橘先生の過保護な再履修





「今日はもう、帰ろっか」

ふいに、先生が立ち上がり、
ベッドの横に置いてあった俺のカバンをひょいと持った。

「今、俺ひとり暮らしなんだよね。大学の近くで」

「ひとり……暮らし」

その言葉を、思わずそのままなぞる。

「もしさ、天音がこのあと特に予定ないなら、
俺ん家でゆっくりシラバスでもチェックしない?
人いないし、静かだし。
サークルに教育学科のやつもいるから、
気になることとかあったらそいつに色々聞くこともできるよ。
あ、教育学科志望だったよね?あってる?」

「う、うん。教育だよ。でも……い、いいの?」

一気に心臓が早くなる。

「もちろん。
体調戻ってからでもいいし、嫌なら全然断って」

そう言われて、
逆に断る理由が見つからなかった。

「……じゃあ」

少し考えるふりをしてから、小さく頷く。

「お願いします」

「よし。じゃあ行こう」

先生は満足そうに笑って、保健室のカーテンを開けた。


※※※



電車で二駅。
そこは駅のホームに降り立った瞬間の雰囲気からして、
地元とは違っていた。
改札を出ると、視界に飛び込んでくるのは計算され尽くした景観。
統一感のある街灯、整然と並ぶガラス張りのカフェ、
そして、空を遮る電柱が一本も存在しない広い空。
入学式の会場や、キャンパスのある場所とはまた違う、
なんというか、オシャレな都会ってかんじだ。

「ここから五分くらい歩くよ。いけそう?」

「うん、全然大丈夫」

洗練された街の雰囲気に、圧倒されながら歩く俺。
きっと周りから見たら挙動不審に見えるに違いない。
地元と同じ、つぼみが膨らみはじめた桜が並んでいる道。
けれどなぜか花の匂いが地元より甘い気がする。
それが鼻腔をくすぐって、なんだかふわふわと落ち着かない。

「着いたよ」

目の前に現れたのは打ち放しのコンクリートと、
大胆に切り取られた大きな窓のアパート。
先生は思わず立ち止まった俺に「行こ」と背中を押した。
エントランスに足を踏み入れた瞬間、
ホテルみたいないい匂いがした。

(都会のアパートはエントランスからいい匂いがするんですか……)

俺は今日、朝から場違い感をさんざん味わってきた。
が、今が一番浮いていると身をもって感じた。
部屋に入ると、またそこも異世界にきたみたいで……

「適当に座って待ってて。今飲み物持ってくるから」

「うん、ごめんね」

「こら、悪いことしてないのに謝らない。
ゆっくりしてて」

と、言われてもゆっくりできるわけがない。
俺の部屋とは違う、なんというか大人な部屋だ。
けして広いわけではない。
ロフトだし、二階なんてかなり狭い。
けれど、無駄なものが一切なく、
色も白とグレーで統一されているからかスッキリ見える。

俺は二人がけのソファの端にそっと腰を下ろした。
目の前には勉強デスク。
ライトに照らされた机の上には、
城壁のように積み上げられた分厚い参考書が並んでいた。
中央に置かれた六法全書は、
幾千回もページを捲られたように端が黒ずんでいる。
卓上のストップウォッチに、大量の付箋。
それだけで、彼が費やした時間の重さを物語っている。

(弁護士目指してるっていってたっけ……)