それからマンションに着くまでの間、わたし達は何一つとして言葉を交わさなかった。
ただ作業的に足を動かす。まるで出会ったばかりの頃に逆戻りしたみたい。なんなら今の方が状況が悪いようにも思える。レイとの間に見えない壁があるみたいだった。
「ユウ」
「な、なにっ……!?」
気付けば、玄関のドアの前に立っていた。
レイが発した声に、わたしはバカみたいに驚き、後ろに跳ね退く。
「リボンずれてるよ。直してあげるから、じっとしてて」
「えっ? あ、ああ……」
レイの手が胸元に伸びてくる。指先が触れた瞬間、思わず、ドキッとした。
「あ、ありがとう……」
かすかに残った指先の感触が、心臓の音を大きくする。 顔が、熱い……。
どうしたの? と、怪訝そうに覗きこんでくるレイを、わたしは直視できなかった。
「ユウ、もしかして、熱ある? 顔が赤いよ」
「だ、大丈夫だよ! ちょっと疲れただけ……休めば、すぐ治るから!」
額に伸びかけていたレイの手を、とっさに振り払う。顔も見ずに、急いでカードキーをかざし、部屋に駆けこんだ。
耳の奥で、心臓の音が鳴り止まない。 何度も何度も、思い出してしまう。
「リボン、直してもらっただけなのに……」
胸が熱を帯びる。 理由はわからなかった。考えたくなかった。
怖くなって、枕に顔をうずめる。
けれど、この胸のほとぼりは、当分の間、冷めそうになかった。
* * *
目を開ける。
すると、そこは真っ暗闇の世界だった。
どこ、ここ……?
辺りはしんと静まり返っていて、自分の呼吸音しか聞こえない。
ふとその時、体に違和感を感じた。
えっ、なんで、わたし、小さくなって……。
手足が小さい。
まるで、体だけ子どもに戻ったみたいに。
『ねぇ、なんでいつも無視するの?』
っ……!
『さっきからずっと黙ってるけど、話、聞いてる?』
『君さぁ、少しは人との関わり方を学んだ方がいいよ。大人になったら、どうするの?』
わかんない、そんなの……大人になったらなんて言われてもっ!
聞きたくなくて、耳を塞いだ。
それでも、闇の中の声は消えない。
過去から目をそらそうとするわたしを、容赦なく責め立てる。
「——もういい」
膝を抱えて、うずくまる。
その時、暗闇の向こうで聞き覚えのある声がした。
「お父、さん……?」
少し離れた場所に、ぼんやりと浮かぶ人影。
よれよれの白衣と、猫背な背中。
——わたしが、”大嫌いな相手”。
「そんなに一人がいいなら、好きにしない」
先の尖った言葉が、槍のように胸を貫いた。
お父さんの声は、酷く冷たくて。
煤けたような灰色の瞳は、ただ虚空を見つめていた。
「ま、待って、お父さんっ……!」
慌てて、お父さんの後を追いかける。
けれど、この幼い体は思うように動いてくれない。
「あっ」
走り出した勢いで、足がもつれる。
バランスを失った体が、派手に転倒した。
痛っ……。
暗闇のどこを見渡しても、お父さんの姿は、もう見当たらない。
残ったのは、えぐられた後の胸と、擦りむいた膝の痛みだけ。
「酷いよ、みんなして……」
あふれ出す涙が止まらない。泣きたくなんてないのに。
「ユウ、どうしたんだい?」
それはわたしにとって、救いの声だった。
「レイ……」
柔らかく微笑んだ彼の指先が濡れた頬に触れる。今度は別の意味で、涙が出そうになった。
わたしは差し出された彼の手を掴む。けれど、その時、
「ごめんね、ユウ」
ガラスの瞳に、ふっと黒い影が宿った。
「”僕はアンドロイド”だから、人間の君とはわかり合えない”」
その瞬間、レイの手が離れる。
「そ、そんなっ」
なんでっ、なんで、レイまでそんなこと言うの……?
