橘先生の過保護な再履修


そう言って、
律くんは一度、背筋を伸ばして小さな深呼吸をした。

「俺たち、
まだ……最後まで、してないよね」

「……っ」

びくっと、体が跳ねた。
心臓が一拍遅れて大きく鳴る。

そう前置きしてから、律くんが立ち上がる。

「ちょっと待って」

そう言ってデスクに向かい、ペンを取った。
カリカリ、と。
静かな部屋に、文字を書く音だけが響く。
しばらくして、
律くんが戻ってくる。
そしてノートを俺の前に差し出した。

そこには、
はっきりとした字で、こう書かれていた。

『次、泊まりで会うときは最後まで』

期限:テスト明けの金曜日

一気に心臓が、ばくん、と跳ねた。
血が足元から頭まで駆け上がる感覚。

(……やば……)

自分でもわかるくらい呼吸が浅くなる。

「これは俺のしたいこと」

そして、俺の手元にペンを置いた。

「天音も書いていいよ」

視線が、優しく落ちてくる。

「エロいことでもいいし、そうじゃなくてもいい」

少しだけ、声を落として。

「なんでも。天音のしたいこと」

「なんでも……」

「うん。急がなくていいし、よく考えて。
で、今日はここまでにしよ」

そう言って、律くんはいつもの調子に戻る。

「晴人くんとも、
二時間だけって約束してたんでしょ?」

「……そ、そうだった! 晴人……!」

完全に、頭から抜け落ちていた。
今日の予定も、雨も、カラオケも。

「大丈夫だよ。今日は俺がお願いしただけだから」

律くんは悪びれもせず、さらっと言った。

「……え?」

「晴人くんには必修の英語。
俺が一年のときに使ってたノートを対価にね。
今日、ここを空けてもらった」

……待って。

それ、
“お願い”って言う?

胸の奥が、じわっと熱くなる。
同時に、少しだけ、ぞくっとした。

「だから、天音は気にしなくていいよ。
健全な等価交換」

にこっと笑う、その顔があまりにも自然で。
これは、
喜ぶべきなのか。
それとも、ちょっと怒るべきなのか。
もう、判断がつかない。

それくらい、
俺はとっくに――
律くんの思惑ごと、優しさごと、
全部、受け取ってしまっている。

(……重症だな、俺)

そう思ったのに、
不思議と嫌じゃないし、
むしろ満たされている自分にほとほと呆れた。