橘先生の過保護な再履修



何も言わずに、ただぎゅっと。
胸に押し当てられた頬から、
律くんの心臓の音が、ゆっくり伝わってくる。
言葉は、ひとつも落ちてこない。
代わりに、頭の上に、ぽん、と。
それから、もう一度、ぽんぽんと。

「……ごめんね。板挟みで、つらかったでしょ」

その一言で、胸の奥がきゅっと音を立てた。

俺は何も言えないまま、ただ服を掴む。
律くんは、少しだけ体を離した。
そして、
俺の両手を取って、ぎゅっと、強く握る。

「俺も、配慮が足りなかった。ほんと、ごめん」

その言葉に、
反射みたいに首を振っていた。

「違う!律くんは、何も悪くない」

「いや、違うな。
俺も天音が彼氏になって浮かれてたんだ。
毎週うちに泊まらせて、
終電で帰すのが当たり前みたいになってた。
そこは、俺がちゃんと考えなきゃいけなかった」

「そんなこと……」

「天音はさ、両親のこと、すごく尊敬してるでしょ。
だから、同じ教師の道を目指してる。
そんなご両親が、心配するような付き合い方をさせたのは、
俺の落ち度だ。ほんとごめん」

「でも、俺だって何も言わなかった。
し、会いたかったから……」

無意識に律くんの手を握り返していた。

「うん。それは俺も。
この2週間、ほんと会いたくて限界だった」

「うん……」

すると律くんが俺のカバンを持ってきた。

「天音、あのノート持ってる?」

突然そう言われて、少し戸惑う。

「……ノート?」

「うん。いつも持ち歩いてるやつ」

俺は自分のカバンを見下ろした。
濡れないように、奥にしまってある、あのノート。

「……持ってる、けど」

律くんは、少しだけ息を吐いて、
さっきより柔らかく笑った。

「よかった。
じゃあさ、これからはまた、このノートを使おう」

俺が渡したノートに、律くんが大事そうに触れた。

「俺たちはもう成人したけど、まだ1人前の大人じゃない。
天音はまだ実家だし、俺も親がこの部屋の家賃を払ってる。
そもそも学生だしね。
俺は多分、社会に出るのに最短でもあと3年。
天音は4年だ。
その間は、
親の言うこともちゃんと考えたほうがいいと思う」

しごく、もっともな意見だ。

「だから、もう少し会う頻度は控えよう。
泊まりは、月一回。
天音のバイトの日は、無理に会わない。
もちろん、絶対じゃない。
記念日、テスト、バイト映研……
その時その時、無理のないように会おう。
それでも不安になるときは――これ」

そう言ってノートを開く。

「これに、どんな気持ちだったかとか、
こうしていきたいとか、あと、ここは直してほしいとか。
なかなか口では言えないことも、
ノートになら素直に書けるかもしれないじゃん?
どう?」

俺は胸がいっぱいになった。
ただただ一方通行の思いを書き綴っていたノートが、
今度は恋人になったふたりを繋いでくれる。

「うん、それがいい……そうする」

俺はまた涙がこぼれた。
でも、これは悲しい涙じゃない。
言葉では言い表せないけど、ほっとした涙だった。

「な~んか泣かせてばっかだな。
天音、俺の事幻滅した?」

「するわけない!そんなこと1ミリも思わないよ。
律くんのこと、もっと好きになった。
色々、ありがとう……」

「どういたしまして。
それと、もうひとつあるんだけど……」

「……?」