「嫌だよ……わたし、レイにだけは死んでも嫌われたくないのにっ!」
わたしの声に、レイは何も答えない。まるで、電源が切れてしまったみたいに。
「……ねぇ、何か言ってよ。お願いだから、わたしを無視しないで!」
震える声で、レイにすがりつく。依然、彼は静止したままだった。
視界が吸いこまれるように世界が暗転する。
——何も見えない。聞こえない。
自分の心拍音ですら、遠くに消えていく。
たちまちわたしの意識は、暗闇の海の底へと沈んでいった。
——見つけてくれる人なんていない。
嫌われ者のわたしのことなんか。
——いっそのこと、このまま消えちゃえば、楽なのかな?
なんかもう、考えるのもめんどくさい。
その時だった。
冷たい”何か”が、指先に触れた。
誰か、呼んでる……?
闇の隙間から、一筋のかすかな光が差しこむ。
そして、その”何か”は、わたしを光の方角へと一気に引き上げた。
「——ユウ! ユウッ!!」
そこで、はっと目が覚めた。
「っ……!」
ズキズキうずく痛みに胸を抑える。
ゆ、夢、だった……?
部屋のLEDの照明が、やたらとまぶしく感じた。
最悪だ、夢にまで出てくるなんて……。
握りしめたふとんが、汗でじんわりと滲む。
震えが止まらない。
まるで、長時間、水の中に潜っていたみたいに、息が苦しかった。
「ユウ、大丈夫かい?」
その声に、ビクッと肩が跳ねる。
初めて、ベッド脇にいるレイの存在に気が付いた。
「レ、イ……?」
照明の光を受けて反射するガラスの瞳。
震えるわたしの手を、彼はぎゅっと握ってくれていた。 心臓の痛みが引いていく。
「勝手に入ってしまって、ごめんね。酷くうなされていたみたいだったから」
——何か怖い夢でも見た?
聞かれても、わたしは答えなかった。
「ねぇ、レイ……。突然、いなくなったりしないよね?」
不安になって、レイの手を強く握り返す。
それでもなお夢の中で見た光景が、何度も頭の中でフラッシュバックした。
「しないよ。前に言ったじゃないか。君のことは、僕がロボ生をかけて守るって」
冗談めかして笑ったレイに心が凪いでいく。
「そっか……なら、よかった」
——本当に、よかった。夢が現実にならなくて。
「おっと、どうしたんだい、ユウ。急に甘えん坊さんになって」
「い、いいでしょ、たまには……」
思わず、抱きついたわたしに、レイは驚いて、一瞬だけ動きを止めた。
けれど、すぐに彼の腕が背中に伸びてきて、優しく抱きしめ返す。
「よっぽど、怖い夢を見たんだね。でも、もう大丈夫。僕はここにいるよ」
体温を持たない彼の腕の中は、でも、確かに温かった。
* * *
太陽の匂いがする。
まるで大きな陽だまりに抱かれているみたい。
「おはよう、ユウ」
目を開けると、部屋のホログラム時計の数字は、9時をとっく過ぎていた。
「あ、うん……お、おはよう」
ベッドに寄りかかっていたレイが、ゆっくりと振り向く。スリープモードにしていたらしい。
「……手、ずっと握ってくれてたの?」
「うん。僕って、ほら、疲れたりしないから」
便利な体でしょ?
