出しちゃって」
「あ、いえ……」
びっくりはしたけど、ちっとも嫌じゃなかった。
それはきっと、この人が、優しい人だって、抱きしめられた瞬間にわかったから。
ふっと頭の中にある考えが浮かぶ。
——ひょっとして、これって、チャンスなのかな。
「あ、あの!」
「うん?」
親の友人とはいえ、相手はほぼ初対面。
自分から踏み入るなんて、これまでのわたしじゃありえなかった。
でも、今は——
胸元をぎゅっと握りしめ、大きく息を吸う。
これを逃したら、一生、わからずじまいかもしれない。 それは嫌だ。
「教えてくれませんか……? 母のこと」
思いがわたしを突き動かした。
高野さんの形の整った切れ長な瞳が、大きく見開く。
肩下まである長いストレートの黒髪は、クーラーの風にそよいでいた。
「どんなことでもいいんですっ……だから、どうか、お願いします!」
精いっぱい、震える声を押し出す。 多分、わたしに出せる勇気の最大出力。
「頭なんて下げないで、ユウちゃん」
優しい声で言われて、顔を上げる。
高野さんは、ネームプレートの裏——外すと、ホログラムの数字が浮かんで、現在時刻が表示される仕組みになっているらしい——を確認すると、
「そうねぇ。向こうで、少しお話ししましょう。ちょうど休憩時間にも入ったし、私でいいなら」
* * *
わたし達が足を運んだのは、自販機やキッズコーナーが設置された休憩スペースだった。
壁の一面がガラス張りになっていて、病院の外の景色がよく見える。
「夕花はね、昔からちょっと変わってた。元々、幼馴染だったの、私達」
高野さんが語り始める。
彼女の話を聞いていると、お母さんの姿が手に取るように浮かんだ。
声も顔も記憶にないはずなのに。まるで、何度も会話したことがあるみたいだった。
高野さんによれば、お母さんは生まれつき病気がちで、そう長くは生きられないことを医師に告げられていた。けれど、当の本人は病気だなんて思えないほど明るく、前向きな性格で、どんな時も弱音ひとつ吐かなかった。
「小学5年生の時にね、ある日、突然、夕花に聞かれたの。どうして、いつも周りの顔色ばっかり見てるの? って。それが夕花とした初めての会話だった」
当時、クラスの学級委員だった高野さんは、両親や先生といった周囲から寄せられる期待にプレッシャーを感じていた。誰もが思い描く理想の優等生になりきるために、気を抜けない学校生活。いつしか我慢することでしか、自分の存在価値を得られなくなっていた。
だけど、そんな時、お母さんに出会った。
「彼女にだけは見破られてしまった。みんなが思ってるほど、私は優れた人間じゃないこと。本当は頼られるより、誰かに甘えたいくせして、うわべだけ必死に取り繕ってたことも」
でもねと、テーブルの上のコーヒーカップの側面をなでながら、高野さんは続ける。
「夕花は言ってくれた。カッコ悪い自分を誰かに打ち明けるのは、ものすごく勇気がいる。でも、美由紀ちゃんは話してくれた。だから、やっぱり、カッコ悪くなんてない。美由紀ちゃんは素敵な人だって、わたしがお墨付きをあげるから、もっとリラックスして生きてって」
その会話をきっかけに、二人は打ち解けあった。ただのクラスメイトから気心の知れた親友へ。関係を築くのにそう時間はかからなかった。
その後、二人は同じ中学、高校、大学に進学。大学は学部こそ違えど、毎日のように顔を合わせていた。だから、高野さんの知らぬ間に、お母さんとお父さんが付き合っていることを聞かされた時は、驚きで腰を抜かしそうになったという。
「だって、まるっきり正反対のタイプだったのよ、夕花と悠吾くん」
遠い昔をなつかしみ、高野さんは朗らかに笑う。年はお父さんと同じなのに、なんだか若々しく見えるから不思議だ。
大学を卒業後、お母さんとお父さんは結婚。わたしを授かったのは、そのわずか1年後だったという。
「ごめんなさい、ユウちゃん。私が話せるここまでなの」
しかし、そこで高野さんは話を切ってしまう。
