橘先生の過保護な再履修



一瞬、言葉の意味が追いつかなかった。

胸の奥が、どくん、と鳴る。
ただの質問のはずなのに、
その視線が、声の落とし方が、
家庭教師だったころとは違う“大人の男の顔”に見えて――。
不意に、息が詰まった。

(なに、今の……)

俺が言葉を探している間に、
先生はふっと表情を緩めた。

「……なーんて。ごめん、急だったよね」

拍子抜けするほど、いつもの声だった。

「でもさ、天音のお母さんに伝えたとおりだよ。
大学の授業とテストが、思ったより大変だっただけ」

そう言って、肩をすくめる。

「今は三年になってだいぶマシになったけどね。
天音も、これから大変だよー」

冗談めかした口調に、
胸に溜まっていたものが、少しずつ下りていく。

「……そ、そうなんだ」

それだけ答えると、先生は「うん」と短く頷いた。
さっきまでの緊張が嘘みたいに、
保健室には穏やかな時間が戻ってくる。

「ってゆーかさ、天音。先生っていうのやめない?
俺もうカテキョじゃないし、
大学内で先生って呼ばれたらなんか勘違いされそうじゃない?」

「それもそうか……じゃあ、橘先輩?」

「え~、それは却下。超他人じゃん」

「そ、そうかな。じゃあ、どうしたらい?」

「ん~、別に律でよくない?」

「は、はぁ??それは無理でしょ!
1年が3年を呼び捨てなんて、絶対変に思われる」

「別にいいのに。じゃあ、律くんで」

「うぅ……じゃあ、それで」

「ははは、全然納得してねーじゃん」

そう言って笑う先生は、前と変わらず優しい。
その笑顔を見ていると、
肩の力が、少しだけ抜けた。

家庭教師と生徒じゃなくなっても。
大学の先輩と後輩になっても。
こうして、普通に話せるんだ。
それがわかっただけで、
胸の奥が、ふわっと軽くなる。

――なのに。

さっき見せた、あの一瞬の表情が、
なぜか頭から離れなかった。

“先生じゃない橘律”。

胸の奥が、また、静かに脈打つ。
俺はその燻りに名前をつけないまま、
そっと、心の奥にしまいこんだ。