いつもの調子で、ニコッと微笑むレイ。けれど、わたしの胸にはまだ拭いきれない後ろめたさがはびこっていた。
「あ、あのさ、レイ」
「ん?」
「昨日は、その、ありがとう。それから、ごめん。あんなこと言って……」
いくらお父さんのことが腹立たしくても、レイに八つ当たりするのは違う。
口にしてしまえば、案外、言葉はすんなりと出てきた。
「なんのことか、覚えてないなぁ。それも夢だったんじゃない?」
えっ……。
思わず、パチパチと目を瞬かせる。
あっけらかんとしすぎて、逆に肩透かしを食らった気分だ。
「それより、着替えたら顔を洗っておいで。僕は下で朝ごはんを作ってるから」
そう言って、レイは部屋を出ていく。
覚えてないはずはないのに。
それでも彼は変わらずに接してくれる。
「今日は特別にフレンチトーストにしたよ。卵が安かったから、奮発しちゃった!」
溶けたグラニュー糖の甘い香りが、ふわりと食卓に漂う。温かいミルクが、さっきまで冷えていた部分に染みた。
ただ作業的に足を動かす。まるで出会ったばかりの頃に逆戻りしたみたい。なんなら今の方が状況が悪いようにも思える。レイとの間に見えない壁があるみたいだった。
「ユウ」
「な、なにっ……!?」
気付けば、玄関のドアの前に立っていた。
レイが発した声に、わたしはバカみたいに驚き、後ろに跳ね退く。
「リボンずれてるよ。直してあげるから、じっとしてて」
「えっ? あ、ああ……」
レイの手が胸元に伸びてくる。指先が触れた瞬間、思わず、ドキッとした。
「あ、ありがとう……」
かすかに残った指先の感触が、心臓の音を大きくする。 顔が、熱い……。
どうしたの? と、怪訝そうに覗きこんでくるレイを、わたしは直視できなかった。
「ユウ、もしかして、熱ある? 顔が赤いよ」
「だ、大丈夫だよ! ちょっと疲れただけ……休めば、すぐ治るから!」
額に伸びかけていたレイの手を、とっさに振り払う。顔も見ずに、急いでカードキーをかざし、部屋に駆けこんだ。
耳の奥で、心臓の音が鳴り止まない。 何度も何度も、思い出してしまう。
「リボン、直してもらっただけなのに……」
胸が熱を帯びる。 理由はわからなかった。考えたくなかった。
怖くなって、枕に顔をうずめる。
けれど、この胸のほとぼりは、当分の間、冷めそうになかった。
* * *
目を開ける。
すると、そこは真っ暗闇の世界だった。
どこ、ここ……?
辺りはしんと静まり返っていて、自分の呼吸音しか聞こえない。
ふとその時、体に違和感を感じた。
えっ、なんで、わたし、小さくなって……。
手足が小さい。
まるで、体だけ子どもに戻ったみたいに。
『ねぇ、なんでいつも無視するの?』
っ……!
『さっきからずっと黙ってるけど、話、聞いてる?』
『君さぁ、少しは人との関わり方を学んだ方がいいよ。大人になったら、どうするの?』
わかんない、そんなの……大人になったらなんて言われてもっ!
聞きたくなくて、耳を塞いだ。
それでも、闇の中の声は消えない。
過去から目をそらそうとするわたしを、容赦なく責め立てる。
「——もういい」
膝を抱えて、うずくまる。
その時、暗闇の向こうで聞き覚えのある声がした。
「お父、さん……?」
少し離れた場所に、ぼんやりと浮かぶ人影。
よれよれの白衣と、猫背な背中。
——わたしが、”大嫌いな相手”。
「そんなに一人がいいなら、好きにしない」
先の尖った言葉が、槍のように胸を貫いた。
お父さんの声は、酷く冷たくて。
煤けたような灰色の瞳は、ただ虚空を見つめていた。
「ま、待って、お父さんっ……!」
慌てて、お父さんの後を追いかける。
けれど、この幼い体は思うように動いてくれない。
「あっ」
走り出した勢いで、足がもつれる。
バランスを失った体が、派手に転倒した。
痛っ……。
暗闇のどこを見渡しても、お父さんの姿は、もう見当たらない。
残ったのは、えぐられた後の胸と、擦りむいた膝の痛みだけ。
「酷いよ、みんなして……」
あふれ出す涙が止まらない。泣きたくなんてないのに。
「ユウ、どうしたんだい?」
それはわたしにとって、救いの声だった。
「レイ……」
柔らかく微笑んだ彼の指先が濡れた頬に触れる。今度は別の意味で、涙が出そうになった。
わたしは差し出された彼の手を掴む。けれど、その時、
「ごめんね、ユウ」
ガラスの瞳に、ふっと黒い影が宿った。
「”僕はアンドロイド”だから、人間の君とはわかり合えない”」
その瞬間、レイの手が離れる。
「そ、そんなっ」
なんでっ、なんで、レイまでそんなこと言うの……?