どこか儚げな視線を、手元のコーヒーカップに泳がせて。
「は、話して欲しいです……!」
身を乗り出したわたしに、高野さんが目を瞬かせる。
「ち、父はっ、母のことを何も教えてくれません……。でも、わたしは、ちゃんと知らなくちゃいけない。いつまでも逃げていたくないんです」
正面から高野さんをまっすぐに見つめる。
膝の上で、ぎゅっと握ったこぶしが小刻みに震えていた。それでも艶やかに揺れる切れ長の瞳から、決して目はそらさない。
「……わかったわ」
静かに高野さんがうなずく。
コーヒーカップからは、まだかすかに湯気が立っていた。
「急に夕花の体調が悪くなってしまったの。ユウちゃんを産んでから」
耳の奥深く、鼓膜に近い場所で、黒い潮騒がする。
「元々、妊娠が発覚した時、周りはみんな反対していたの。当時の主治医の先生も、夕花の体調のことを考えると出産は危険だって。でも、夕花は、どうしてもお腹の子に会いたいんだって言って聞かなくて。だから、私は一人の友人として、夕花の意志を尊重しようと決めた」
まるで、どこか果てしなく遠い話のように聞こえた。それはきっと、わたしの無意識下で発動してしまう防衛本能で。ほんの刹那、聞かなければよかったかもしれないなんて思ってしまった。
「でも、現実はそう優しくなかった。ユウちゃんを産んで、半年くらい経った日に、夕花は突然、発作を起こして亡くなったの……」
ドクン。
見えない手に、心臓を握りつぶされる。
聞いた時点で、覚悟はしていたはずだった。
でも、こんなのって……。
ガタン! イスが後ろに倒れる音。
「ユウちゃん!?」
気付けば、無言で駆け出していた。
後ろで、高野さんの声が聞こえる。けれど、足は止まらない。
激しく動悸する胸は、今にも張り裂けそうで。
自分が怖くなった。
——だって、これじゃあ、わたしがお母さんを殺したようなものじゃんか。
* * *
無数の水滴が、トゲとなって肌にまとわりつく。
やがて、勢いを増した雨は涙と溶け合い、冷たいアスファルトへ落下した。
バシャリ!
横断歩道を通過する軽自動車に轢かれた水たまりが、しぶきをあげる。
雨水を含んだ服や髪が、まるで鉄の塊みたいに重かった。
けれど、わたしに傘を差す資格はない。
たとえ、この身がどれだけ濡れようが、凍えようが。
* * *
頭の中が、ぼうっとする。
まるで、濃い霧の中を彷徨っているみたいだ。
——お前のせいで。
あれから何度も聞こえてくるようになった幻聴。
塞いでも、声が鼓膜にこびりついて離れない。
「ごめんなさい、お母さん……」
わたしは、尊いあなたの命を奪ってしまった。
お母さんの死を、一体、どれだけの人が悼み、悲しんだか。
罪人のわたしは想像するしかない。
「どうしてなの……」
ねぇ、お母さん。
どうして、あなたは自分の命を代償にしてまでわたしを産んだの?
自分の命が惜しくはなかったの?
「やっぱり、お母さんのこと、何も理解できないよ……」
思わず、握りしめたベッドのシーツがしわくちゃになる。
その時、部屋の奥から電話のコール音が聞こえた。
どうせ、学校だろうと思った。
もうかれこれ一週間くらいずっと無断欠席している。
とても出る気になれず、無視を決めこんだ。けれど、音はなかなか鳴り止まない。
仕方なくベッドから這いあがる。着信先を確認したら、
「お父さんの病院……」
電話に出たのは高野さんだった。どうやら、お父さんの退院日が決まったらしい。そのことを伝えるために、わざわざ連絡をくれたのだという。
「あの、高野さん! この前はっ」
「気にしなくていいのよ」
あの時の非礼を謝罪しようとしたら、
「あのね、ユウちゃん。あなたの抱える苦しみを、私は一緒に背負ってあげることも肩代わりすることもできない。だけど、もしも痛みが酷い時は、いつでも言ってほしい。気休めの傷薬くらいにはなれると思うから」
優しすぎる言葉。
けれど、わたしの心は既に腐りきっていて。
いっそ、ひとりにしてくれた方が楽だなんて、心ないことを思ってしまった。