「嫌だよ……わたし、レイにだけは死んでも嫌われたくないのにっ!」
わたしの声に、レイは何も答えない。まるで、電源が切れてしまったみたいに。
「……ねぇ、何か言ってよ。お願いだから、わたしを無視しないで!」
震える声で、レイにすがりつく。依然、彼は静止したままだった。
視界が吸いこまれるように世界が暗転する。
——何も見えない。聞こえない。
自分の心拍音ですら、遠くに消えていく。
たちまちわたしの意識は、暗闇の海の底へと沈んでいった。
——見つけてくれる人なんていない。
嫌われ者のわたしのことなんか。
——いっそのこと、このまま消えちゃえば、楽なのかな?
なんかもう、考えるのもめんどくさい。
その時だった。
冷たい”何か”が、指先に触れた。
誰か、呼んでる……?
闇の隙間から、一筋のかすかな光が差しこむ。
そして、その”何か”は、わたしを光の方角へと一気に引き上げた。
「——ユウ! ユウッ!!」
そこで、はっと目が覚めた。
「っ……!」
ズキズキうずく痛みに胸を抑える。
ゆ、夢、だった……?
部屋のLEDの照明が、やたらとまぶしく感じた。
最悪だ、夢にまで出てくるなんて……。
握りしめたふとんが、汗でじんわりと滲む。
震えが止まらない。
まるで、長時間、水の中に潜っていたみたいに、息が苦しかった。
「ユウ、大丈夫かい?」
その声に、ビクッと肩が跳ねる。
初めて、ベッド脇にいるレイの存在に気が付いた。
「レ、イ……?」
照明の光を受けて反射するガラスの瞳。
震えるわたしの手を、彼はぎゅっと握ってくれていた。 心臓の痛みが引いていく。
「勝手に入ってしまって、ごめんね。酷くうなされていたみたいだったから」
——何か怖い夢でも見た?
聞かれても、わたしは答えなかった。
「ねぇ、レイ……。突然、いなくなったりしないよね?」
不安になって、レイの手を強く握り返す。
それでもなお夢の中で見た光景が、何度も頭の中でフラッシュバックした。
「しないよ。前に言ったじゃないか。君のことは、僕がロボ生をかけて守るって」
冗談めかして笑ったレイに心が凪いでいく。
「そっか……なら、よかった」
——本当に、よかった。夢が現実にならなくて。
「おっと、どうしたんだい、ユウ。急に甘えん坊さんになって」
「い、いいでしょ、たまには……」
思わず、抱きついたわたしに、レイは驚いて、一瞬だけ動きを止めた。
けれど、すぐに彼の腕が背中に伸びてきて、優しく抱きしめ返す。
「よっぽど、怖い夢を見たんだね。でも、もう大丈夫。僕はここにいるよ」
体温を持たない彼の腕の中は、でも、確かに温かった。
* * *
太陽の匂いがする。
まるで大きな陽だまりに抱かれているみたい。
「おはよう、ユウ」
目を開けると、部屋のホログラム時計の数字は、9時をとっく過ぎていた。
「あ、うん……お、おはよう」
ベッドに寄りかかっていたレイが、ゆっくりと振り向く。スリープモードにしていたらしい。
「……手、ずっと握ってくれてたの?」
「うん。僕って、ほら、疲れたりしないから」
便利な体でしょ?
いつもの調子で、ニコッと微笑むレイ。けれど、わたしの胸にはまだ拭いきれない後ろめたさがはびこっていた。
「あ、あのさ、レイ」
「ん?」
「昨日は、その、ありがとう。それから、ごめん。あんなこと言って……」
いくらお父さんのことが腹立たしくても、レイに八つ当たりするのは違う。
口にしてしまえば、案外、言葉はすんなりと出てきた。
「なんのことか、覚えてないなぁ。それも夢だったんじゃない?」
えっ……。
思わず、パチパチと目を瞬かせる。
あっけらかんとしすぎて、逆に肩透かしを食らった気分だ。
「それより、着替えたら顔を洗っておいで。僕は下で朝ごはんを作ってるから」
そう言って、レイは部屋を出ていく。
覚えてないはずはないのに。
それでも彼は変わらずに接してくれる。
「今日は特別にフレンチトーストにしたよ。卵が安かったから、奮発しちゃった!」
溶けたグラニュー糖の甘い香りが、ふわりと食卓に漂う。温かいミルクが、さっきまで冷えていた部分に染みた。



